ふわふわする。
綿に包まれているような温かさ。
雲の上を歩いているような浮遊感。
目が覚めかけているのだと、は意識しないまま思った。
「……ん」
かすかな揺れを感じる。瞼はすんなりと開いたものの、像を結ぶのにわずかに時間がかかった。
「……起こしたか?」
抑えた声が問うてくる。ぼんやりと見上げると、夫が自分を見下ろしているのが見えた。
「ん。でも、わたしも起きる」
部屋はもう薄明るかった。
小さくあくびをすると、少し頭がはっきりしてくる。
「おはよう」
「おはようございます、セオドレド」
ゆっくりと身を起こすと、夫がの額に口付けた。
寝台を降りて窓を開けに行く彼を見るとはなしに見る。朝日が部屋に差し込み、鳥のさえずりが大きくなった。まだ暖まりきっていない空気が部屋に流れ込む。秋の香ばしさを含ませたそれがのまどろみを吹き飛ばした。
さあ、今日も一日頑張ろう。
指輪戦争の終結より一年半が経ち、ローハンは日に日に復興を遂げつつあった。
大きな変化もいくつかある。
一つは、王が交代したこと。
一七代国王セオデンは、ペレンノール野の合戦において亡くなり、一子セオドレドが跡を継いだ。彼はかねてから婚約していた娘と結婚し、その妃は二ヶ月ほど前に世継となる男児を産んだ。セレストと名づけられたその子は王妃に似た茶色の髪をしている。
軍制も変わり、第一から第三に分けられていた軍団は東、西の二つになった。東マーク軍団長はエオメルが、西マーク軍団長はエルフヘルムが受け持っている。
また盾持つ乙女たるエオウィンは指輪戦争終結の年の終わりに、イシリアンの大公でありゴンドールの執政であるファラミアの元へ嫁いだ。
人も物も、少しずつ、移り変わってゆく。
長い冬が終わり、ようやく望みの春を迎えたような、喜びを伴って。
朝。
身支度を整えると、はまず子供部屋へ向かう。そこには乳母とその配下の女官が数人、交代で詰めていた。
は王妃として忙しい身のため、息子につきっきりでいることができないので、普段の世話は彼女たちがしていた。幸い乳の出は悪くはないので、授乳だけは自身がしている。
生まれてまだ二ヶ月の赤ん坊は、寝て、起きて、泣いて、笑ってを繰り返す。健康状態は良好で、あまりむずがらない子だと乳母達は言っていたが、そうはいっても大人の道理などまだ理解できない赤ん坊である。夜中に泣き出してどうにも手に負えなくなり、母たるの登場を頼まれることもあった。
だが昨夜は大人しかったようだ。
ここのところ、起き抜けに空腹を訴えられて、着替える間もなく子供部屋へ直行していたのだから。
中へ足を踏み入れると、控えていた女官が慎ましやかに一礼する。
そこには時代を経て重厚さを増した小さな寝台があり、女官たちや訪問したらが使うための椅子が幾つか置かれてある。
寝台の脇には、小さな木馬があった。幼児が乗れるくらいの大きさの、前後に揺れる玩具だ。これはセオドレドが子供の頃に使っていたものだという。はいはいもできない赤ん坊にはまだ早すぎるのだが、戯れに揺らしてみたところ、それを見たセレストは声をあげて喜んだため、そのままにしておく事にした。馬に喜ぶあたりさすがローハンの王子だと、は妙に感心したものだった。
「おはよう、セレスト」
寝台を覗き込む。
赤ん坊はもう目を開けていた。彼は母に気がつくと、短い手足をばたばたさせて喜びを表す。
抱き上げると、ずしりとした重さが
の腕にかかった。さすがローハンの、というよりもセオドレドの血を引いた子だといえるだろう。彼は生まれる前からかなり大きな赤ん坊だったのだ。おかげで出産は随分大変だったのだが、過ぎたことに愚痴を言っても仕方があるまい。
すべすべぷにぷにしている頬に小さくキスをする。セレストは母のドレスをぎゅうっと握って、さっそく皺を作ってくれた。
女官たちに自分のいない間の息子の様子を聞かせてもらいながら、乳を含ませる。
ほぼ女たちだけで過ごせるこの時間は、にとって唯一気楽に過ごせる時となっていた。戦争が終わったとはいえ、ローハンは騎士の国だ。宮廷にいるのはほとんどが厳つい男たちとあっては、別の意味で毎日が戦いのような騒がしさがある。自分で選んだ道とはいえ、気苦労は並大抵ではない。
それが終わると朝食を食べに行く。その頃になると愛馬の世話をし終わって、一走りしてきたセオドレドも食堂に来ているのだ。数日前からエオメルも滞在しているので、三人揃って食卓についた。
午前中は各自の仕事をこなす。
セオドレドは謁見や会議であり、は宮廷の管理だ。時折政務について助言を頼まれることもある。戦争はローハンにとって貴重な文官も多数奪ってしまったため、人手が足りないのだ。本来ならば政治に深く関わるのは王妃の役目ではないのだが、そうも言っていられない状況だ。お陰で忙しさに拍車がかかっている。
それでも緊急の用件が入らなければ、午後は比較的ゆっくり過ごせた。
セオドレドが執務を切りのよいところでやめると、休憩を兼ねて軽食をとる。
いつもならばそろそろ頃合の時間だと、は執務室に様子を窺いに行った。すると、中からかなりの大声でなにやら言い合いをしている声が聞こえた。
取り込み中だろうかと、彼女は足を止める。どうやらセオドレドと一緒にいるのはエオメルのようだ。喧嘩もそうだが、言い合いをするのも珍しいほど仲の良い従兄弟である二人がこんなに大声を出すとは。
ただならぬことと思い、はノックもそこそこに中へはいる。必要ならば仲裁は自分がしなければと思いながら。
「一体何事ですか? 外まで聞こえていますよ」
もし本当に喧嘩をしているのならば、いきなり咎めるような口調で話しては逆効果だろう。そう考え、あえてなんでもないことのように言った。
「ああ、か、いやエオメルがな」
セオドレドは参ったというように、髪に手をつっこむ。もう何度もしたのだろう、頭はかなりぐしゃぐしゃになっていた。
「まめに書くのが肝要だと仰ったのは従兄上ではありませんか。ですから私はその助言に従ったまでで……!」
エオメルは焦ったように叫ぶ。
「だからといってこんなもの、読んでなにが楽しいんだ!」
の方に歩きかけていたセオドレドだったが、ぐるりと向き直り、従弟に向かってさらに怒鳴った。
「だったら他に何を書けと言うんです!?」
「書きようというものがあるだろうが、書きようというものが。これでは子供の日記だぞ!」
「本当に何事なの? 二人とも落ち着いて、わたしにもわかるように話してくださいな」
は眉をしかめた。どうやらエオメルが書いた何事かをセオドレドが気に入らないようだ。エオメルは東マークの軍団長なのだから、なにかの報告書の出来がすこぶる悪いというようなことなのだろうか。
「に読ませても?」
セオドレドはちらりとエオメルをみやる。
エオメルはしばし沈黙したが、ややあって頷いた。
「女性が読んでどう感じるかを聞けるのは無意味なことではないでしょう」
憮然としながらもエオメルは読むように言ってきたので、はセオドレドから渡された書類を受け取った。
「ええと……」
それは羊皮紙三枚分に渡って綴られた文章だった。
ただし内容は益体もないことばかり。
例えば、昨日の日付のものにはこう書かれている。
9月×日 天候 晴れ
朝。いつも通りに起床。朝食前に朝駆けをし、食後は会議に参加する。(会議内容は国政に関わることゆえ、書き記すことはできず)
昼食後、腹ごなしのために散歩をする。その後、随員と近衛隊の非番連中とで模擬試合を行う。三試合とも勝ったが、二試合目ではあやうく体勢を崩して自滅するところだった。平衡感覚を磨き、体重移動を円滑に行えるようにするのを今後の課題とする。
その後、夕食まで遠駆けに行く。麦畑を通りかかったが、昨年同様豊作であろうことが予想された。あの麦を使えば旨いビールができるだろう。
その後、帰還。夕食。食後は従兄上と語らう。途中まで王妃もいたが、王子殿下が泣き出したので退席。夜遅くなる前に就眠。
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「……日記?」
は首を傾げる。
とりあえず、報告書ではないようだ。
「ほらな」
セオドレドはさもありなんと頷く。
「うう……」
エオメルは居たたまれない様子で唸った。
「違う……みたいですね」
義弟に問うと、彼は深いため息をついてそっぽを向いた。
「だから、私はこういうものは苦手なのです!」
と、いきなり叫びだす。
「わかっているなら少しは私に相談するとかすれば良かったじゃないか。たしかにまめさは大事だが、内容がこうもひどいとなると、かえって逆効果だぞ」
セオドレドは疲れたように肩を落とした。
「結構頻繁に手紙のやりとりをしているようだから上手く行っているものと思っていたんだが、まさか内容がこんなにお粗末だったとは思っていなかったんだ。このようなものを一年近く受け取っているロシリエル姫はどう思われているのだろうな。ドル・アムロスはゴンドール執政家とも縁の深い家柄。都から遠いとはいえ、雅やかさでは我がローハン以上だろう。だというのに、それとは真逆のものを何度も何度も……」
ドル・アムロスのロシリエル姫。
その名を聞いてはピンと来るものを感じた。だが、信じられない。
「あの、まさかと思いますけど、これはもしかして……世間一般でいうところの恋文というものなのでしょうか?」
まったくそうは見えないけれど、という言葉を飲み込んでは訊ねた。
エオメルはロシリエルと婚約している。彼は昨年エオウィンが嫁ぐ時に親族代表としてイシリアンへ同行したのだが、花婿側の親族としてやはりかの地を訪れていた姫君と出会い、とんとん拍子に話が進んだのだ。
セオドレドが言うには、ロシリエルの父イムラヒルは最初から見合いをさせるつもりで娘を連れてきたというのだが。彼は指輪戦争でのエオメルの戦いぶりを観て感銘を受け、ぜひ縁を結びたいと願ったのだそうだ。
エオメル自身はロシリエルを憎からず思ったものの、当初はあまり乗り気ではなかったと本人の口からは聞いている。それというのも、ロシリエルという娘は容貌可憐で愛らしく、優美で一途、詩歌音曲に優れ、姫としての教養をすべて備えた素晴らしい女性なので、そのような姫君を自分のような王家に連なるとはいえ、一介の騎士の妻として迎えるのは、分不相応なのではないかと悩んだのだそうだ。
はロシリエルに会っていないので、実際の彼女がどのような姫君なのかは知らないが――なぜならその頃にはすでにお腹にセレストがいることがわかっていたので、イシリアンに行くことなどできなかったからだ――朴念仁のエオメルが口を極めて褒め称えるのだから、相当素晴らしい人なのだろう。
その彼女と、ドル・アムロス−アルドブルグ時々エドラス間という長距離文通をしているというのも小耳に挟んでいる。そしていよいよ来月には彼女がお嫁入りしてくるというのも。
アルドブルグの宮廷は、そのための準備で大忙しだそうだ。彼女はエオメルの本拠地であるそちらでお披露目をしたあと、エドラスにも挨拶に来るというので、もすでに準備を始めていた。
これでエオル王家は全員結婚をすることとなる。目出度いことだと思いつつも、この手紙を読んで、彼女は一抹の不安を感じてしまった。
「朴訥、といえば言葉は良いが、さすがにこれはな……。あまりにも記録報告然としていて、どこにも姫君に対する好意が見えん。ローハンは騎士の国で、優雅さというものはあまり重視されていないが、ドル・アムロスはそうではない。ロシリエル殿がこの結婚を早まったことと後悔していなければよいが……」
の気持ちを代弁するようなセオドレドの言葉に、思わず頷いてしまう。
従兄と義姉に駄目だしをされて、エオメルは情けなさそうに眉を下げる。
「そんなにおかしいですか?」
「女のわたしから言わせてもらえれば、これを読んでもだからどうしたのだとしか思えないのよ。もう少しエオメルが、こういう事柄に対してどう感じたのか、というようなことが書いてあればいいんですけど……。それなら言葉を飾るのが苦手なだけだということがわかります。正直、わたしがこの手紙を受け取ったとしたら、お返事に困ってしまうのですけど、ロシリエル様はどのようなお返事をなさいますの? 手紙を見せてください、とは言いませんけど……」
エオメルは納得がいかないように首を傾げた。
「彼女も私と似たようなことを書いてきているのだが……」
「は?」
セオドレドは目を丸くする。も同様だった。
「いくら従兄上でもいささか失礼ではありませんか? 本当ですよ。ほら、これを見てください」
言いながらエオメルは懐から畳まれた羊皮紙を取り出す。
「持っていたのか」
「持っていなければ返事が書けないででしょう?」
にまりとするセオドレドを不思議なものを見るようにして従弟は答える。
「いいのか? 読んでも」
「信用していただけないようですからね。仕方ありません」
エオメルは肩をすくめる。セオドレドはを手招きすると、彼女にも見やすいように低い位置で羊皮紙を広げた。国王夫妻は並んで手紙を読み始める。
「……なるほどな」
「確かに、似ていますね」
読み終わると、二人は生温かい眼差しになってエオメルを見つめた。それには気づかず、彼は自分の言ったとおりだろうと胸をそらす。
「確かに、私の書く手紙は無骨そのものでしょうが、ロシリエル殿もこうなのです。従兄上たちがどのような手紙を交わしていたかは存じませんが、それがすべてだと思わないでいただきたい」
「……わたしはセオドレドから恋文をもらったことはないから、彼がどういう手紙を書くのかは知らないわ。でももう少しこちらのことも気にかけたようなものを書くと思うのだけど……」
ねえ? とは夫を見上げた。
「もちろんだとも」
セオドレドは当然のように頷きつつも、すぐに真面目くさった顔になった。
「……そ、そうだったのですか?」
エオメルの口元がひくりとひきつる。
「ええ、だってわたしがこちらの文字を不自由なく読み書きできるようになったのは、結婚した後だったもの」
「それに、婚約中は私もも普段はエドラスに住んでいたのだから、手紙を書く必要性がなかったのだし、戦いに行っているときには手紙を書くどころではなかったからな」
そういうわけで結果的に一度も恋人同士らしい手紙を取り交わす事なく二人は結婚したのだった。そしてそのことを特に残念だとも思わなかったのだが、一度くらいはあっても良かったかもしれないと、今更ながらには思った。
エオメルは悪い事を聞いてしまったかと、難しい顔をしている。弟の気が反れたことを察してセオドレドは妻に、
「それにしても、ロシリエル姫は頭のよい方なのだな」
と極めて小さな声で呟いた。
エオメルの言うとおり、ロシリエルの手紙も日々のことが淡々と綴ってあるだけの代物だったのだ。しかし時折、さりげない表現で遠くにいる婚約者のことを考えていることや、着々と進みつつある結婚の準備に胸をときめかせている様子が窺えた。
「それに……けなげですよね」
も声を抑えて夫に答える。
彼女がこう書いているのは、ぶっきらぼうに過ぎるエオメルの文章に合わせているような印象があったのだ。彼女の筆跡は美しい。おそらくもっと優雅な文章を書くこともできるのだろう。エオメルの言うとおり、姫としての教養をすべて持ち合わせているのならば、できない方がおかしいのだ。
夫となる男性に気に入られたいという計算があるのかもしれない。しかし彼女の手紙の端々からは揺れる乙女心のようなものが垣間見えるので、それだけとは思えないものがあるのだ。
「エオメル」
ぽん、とセオドレドは弟の肩に手を置いた。
「従兄上?」
我に返ったエオメルは、はっとして顔をあげる。
「ロシリエル姫はどうもお前が思っている以上にお前のことが好きみたいだな。大事にしてやれよ」
「は? え? あ、はい。いえ、それは言われるまでもなく……。しかし従兄上、なぜそのようなことがわかるのですか?」
目を白黒させて、彼は兄を見つめ返した。
「」
セオドレドは首だけ動かしてを見やる。
「無骨につける薬というのはないか? なんだかロシリエル姫がお気の毒になってきたのだが」
「そういうものがあったらよいな、とわたしも今切実に思っています」
「な、二人とも、一体何を話しているんです。私にもわかるように説明をしてください!」
少なくとも褒められてはいないと察してエオメルが叫んだ。
ローハンの夜は早い。
蝋燭が貴重ということもあるのだが、日の出と共に起きる生活のため、よほどのことがない限り、夕食後はそうそうに眠ることになる。
ローハンの国王夫婦も例外ではない。
急ぎの仕事もないので本日の業務は終了し、安息の眠りにつくことにした。
しかし今夜はその前に一つやることがある。
愛情確認行為だ。
なにしろの妊娠から産後の身体が落ち着くまでの間、深く触れ合うことができなかったのだ。
どうやらセオドレドはエオメルとロシリエルの遠距離恋愛組に触発されたらしく、妙に燃えている。
夫の愛撫を受けながら、彼女は堪えきれず、目をつぶる。大きな背中に手を回すと、しなやかな筋肉に覆われた広いそこには時折指がひっかかる箇所があった。
セオドレドの背からわき腹にかけては、大きな傷跡が幾つか残っている。
アイゼン浅瀬で行われた激闘の名残だ。
指輪戦争が終結する少し前に行われたその戦いは、味方に大きな損害を与えた。セオドレド率いる騎兵団はほぼ壊滅し、彼自身も死んでもおかしくないような大怪我を負った。
いや、本当ならばその時に彼は斃れていたのだろう。
「セオドレド……」
過去の恐怖が甦り、ここにいるセオドレドが夢や幻ではないことを確かめたくなって、は細い腕に力を込めた。
「珍しいな、どうした?」
男は妻に求められて満足そうに目を細めると、彼女の腕から肩へ、肩から胸へかけて何度も口付けをする。は熱に翻弄されて、頭の芯が蕩けそうになった。
「ううん、ただ、幸せだと思って……」
夫の頭をかかえこみ、ほう、と彼女は息を吐く。
大丈夫、ちゃんといる。
セオドレドはここにいる。
だが忘れもしない一年前の二月二十五日、この日、彼女は彼を失うところだったのだ。
その日の夜中、彼女は夢を見た。
いいや、夢ではあるが夢ではない。
そこで彼女は本来の自分が属する世界の者、彼女がナセと呼んでいた者が彼女を迎えに来た事を知った。
帰ろうと手を差し出すナセのその手を取ることができず、彼女は棒立ちになる。
いつかは来るとは思っていたものの、最悪のタイミングで来てしまったと嘆いた。
このまま帰れば自分は助かる。だがローハンの民は、セオドレドはどうなるのだろう。
彼は言った。
待つことはできない、と。もし今自分の手を取らなければ、このままここで一生を終えることになるのだ、と。
彼女は迷った。状況は厳しさを増しており、このままでは国が滅ぶ事もありえた。そうなれば彼女自身も終わりだ。残ったところで、いかほどのことができるだろう。
元の世界へ戻れば、少なくとも命のやり取りをするようなことからは解放される。彼女の国は、もう何十年も戦争が起こっていないのだ。国の外では話は別だが。
帰郷し、ローハンでのことをただの思い出に変えれば、どれほど楽だろう。
だが、そうするには彼女はあまりにも深く関わりすぎた。
愛しすぎた。
ローハンと、セオドレドという男を。
帰れない。
彼女が呟く。
ナセは表情を変えなかった。ただ、残るのならば私の与えたものを返してもらおう、とだけ言った。
彼女はそれに抵抗しなかった。
そして目が覚めると、彼女は自分がただの娘になっていることを知った。
の身の内にあった常ならぬ力はナセより分け与えられていたもの。世界を遠く隔てられていたため、わずかにしか操れなくなっていたその力は、今ではまったくなくなっていた。
しかしそのことに後悔はしていない。
確信がないので誰にも言ってはいないのだが、ナセに力を返したことで、彼はセオドレドをに残してくれたように思うのだ。
なぜなら、後で知ったことなのだが、この夢を見ていた頃、セオドレドは生死の境をさ迷っていたのだから。
なんとか持ちこたえ、角笛城にて手厚い看護を受けたが、それでも予断を許さない状況が長く続いた。意識が戻ったあとも、怪我がひどくて角笛城からエドラスへ戻るまで二ヶ月近くかかった。その間、指輪戦争が終わり、セオデンが亡くなったという知らせもローハンに届き、彼は満身創痍のまま王となった。
そして回復したオドレドに、あるいはその場に居合わせた者に、アイゼン浅瀬での合戦の様子を聞かされるにつれ、彼が生きていられたのは奇跡としかいえないと思えるようになった。
その奇跡はナセが起こしたものだと、彼女はひっそりと思っていた。
彼は彼女の覚悟を試し、それを認めてくれたのだと。
その奇跡に二度目はないだろう。戦争は終わったものの、まだ冥王の残党は残っている。
その掃討のためにこれからも戦い続けなければならないのだろう。そこで再び、セオドレドが危険な目に遭わないとも限らない。
それでも。
選んだ事を後悔するつもりは、ないのだ。
朝。
いつものように起床し、身支度を整えるためには自室へ戻る。
今日は襟のつまったドレスにしないといけない。
色々と、跡が残っているのだ。
化粧台の前に座ると、おもむろにブラシを取る。ふと、その下になにやら紙があることに気がついた。
表書きにはなにもなかったが、封蝋の印章から、差出人はセオドレドだとわかる。
用件があるのならば直接言ってくれればいいのに、と思いながらは封を開けた。
そして、彼女は微笑んだ。
我が愛しき妻へ
いつでも、いつまでもそなたを想う。
セオドレド |
は思わず手紙を胸元に抱く。
初めてもらったラブ・レター。
内容は短いが、そんなことは関係ない。
セオドレドが自分のことを考えてくれる、それが嬉しかった。
(ああ、幸せだ……)
彼女は窓を開けて外の空気を吸い込んだ。
遠く、馬のいななきが聞こえる。
ローハン。
馬の司の国。
人生長いか短いか、それはわからないけれど、自分は命尽きるまでこの地で生きるのだ。
なにがあろうとくじけたりはしない。
(だって、わたしには……)
愛する夫と愛する家族と、愛する民がいるのだから。
さあ、今日も一日頑張ろう。
あとがきは反転で
ラ、ラブラブだな、おい……。
セオドレドとエオメルとでこんなに違うのか、ヒロイン。
書いてみないとわからないものがあるものだ……。
(あ、でも恋人と死別した経験があるかないかはかなり性格とか人格とかに影響を与えるよね……)
セオドレドが生きているとなると、指輪戦争にはどんな影響を与えるのか、というのを私なりに考え、最小限の変化におさえてみたらこうなってしまいました。
最大の変化は、もしもセオドレドが生きていたとしたら、最悪人間側が負けていたかもしれないな、という結論に。
なぜなら、セオドレドが無事にアイゼン浅瀬の合戦を潜り抜けてきたとなると、セオデンと共にゴンドールに行く事になるのは彼で、エオメルはローハン防衛のために残るのではないか、と思ったので。
エオウィンの自暴自棄は失恋したこともそうだろうけど、国としてはもうガタガタで、そこに一人残されることにも原因があるのだと。
で、エオウィンがゴンドールに行かないとなると、アングマールの魔王を倒す人がいなくなる→ガンダルフとかメリーとかが頑張ってくれるかもしれないけど、エオウィンがいた場合より被害が大きくなっていそう→で、最悪、人間側がこの辺でもう戦力が尽きることになるかも→ということになったら、黒門前で戦うどころじゃない!
で、これを回避するためにエオウィンにはゴンドールに行ってもらわないと→セオドレドが大怪我して明日をもしれないくらいなら、彼女もヤケになって行動してくれそうだ→ついでにヒロインには試練を受けてもらおう。
で、こんな感じに。
そして恒例の名前解説ですが、息子君のセレスト(selest)は古英語のsel(e上に¯がついてる)(意味は good,great,noble,happy)の最上級形です。
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