それを目にしたスランドゥイルは、忌まわしそうに表情を歪めた。
 彼は足を組み、傲然とした様子で肘掛けに肘を付く。
 大広間は水を打ったように静まり返っていた。玉座には北部闇の森を統べるエルフ王、そして広間の両側には大勢の廷臣たちが並んでいるというのにだ。
 陽気な森エルフがこれだけいて、ここまで静かなのも珍しい。場違いながらも北のドゥネダインが族長は心の中で感心した。彼らの顔には好奇心よりも不可解なものに対する不安が大きく彩られていたのだ。
 無理もないとアラゴルンは思った。ここまでこれを連れてくるのも、自分は大変な苦労を要した。かなりの長旅だったが、この道連れに対する親しみなど未だにひとかけらも持ち合わせていない。見た目だけでなく中身もどうしようもないのだ。自分はこれで役目を終えられるが、次にこれを預かる彼らには少々同情してしまう。それでも一人きりでこれの面倒をみることとなった自分よりは気は楽だろうが。
 アラゴルンが内心で呟いていると、かつんと堅いものが床を打った。
 樫でできた杖を傍らに、スランドゥイルが立ち上がる。ゆっくりとアラゴルンの前に歩み寄るが、その表情は依然として厳しいままだ。
「それが、ソレか」
 アラゴルンは目礼をしつつ、肯定する。
「ミスランディアにどうかと頼まれたゆえ、承諾したが、また随分とおかしな生き物だな」
 エルフの冴えた目で、スランドゥイルはその生き物を再びじっくりと検分した。
 小さな体は骨と皮ばかりにやせこけ、目ばかりがぎょろぎょろと大きい。体の大きさに対して指が長く、足も大きかった。不格好なその生き物は服とも言えない布片で申し訳程度に体を覆っている。体つきからすれば、それは四つ足ではなく二足歩行をするもののようだ。言葉もおそらくは通じるだろう。だがそれの口からはどんな言葉も聞こえなかった。猿ぐつわを噛まされていたからだ。
「コレがそこまで重要なものなのか」
 半信半疑といった様子でスランドゥイルは首を傾げる。見下ろすとその生き物は警戒を露わに後ずさった。だが逃げることはできない。なぜなら首に縄がかけられていたからだ。
「ミスランディアの話から、どうにも不可解な生き物としか思えなかったが、実物は予想以上だな。……アラゴルンよ」
 スランドゥイルは視線を人間の男に移し、口の端をあげた。目は全く笑っていなかったが。
「この異様な生き物のせいで民に不安が広がっておる。約束をした以上、今はこれを預かろうが、ミスランディアが来たら別の場所に移してもらおう。南の森か“谷”にでも連れて行けばよい。もともと我が森はかの件には関わりを持たぬのだからな」
 不愉快さを隠さない王の強い視線にアラゴルンは目を伏せる。
 スランドゥイルは側近を呼び寄せると灰色の魔法使いを探すようにと指示した。続けざまにソレを牢獄へ連れていくように命ずる。ぱたぱたと数名が動き出すと同時にざわめきも大きくなった。活気が森エルフたちの間に戻ってくる。
「アラゴルンよ、ミスランディアが来るまで森にはいようよな?」
 それがいなくなったことでようやく肩の荷が降りた男は、ほっと息をつきながら答えた。
「あまり長くは待てませぬが」
 スランドゥイルは鷹揚に頷いた。
「ではまずは湯浴みをしてこい。臭うぞ」


 それから数時間後――。
 気は進まないもののやることはやらねばと、スランドゥイルは預かり者の警備担当者を決めた。一人の虜囚に十数人で構成されているそれは、少し前に投獄したドワーフの集団につけたものよりも多かった。ドワーフよりやっかいなことになるとは思わなかったが、同じ轍は踏まないようにと念を入れたためだ。
 その最初の見張り担当者が、王に伝えたいことがあると進言してきた。ひと仕事後のワインを楽しもうと思っていたスランドゥイルは、やや機嫌を悪くしながらも謁見を許す。
 申し訳なさそうに彼の前に出てきた警備担当者は、いかにも困ったというように王に伝える。
「洗われるのを嫌がると?」
 思いがけない内容に、スランドゥイルは眉をぴくりと動かした。
「そうなのです。湯をかけただけで暴れるのです。湯といっても熱湯を浴びせたわけではありません。人の子や魔法使いが滞在する時に使うのと同じ程度の熱さなのですから。それに、熱さを嫌がっているというよりも、痛がっているようなのです」
「痛がる? あれは闇の生き物というわけではないとミスランディアは言っていたが、な……」
 その生き物は自分で分泌しているのかなんなのか、とにかく全身がぬるぬるしていた。おまけになんだかよくわからないひどい臭いがしていたので――アラゴルンが臭かったのは、半分はこれのせいだろう――牢に入れる前に洗うように命じていた。しかし清潔にさせたのは虜囚のためではない。あんな臭いをずっとかがされる配下たちこそが気の毒と思ったからだ。目を閉じれば見たくないものは見なくて済むが、鼻はそうはいかないだろう。
 スランドゥイルはふむ、と思考を巡らせた。
 この岩屋で使われる水は森の川から引いたものだ。森の川は魔法がかかっているわけではないが、スランドゥイルの力が及ぶ範囲を通過するうちに、清められてゆく。その清浄さは、彼の力に最も近い岩屋の中で最高潮に達しているのだ。闇の生き物であればその水に近づくことすら厭うだろう。
 しかし魔法使いはあの生き物は闇のものではない、と言ったのだ。ならば嫌がるその原因は。
「闇に長く捕らわれすぎていたのだろうな。構わぬ、力づくでも洗ってしまえ。それで少しは清められよう」
 それで死ぬわけでもあるまい、とエルフ王は続けた。
 再命令を受けた担当者は王の許可を得て晴れ晴れとした顔になった。力加減に相当う困っていたらしい。虜囚とはいえあれだけ小さな生き物なのだから、森エルフが少し力を込めただけであっと言う間に死にかねない。
(なんだか面倒なものを預かってしまったようだ)
 立ち去る警備官を見送りながら、スランドゥイルは肩をすくめた。



 それから半日も経たない翌早朝――。
 今度は別の担当者がうんざりした表情を隠しもしないでスランドゥイルに拝謁した。
「食事をとらないとな」
 あの不格好な生き物が水も飲まず何も食べないというのだ。正確にいえば、飲もう食べようとしても喉につまると言って吐き出すということだ。
「……湯浴みと同じ理由だろうな」
 湯も飲み水も出どころは同じだ。身体にかかるのさえ嫌がるものならば喉を通らなくても不思議ではないだろう。しかしここはエルフの国。清らかではない水などあるはずもなかった。しかし預かり者の虜囚を乾き死にさせるわけにもいかない。
「食べ物から水分をとらせよ。水気の多い果実ならばあろう」
 それは闇の森の果物ではなく、谷間の国や湖の町から取り寄せたものだった。闇の森では手に入らないものは、すべて外から購入している。エルフの力が及ばぬところで実った、ごく普通の食べ物なので特別清いものではない。もっともスランドゥイルの領内に入ってからは多少は浄化されてしまっているだろうが。
 しかし担当者は残念そうに頭を振った。それはもう試してみたと。しかし虜囚は果実や木の実の類は食さないということがわかっただけだった。
「では何を食べるのだ、アレは?」
 乾き死にをさせるわけにはいかないのと同様に、飢え死にもさせるわけにはいかない。
 王が問うと、担当者は言いにくそうに答えた。
「魚が食べたい、と」
「魚……?」
 担当者のせりふを反芻したスランドゥイルは、深刻そうに眉間にしわを刻んだ。
「うちの料理人に魚を料理できたものがいたか?」
「おりませぬ」
 森エルフは魚を食べない。ゆえに料理する者もいなかった。しかしすぐに名案を思いつき、王の表情は晴れやかになる。
「アラゴルンならばできよう。あれは毒がないものならば何でも食するからな」
 材料になる魚ならば川にいくらでもいる。食すことも飼い慣らすこともないので捕まえたことはないが、それも野伏の族長がやり方を知っているだろう。
 スランドゥイルは料理人たちにアラゴルンから魚料理を教わるようにと言い渡し、やれやれと側近に朝の一杯を求めた。
 それから数時間後――。虜囚は生の肉か魚しか食べようとしないという報告があがったのだった。



「我が君。虜囚に関しまして、ご相談が」
「今度はなんだ」
 捕虜を投獄して三日後。日に二度はなにやかにやと問題が持ち上がり、スランドゥイルはだんだんイライラしてきた。これならばドワーフが十三人、牢の中にいた方がましだと内心で愚痴る。彼らは最初に腹が減ったとわめいただけで、その後は大人しいものだったからだ。……その後、勝手に消えたが。
 だが警備担当の長が、青筋が浮かびかねん勢いでむっつりとした顔をしていたので、スランドゥイルは一気に冷静さを取り戻した。王の威厳たっぷりに、何事があったのか問いただす。
「実は……虜囚の独り言が耳に障って仕方がないのです」
 警備長は自分含め警備担当者の総意であると前置きして森の王に陳情する。
「一人二役でずっと果てしなく呟くのです。きいきいぶつぶつと不快な声がいつまでも途切れないので、わたくしたちはあれに対して怒鳴りたい気持ちを抑えねばならず、皆だんだん気が立ってきております。我が君、あの虜囚に猿ぐつわをかけてもよろしいでしょうか。わたくしとしましては喉を掻き切って、声がでないようにしたいところなのですが」
 警備長の様子から、彼らの不満が爆発寸前なのが汲み取れた。ほかの国のエルフに比べて短気で荒っぽい気質であるとはいえ、エルフはエルフ。そのエルフをここまで苛立たせるとは。いっそ見事というほかないとスランドゥイルは薄く笑う。
「我が君……?」
「堪えよ」
 不思議そうに問う警備長に、スランドゥイルは簡潔に命じる。
「魔法使いからの頼まれものだ。あの灰色の御老が来るまでは無用な危害を与えてはならぬ」
「我が君……」
 明らかに気落ちをする警備長に、スランドゥイルは代案を授けた。
「あれを地下牢に閉じこめるのはそなたらのためにもアレのためにもならぬようだ。ならば時折アレを外へ連れ出し風にでも当たらせるがよい。暗き場所ばかりにいては思いも暗い方にしかゆかぬだろう」
 双方ともにな。
 警備長はしばし主の顔を打ち眺めると、深々と礼をした。
 それから一人きりになったエルフ王は、深々とため息をついた。
 本当に、なんて面倒なことを引き受けたのだろう、と。




 ミスランディアが来たらとっとと押しつけてやらねばと、スランドゥイルが堅く決意をして十日以上すぎたある日。とうとう待ちわびた相手が到着した。
 灰色の魔法使いはスランドゥイルに挨拶をするとさっそく地下牢に向かって虜囚と話をしだす。だがそれは簡単にはいかないようで、聞き出したいことはなかなか聞き出せないようだった。
 スランドゥイルも時々地下に足を運び、魔法使いと虜囚のやりとりを眺める。牢の中で捕らわれの生き物はみじめに震えていた。
 身を守るものを何一つ持たず、野心といえるものもないようだ。元から悪の側についていたわけでもない。利用はされているようであるが。
(これが持っているのは、執着だけだ)
 自分自身と話すようにしゃべるその生き物の口からこぼれるのは、言葉ともいえない言葉。ただの音の断片。
 だがその断片に含まれているものは。
 いとしいしと、モルドール、それにバギンズ。
 
 バギンズ――。
 
 聞き覚えのあるどころかよく知っている名がスランドゥイルの心を騒がせた。
 コレは一体この件にどう関わっているというのだろう。
 その疑問は棘のように彼の心に刺さって消えなかった。


「長いこと煩わせてすまなかったのう、エルフ王よ」
「構わぬ。そなたの唐突な行動には慣れておるからな。それで聞きたいことは全て聞き出せたのか?」
「うむ……。おおよそのところは」
 明日出発するという魔法使いとドゥネダインの長を自室に招いて、エルフ王は酒卓を囲んでいた。魔法使いは憂いを帯びた眼差しでスランドゥイルを見つめる。
「それで、すまぬが王よ、あれをもうしばらくの間、ここで預かってもらいたいのじゃ。あれは野放しにしておけぬ。だが殺せば片がつくというものでもない」
 スランドゥイルは返事をせずに杯を呷った。エルフ王の客分になってからすっかり身綺麗になったアラゴルンはちらりと王の白い顔を見やる。
「いいだろう」
「ありがたい」
 魔法使いは森の王に目礼を送る。
「いつまでだ?」
「時至るまで、といったところじゃろうか」
「――ふん」
 答えになっていない答えだが、スランドゥイルは軽く笑って受け入れた。裂け谷かロリアンに連れていけという発言は耳新しく、王がごねると思っていたアラゴルンはかすかに目を見張った。だが王は人の子の考えなど見透かしたように涼しげな顔で言い放つ。
「我が国にいるときでさえあの騒ぎだ。エルフの指輪に守られているところへ連れていこうものなら、空気を喉に詰まらせて死ぬであろうよ」
 そして空っぽになった杯を置き、次を満たせと命ずるのだった。



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