ふっとメリーの口から白い煙が昇った。
「僕はこう思うんだよ」
パイプをもう一度くわえ、じっくり味わう。
彼は、見晴らしのいい高台に立っていた。太陽が天頂に近づき、煌々とホビット庄を照らしている。メリーの足元には短い真っ黒な影があった。
彼の目はまっすぐ前に向けられていた。その先には、古び、にじんだ線のようになった道がある。
メリーはパイプを下ろした。また、息を吐く。
今度は丸くなるように、唇を尖らせながら。
ドーナツのような輪っかは、風に吹かれてすぐに形を崩した。
彼はそれが消え去るのを黙って見送ると、小さな声で呟いた。
「あんたは大馬鹿だって」
第三紀三〇一九年、あるいはホビット庄歴一四一九年の秋のことだ。
幸いなことにメリーたちは一年以上前にホビット庄を出て行ったのと同じ人数で――辛い目にあったり、怖い目にあったり、色々珍しいものを見たりはしたけれど――故郷へ戻ってきた。
だがそこは、メリーのよく知っていた庄ではなくなっていたのだ。
予兆は、ホビット庄へたどり着く前からあった。ブリー村も、ずいぶんと様変わりをしていたからだ。
陽気なホビットの衆と、よく耕された畑、それに丁寧に手入れされている家といったものがほぼ、所によってはまったく、失われていたのだ。
ホビットたちはびくびくとしているか、殊更自分を尊大な風に見せている。もっとも、後者に関しては、四人のホビットたちは鼻で笑ったが。
特にメリーとピピンはそうだった。エントの飲み物を飲んで、ホビットの中では極めて大柄になっていたし、その上何十マイルも馬に乗ったり(乗せられたことの方が多かったかもしれないが)、大きい人たちよりも尚大きな敵と戦ったりしたせいで、虚仮脅しなどなんとも思わなかったからだ。
だが事は、メリーが想像していたよりも重大だった。
ホビット庄は、メリーたちが出発したあとに訪れた、柄の悪い人間たちの手によって滅茶苦茶にされていたのだ。その滅茶苦茶にした者の中には、仲間よりも偉くなりたいという浅ましい願いから人間に手を貸したホビットも混じっていたのだが。
ホビットの衆は、虐げられていた。食べ物も飲み物もあらかた奪われ、細々とした規則にがんじがらめにされていた。大きい人たちは自分たちのために、そこいらから木を切り出して、ぶかっこうで住み心地の悪そうな、醜い家をたくさん建てた。
諸悪の根源は、どうやら「お頭」と呼ばれるようになった、ロソ・サックビル=バギンズだと聞かされた。ロソの父方の祖父と、ビルボの父親は兄弟だった。そしてフロドからすれば父方の曽祖父とロソの曽祖父が兄弟だった。親類ではあったが、ビルボもフロドも、彼らの一家とは仲が悪かったのだ。
ロソは袋小路屋敷に住んでいるということだった。言われるまでもなくそうだろうと、メリーは思った。そこはフロドが出発するにあたって、ロソの母であるロベリアに売ったのだ。庄の中でも五指に入るほどの、綺麗で立派な家から、あいつがわざわざ離れるはずがないと考えた。
ところが、どうやらロソの後ろには黒幕がいることがわかったのだ。そいつはシャーキーと呼ばれ、どうやら大きい人の仲間のようだった。少なくとも、ホビットではないということだけはわかった。
ホビット庄の場所を教えたのも、ここで好き勝手に振舞っていいと言ったのも――といっても、シャーキーの命令にだけは絶対従わなければならないけれども――どうやらそいつのようだった。
メリーたちは怒った。
ホビットは好戦的な性質ではないし、仲間同士で戦ったこともなかったのだが、意気地なしではない。ましてや、魔法使いやエルフやドワーフや、立派な性質の人間とも一緒にいて、戦い方や作戦の立て方を覚えた彼らにとっては、ここで立ち上がらないでいつ立ち上がるのだという思いに駆られた。
メリーは角笛を吹き鳴らした。それは、功と友情の証に、彼の王であるエオメルがくれたものだった。
角笛の音はホビット庄中に広まって、たくさんのホビットを集めた。トゥックの一族は彼らの大スミアルに立てこもり、ごろつき共に抵抗していると聞いたピピンは大喜びで出かけていった。一族で連隊を作って、馳せ参じるためにだ。
その日のうちに、メリーたちはいく人かのごろつきをやっつけた。あくまでも向かって来る者は容赦なく殺し、意気地をなくして降参した者は、武器を奪って手足を縛り、監視をつけて閉じこめた。
次の日にはホビット庄の歴史に残る戦いが行われた。敵は、掴まった者よりも死んだ者の方が多かった。そしてホビットたちからも死者が出た。
ロソはフロドもビルボも好いてはいなかった。その腹いせか、ホビット庄の中でも、特に目茶目茶にされたのは、袋小路屋敷のあるあたりだった。そこは、邪魔なものも邪魔でないものも、皆焼かれたり壊されたり汚されたりしていた。
ビルボの誕生祝いの木も切られていた。涙を流しながら叫んだサムの声は、胸を締め付けるほど痛々しいものだった。
メリーたちは四人並んで、袋小路屋敷へ向かった。彼らの少し後ろには、ホビット庄の家という家から集まっていたホビットたちが見守っていた。
扉を何度も叩くが、返答はない。
彼らの聞いた話では、ここにはロソだけではなく、シャーキーも住んでいるということだった。
だが、一向に返答はなかった。
埒が明かないので、メリーは叫んだ。
「どうしても出てきたくないっていうなら、僕が引きずり出してやる! ドアを壊してな!」
それでもやっぱり返事はなかった。
そこでメリーはピピンを協力して蝶番を壊した。
家の中も滅茶苦茶だった。
ビルボが一人で暮していたときでも、地図や本や、書きかけの色々なもので散らかっているという印象だったし、フロドが住んでいたときでもやはり似たようなものだった。
だが、その時の袋小路屋敷は、一度出されたものは全然元には戻されず、またゴミも放置したままで、窓も真鍮の取っ手も磨かれないまま曇り、床は泥や埃だらけだった。そして汚れきったものからは、嫌な臭いが漂っていた。
「こりゃ、モルドールよりひどい!」
屋敷を覗き込んだサムは、そう言って顔をしかめた。メリーはモルドールの中に入ったことはなかったが、その気持ちはよくわかった。モルドールはひどいところだろうが、愛している場所が無残にさらされたのを見るのは、どんな衝撃にも勝るものだ。
メリーたちは、部屋をひとつひとつ、確かめていった。
しかし最後に入った食糧貯蔵庫で、ようやく目的の人物をみつけた。
そこは、ビルボの形見分けの日におしかけてきた少年たちが壁を掘ったところの一つで、ここを掘っていたのはサンチョという青年だった。彼らが熱心に袋小路屋敷をこっそり捜索していたのは、まことしやかに囁かれていたビルボの金を見つけるためだった。フロドは彼を追い出すのにとっくみあいをしなければならなかった。
その時の穴はまだ残ったままで、腐ったり干からびたりした食べ物のくずが一杯に詰まっていた。貯蔵庫の隅では、これまた汚い毛布をかぶったロソが――顔を隠してはいたが、大きさからしてホビットだとわかったからだ――ぶるぶる震えている。
ピピンはつかつかと近付くと、少しも脅えた風も見せずに毛布を剥ぎ取った。
その途端、金切り声がして、ロソが転がった。
「やあ、ロソ。こんなところでこんな風に再会するなんて、思ってもみなかったよ」
ピピンは皮肉気に笑った。
「ところで、シャーキーって奴はどうしたんだい? ぼくたちはそいつにも会いたいんだけど。もしかして、君を置いて逃げちゃったのかい?」
と彼は肩をすくめた。
ロソは無言のまま、ぶるぶると頭を振った。
ここで、フロドが前に立った。ホビット庄に入って以来、彼はずっと口数が少なく、そして静かになっていた。今回も、彼は悲しげと言ってもよいほど、静かな口調で言った。
「返事をするんだ、ロソ。もしも口を利きたくないのであれば、シャーキーのところへ案内してくれればいい」
それでもロソは壊れた人形のように首を振るだけだった。埃と垢で汚れた顔には、涙の跡が筋となって残っていた。
「そんな風に馬鹿みたいに首を振るのはよしてくれ。お前にもとっくりと話を聞かせてもらうけれども、僕たちはまずお前のろくでもない相棒を見つけないといけないんだから。ホビット庄をこんな風にしたやつがどこかでのさばっているかと思うと反吐が出るったら!」
メリーが一気に言うと、ようやくロソはもどもごと口を動かしました。
「……い」
「なんだって?」
よく聞き取れなかったので、メリーは聞き返した。
「シャーキー様はいない。……消えた」
「どういうことだ?」
四人の口からは、同じ言葉が飛び出てきた。
消えたというのは、死んだということらしい。
らしい、としか言いない、とメリーは思った。途切れ途切れのロソの話を組み合わせると、大体こういうことのようだった。
シャーキーというのは、サルマンのことだった。
まだメリーたちがホビット庄にいた頃から、ロソはこの魔法使いにパイプ草を売っていた。そのうち他の物資まで派手に売るようになり、その代金でホビット庄の土地や建物――例えばビール醸造所や農場やタバコ栽培所だ――を買い占めていった。
そのうちサルマンのごろつきたちがやってくると、彼らに『新しい技術』を教えてもらえるようになったのだ。
ロソは彼らに好きに作らせたりその材料や費用をふんだくらせたりした。ロソはサルマンと密約を結んでいたから、サルマンのいない間は、人間たちが何人いても、ホビット庄で一番偉いのはロソだと、認識させていたのだ。
そして二ヶ月ほど前、サルマンがやってきた。手下のグリマを連れて。
彼らは落ちぶれて、ひどくやつれていた。だがサルマンにはまだ魔法の力が残っていた。少なくともロソはそう思っていた。彼の声を聞いていると、自分がひどくちっぽけな存在に思えて、とても怖かった。しかしサルマンが自分を気に入っているので、他のホビット連中とは違って、サルマンに大事にされていると思い込んでいた。
だが、それもしばらく前に違うのだと悟った。
一週間か、もう少し前、ロソはサルマンとグリマの会話を聞いてしまった。それはもう後はベッドに入って眠ってしまうだけ、という頃だった。ロソは少しお腹がすいてしまったので、寝る前に少し夜食を取ろうと食料庫に向かった。そのときサルマンの部屋の前を通り――サルマンはそれまでロソが使っていた一番良い寝室を取り上げていた。そしてその一番良い寝室は、ロソの前には母のロベリアが、その前にはフロド、さらにその前にはビルボが使っていた部屋だった――そこでとてもひどいことを聞いた。
サルマンはグリマにロソを殺してしまえと言っていたのだ。恐ろしくなったロソはその場から動けず――動くとサルマンに見つかってしまうかもしれないと思ったのだそうだ――かといって逃げないわけにもいかず、どうしようかと真っ青になった。
グリマは最初、何も言わなかった。ロソは、彼はサルマンの手下なので、言うことを聞いて自分を殺しに来るのだと震えた。グリマは他の人間よりもずっと小柄だったが、ホビットのロソよりはやはり大きかったので、とても敵うまいと思った。
しかし、沈黙のあと、グリマは嫌だと言ったのだ。ロソが聞いたという台詞はこんな感じだった。
「もう嫌だ……! だますのも、殺すのも、放浪するのも飽き飽きだ! とりわけサルマン、あんたの命令を聞くことが!」
その声はぶるぶると震え、時々ひどく聞き取りづらかったそうだ。彼は怒りながら震え、脅えながら怒鳴っていたみたいだったそうだ。
その返答にサルマンは怒って、グリマをひどく罵った。それに対してグリマも言い返す。
なんだ、やればできるんじゃないか、とメリーは思ってしまった。自分は少しも同意できないが、それでもセオデンやはグリマにやり直すチャンスを与えようとしていた。グリマ本人の臆病のせいで実現しなかったが。
しばらく言い合いが続いたが、ふいに寝室のドアが開けられた。外に出ようとしたサルマンは、そこにちっちゃくなって震えていたロソを見出して、にたりと笑った。
「これはこれは、ロソ殿」
その時のサルマンの声は、この上なく慈悲深く聞こえたそうだ。気持ちの悪いくらい優しい響きでロソを招き寄せたが、その目は少しも笑ってはいなかった。
そして後ろを振り返り、無常な命令を下した。
「くだらんおしゃべりは終わりだ。グリマ、さっさと命令を実行しろ。せっかくロソ殿がおいでくださったのだからな」
グリマは動かなかった。それで、サルマンは杖を振り上げてグリマを殴った。
「こんなことをしたって、なんにもならない!あいつらはもう明日にだって戻ってくるんだ」
『あいつら』というのがメリーたちのことだとは、その時のロソにはわからなかった。
「いつまでも寄り道をしているわけがない。戻ってきたら故郷があんな有り様になっていることに怒って、今度は私たちが殺されるんだ!」
サルマンはさらに怒って血が出るくらいにグリマを殴った。
「それがどうした!」と叫びながら。
「そんなにやりたければ自分でやれ」とグリマは言い返した。
「ふん、蛇が蛇を殺すことに躊躇するのか、馬鹿者め!」
言われると、グリマはぶるりと身体を振るわせた。
「蛇、蛇ですって!」
「そうだろう、グリマ。お前は蛇だ。誰からもそう呼ばれているではないか。ここにももう一匹蛇がおる。こそこそとねじけているちっぽけな蛇だ。しかしこの蛇はこのままではお前以上に大きなことを成すぞ。お前は、王の代わりに言葉を発していただけだが、こやつは金と暴力とで、他のちびどもの上に君臨したのだからな」
サルマンが言っている間、グリマは強く唇を噛んでいた。あんまり強く噛んでいたものだから、血が流れたほどだった。
「だが、わしにはこのちび蛇はもういらぬ。ここの主はわしだ。あの殿様気取りの連中が戻ってきた暁には、偉大な魔法使いが己が故郷を統治している様を見て、さぞかし絶望することだろう。それこそ、わしの、奴らにしてやれる復讐だ!」
グリマは何も言わなかった。
「やれ」
サルマンは言葉少なく、最後通牒という様子で命令した。
グリマは服の中から短剣を取り出すと、憎しみの炎で燃えている目でゆっくりと歩き出した。
だが、刺されたのは、ロソではなかった。
グリマは歩く途中で向きを変えると、サルマンに飛び掛っていった。そして魔法使いが振り払う暇も与えないまま、喉首をかききった。
どうと倒れたサルマンを見下ろしながら、グリマは肩を上下させていた。
驚いたことに、サルマンの亡骸からは灰色の靄のようなものが立ち上り、弱弱しい老人の形になった。しかしそれも、屋敷の中を流れるわずかな風に吹かれて、ゆっくりと消えていった。
かたん、という音とともに、グリマの手からは短剣が落ちる。
致命傷を受けた後に、こんな風になるのは見たことがないが、助かったのだという思いがロソの胸に起こった。
「あ、ありがとう、グリマ殿」
ようやく口が利けるようになるとそう言った。だけど内心では困ったことになったと思っていた。
ごろつきはサルマンが統治していたのだ。ホビットの自分ではサルマン以上に偉いのだ、などと言っても彼らは言うことを聞かないだろう。それよりも、サルマンはどうしたと詰め寄ってくるに違いない。魔法使いの死を隠すにしても、隠しておける期間はあまりないと考えるべきだ。
しかし、グリマが協力してくれればどうだろう。
彼はサルマンほどではないが、頭が良い。ごろつきどもを言いくるめることはできるだろう。御礼に、分け前をあげれば守ってもらえるのではないか。
グリマはそれまで、ロソのことなど少しも見ていなかった。サルマンから離れたときと同じ姿勢で、じっと床に視線を落としたままだった。
「グリマ殿、大変なことになってしまいましたね。でも、私をお助けくださり、とても感謝していますよ。シャーキー様はこう申し上げてはなんですが、大そうな威張りちらしやでしたからね」
そしてさっき考えたことをなるべく丁寧に、そしてそれがグリマの利益にもなるのだというように聞こえるようにしゃべった。
「言いたいことは、それだけか?」
ロソが話し終わると、ようやくそうとだけグリマが言った。
「え、ええ。お気に入りませんか?」
ひどくへりくだった態度で、ロソは言った。床に頭をこすり付けてでも、グリマには引き受けてもらわないと困るからだ。
グリマは、唇を歪ませて笑った。
その声は獣の咆哮のようだった。目は血走り、手はわなないて、まるで狂ってしまったみたいだった。
彼はそうして笑い続けると、突然ぴたりと止め、ロソを睨みつけた。
そして胸倉をつかんで壁に押し付ける。間近に迫った顔は憎しみに満ちていた。
「情けをかけられたと思っているのか、馬鹿め!」
グリマははき捨て、ロソは情けない悲鳴を上げた。
「お前は、苦しむのだ。これから、死ぬまでの間、苦しんで苦しんで、救いも許しもないことに、絶望するのだ!」
彼が何を言っているのか、その時のロソには全然わからなかった。
「もうじき、あいつらが帰ってくる。誰だかわからないのか! フロド・バギンズだ。サム・ギャムジーだ。メリー・ブランディバックとピピン・トゥックもだ」
「あいつらが帰ってくるわけがねえよ。あいつらは死んじまったって、みんなが言ってる!」
「生きているんだ、馬鹿者。それも、出て行ったときよりも立派になってな。そうだ、立派にだ。お前とはまるで反対だ」
ロソはグリマが本当に狂ったのだと思った。一年以上も行方不明になっているフロドたちが生きているなんて信じられないことだったし、その彼らが立派になっているなど、想像もできなかのだ。だけどグリマの目は真剣で、彼と話しているのが怖くなってきた。
「ええ、あなたが言うのでしたらそうなのかもしれませんね。でもだからといって、それがどうしたというんです。あいつらが戻ってきたら、庄察のやつらが捕まえるでしょう。規則の一つか二つでも破ってくれたらしめたもんです。留置穴に放り込んでやります」
「庄察? 留置穴? そんなものが役に立つと本当に思っているのなら、お前は大間抜けだ。あいつらはホビット庄を取り戻すだろう。お前は裁かれるだろう。速やかに殺してもらえそうならば、やつらに感謝するのだな。もっとも、その可能性は低いと思うがね」
「どうしてそんなに恐ろしいことを言うのです。何がお気に触るのですか? いけないところがあるのなら改めますから……」
「元に戻れると思うか? お前はこんなことをする前から、ホビット連中からは好かれていなかった。そして今では憎まれている。元に戻れると思うか? なるわけがない! すべて壊れたんだ。お前が壊したんだ! ……わからないという顔をしているな。いずれわかる。それほど遠くないうちに。あいつらは帰ってくる。明日か、明後日か知らないが。そうして全てが終われば、お前は今日、眠っている間に私に殺されていれば良かったと思うようになるだろう!」
そう言うとグリマは袋小路屋敷を飛び出していった。それ以来、彼の姿は見ていない。どこか他所に行ったのだと思う。ごろつきはグリマの顔を知っているし、サルマンの一の手下だと思っているから、彼が夜に出て行っても、誰も止めないと思う。
そして話の締めくくりに、ロソはこう言った。
「俺は殺されるのかい、フロド」
フロドは首を振った。
「いいや。僕は例え相手がごろつきだろうと、殺すことは望まないよ」
ロソは、これまでになく打ちひしがれたようになって、顔を伏せた。
グリマが見つかったのは、翌日だった。
ホビット庄の大掃除と、ごろつき共が全員いなくなったかを確かめなくてはならなくて、庄全体が大わらわな時だった。
フロドとサムは片付け組みの指揮を執るために女子供、年寄りたちと残り、メリーとピピンはごろつき探しをするために、庄を歩き回った。
昼を過ぎて、メリーは南を回っている一隊から呼ばれた。ピピンよりも自分の方が近かっただけだが、メリーは呼ばれたのが自分でよかったと、その時思った。
人間の死体があった、と発見した隊長が言った。死んでからまだ日が経っていない感じだが、傷もないのでごろつきの仲間なのかよくわからないと、困惑したように言った。
メリーはブリー村で聞かされていたが、住み地からずっと北上してきた人間のなかには、戦乱から逃げ出してきただけの難民もいる。それだとしたら、ごろつきと同じ扱いをするのはよくあるまいというのが隊長の言い分だった。
それを聞いてメリーは検分をしにすぐに出かけた。
そして現地に着き、死体の顔を検めたメリーは呻いた。その顔には覚えがあった。
「グリマじゃないか。どうしてこんなところで死んでいるんだ」
そこは、サルンの浅瀬へ向かう道から外れた林の中だった。一本のぶなの根元に、彼は身を縮めるようにして横たわっていた。
生きていた時に最後に会った時よりも、もっとやつれ果て、顔は苦悶でひきつれていた。苦しみから逃れようとしたのか、手の置いてあるところの土には、筋がいくつもできていた。何度も何度も、掻き毟ったのだろう。
「随分前に逃げ出したはずだ。彼はここで何をしていたんだ? どこかもっと遠いところへ逃げたか、覚悟を決めてローハンに帰ったのだとばかり……」
そこまで言って、メリーは気付いた。サルンの浅瀬に続くあの道は、さらに南に下ってゆくとローハンに続いてゆくのだ。
「帰れなかったんだな、お前……」
メリーの頭に、ロソとグリマの話が思い出された。
あの言葉は、すべて自分に対して言っていたのだ。
「殺されたかったのか?」
罪の意識から、同胞からの冷たい眼差しや軽蔑から、すべての苦しみから逃れるために。
メリーはむっつりと黙って腕を組んだ。
こうなったのも自業自得だ。この男は同胞を裏切り、国王を操り人形にし、ローハンにとって必要だった人員を何人も殺したのだ。
こうして野垂れ死んだのも、自分の招いたことなのだ。昨日殺したごろつきが束になったって、この男のあくどさには敵うまい。
(だけど、王様だったらどうするだろうか、この男に対して……)
他の人間はともかく、グリマはローハンの者だ。そして自分はローハンの騎士ホルドヴィネなので、できることならエオメルが良いと思うようにしてやりたい。
エオメルはグリマを憎んでいた。それは、そのことで直接話してはいない自分でもわかるくらいだった。
だが、セオデン王はやりなおす機会を与えようとした。エオメルはセオデン王をとても尊敬している。そして、レオフォスト姫もその考えに賛成のようだった。彼女の婚約者はグリマに殺されたようなものなのに。
だから、メリーは自分のムカムカする気持ちを一端棚上げして冷静に考えようと思った。
そして、きちんと埋葬をすることに決めた。
埋葬するに当たって、何か形見になるようなものはないかを探した。しかしポケットには何も入っていなかった。なので髪を一房切ろうかと剣を取り出したメリーは、ふとグリマの手が胸元で握りしめる格好になっていることに気付いた。
手の下を服越しに押してみると、カサカサと乾いた音がした。メリーは手伝ってもらってそれを取り出す。それは油紙に包まれた薄い包みだった。
そっと開けてみると、中からは黒く汚れた布切れが出てきた。
「何だい、これは。大事そうに持っているから宝の地図かと思ったよ」
ホビットの一人が冗談めかしていったので、メリー以外のホビットたちはどっと笑った。
メリーは広げた布をためつすがめつして眺め、どこかで見たことがあるのにと、首をひねった。
「あっ! これは……!」
メリーは布の端っこに、刺繍がしてあることに気がついた。その刺繍も、やはり黒い汚れで染まってしまっているが、花文字で記された頭文字であることに気がついた。
そして再びよく布地を眺めてみる。
「これはお姫様のハンカチだ!」
「どこのお姫様だね、メリー坊ちゃん」
急に叫んだメリーに、ホビットたちは笑うのをやめた。
メリーはそのハンカチをよくよく眺めたことがあるわけではない。だが他に考えられなかった。
これはがサルマンに会った時にけしかけた鷲を作ったハンカチだ。黒いのは血だ。古くなったので、色が変わったのだ。術を解いた時に、空を切り取るように白く小さいものが塔の上でひらひらしていたのを、メリーは覚えている。
「ずっと持っていたのか……」
他のものを何にもなくしても。
「馬鹿だな、あんた……」
それから半年以上が経った。
ホビット庄につけられた傷跡は日々失われ、素晴らしい天気が今年の豊作を約束するかのように注がれていた。
村は活気を取り戻した。
サムはローズと結婚し、袋小路屋敷へと移った。メリーはバック郷から堀窪に住まいを移した。そのうちバック郷に戻るだろうが、なんとなくまだ大勢で暮す気にはなれなかった。堀窪の家にはピピンもいる。彼も自分と同じ気持ちなのだ。
だが、住み家を変えた以上に、自分は変わってしまった。のらくらとのん気で陽気なだけのホビットではなくなったのだ。
メリーは自分がフロドほどではないが、一人でじっくりと物事を考えることを好むようになってきたことに気づいていた。
そして気が向いたときには南の方まで足を伸ばして、こうして誰も来ない高台でパイプ草を吸っている。
高台は南を向いており、よく日が当たっていた。それで丈の高い草もたくさん生えている。
土も肥えているようで、働き者のホビットならば放っておかないような場所ではあるのだが、やはり放っておかれるにはそうされるだけの欠点がある。
高台は、畑にするにはちょっとばかり傾斜がきついのだ。だが、その代わり眺めはとても良い。
メリーはパイプに残った灰を捨て、新しい葉を詰めた。
彼の隣には誰もいない。しかし、土はわずかに盛り上がっていて、旺盛に茂る草を寄せ付けないように石が置かれてあった。
メリーの口から、煙が昇った。
「あんたは大馬鹿だよ。どこにいたって裏切りの苦しみからは逃れられやしないんだ」
そしてちらりと横に目をやった。もの言わぬ石には、ただ草の陰が落ちるだけだった。
「どこにいたって苦しいのなら、せめて自分の居たいところに居れば良かったんじゃないかと、僕は思うよ」
グリマの残したハンカチは、マントや鎧や馬具、旅の間に得た大事な品々と一緒に、タンスの中に眠っている。
いつか、自分は再びローハンへ行くことになるだろう。騎士は、王が望めば、いついかなるときでも駆けつけるものだ。
(そのときは一緒に連れてってやるよ。お姫様は、あんたの形見を受け取ってくれると思う……)
メリーは再び南に目を向けて細めた。夏が近付き、濃くなった緑がどこまでも続いている。
そしてその先に、ローハンはあるのだ。
あとがきは反転で↓
前回の「決着のひとつ」の続き、というか、私としては今回と合わせて本編に入れたかった話でした。
(ただ、どっちも舞台になってるのがもうローハンじゃないし、エオメルもヒロインも直接登場しないので番外という形になったのですが)
グリマは原作では、最後まで改心しない小悪党として、そして映画では改心するチャンスがなかった(というかレゴラスがあっさり潰した/苦笑)ので、私は私なりに決着をつけさせなければないという妙な義務感を発揮したのでした^^;
つか、ローハン夢書いているうちに、グリマにも愛着が出てしまいまして、ただの小悪党として死なせたくなかったんですよ。
だからといって、ローハンに留まられても困るとは思ってましたけどね。
彼の原作での末路は惨めなものでしたし、私の扱いもまあひでーもんだと思いますけれど、だからといってそれで簡単に同情していいものではないと思いますし。そんなことしたら、誠実に王に仕えていたほかの家臣団や、彼の裏切りのせいで死んだ人びと(セオドレド含む)や苦しんだ人々(エオメル含む)の立つ瀬がないじゃありませんか。
そういうわけで、色々考えた結果、ああいう話になってしまいました。
後味悪ー、と感じたかた、ごめんなさい…。
けど、これが私の精一杯でした。
とりあえず、これを書けてすっきり♪しました。
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