「う、むう!?」
「上から投げてはいけませんよ、エオメル殿。それではすぐ沈んでしまいます」
 満々たる水が流れるアンドゥインの岸辺で、子供たち、というにはすでに大きくなりすぎている一団が騒いでいた。
 一列に並んで小石を河に向かって投げつけている。ある者の投げたものは水面をはねるように飛んでゆき、別の者が投げたものは一度も弾まず沈んでいった。
 水切り遊びをするのが初めてなエオメルは、槍を投げるときの癖で上から腕を回してしまうのだが、そうするとあっという間に小さな水しぶきと共に水中に没してしまう。
 一方、エオメル同様初めてなはずのエオウィンは、数度の練習で五、六回は跳ねるようになった。
 やアムロスの兄弟たちは、やったことがあるというだけあってさすがに上手い。十回程度は楽々と跳ね飛んでいる。もっともこのあたりは川幅が広すぎるため、対岸まで届く小石はなかったが。
 エオメルと同じくらいに不器用なのは、ロシリエルとファラミアだった。
 ロシリエルはそもそも物を投げるということをしたことがないのではないかと思えるほど、小石を投げるたびに身体が揺れていた。ファラミアの方はエオメルと似たような感じで、やはり腕を挙げてしまうのだった。
 エオメルとファラミアは、どちらからともなく互いをちらちらと観るようになり、相手の上達ぶりを観察していた。
 まるでこの勝負に勝った方に素晴らしい賞品が贈られるかのように、真剣勝負といった雰囲気になってきている。
 エオウィンに投げ方を教えていたは、彼女と顔を合わせて苦笑しながら、マーク王と執政の勝負を眺め始めた。
 水切り競争は徐々に加熱しだし、最後には男五人で誰が一番になるかというところまで盛り上がっていった。まだ上達はしていないものの、エオメルとファラミアは手加減無用と吼え、アムロス三兄弟は慣れた者の余裕でどこからでもかかってこい、というように調子に乗る。そしてこのノリにはついていけないと、女性陣は切り上げて一休みをすることにした。
「男の方って、たまにものすごく子供のような振る舞いをなさるのね。普段はとても凛々しい方でもそうなんですもの、そういうところを見ると、わたくしってやっぱり女なのだと思いますわ」
 童心にかえっている夫を眺めながら、エオウィンは複雑そうな表情で言った。
「ああいうファラミア様はお嫌?」
 そんなことはないだろうと思いながら、はあえてエオウィンに聞いてみた。案の定、彼女は小さくと首を振る。
「いいえ。こんなことを言ったらきっと渋い顔をされるでしょうけれど、お可愛らしいと思うわ。ゴンドールはローハン以上に冥王の脅威にさらされていたのですもの、子供の頃でも思いっきり遊ぶことができなかったのではないかと思うし……」
「そう、ですね。そうだと思います。わたくしたち兄妹が子供の頃には、従兄弟に会いにミナス・ティリスへ行くということがまったくありませんでしたもの」
 ロシリエルは頬に手をあて、憂いの表情を浮かべた。
「道中が危険だということもありますけれど、ミナス・ティリス自体が前線のようなものでしたから……。出入りするにも随分制限があったと聞いておりますし」
 エオウィンは理解を示して頷いた。
「そうね。でも、もう戦争は終わったわ。残党はまだ残っていますし、人やものに与えられた傷が癒えるのはずっと先のことでしょうけど。それでも……終わったのだもの、これからはたくさんの幸福が地に満ちてゆくはずだわ。小さな子供でもなんの気兼ねなくあそべるような、ね」
 とロシリエルは微笑んだ。
 優しい沈黙が女たちの間を流れる。男たちは相変わらず、叫んだり駆け回ったりしながら騒いでいた。
「あ、あの……」
 おずおずとロシリエルが口を開く。
「どうしました?」
「なあに?」
 エオウィンとはそろって答える。と、声がそろったのが妙におかしくて噴出した。
「ごめんなさい笑ったりして。なんでしょうか、ロシリエル様」
 執政妃が朗らかに促すも、海の姫君は思いつめたように頬を赤くして唇をかむ。
「ロシリエル様?」
 これはなにか真面目な話なのだろうと、は居住まいを正した。
 真っ赤になりながらも、ロシリエルは一生懸命口を動かそうとしている。
「あの……エオメル様のその……好きなものとかは……なんでしょうか」
 涙目になり、消え入りそうな声でようやくそれだけを言う。恥じ入る様子があまりにも可憐なので、は思わず赤面しそうになった。同性であっても可愛らしいものは可愛らしいのである。
 その上、彼女は恥ずかしがりながらも見合い相手の好みを知ろうとしていた。エオメルなどよりもよほど見合いをしている自覚があるというものだろう。は感心したが、それと同時に見合い相手をほったらかしにして男同士で遊び狂っている国王を張り倒してやりたいと思った。
 同じ事をエオウィンも考えたのだろう。彼女は膝の上で拳を握りしめていた。その拳がふるふると震えている。後でエオメルに注意をしておこうと決意したは、ひとまずロシリエルの質問に答えることにした。
「陛下の好きなものといったら……」
「兄の好きなものといったら……」
 マークの女たちの声が重なる。
「馬でしょう」
「馬ね」
 また重なった。
 ロシリエルは恥ずかしさも忘れたようにきょとんとする。と、緊張が解けたようにころころと笑い出した。
「ロヒアリムの殿方ですもの、当然そうなのでしょうね。まあ、わたくし、ずいぶんおかしな質問をしてしまいましたわ」
「わたしはマークの生まれではないので、きっとエオウィン以上にそう感じるのだと思うのだけのど、マークの人が馬に向ける思いは家族に対する思いと同じだと思うわ」
 が言うと、エオウィンが当然のように返した。
「もちろんだわ。だって馬というのはただの家畜ではないのですもの。特に戦場では自分の命を預けるのだから、そこには並々ならぬ愛情と信頼があるものなのよ」
「そうだとすると、やはり乗馬もできないわたくしでは、到底マークの王妃など務まりませんよね……」
 盾持つ乙女のあまりにも説得力のある言葉に、ロシリエルはうな垂れた。途端に、エオウィンの目がきらりと光る。
「ロシリエル様、もしやマーク王妃になってもよいと思われますの?」
 黒髪の娘は頬を薔薇色に染め、袖で口元を隠した。
「わたくしには過ぎた地位だとわかっておりますわ。雄雄しい国王の隣にいるのが、ちっぽけな小娘であって良いはずがありませんもの。でも……」
 とエオウィンは思わず顔を見合わせた。声にはださなかったが、胸中では「いける!」と叫んでいた。
「乗馬は練習すれば良いだけのことですわ。何も心配する必要などありませんよ」
 元気付けるようにはロシリエルの手を取った。
「でも、わたくし、何度練習しても落馬ばかりで……」
 力なく頭を振るロシリエルに、エオウィンはふと考えこむと、
「ロシリエル様はどのような馬で練習をなさいましたの?」
「え? それは、アムロスの厩舎にいる馬ですわ」
「大公や兄君方がお乗りになるような、大きな?」
「ええ」
「それなら、まずは子馬で練習してみればよろしいのよ。マークでも誰もが皆、すんなり馬を扱えるようになるわけではありませんもの。馬の背は思った以上に高いから、それで尻込みしてしまうみたい。だからはまだ成長しきっていない若馬や、成長してもロバくらいの大きさの馬がいるから、そういう馬で練習をすれば、大きな馬に乗っても平気になるわ」
「あ……確かに、そうかもしれません。わたくし、馬の背に乗ると、どうしても高さで目がまわってしまいそうになるんです」
 エオウィンの改善策を、ロシリエルは納得したように頷いた。
 せっかく話題が馬になっているのだ。この機を逃すのはもったいないと、は一度諦めかけた案を持ち出した。
「せっかくですから、帰りはマークの馬に乗ってみませんか? 陛下と一緒なら絶対に落馬はさせませんよ。とっても乗馬がお上手なんですもの」
「え、で、でも……」
「そうですわ、ぜひ。兄もきっと張り切ることでしょうよ」
 赤くなりながら目を白黒させるロシリエルに、二人がかりでけしかける。
 何度か辞退をしたが、結局彼女は折れ、帰りは火の足に乗ることに同意したのだった。


 エオメルたちが領主館に戻ると、すでに夕食の仕度ができていた。だが女性陣は遠出をして疲れたと早々に席を立ち、そうなると華やぎに欠けると男性たちもさほど騒がずに部屋に戻る。
 しかし静かな夕べはエオメルには用意されていないようだった。
 部屋に戻ると、彼は思わず目をすがめてしまった。なんとなれば、そこにはエオウィンとがいたのである。
 はともかく妹には、旦那をほったらかしにしていいのか、と言いたくなった。
「お前たち……」
「エオメル、待っていたのよ。さあ、早くお入りになって」
「……ここは私の部屋なのだが」
 一応突っ込みを入れるも、期待に胸が膨らんでいるらしい妹は聞く耳を持ってはいなかった。早く座れと椅子の背を叩くエオウィンに、エオメルはため息をついた。
「いかがでした、ロシリエル様は?」
 エオメルと同じ灰色の目を見開いて、エオウィンは訊ねた。
「どう、と聞かれてもな」
 妹の迫力に、マーク王は思わず逃げ腰になる。
「気に入ったとかいらないとか、なにかしらあるでしょう? もしこういうところが知りたい、ということがあれば、また別に機会を設けないといけないし」
 は真顔でエオメルをみつめる。すっかり仲人気分でいるらしい彼女に、すがすがしい空気を吸った後のさわやかな気分は吹き飛んでしまった。
「いや、そんな一日二日でわかるようなものでは……」
 だいたい、ロシリエルとは帰りに相乗りをしたが、彼女は始終身体が強張っており、さほど話もしないうちに館に着いてしまったのだ。どうもこうもない、というのが正直な感想である。
 はっきりしないエオメルに、エオウィンはまどろっこしいとばかりに、畳み掛ける。
「お気に召しません?」
「いや、そんなことは……」
「愛情を感じます?」
「いや、さすがにそこまでは」
 エオウィンは頬を膨らませる。しかしエオメルもさすがに辟易して、顔を背けた。
「どうしてそう急かすのだ。乗馬の訓練をする約束もしたのだぞ。何が不満だ。だいたい人の気持ちなど簡単に動かせるものではないだろう?」
 怒気を孕んだ口調で返されて、エオウィンは不服そうな顔になる。
「だって、残された時間は少ないのですよ。帰国してしまったら、次はいつロシリエル様に会えるかわかりませんのに」
「多くても少なくても、気持ちが動くときは動くし、動かぬときは動かぬ。少しはそっとしておいてくれ!」
 エオメルは頭を抱える。次の攻め手はだった。
「でも動いていないのは陛下だけで、ロシリエル様はすでにお心を決められたようですけど」
 見合いそのものよりも女たちの攻勢に参っているエオメルは、意外なことを告げられてがばりと顔をあげた。
「本当か、それは」
「ええ」
 女二人はそろって頷く。続いては頬に手を当てて軽く首を傾けた。
「わたしとしては、女に恥をかかせるなと言いたいのですけど……。まあ、気持ちが動かないというのは理解できますから無理強いをするつもりはないのですけど。でも、このお話は陛下次第で本当にすぐにでも決まるのですよ」
 女の情報網は恐ろしい。
 エオメルの脳裏にはそんな言葉が浮かんだ。
「一体いつの間にそのような話を……」
「殿方たちが水切りに夢中になっているときです」
「む……」
 あっさりと返されてエオメルは言葉に詰まる。
 たしかにあれは少し熱中しすぎたように思える。しかし男の闘争心に火がついたというか、とにかく後へは引けないような状態になったのだ。
「新しくご親戚になった方たちと親睦を深めるのも結構ですが、肝心の目的を忘れてもらっては困ります」
 は静かに言い諭す。エオメルは素直に非を認めた。
「ああ、悪かった」
 とげとげしい雰囲気が和らぎ、エオウィンも優しい表情に戻る。
「それでは、また明日から頑張ってくださいね。今度こそちゃんとロシリエル様をご覧になってくださいまし、エオメル」
 それで決着はついたというように、彼女は椅子に腰掛けた。それにつられてエオメルも座る。も動いた。
「話は変わるのだけど」
 少女はエオメルとエオウィンを交互に見やった。
「なんだ?」
「帰りにはまたミナス・ティリスに寄るんですよね?」
「ああ。だがその時は宿を借りるために一泊するだけだぞ。あまり長く国をあけるわけにもゆかぬからな」
「そうですよね……」
「どうした?」
 珍しく言いよどむ少女をエオメルは促す。
「出発するの、お昼ぐらいにできませんか? わたし、療病院を見学したいんです」
「療病院? どうしたの、急に」
 エオウィンは目を瞬かせた。
「アムロソス様とお話して思ったの。マークにも専門の医師が常駐する医療施設……療病院があったら良いなって」
 そして彼女は昼間に話したという内容をエオル王家の兄妹たちに聞かせる。二人の反応はまったく逆の様相を呈した。
「確かに療病院があると良いわね。わたくしもお世話になったけれど、彼らの献身には本当に助けられましたもの。とはいっても、今だからそう言えるのであって、あの時はそれどころではない精神状態だったのですけれど」
 苦笑しながらもエオウィンは賛成した。一方エオメルは渋い顔で唸る。
「陛下は反対ですか?」
「いや、そういうわけではないが……」
 エオメルは腕組みをする。
「療病院の有用性はわかる。だが、だがな、もしやと思うが、お前も研修に行きたいというのではあるまいな」
「やっぱりいけない?」
 少女の顔に失望が浮かぶ。医師になれるのは男だけ。ゴンドールではそうであっても、エオメルの許可さえあれば、と訴えていただけに落胆したのだろう。
 だがエオメルは別のことを考えていた。どう考えてもこの案はアムロソスから発生したものだ。マークに療病院を、という申し出はまだいい。しかし彼女が研修に行きたいと言うのは、彼と一緒にいたいからではないか?
 聞いてみるべきだろうか。しかしそこで肯定の返事がきたら……。
 胸中に不安の影が広がる。
「看護人や薬師ならばまだ、な……。私は入院することはなかったが、それでも多少は見聞きしている。療病院というのはな、あれも戦場のようなものだ。女の細腕でできるものではない」
 がなにかを言おうと椅子を蹴立てる。
 しかしエオメルはそれを制して続けた。
「第一、マークに療病院が出来たとしたら、身分や立場から言ってもお前がなるべきは運営責任者だ。医師ではない」
「……え?」
 思いがけないことを言われて、は固まった。一方エオウィンは納得したように頷く。
「ああ、そうなるでしょうね。今更あなたを誰かの傘下にいれたりしたら、余計な混乱が起きてしまうもの」
「運営責任者って、治療や看病の仕方を知らなくてもやっていいものなの?」
 は立ち上がりかけたまま、呆然としていた。まだ当惑しているようで、不自然な体勢をしているのに、微動だにしない。
「知っているに越したことはないと思うけれど、治療も看病も、やっている暇なんてないんじゃないかしら、ねえ」
 エオウィンに同意を求められ、エオメルは頷く。
「私もそう思う」
 は力が抜けたように椅子に腰掛けた。
「責任者って、事務仕事が多いのかしら」
「おそらくそうだろう」
 呟かれた少女の問いに冷静に答える。と、は頭を抱えた。彼女はまだマークの文字を覚えきっていないのだ。
「そういうことなら、帰途のミナス・ティリス滞在時間をのばしても良いぞ。そして帰国後にお前が主導者になって準備を進めてくれ。各方面に話をつけたり、研修者の人員を選定したり、どのくらいの規模になって設立や運営開始後にどの程度の費用がかかるかの見積もりをだしたり……」
「えええっ!」
「どこに建てるかも問題だな。設計は……さすがにお前には手に余るだろうから専門家に相談してくれ。必要なら療病院設立に関する官僚をお前の権限で雇ってもかまわん。だがその管理はお前がするのだぞ。また必要なことはすべて書類にして私に提出すること。最終的な採決は私がするし、会議にかけたいようなことがあれば応じよう。一から始めねばならぬことゆえ大変だとは思うが、頑張ってくれ」
「……そんなぁ。身体がもたないわよ!」
 蒼白になっては悲鳴をあげた。
「なにをいうか、発案者のクセに」
 エオメルは薄く笑う。
「でも」
 うろたえる少女に、マーク王は後ろめたさを感じた。これでは自分が策を弄してをローハンに足止めしているようなものだ。だが自分の言ったことは間違ってはいないだろう。高い身分にあるものは、本人の意思に関わらず重い責任を負わなければならないのだ。彼女は王家の一員ではないし、エルケンブランドの血を引いているわけではない。それでも、これまでの行動がその不安定な立場を強固にしてしまった。今更嫌だといっても収まらない。
「それとも、どうあってもミナス・ティリスに行きたい理由でもあるのか?」
「え?」
 自分の声とは思えないほど冷え冷えとしていた。もそう感じたのだろう、エオメルを凝視している。エオウィンも怪訝そうに兄を見つめていた。
「そういうわけでは……。わたしとしては療病院ができれば良いのだし」
 一拍置いてからは答えた。まだどこかいぶかしんでいる様子が窺える。
「本当に?」
 エオメルは重ねて問うた。
「ええ……」
「そうか」
 安心した途端、身体中の力が抜けてしまいそうになった。
 そして自分が一体何に安堵したのかを悟ると今度は落胆した。自分はの口から他の男の名前がでなかったことに安心したのだ。素直に応援することも邪魔することも出来ないくせに、浅ましいことだ。
 自分で自分が嫌になり、エオメルは机に突っ伏した。
「陛……エオメル様、大丈夫ですか?」
「兄上、本当にご様子が変よ」
 心配する二人に対し、エオメルは顔をあげないまま片手を振った。
「いや……今日は色々あったからな。多分疲れたんだ」
 そういうことにしてくれというと、二人は思うところがあるようで、神妙な顔で部屋を引き下がっていった。


 翌日も素晴らしく晴れていた。
 昨日の約束通り、エオメルはロシリエルに乗馬を教えるべく朝から張り切って厩舎に向かっていった。彼女でも乗りこなせそうな小柄で穏やかな気性の馬を探すためである。
 執政夫婦やアムロスの兄弟たちはそれに付き合うべく外に出た。自分たちも馬に乗るのだとか、天気が良いので歩くのだ、などと理由を並べていたが、実際にはマーク王とアムロス公女の進展具合を見に来ているのである。無論、もその一人だった。
 馬場代わりになっている空き地に向かうべくブレードの手綱を引きながら、ぼんやりと昨日のことを思い返す。
(やっぱり、変だったわよね、昨夜のエオメル)
 なにが原因だったのだろうと首をひねる。ロシリエルが気にいって舞い上がっているというわけでもない。反対に気に入らなくて冷めている風でもない。戸惑ってはいるようだが、それにしても煮え切らない。
(鳴かぬなら……えーと)
 は偉人が残したという格言を思い出した。
 鳴かせたらよいのか、鳴くまで待てばよいのか、エオメルという男にはどちらが効果的なのだろうか。
様、おはようございます」
 後ろから明るく声をかけられて、は振り返る。考え込んでいたため、ロシリエルが近付いてきたことに気付けなかったようだ。
 今日の彼女は昨日よりも動きやすい格好をしていた。ドレスを着ているのは同じだが、袖がぴったりとしており、スカートの裾から覗く靴は軽い絹靴ではなく、乗馬用のブーツだった。長い黒髪は耳の下で二つのおさげに結ばれている。白い額が可愛らしく、女学生のような雰囲気がした。
「おはようございます、ロシリエル様。活動的な装いも似合いますのね」
「そ、そうですか? ありがとうございます。張り切りすぎているように見えるのではと心配していたのですが……」
「張り切っているのは良いことではありませんか。陛下だってやる気のない方に教えるよりは遙かに教え甲斐があるでしょうし」
「そう思われます?」
「もちろんですよ。ロシリエル様はもっと自信を持つべきだと思いますわ。そうでなくとも、馬というのは乗り手の性格を見切ってしまいますから、おどおどしていると舐められてしまいますよ」
「ええ、それもわかっているんですけど……」
 ロシリエルはしょんぼりと肩を落とした。その様子から、彼女が本当に乗馬を苦手としていることがわかる。
 しかしロシリエルは顔をあげると自分の両頬をぺちっと叩いた。
「ああ、こういうところがいけないんですよね。わたくし、わたくし、本当に頑張りませんと」
 自身に活を入れるアムロスの公女に、は感心した。
 なよやかでほんの少しの怖いことにも耐えられそうにない姫だが、芯は意外に強いようだ。苦手なことに前向きに向き合う姿は好感が持てる。
 こういうところこそエオメルに見せるべきではないかと思ったが、生憎国王はこの場にはいない。なんて間の悪い人だろうと、は彼の不憫さを思い、心の中で涙を拭う真似をした。




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