「ゆゆしきじたいだわ!」
子供部屋へ駆け込んできたシンクは、開口一番にそう言った。
「……ゆゆ?」
きょとんと首を傾げたのは上の妹のメドゥーナだ。二歳年下の彼女は、姉が言った言葉の意味がわからずにいる。
「それは、えーと、とてもたいへんだということよ」
したり顔でシンクは妹に説明した。しかし本当は、以前父親がそう言っていたのを聞いたことがあるだけで――これが正しい使い方なのかどうか確信はなかった。
「なにがたいへんなの、ねえさま?」
「わたくし、気づいてしまったの。このままではとてもこまることになるのよ。わたくしたちだけではなく、マークのすべてのひとが」
「どうして?」
ますます首を傾げて、妹は問うた。
「だって、私たちにはお兄さまも弟もいないのだもの」
「それが、たいへん?」
「そうよ」
意気込んだシンクは小さな拳をぎゅっと握りしめた。
黄金館の広間は、大事な式典や会議などがない場合に限り、広く解放されていた。とはいっても、それは騎士やその身内などの身分あるものに限るのだが。
黄金館が我が家であるシンクにとっては、そこは遊び場所でもある。子供だけの遊びに飽きるとそこへ行き、大人たちに構われることもよくあった。
そこでは、様々な会話が交わされる。
最近の天気から、国の内外の情報、馬のこと、戦いのこと、それに、誰かの噂話……。
シンクを子供部屋へ駆け込ませるきっかけとなったのは、ある騎士と家族の話だった。
その騎士をシンクは知らなかったが、エドラスに住んでいた男だったらしい。だった、というのは、その騎士は急な病で死んでしまったからだ。
残された家族は、妻とまだ幼い娘で、男の両親はすでに亡くなっているということだ。
小なりとはいえ、代々続く騎士の家柄がここで絶えることになったと、シンクに話して聞かせた騎士は残念そうに言った。
どうしてたえてしまうのか、とシンクは聞いた。
彼女はすでにエオル王家歴代の王とその功績などについて、ざっと教わっていた。直系の子孫がいなくなってしまったのはシンクの家系にもあったことで、その場合は兄弟姉妹の子が後を継ぐものだということを知っている。
「兄弟も姉妹もいないのですよ」
騎士はそう答えた。遠い親戚ならいるが、その親戚は騎士ではない。正式な騎士になれるのは、まずは騎士の家柄に生まれ、さらに厳しい訓練を経て任命されるものなのだ。そのため、家系を継いだだけの「にわか騎士」をマークは認めない。それは結果として国を弱らせてしまうものだと忌避されているからだ。
それならば、そのきしのむすめがどこかのきしとけっこんすればいい、とシンクは提案した。
女の子らしい発想ですね、と男は笑ったが、それでもその娘は夫の騎士の家系に組み込まれるだけで、生家を復興することはできないのだ、と言った。
男の子を二人生んだとしても?とシンクはさらに言った。
二人でも三人でも、無理です、と男は答えた。
「そういうわけなの、ね、わかったでしょ?」
「うちも男の子がいないから、かけいがだんぜつしてしまうかもしれない、ということ?」
一生懸命姉が話したことを理解しようとしているらしいメドゥーナは、たどたどしく言った。
「そうよ。ね、たいへんでしょ。王さまがいなくなったら、このくにはどうなってしまうのかしら……」
大人びた話し方をしようと一生懸命になっている少女だがは、やはり口調は年相応に幼い。そしてしかめられた眉も、本人の意に反して深刻そうには見えなかった。
「でも」
メドゥーナは、姉の大騒ぎに納得できないように反論する。
「ちちうえにはしまいがいるわ。いとこのエルボロンがこっちへきておういをおつぎになればいいのよ」
「なにいっているの、そんなことできるわけないじゃない」
シンクはちょっと馬鹿にしたような口調で言い返した。メドゥーナは、物語を聞いたり本を読んだりするのが好きな物静かな少女で、ひょっとすると自分よりも頭がいいのかもしれないとシンクは思うこともあったが、今はやはり自分の方がお姉さんなのだと考えた。なぜなら彼女は肝心なことがわかっていないのだから。
「エルボロンはイシリアン大公になるのだから、マークの王さまにはなれないわよ」
「そんなこと、エルボロンがきめたわけじゃないでしょ」
二人とも必死で自分の言い分を相手に認めさせようとしていたが、実のところ、二人とも従兄のエルボロンにはまだ会ったことがなかったのだ。彼はシンクよりも数ヶ月年上なだけの子供なので、マークまで来ることができないのだ。あまりにも遠すぎるので。
エルボロンを持ち出すのに限界が来たメドゥーナは、別の方向から反論を試みた。
「それでもあねうえはしんぱいのしすぎだとおもうわ。これからおとうとができるかもしれないじゃない。ははうえはすごくおわかいって、みんないっているもの」
「それは、そうだけど……」
シンクは口ごもった。
母のレオフォストは、実際の年齢よりも若く見えるとよく言われていた。後五年もしたら、シンクたちとは姉妹にしか見えなくなるのではないか、と言い出す者までいるほどだ。母は母なのに、十五歳になった自分と同じくらいにしか見えないなんて、とシンクはあまり嬉しくない気持ちでその話を聞いたものだ。
もっともそれはレオフォストがどこかよその国の生まれであるせいだということはシンクにもわかっていることで――顔立ちや肌の色が全然違うのだ――母のせいではないのだが。
そしてその母は昨年、妹を産んだ。シンクの周りを見渡しても、今の父と母より年上でも子供ができた夫婦はたくさんいるので、確かにこれから先でも子供が産まれる可能性はあるだろう。
「でも、男の子がうまれるとはかぎらないわよ」
また女の子かもしれないのだ。
メドゥーナもそれを認めて黙り込む。そして心配そうに姉を見やった。
「そうしたら、どうなるの?」
「だから、こまったことになると言っているじゃない」
「別のひとがおうさまになるのかしら?」
「そうかもね。でも、王家でもないのに王さまになるなんて、できるのかしら」
それはシンクの知っている限りではありえないことだった。だからこそ一層不安は深まる。
『そうしたら、どうなるの?』
妹の問いが木霊する。
どうなるのだろう。
マークは、そして、自分たちは……。
マーク第十八代国王エオメルは、歴代国王の行ってきた慣習に則り、午前中に謁見の時間を設けていた。多忙なためあちらこちらへ動き回る彼と確実に話ができるのは、この時くらいのものである。
シンクはちょこちょこと広間に進み出ると、王との謁見を待つ人々の最後尾に並んだ。
王女の行動に、居合わせた人びとは面白そうな、興味深そうな顔を向ける。何か新しい遊びを考えたのだと思ったのだ。
辛抱強く待っていると、とうとうシンクの前にいた男の話が終った。ところが、彼女が前へ進み出ようとする前に、父は立ち上がろうとしていたのだ。
「シンク、どうしたんだ?」
彼女に気がついたエオメルは太陽の如き陽気さで娘に微笑みかけた。
「父上」
「何か用事があったのか? 早く声をかけてくれれば良かったものを……」
シンクはふるふると首を振った。
「だめよ、父上。えっけんの時間は、はやうまのししゃでもないかぎり、だれであろうともうしこんだじゅんばんどおりにすすめる、わりこみはしてはいけないとおっしゃっていたではありませんか」
エオメルは片方の眉をあげた。
「では、お前は私に謁見を申し込みに来たというのか?」
からかうように彼は言ったのだが、シンクは生真面目な顔で「はい」と言った。
「そうか……」
娘の本気を理解したエオメルは、国王らしい表情になった。エオメルに、父ではなく王として奏上したいことがあるらしい。そうは言っても、その内容はきっとたわいないものだろうが。
エオメルは玉座に座りなおした。
「では、聞こう。一体どのような話なのかな?」
「父上、わたくしはけんをならいたいのです」
シンクは勢い込んで口を開いた。
「剣?」
エオメルは目を丸くする。
「そうです。そしてエオウィンおばさまみたいにつよくなって、父上のおやくにたちたいのです!」
これがシンクの出した結論だった。兄弟がいないのならば、エオル王家は自分が継ぐのだと。
マークでは女王が立った例はないし、シンクに家系断絶の話をした騎士も、女では結婚しても夫の家系になるばかりだと言った。
だが、シンクはただの騎士の娘ではない。騎士にして王の娘なのだ。国を守る義務は自分にもある。
もし女王になるのが反対されても、自分か妹たちの誰かが将来男の子を産むだろうから、その子が王になれば良いのだ。国王がいなくなるかという瀬戸際で、民は娘が家を継ぐことに反対するだろうか。女の王よりも、現王の孫よりも、成り上がりの国王を選ぶというのだろうか。
そんなことはないはずだ、とシンクは思った。
だが、どうなるにしてもマークは騎士の国だ。強くなければ、民を守ることなどできない。
強くなるのだ、まずはこの自分が。
「剣か……」
エオメルは顎に手を当てて難しい表情になった。
「まさか、お許しになるのではないでしょうな、陛下」
「もう戦時ではないのですぞ。姫様が剣を覚えなければならない、切迫した理由などございません」
側に控えていた廷臣たちは、こぞって反対の意を示した。しかしシンクは、『せっぱくしたりゆう』というのはどういう意味だろうかと少し顔をしかめただけだった。これまで何度も女の子はお淑やかでなければいけないと乳母に注意されていたので、今度も反対されるだろうことは予想済みだったのだ。
「大きなたたかいはおわったかもしれませんが、父上はなんどもゴンドールの王さまと南の方へたたかいに行っているではありませんか。マークにだって、いつてきがあらわれるかしれませんのに」
「確かにそうだな、シンク」
エオメルはふっと微笑んだ。
国王が難色を示さなかったことに廷臣たちは驚き騒いだ。
「ちょっと、何事なの? わたしのところまで騒いでいるのが聞こえたわよ」
奥から王妃が出てくると、最後の砦とばかりに廷臣たちが群がった。
そして王女の暴挙を止めようと、色々とまくし立てる。初めは面食らった王妃だったが、事情を理解するにつれて、真面目な顔になり、最後には呆れたような肩をすくめた。
「そんなに嘆くほどのことではないと思うけれど……エオメルも反対していないのでしょう?」
「エオウィンの練習相手は私とセオドレドでよく務めたからな。妹には許して、娘には許さないというのもおかしな話ではないか?」
あっけらかんとエオメルも言う。
「しかし、以前とは事情が違うのですぞ。いま、この時において姫様が剣の腕前をあげても、おてんば姫だという評判がたって、嫁の貰い手がなくなるだけです」
「しつれいなことを言わないでよ。エオウィンおばさまはごけっこんなさったのだから、わたくしだってできます!」
シンクは叫んだ。
「気持ちはわかるが、そういう話は本人がいる前で言うことではないと思うぞ」
エオメルは失言した廷臣をたしなめる。その男はさっと顔を赤らめて、むくれるシンクに向かって頭を下げた。
王妃はギスギスしだした空気ににこやかに割って入る。
「わたしの故郷では、女の子でも身体を鍛えるのはおかしなことではないと考えられていたわ。身体を動かすのは健康にも良いし、反対するほどの理由は、わたしにはないのよ。シンクだって、まさか馬を駆って戦場に出たいとまで思っているわけではないでしょう?」
女王になるのならそれも必要かもしれないが、さすがに指揮までは自分で取れるとは思えなかった。なので大人しく「はい」と頷いた。
「ならいいんじゃない? 人には好き好きがあるのですもの。王女にだって色々な性質の子がいたほうがいいわ。元気な子、物静かな子、それに……」
王妃は秘密めかして言う。
「魔法が使える子」
ざわり、と広間が揺れる。
「魔法とは、どういうことだ?」
真剣な様子でエオメルが問う。
「ヴィリディスなんだけど、あの子、わたしの血が強く出たみたいなの。前から視線がずいぶんおかしな方向に向くな、とは思っていたのだけど……見えてるみたい、色々と」
「色々というのは……」
「だから、色々。常人の目には見えないもの。精霊とか」
当然のことのように王妃は言った。
「……それは、問題になることか?」
「いいえ。わたしにとっては、こちらへ来る前まではそれが普通だったくらいだもの。持って生まれた才能というだけよ。足が速いとか、手先が器用だとか、そういうものと同じ」
「しかし、どうしてヴィリディスが?」
心配そうなエオメルに、王妃は安心させるような笑みを向けた。
「わたしは完全にこちらの世界の者ではないけれど、子どもたちにはあなたの血が入っているからだと思うわ。ヴィリディスはたまたまそれが発現したのでしょうね」
そして母はシンクを見やった。
「確率としては、シンクもメドゥーナも魔法が使えてもおかしくはないわね。そうは言っても、二人は出なかったみたいだけれど。でも本人が使えなくてもその子どもに能力が出てくるかもしれないわ。こういう力はすぐに失われるわけではないというから」
シンクはふるり、と身体を震わす。
母が魔法を使えるということは知っていても、実際に見たことのない彼女にとって、それは恐ろしいことのように思えた。
「そ、それでどうなるの、母上」
「どうもならないわ。それはただの能力なのだから、力に振り回されないようにすればよいだけなの。剣と同じよ」
「剣と同じ?」
「ええ。使うべきときに使えるよう、制御する術を覚えるのよ」
王妃は本当になんでもないことのように笑った。ならば、小さな妹は怖いことにはならないだろうと、安心する。そして自分たちはなんて似たところがない姉妹なのだろう、と思った。
こうしてなし崩しに、シンクには剣の練習をしても良いという許可がおりた。本当はどうして自分が剣を習いたいのか、その理由を皆に話して納得してもらうつもりだったのだが。
しかしヴィリディスの問題で一杯の宮廷で、今更そんなことを言ったところで間が抜けているだけなので、シンクは沈黙を守った。いつか自分が強くなっていて良かったと、皆が思うようになった頃に改めて話せば良い。きっと『なんと立派な志を持った王女だ』と、褒めてくれるだろう。
剣の扱い方は、エオメルが時間を割いて教えてくれることになった。
意外にも彼は乗り気で、楽しげに指導をするのだった。
使う剣は木製。大人が使用するものよりも随分と小さかったが、形だけは本物と同じだ。シンクは真剣を使いたかったのだが、まだ基礎力もついていないのだから無理だと止められた。そのことに不満がないわけではないのだが、初めて木剣を振り回した時に、父の言い分が正しいということを身をもって理解した。
剣自体は軽いのだが、身体が持っていかれるのだ。ふんばっていても、剣に振り回されてしまう。空気を斬るということがこれほど力を要すとは思わなかった。
エオウィン叔母のようになるためには、こんなでは駄目だ。もっと大きな本物の剣を当たり前のように振り回せるようにしなければならない。
確かに今の自分では無理だ。シンクは未熟以前の自分の力をしみじみとかみ締めた。
それから時が流れた。
二年の間に身長が伸び、力もついて、シンクはしなやかな肢体を持つはつらつとした少女になっていた。
顔立ちはよりはっきりしてきており、将来は美人になるだろうと囁かれている。鍛錬をしているとき以外は、機敏な中にも優雅さのある所作でただの「おてんば姫」ではないことを示していた。
だが、薔薇色の頬もきらきらと輝く瞳も、洗練された立ち居振る舞いでも隠しきれない異質なところが彼女にはあった。
手には硬くなった剣ダコができていたのだ。柔らかみにもかけるため、そこだけ少年のようだと評されている。
しかし強くならなければならないと思いこみ、ひた走ってきた彼女はそんな世間の評価は気にしなかった。鍛錬を続けているのだからそういうものだろう、と母は言うし、父はエオウィンの手もこんな感じだったとのほほんとしている。彼女の身内で気にかけているものがいないのに、シンクが思い煩うはずもないのだ。
もっとも、このことでも乳母や廷臣たちの一部は嘆いているのだったが。
とにかく、鍛錬を始めて二年が過ぎたのだ。
ふと、シンクはそろそろ自分も真剣で練習を始めてもよいのではないかと思うようになった。
素振りは毎日行っているし、力もついた。鉄の剣を振り回しても踏みとどまることができるだろう。シンクは思い立つと同時に父の元へ向かった。
エオメルの執務室に行くと、丁度一休みをしていたようで、彼は王妃と共にお茶を飲んでいた。木の実が入った焼き菓子に、クリームと蜂蜜の瓶もある。
「あら、シンク」
いつものように柔らかい声で王妃が微笑んだ。
「あなたもこちらでお茶にするの?」
「いいえ、わたくし父上にお願いがあって参ったのです」
「どうしたんだ?」
カップから口を離してエオメルが問う。
シンクは父の真正面に立ち、礼儀正しく一礼した。
「父上、わたくしももう十二歳です。一生懸命剣の練習をしてきました。もうそろそろ本物の剣を使いたいのですが、お許し願えますか」
エオメルはカップを置くと静かに口を開いた。
「二年程度ではまだまだだ。本気で強くなりたいというのであれば、あと三年はこのまま鍛錬を続けなくては」
「三年も!」
思いがけない答えに、シンクは叫んだ。
「そうだ。真剣を扱うにはそれくらい準備期間が必要なのだ。同じことの繰り返しにすぎない、と思うだろうが、その同じことが続けられないようでは、とても剣士にはなれん」
「でも……!」
「本来ならば、見習いとなって主人の言いつけをこなしたり、他の騎士や見習いに混じって剣のみならず、騎士たることはどういうものであるかを経験するものなのだ。しかしエオウィンのときもそうだったが、お前を騎士見習いにすることはできん。そのせいで練習が単調に感じることだろう」
剣のこととなると、いつもは優しい父はまったく妥協しないのだ。いまも真剣な表情でシンクに向かい合っている。
「それでもこれを乗り越えられないようでは、この先の成長は見込めん。嫌ならば、諦めるのだ」
「そんなの、嫌です!」
反射的にシンクは叫んだ。同時に激しく頭を振ったので、髪がばさばさと崩れる。
今まで頑張ってきたのに、今更諦めることなどできるだろうか。
この二年の間にシンクの回りでも色々と変化が起こった。
上の妹のメドゥーナは、母が院長を務める療病院に興味を持ってきている。下の妹のヴィリディスが魔法使いだというのも本当のことのようだった。よく誰もいないところに向かってしゃべっているのだ。それも、小さな彼女の知らないような言葉を時々聞き返している。空想の友達と話しているのではないことは、それだけでも証明できた。
この三人ならば、力を合わせてマークを治めることができるのではないかと、シンクは期待するようになっていた。
自分がまとめ役となり、妹たちには補佐をしてもらうのだ。戦士としてはシンクが、癒し手としてはメドゥーナが、そして切り札としてヴィリディスが。
エオメルはなだめるように言った。
「ならば頑張りなさい。お前が見習いたい言っていたエオウィンは、忙しい合間を縫っては鍛錬していたのだからな」
父は好意でしているのだろうが、何度もエオウィンを引き合いに出されたシンクはカチンとした。これでは自分が暇を持て余しているようではないか。そんなことはない、シンクだって忙しいのだ。決められた仕事などはまだないが、姫として覚えておかなければならない作法や稽古が毎日何時間もあるのだから。
「わたくしは頑張っています。でももっと頑張らないといつまでたっても強くはなれません」
「シンク?」
「ちょっと、どうしたの?」
いきなり激昂した娘に、父と母は怪訝な顔になった。怒りの理由がわからないのだ。
「わたくしは早く強くならなければいけないのに! 剣を始めたのが遅すぎるのですもの、それなのに、まだ三年も木剣を使わなければいけないだなんて!」
「シンク、落ち着け。どうして早く強くなりたいのだ? 何をそんなに焦っている」
エオメルはさっと立ち上がるとシンクの前に膝をつき、視線を合わせた。
感情が爆発したため、しゃくりあげていたシンクは、とぎれとぎれに自分が剣を始めた理由を話す。自分がこんなに悩んでいるのに、どうして両親はこんなに悠長に構えているのか、と憤りながら。
「……だから、わたくしは、強くならなければと……。それなのに父上はまだ木剣をやめてはいけない、などとおっしゃるから……」
ひっく、ひっくと舌を噛みそうになりながらシンクが話し終わると、両親たちは互いに妙な表情になって顔を合わせた。
「いや、なんというか……」
「まさかそんな風に悩んでいたなんて……」
二人はそれぞれに呟く。その様子があまりにおかしかったので、シンクは段々落ち着きを取り戻して言った。
「父上? ……母上?」
「いや、あのな、実は……」
エオメルは長い話をした。
王妃がこの地へやってきてから、シンクが生まれる直前までの話だった。
王妃は呪いにかかっている。そのせいで男子が産めなかったのだ。だがその呪いももうじき期限が切れることになっているのだと。
「どうして教えてくれなかったんです!?」
自分が生まれる時にそれほどの騒動があったとは、少しも知らなかった。誰も教えてくれなかったのだ。
シンクの叫びに、両親はある意味真っ当な理由を答えた。
「知らなくて良いと思ったからよ」
「子供なのだからな。こういうことに悩むのは、大人の義務だ」
「でも、でも……それじゃあ」
シンクは納得いかずに頭を振った。混乱してしまって、考えがまとまらない。しかし確実に理解していることは一つだけあった。それは、自分の努力は無駄だったということ。
「わたくしのしてきたことは、なんだったの」
呟くシンクに、両親は両側から肩を抱いてきた。
「無駄だったと思うのではないぞ。こういうことは継続することが重要なのだ。剣の修行はお前にとっても得るものが多かったはず」
「あなたが本気でエオル王家のことを考えてくれたことを嬉しく思うわ。だけど、わたしはあなたに王になってほしいとは思っていない。王妃だって充分大変なのに、王はそれ以上なんだもの。わたしは、あなたにそんな苦労はしてほしくないわ」
シンクを宥めようとしているというのは見え見えだったが、母の言葉に父が目を剥いたので、シンクはそちらに気を取られてしまった。
「王妃の務めを大変だと思っていたのか?」
「どうして思わないと思えるの?」
苦笑交じりで王妃は答えた。
「いや、だって、お前……何でもなさそうにしているではないか」
妙に焦ったように、エオメルが言う。
「そんなの、大変で大変で仕方がないです、なんて顔を見せるわけにはいかないもの。結婚前から大変だろうとは思っていたけれど、ここまで休みもなくて気苦労が多いとは思わなかったわ」
雲行きが怪しくなってきたので、シンクは不平を言うのを一旦控えた。父エオメルはこれ以上ないというほど真剣な表情で王妃の肩を抱く。
「……後悔しているのか?」
すると王妃は噴出した。
「まさか! それとこれとは話が別よ。そうね、苦労は多いけれど、あなたと結婚して良かったと思っているわ」
そう言って彼女は極上の微笑を浮かべた。
しかしエオメルはまだ半信半疑といった態で、
「だが私は気のつく方ではないし、無骨だから不満もあるのだろう? もしセ……」
「それ以上言ったら怒ります」
「……」
「本気ですよ?」
王妃は小首を傾げた。その仕草はメドゥーナのそれとよく似ている。いや、メドゥーナが母に似たのだろうが。
「わかった、言わん」
エオメルは引き下がる。
両親の意外な力関係を目にしたシンクは、どっと疲れてしまい、なんだか自分の悩みが馬鹿馬鹿しくなってしまった。
(王子が産まれるなら、それでいいじゃない。)
さっさと自分の部屋に帰ろうと、両親に退室の挨拶をする。
少女めいて頬を赤らめている王妃と、威厳を取り繕いながら咳払いをした王はようやく自分たちの世界から戻ってくる。
「おおそうか、気をつけてな」
父は頓珍漢な見送りの言葉をかけてきた。
「あ、そうだ」
シンクは執務室を出ようとしたところで足を止める。
「剣の修行ですけれど、わたくし、今度も続けますわ」
「そうか? いや、その気が失せていないというのならば、私も時間を作って練習相手になろう」
剣の話題に戻ったことで、エオメルの頭はまともに動くようになったらしい。いつもの調子で話す父に、
「はい、よろしくお願いいたします」
とシンクは一礼した。
「弟ができましたら、わたくしその子を鍛えるつもりでいますの。父上はお忙しいですし、マークの王は強くあらねばいけませんからね。姉とはいえ、女のわたくしに勝てないようでは、とても時期国王になることなどできませんもの。厳しいこうと思っています」
「……そうか」
呆気に取られたように、エオメルは言った。
「なかなか長期展望で壮大な将来の夢ね。いいんじゃない。わたしは応援するわ」
そして、母はのん気にそう言ったのだった。
10年後の黄金館の話。
王様と王妃様は結構仲良くやっています(笑)
次女と三女の名前は、どうしても古英語で良さそうなものがなかったので、ロヒアリムの女の子の名前としては、適当じゃないだろうな、と思いつつつけました。
メドゥーナは古英語で「蜂蜜酒」を意味する「メドゥ」に女の子らしい語尾をつけてみました。黄金館のことをメドゥセルドといいますが、そのメドゥと同じ。ただし、語尾は別に古英語の用法に準じているわけではありません。ただの雰囲気です。
ヴィリディスは紋章学で緑色を表すヴァート(vert 英/仏)の語源となったラテン語のviridisから。が、ラテン語は詳しくないのでviridisがヴィリディスと発音するのかはわかりません。多分違うのではないかと。
戻る