「ファラミア様、こちらです」
 ベレゴンドに先導されて向かったのは、領主館の庭の一角にある半ば崩れかけた建物だった。元は庭仕事用の道具が保管されていたところらしい。鍬やスコップ、如雨露などと混じって、すっかり干からびたような球根がかごに入ったまま無造作に打ち捨てられていた。
 窓はないが壁には隙間が開いており、視界に困らない程度の明るさがある。ファラミアはレゴラスが来る前に少し片付けなければ、などと場違いなことをぼんやりと考えた。
 実際、彼は混乱していた。無力な娘が襲われたことへの怒り、その暴挙を許した自分たちの不甲斐なさ……。気の緩みがどこかにあったのだろう。そうでなくてどうして領主館の敷地内に敵が侵入するのを見逃したのか。だが胸のあたりは熱くたぎっているのに、頭の中はいやに冷静だった。いや、冷静というよりも、彼はこれから一仕事をしなければならない憂鬱ですっかり暗い気持ちになっていたのだ。気だるげに腕をゆっくりと回す。骨の鳴る小さい音がした。
 それにつられたかのように、男が顔を上げた。

 そう、男だ。
 人間の男。
 毒矢を放った卑劣な暗殺者。

 ファラミアは暗い翳りを含んだ眼差しで、哀れな存在を見下ろした。
 男の髪は黒く、肌も浅黒い。身につけているものは、薄汚れた下穿きだけだった。
 男を見張っているファラミアの部下――イシリアンの野伏たちである――の一人が持っているのは、男の服や覆面だったものだろう。泥だらけだが、地色は緑と黒の混ざったものだとわかる。それだけで男が潜入者であるということを白状したようなものだった。普通、こういった者たちは簡単に身元がばれないように、フードや覆面で顔を覆っているものなのだ。
 男は炎のような眼差しでファラミアを睨みつけていた。
 だが、その唇からは一言も発せられない。
 それも当然だ。彼は野伏たちによって完全に無力化されていたのだから。
 武器は取られ、服は脱がされ、立った状態で柱に縛り付けられ、口には猿轡を噛ませている。もしも男が暴れたならば野伏たちは足や腕の腱も切っていただろう。
 しかしこれはファラミアたちから危険を遠ざけるためだけの目的で行っているのではないのだ。敵地へ単身、あるいは少人数で侵入している者たちは、その数に比例するかのように難しい任務を帯びている。そのため敵に捕まった場合は自決をするよう言い含められていることが多いのだ。
 それはファラミアたちとて同じこと。先の戦争の折、彼はイシリアンの野伏を率いて斥候や偵察を行っていたのだ。少なくまとめた荷物には、通常の武器や食料のほかに、一見それとわからぬような暗器や毒を携帯していた。毒は敵に使うよりも、いざという時の自決用として持っていた。
「マブルング、この者の持ち物のなかに毒物はあったか?」
「ございませんでした、御大将殿。どうやら逃走の際に捨て去ったもののようです」
 暗殺者がその道具をいつまでも持っているはすがないのだ。予想通りの答えが返ってきたので、ファラミアは小さく嘆息をした。
 いよいよ始めなくてはならない。
「私はゴンドール執政にしてイシリアンを治める任にあるファラミアと申す者。そなたにはいくつか答えてほしいことがある。しかし、そのままでは喋ることができぬだろう」
 ファラミアが自己紹介をすると、探るような目つきで男は見返してきた。
「だが猿轡を外すことはできん。だから私が二択の質問をしよう。肯定ならば首を縦に、否定ならば横に振るのだ。よいな?」
 男は唸りもせず、また動きもしなかった。
「よいな?」
 ファラミアは静かな声で再び告げる。しかし男は何の反応も見せない。そこで彼は真顔で男の顔をなぐりつけた。吹き出た鼻血が拳に飛ぶ。
「私は非常に急いでいるのだ。だからあまり寛容な気分にはなれない。答えたくないというのはそなたの勝手だが、その時はそなた、死んだ方が万倍もましだと思うような目に合わせてやるから、そのように思ってくれ」
 さも当然のように淡々と告げるファラミアに、男の目が見開かれる。どこまで本気なのかと考えているようだ。
 しかしファラミアはそんな男には毛ほども興味がなさそうに続ける。
「それから、そなたがごねたせいで、かの姫君が死ぬようなことになったら……その時は草の根をわけてもそなたの友人知人親戚姻族すべて探し出し、そなたと同じ目にあわせてやろう。すべてはそなたの態度しだいだ。さて、では質問を始めよう」
 怒りも憎しみも押し殺し、冷ややかな冷静さで尋問を進めるファラミアに、男は段々落ち着きをなくした。罵声の一つも浴びせないことで、かえってファラミアの本気を感じ取ったのである。
「矢には毒が塗られていたのか?」
 男はわずかに抵抗する姿勢をみせたものの、ややあって頷いた。ファラミアは東夷が良く使うという毒物の名を一つ一つ挙げてゆく。
 使った毒はどれかという問いだ。
 五つ目で男は頷いた。
「ベレゴンド、すぐエオメル王に伝えるのだ」
 ファラミアは振り返りもせず、白の隊隊長に命ずる。ベレゴンドは一礼するや、走り去っていった。
 まず何はなくとも必要な情報は得た。次は彼らの目的を調べなければならない。
「そなたらの目的はあの姫の殺害か?」
 答えは、否。
「では、あそこにいた誰か特定の者か? あの時、姫君のそばにはマーク王もいたのだが」
 またも、否。続けて、応。どういうことかとファラミアは考える。
「マーク王に狙いをつけていたが、マーク王でなくても良かったということか……?」
 応。
「そうか、つまり、無差別か」
 ファラミアの唇に剣呑な笑みが浮かんだ。穏やかな容貌をしているだけに、一層の恐ろしさを覚え、男は気を飲んだ。
「そなたと共に行動していたものが他にいるか?」
 何事もなかったかのようにファラミアは問いを続ける。顔がそのままなだけに異様な雰囲気を帯びていた。
 男は頷いた。
「五人以上か?」
 応。
「では十人以上?」
 否。
「六人」
 否。
「七人」
 応。
「そなたは捕まった。そのことは彼らに知られただろうか?」
 応。
 ファラミアは部下に命じて地図を持ってこさせた。
「では、逃げたであろうな。集合地は決まっているか?」
 無言。
「答えよ」
「……」
「答えよ」
「……」
「では、仕方がない」
 ファラミアは立ち上がり、部下の一人を呼んだ。
「ダムロド、こやつの足の指の爪を一枚ずつ剥げ」
「は、承知いたしました」
 男はぎくりとしたように身を引いた。しかししっかりと縛られているので、それ以上抵抗することができなかった。
 ダムロドは足を掴み―ーすでに靴は脱がされていた――細いナイフの切っ先をまずは小指に差し込んだ。さほどの手ごたえもなくそれはやすやすと外れる。
 男は呻き声を堪えるように喉に力を入れた。ダムロドは次々と作業を続けた。四枚も外すと、赤くて細い筋が床に流れ出す。だが男はまだ我慢していた。最後の一枚。一番大きな親指の爪が嫌な音を立てて外れた。堪えきれなくなった男は脂汗を流しながら呻く。しかしそれは猿轡に阻まれて外までは聞こえない。汗ばんだ胸が大きく上下した。
「もう一度問う。集合場所はあるか?」
 応。
 ついに男は肯定した。
「場所は? 地図を見せよう。大体の位置を見てくれればいい」
 男が示した場所は、イシリアンの集落から外れた荒地だった。人の住まう場所の整備は徐々にされているが、まだそちらまでは手が回っていなかったのである。ファラミアは野伏の小隊に命じてそこを急襲するように命じた。
「では次の質問をしよう。兵の駐屯している場所だ。どこにいる?」
 彼らが単独で要人暗殺を考えたとは思えない。冥王消滅後も未だゴンドールに恭順しない者たちは大勢いるのだ。彼らはそのどこかの勢力に属しているはず。そしてこのような暴挙が露見しないはずはないのだ。ということは、近くに兵を潜ませており、ファラミアたちの混乱に乗じて襲撃してくるつもりだろう。
 男はこれにも抵抗した。
 ファラミアがようやく口を割らせることができたのは、二十分はゆうに過ぎてからのことである。
 全ての尋問が済んだファラミアは、ぐったりした男から猿轡を外すように命じた。聞きたいことはもう聞き終わったのだ。後は男の好きにさせるつもりである。恨み事を言いたければ言えばいい。自決をしたければそれも奴の勝手だ。暗殺者の中には、歯の中に毒を潜ませていることもあるのだとファラミアは知っていた。それも、舌が自由に動かなければどうしようもないことも。
 ファラミアはふと、自分の拳に男の血がついていることに気付いてハンカチで拭いた。このまま戻ってはエオウィンやロシリエルを怖がらせてしまうだろう。
「俺の家族は……」
 男はファラミアを見据えながら口を開いた。
「ゴンドール軍に何人も殺された。父も伯父も、兄弟たちもすべて。妻の家族もそうだ。母や姉たちは男手のなくなった家で苦労しながら俺たちの帰りを待っていた……。だが、帰り着いた者はほとんどいなかった」
 ファラミアはじっと男を見返す。
「もともとたいした家じゃなかった。風が吹けば飛ばされそうな古くてぼろい家だったよ。だが戦争が終わってからの悲惨は、その時以上だ。冥王軍は俺たちを優遇こそしなかったが、ひどい扱いはしなかった。だが、あんたたちは俺たちを犬ころのように追いたて、殺している。これがご立派な人間の王のやることか? 悪魔どもめ!」
 男は血の混じった唾を吐き捨てた。
「そうか」
「そうか、だと? それしか言うことがないのか!」
「では聞くが、そなたは何と言ってほしいというのだ? 我らの目の前で我らが愛している娘を殺そうとした、そなたに対して」
 ファラミアは激昂している男に対して、拍子抜けするほど淡々と答えていた。
「……」
「そなたの言うことはもっともだよ。だが、そなたらはエレスサール王が投降を呼びかけたのに従わなかった者たちだろう。そのお前たちと恭順を示した者たちを同じ慈悲の元に扱うわけには行かぬだろうよ。懐にいらぬ毒蛇を抱え込むことになるのだから。ついでに言えば、ゴンドールが投降した者たちにどのような報いを与えているかを知らぬなどとは言わせない。聞くが、我らは恭順を示したものたちに無慈悲な行いをしていただろうか?」
「……」
「家族を殺された、と言ったな。それがお前たちだけだとでも? ここにいるものの中で身内を亡くしていないものなど、一人もいない。例を挙げてみようか? 私にはつい先日迎えたばかりの妻以外、他に家族はいないのだよ。そして妻には、兄が一人残っただけ。そなたが傷つけた娘はローハンの世継の君との結婚が決まっていたが、彼は戦争の最中に亡くなられている」
「……俺たちはローハンを襲ってはいない」
「それがなんの理由になる? ゴンドールとローハンは同盟を結んでいる。そしてあの戦争の最中には、そなたたちの国は冥王軍に肩入れしていた他の国々と協力関係にあっただろう。我らとそなたらは敵だった。そして、そなたらは今でも我らの敵という位置にいることを選んでいるのだ」
 淡々と言葉で追い詰めるファラミアに、男ははき捨てた。
「……人殺しどもめ!」
「お互い様だ」
 ファラミアは男を真っ直ぐに見つめて、返す。
 男は唇を噛んで押し黙った。
 もう文句を言う気力がないらしいと、ファラミアは立ち去ろうとした。
「そなたたち、この者を交代で見張っているように。扱いはこれまでと同じだ。しかしここはヘンネス・アンヌーンではない。人目には充分注意するように。特に現在はうら若き乙女たちがいるのだからな」
 野伏たちは一斉に頷いた。ファラミアはふと呟く。
「イシリアンに早く堅固な牢獄を作らねばなるまいな。できれば館から少し離れていることが望ましい。妻が囚人の叫びを聞いてしまわないように」
 野伏たちは奇妙な表情になった。きっと、エオウィンは囚人など怖がらないとでも思っているのだろう。なにしろナズグルの首領を倒した姫なのだから。
「彼女は気丈だけれど、怖いものが何もないわけではないさ」
 ファラミアは微笑んだ。それがいつもの穏やかなものだったので、野伏たちは肩の力を抜いた。


 ファラミアは野伏たちと囚人を残し、一人で館に向かっていった。
 ここで得た情報を元に、残党狩りを行わねばならない。
 国王に報告するとともに、すぐさま軍の編成をしなければならないだろう。敵の勢力はイシリアンにいるファラミアの兵と、ローハン、アムロスの随員たる精鋭たちを持ってすれば充分すぎるほどだから、援軍は必要ない。
 そこまで考えると、ファラミアは毒矢に倒れた少女を思い浮かべた。
 毒は難しいものではなかった。館にある薬草でなんとかできるだろう。
 だが……。
 ファラミアは顔を手で覆うと、近くの木の幹に倒れ掛かった。
(なんて薄情な人間なのだ、私は……!)
 ファラミアは暗殺者の狙いが無差別であったと聞いたとき、射られたのがあの娘でよかった、ととっさに思ったのだ。
 もしも倒れたのが妻であったら……大事な従兄妹たちであったら……同盟国の王エオメルであったら……。
 ゴンドールやローハン、それに自分自身に与えられた衝撃は今とは比べ物にならなかっただろう。偶然のこととはいえ、あの場で最も『重要でない』存在が倒れたことによって、それ以上に大きな災厄を防ぐことができた。
 だが……。
(私がこのようなことを考えていると知ったら、エオウィンはきっと私を軽蔑するだろう)
 だから、なんとしてでも隠し通さなければならなかった。
 永遠に。

 さっそく夫婦の間に秘密を持ってしまった、とファラミアはわざとらしく自嘲すると、疲れた身体を引きずって館へ戻っていった。




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