背中が熱い。
 脈打つ度にずきずきと傷が痛んだ。呼吸をすればさらに苦痛は増す。
 この状態から逃れたい。
 霞がかった頭で考えるのは、それだけだった。
 うつ伏せになっていても痛みは少しも治まらない。本能的に楽な姿勢を取ろうと身を丸めようとしたが、わずかな身じろぎだけで身体が引き攣れるように痛んだ。
 が悲鳴をあげると誰かがすぐ近くに来て様子を窺っているのがわかった。優しく手を包み、力づけてくる。そして時折、水で湿らせた布で汗をぬぐってくれた。ひんやりとした感触が快かった。


 突如起こった厳戒態勢に、イシリアンの領主館は緊張を孕んだ空気に包み込まれた。廊下にも庭にも、完全武装をした騎士たちが大勢歩き回っている。厩から引き出された軍馬も、戦いに赴くことを理解して高くいなないた。
 戦いの前の慌しさは、館に残る使用人たちにも伝染した。兵糧を始めとした荷を用意する者があちらこちらと走り回っている。
 静かなのは矢傷を負った少女が寝かされている、この寝室だけだ。
 イシリアン公妃として嫁いできたエオウィンは、いずれこのような日が来るだろうとは予想していたものの、これほど早く、しかも婚礼の祝いが終わらないうちに起こるとは思っても見なかった。
 戦支度を手伝うため夫ファラミアの側に控えたり、大勢が出かけた後の館の管理に関わる引継ぎをしたりと度々駆り出されていたエオウィンは、用事がない時にはの寝室にいて、少女の容態を見守っていた。
 その部屋には絶対に人を絶やさないようにと侍女を数人常駐させており、ロシリエルもぜひにといって残っていたので、エオウィンがやらなければならないことはほとんどないのだが、それでも姉妹のように親しい少女が苦しんでいるのを放っておけなかったのだ。
 用事が一段落したので、エオウィンは再び少女の寝室へとやってきた。血に染まったシーツはすでに取り替えられているものの、まだ部屋にはかすかに鉄臭い匂いが漂っている。それ以上に濃厚なのが、薬草の匂いだった。寝台のそばには小さな机が置かれ、水を張った桶やそれにひたすための布、後で取り替えるための包帯などが用意されている。
 すっかり病室へと様変わりした優雅な寝室で、青ざめながらもじっと少女の寝顔を見詰めていたロシリエルが、エオウィンに気付いて顔をあげた。
「彼女の様子はどう?」
 囁くような小さい声でエオウィンは訊ねる。ロシリエルは目を伏せ、力なく頭を振った。
「苦しがって何度も寝返りをうとうとするのです。ですが、背中が痛んで悲鳴を……。意識はないようなのですが、それが却ってお可哀想で」
 ロシリエルが答えている間にも、が辛そうに呻く。エオウィンとロシリエルは顔を見合わせ、重苦しいため息をついた。
 少女の寝室ではすべてが密やかに行われた。動作の一つ一つにまで気を使い、音を立てないようにする。言葉を交わすのも、内緒話をするような状態だった。まるで大きな音は少女の怪我をひどくするとでも信じ込んでいるみたいに、通夜さながらの様子である。
 彼女たちの思いが外にも漏れていたのか、この部屋へやって来る者もノック一つにも気を使った。大抵は侍女が出入りするためのものだったが、数度目のノックでエオウィンは意外な相手からの訪問を受けた。
「失礼。出発前に、ぜひ殿のお顔を拝見したいのだが……」
 神妙そうに両手を身体の前で組んで、ドル・アムロスの公子アムロソスが立っていたのを見たときには、エオウィンは危うく口をあんぐりと開けてしまうところだった。
 鎖帷子や鉄の胸当てをつけているため、いつもより身体が大きく見えるが、まだ若い顔には不安と緊張が混じっている。エオウィンはに問いかけるように、ちらりと寝台を振り返った。無論、少女が答えを返してくれるはずはないのだが。
はまだ意識が戻っておりません。お言葉を交わすのは無理だと思いますわ」
「構いません。少し様子を見たいだけですから」
 騎士の中では若く、ともすれば頼りなげにも見えるが、アムロソスは引き下がらなかった。エオウィンは考えをめぐらす。
 アムロソスの立場なら、出発前の挨拶をわざわざにしてくることはない。そこまで近しい間柄ではないからだ。
 それなのにあえて訪ねてきたということは、彼はのことが好きなのかもしれない。それなら会わせた方がいいだろう。戦いに絶対はあり得ない。これから始まるのは負けることがないと思われている残存勢力の排除だが、それでも彼が死なないという保障はないのだ。
「わかりました。本来ならば女性の寝室ですもの、お断りをするところですけれども、わたくしの一存で良いことにいたします」
 そう言ってエオウィンは扉を塞ぐように立っていた位置から脇へどいた。アムロソスは静寂に包まれた寝室に一瞬気圧されたようだったが、思いつめたように寝台に近付いていった。そっと歩こうとしているのだが、革と金属で覆われた全身からは、がしゃがしゃと耳障りな音が出てしまう。
「まあ、お兄様」
 兄の入室に、ロシリエルが立ち上がった。
「もう出発される頃合では? こちらに立ち寄っていて大丈夫ですの?」
 小声でも話せるように、寝台をぐるりと回る。アムロソスは様子を窺ったらすぐに行くよと妹に答えた。
 それから彼はうつ伏せに横たわる少女を悲しげに見下ろす。血の気の失せた顔は真っ白で、額には汗が滲んでいた。目は閉じられているが、眉間に幾本かのしわが刻まれている。半開きになった唇からは吐息が漏れ、浅い呼吸が繰り返されているのが聞き取れる。掛け布団は腰のところで折り返されていた。傷に重みが加わると、が苦しがるからだ。寝巻きには着替えさせられているが、布越しに厚く巻いた包帯の存在がわかる。
「戦争は終わったのに……平和には遠いのですね」
 ぽつりとアムロソスは呟いた。
「この方がこのように苦しまねばならない理由などないのに、なんと哀れなことだ。変わってやれるものならば、私が代わってさしあげたい」
 若い騎士は膝をつくと、そっと少女の手をとった。はされるがまま、力のない手を青年に預けている。
 切々とした悲しみを訴える光景に、女たちは涙ぐんだ。エオウィンも袖で目元をぬぐう。
 ふと、が目を開けた。
殿……」
 アムロソスが囁く。呼ばれたことはわかったらしく、少女はわずかだが指先に力を入れた。
「無理はなさいますな。毒がまだ抜けきっていないのです」
 青年は少女の小さな手を両手で握った。そのまま祈るように額に当てる。
「あなたの敵は私が打ちましょう。卑劣な手段を使う輩は許しておけない」
 両手の間からこぼれた指先に口付けを落とす。そして名残惜しさを振り払って立ち上がった。
 アムロソスはエオウィンに向き直る。
「矢傷自体はよくあるものですので、言うまでもないことでしょうが、これから熱が出てくるでしょう。それさえ越せば、大丈夫なのですが……」
「ええ。わたくしも何度も手当てをした覚えがあります。彼女のことは任せてください」
 エオウィンが安心させるように答える。アムロソスは頷いた。
「私が言うようなことではないのですが、よろしくお願いいたします。後を託せる方がいると思うと、安心して戦えます」
 アムロソスは痛々しく微笑むと、妹とも別れの挨拶をした。兄妹たちは互いに元気付け合い、励ましあってそっと分かれた。
 青年が再び金音をさせながら歩き出すと、丁度入れ替わるように扉が開いた。ノックもなかったが、相手があまりにも暗い顔をしていたので、エオウィンも注意することを一瞬忘れてしまった。
「エオメル王」
 驚いたのはアムロソスも同じだったのだろう。虚を突かれたように棒立ちになる。
「ああ、アムロソス殿か。貴公も見舞いに?」
 口調こそいつもの通りだが、声音は固く強張っていた。あまりの変わりように、誰もが呆然となる。
「は、はい……。わたくしは終わりましたので、お暇をしようと……」
 憔悴しているエオメルに、アムロソスは言葉を濁した。なぜだかひどく失礼なことをしているように思えたからだ。
「そうですか……」
「はい……」
 言葉が途切れ、気まずい沈黙が訪れた。青年は王に一礼すると、逃げるようにその場から去る。王の妹はなんとか場を変えようと、つかつかと兄に歩み寄った。
「お入りになるのならば早くお入りになって。ここは人の通りも多いわ」
 小声だが有無を言わさぬ調子に、エオメルもやっと動き出す。
の様子は?」
 エオウィンは少女の容態を話して聞かせた。エオメルは黙って聞きながら寝台を見下ろす。先ほど薄っすらと開いた目はもう閉ざされていた。
 話し終わってもエオメルは黙り込んだままだった。目は血走り、両の手を何度も握っては開く。感情が高ぶっている証だ。
 エオウィンは心配になって兄をたしなめた。
「エオメル、焦ってはいけないわ。怒りは目を曇らせる。普段ならば絶対にやられることのない相手にしてやられることだってあるの。父上のことを忘れたわけではないでしょう?」
 オークを憎む余り、彼らの仕掛けた単純な罠にかかって亡くなった父親。エオメルは確実に彼に似ていた。
 それにエオメルには前例があった。ペレンノール野の合戦で、黒の息にかかって倒れていたエオウィンを死んだのだと思い込み、無謀としか思えない突撃をかけたのだ。完全に勝機がなくなっていたわけでもないのに。
「そんなヘマはしない」
 ぶっきらぼうに答えたが、怒っているわけではないようだった。に意識が集中しているため、他のことに気を回す余裕がなくなっているのだ。彼の視線はただ寝台にうつ伏せになる少女にだけ注がれている。ショールの端からはみ出ていた手に気付くと、彼もまたその小さな手を握った。
 どれくらいそうしていただろう。おずおずと騎士が顔を覗かせ、そろそろ出発の時間だと告げにくるまで、エオメルは動かなかった。
 ようやく礼儀を思い出したらしく、ロシリエルやエオウィンに丁寧に別れを告げると、草原の王は去っていった。最後にちらりと振り返り、彼は一瞬息を飲む。の目が開いていて、さっきまでエオメルが握っていた手をわずかに空中に浮かせ、伸ばしていた。行くな、と言っているかのように。
 エオメルは後ろ髪を引かれる思いでようやく部屋を出て行ったが、彼がいなくなっても彼の重苦しい想念が部屋に染み付いてしまったようで、しばらく誰も動けないほどだった。
「いけない、わたくし、見送りに行きませんと」
 弾かれたようにエオウィンが立ち上がる。
「ロシリエル様はどうなさいます?」
「わたくしはここに。どうか、わたくしの分も皆様の無事を祈ってくださいませ」
「わかりました」
 エオウィンが慌しく出てゆくと、ロシリエルは寂しげに俯いた。




 重たい瞼をゆっくり持ち上げると、エオウィンが心配そうに覗き込んでいた。背中はまだ熱を持ったように痛み、それが覚醒を促す。
「エオ……ウィン?」
「気がついたのね。良かった」
 手の先に温かいものを感じ、目だけ動かす。彼女が自分の手を力づけるようにしっかり握りしめていた。
 ようやく自分の身に起きたことを思い出したは、乾いた口をゆっくりと動かして、眠っていた間のことを訪ねる。
「あれから……どれくらい、時間が経った?」
「一晩が過ぎたところ。今は朝よ。それよりも、お水を飲まない? 喉が渇いたでしょう。昨夜は一晩中、汗をかいていたのだもの」
 頷くことで答えると、エオウィンはすっと立ち上がった。
様」
 反対側から声をかけられたので、は頭を動かす。
「ロシリエル……様?」
「ご気分はいかがですか?」
 気遣うように優しく訊ねる彼女は、簡素なドレスに着替え、髪を白い布で包んでいた。
「だいぶ……いいです」
「そうですか」
 ロシリエルは安堵したように微笑んだ。と、エオウィンが吸い飲みを持ってくる。
「起きられる? さすがに伏せったままではこぼしてしまうと思うの」
 それで一騒ぎになった。は身体を起こし、背中にクッションを当てる。その一つ一つの動作のたびに激痛が走るのだが、喉の渇きは切実だった。ようやく落ち着いた頃には汗で髪が額に張り付いてしまったほど。クッションには傷のあるほうをなるべくくっつけないようにしているが、それでもずくずくとした鈍痛は収まらなかった。
「わたしの怪我、結局どんな感じなの?」
 人心地つくと、は訊ねた。エオメルに背中を切られたことだけは覚えているのだが、全体としてどれほどの傷になったのかはわからない。
 エオウィンは一瞬ロシリエルと目を見交わし、答えたものか迷った。
「あなたを射った矢は、ちょうど背骨に当たって止まったの。それで、その当たった骨は折れているのだそうよ。……中の臓器にも少し傷ついていたそうだけどそれは大丈夫。安静にしていれば、いずれ治るものだから。それから、毒もね。覚えているかわからないけれど、あなたはすでに解毒剤を飲んでいるから。時間から考えても、もう抜けているはずよ」
「わたし、助かるの?」
「もちろんよ。あなたは死なない。誰に誓ったっていいくらいだわ」
 きっぱりとエオウィンは断言した。
「そう……」
 それで痛みが和らぐわけではないが、安心するとそれだけで気が楽になった。
「館の中……ずいぶん静かね。皆、まだ寝ているの?」
 部屋の中にはカーテンが引かれているので薄暗いが、間からこぼれる光ですでに日が昇っていることはわかった。エオウィンは寂しげな表情になったが、すぐに首を振る。
「この近くに東夷の残党がいるとわかったので、留守を守る騎士たちを残して全員戦いに向かわれたのよ。ファラミア様も、イムラヒル大公やその息子たちも……兄上も」
 は驚きのあまり目を見開いた。がばりと跳ね起きるところだったが、痛みが全身を貫いたので、呻きながら身を捩る。
 うっかり刺激の強い話をしてしまったのだと、エオウィンは慌てた。
「落ち着いて、。すぐにも決着がつくだろうということですもの」
「でも……!」
 痛みのせいか、戦いが起こっているという衝撃のせいか、の目には涙が滲んだ。だが肩に柔らかい重みが乗って――ロシリエルの手だった――は我に返る。
「皆様、きっと無事にお帰りになりますわ。様は傷を治すことに専念しませんと。戻られたときにまだあなたの具合が悪いようだと、皆様心配なさいますもの」
 静かな口調で懇々と諭されて、はうな垂れた。
「はい。そうですね……」
「もう、あまりお話をされないほうが良いと思います。体力を消耗いたしましてよ」
 ロシリエルは目でエオウィンに合図すると、再びをうつ伏せに寝かしつけた。
「あの……」
 再びが口を開くと、ロシリエルはいたずらっぽく目で咎めてきた。
「あと、一つだけ……。ずっと付いていてくださったの?」
「はい」
 ロシリエルは頷くと、子供をあやすようにそっと乱れた寝巻きの襟を直した。
「……ありがとう」
 はロシリエルを見上げ、礼を言った。頭を動かして、エオウィンにも伝える。
 力尽きたのか、の瞼が再び降りた。そうは言っても、散々眠った後なので、眠気は起きないのだが。
 しかし、とは思い返す。
 何度か意識が浮上したときに自分の手を握っていてくれたのは、きっと彼女たちだったのだと。


 五日後、エオメルたちは無事イシリアンの領主館に帰還した。奇襲をするつもりでいた東夷たちは逆に奇襲を受けてその力を発揮することなく終わった。
 味方の損害は微小、それに生き残った東夷たちはゴンドールに忠誠を誓うというおまけもついた。
 何度となく館へ戻って少女――――の容態を聞きたいと思ったかしれなかったが、ようやく事後処理も終わったのだ。
 戦装束を解くのも後回しにして、エオメルはの寝室へと向かう。部屋には控えの侍女たちがいるだけだった。エオウィンはファラミアの元へ行っているのだろう。
 の毒はすでに抜け、あとは安静にして傷が塞がるのを待つだけとなっていた。意外に元気そうにエオメルを出迎えてくれたが、まだ寝台から降りてはいけないとエオウィンにきつく言い含められていたので、身体を起こしただけの状態だったが。少女は最後に見たときとは打って変わって、赤みの差した頬に生気を宿した目をしていた。
「具合はどうなのだ?」
 単刀直入に切り出すエオメルを、は彼らしいと思った。もっと長い間会わずにいたこともあるというのに、ひどく懐かしいと感じる。
「だいぶ良くなっていますよ。もう頭がふらついたりしませんし、熱も下がりました。まだ動いたり息をしたりすると背中がぴりぴりする感じがありますけど、それくらいです」
「そうか。なら、いい」
 ほっと息をついてエオメルは近くにあった椅子に座った。とにかくこれで安心できると思った途端、身体が重く感じた。積み重なった疲労をようやく自覚したようだった。
「お疲れでしょう。少しお休みになった方がいいわ。皆様が帰還されて、館にも人が戻りましたもの。陛下直々に指示をなさらなければならないことはあまりないと思いますし」
 がしかつめらしい女官のような物言いをするので、エオメルは苦笑した。こんな時でも自分を律する彼女の強さに感心すると共に、甘えてもらえない事実に少し落胆した。
「そうするよ。向こうではあまり睡眠時間を取れなかったからな」
 エオメルは内心の複雑な感情を押し隠し、気楽そうに笑った。もつられて笑ったので、部屋の中は穏やかな空気に包まれた。
「あ、そうでした。……陛下」
 は衣服を整えると――といっても、彼女は寝巻きの上にショールを羽織っているだけなのだが――潤んだ大きな目をじっと向けた。
「……?」
 どきりとエオメルの心臓が高鳴る。このように自分を見つめたことなど、初めてではないか?
「陛下の処置が早かったので、死なずにすんだのだと聞きました。ありがとうございます。このご恩は忘れません」
 深々と頭を下げる少女に、エオメルはそんなことかと微笑して頭を振った。
「気にすることはない。当然のことをしたまでだから。戦場ではこの手の傷の応急処置は何度もしているのだ。もっとも乱戦になった場合、矢に毒をなすりつける余裕もなくなるから、お前のような状態になるものは少ないのだが……」
「そうなんですか」
 少女の顔が暗くなったので、エオメルは余計なことを言い過ぎたと感じた。そこでそしらぬ顔で話を変える。
「そろそろ失礼しよう。お前はまだ傷が治っていないのだから、あまり長くおしゃべりに付き合わせては身体に障るだろうしな」
「あ、はい」
「今夜はさすがに宴もないだろう。皆、疲れているからな。一眠りしてからまた来る」
「あ、待ってください」
 立ち上がったエオメルを、は引きとめた。
「ん?」
「部屋に向かわれる前にロシリエル様と会うのでしょう? 彼女は父君と兄君たちのところへ行っているの。だからお会いになるのは後の方がいいわ。家族水入らずで過ごしているところを邪魔しては悪いもの」
「あ、ああ、そうだな」
 エオメルはまったく思ってもいなかったことを注意されて、一瞬たじろいだ。なんとか動揺を取り繕い、寝室から退散する。
 廊下に出てからエオメルは、思わず天を仰いだ。
(ロシリエル殿か……。すっかり忘れていた)
 怪我をしたということもあって、エオメルはのことしか頭になかったのだ。とはいえ今後のことについては何も考えていなかったわけではない。
 エオメルはすでに一つの事を決心していた。ロシリエルの父、イムラヒル大公も一緒に戦場へ出ていたので話をしようと思えばできなくもなかったが、長引く戦いではないだろうと帰還するのを待っていたのだ。
(イムラヒル殿にお会いしたいが、さすがに今すぐというのは無理だろう。一眠りして、身を清めてからにしよう。起きた時間によっては、明日ということになるかもしれないが)
 エオメルは自分に言い聞かせると、ゆっくりと自分の部屋に向かった。
 これから起こることを考えると、頭も胃も痛くなる。公は不機嫌になるだろうし、ロシリエルは悲しむだろう。それもこれも、自分が馬鹿だったせいだ。
(それでも……これ以上自分を誤魔化すのは止めだ)
 悩んだ末の結論は、エオメルにとっても苦いものだった。だがその決意を受け入れると決めた後は、ようやく長い迷路を抜けたような清清しさがあったのだ。エオメルは安らぎにも似た思いを抱えて慌しいざわめきの広がる館を歩いていった。





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