隣で動いた気配があって、エオメルは目を覚ました。
 薄暗い室内は、まだ肌寒い。
 寝ぼけ気味の頭をなんとか動かすと、水穂が半身を起こしていたのがわかった。
「どうしたんだ?」
 起きたばかりで呂律がしっかりまわらない口でエオメルは訊ねた。
「……ん?」
 水穂は右に首を傾けたかと思うと、
「ん~」
 今度は左に首を傾けた。
 手は、大きく膨らんだ腹部を押さえている。
「……なんだか、お腹が痛い」
 その一言でエオメルの目も頭もしっかり覚めた。
「おまっ!」
「ような気がする、んだけれど……」
 けげんそうな面持ちで、水穂は頬に手を当てた。
「痛むのか、痛まないのか、どっちなんだ?」
「痛みで目が覚めたような気がするんだけど、今はなんともないのよ」
 他人事のように言う妃に、エオメルは頭を抱える。彼女はいつ赤ん坊が生まれてもおかしくない身体なのだ。
「とりあえず、ユルゼを呼んでくる」
「でも、まだ夜明け前よ。悪いわ」
「馬鹿者、何かがあってからでは遅いだろうが。産まれそうなのかどうかがわからないはずがないだろう!? 初産の馬だってもっとしっかりしているぞ!」
 エオメルは一息に言うと、上着を羽織って部屋を飛び出した。
 そのお陰で彼は、残してきた妻が
「馬と一緒にしないでよ!」と叫んだことに気がつかなかった。





 寝巻きのままのユルゼが来て、水穂 と話をしたり腹を触ったりした。
 エオメルはそれを見るともなく見ていたが、日が昇ってきたので着替えをして部屋を出た。
 男の自分にできることなどないのだし、エオメルもそうそう水穂に付きっ切りでいるわけにはいかないからだ。
 今日は新年。そしてその祝いがあるのだ。数日前から遠方からの客人が館に到着している。
 そのためエドラスにはいつもよりもずっと大勢の人間がいた。王妃が出てこれない以上、彼らが滞在を不快に思わないよう、いつも以上に気をつけなければならない。
(ユルゼが水穂 に付き添うとなったら、誰に祝宴の采配を頼めばいいんだ……?)
 そろそろ生まれるというのはわかっていたが、それが今日という一番忙しい日に当たるとは。
 エオメルはまさかの事態に頭が痛む思いがした。
 朝食のテーブルについた彼は、通りかかった女官に、水穂の朝食は何を食べたいかを聞いて、部屋に持っていってやれと命じた。
 近くに座っていた男――来客の一人だ――が王妃はどうしたのかと尋ねてくる。
「少々様子がおかしくてな。これから産まれるかもしれん」
 いつものことだが、エオメルの一言はあっというまに館に広まってしまった。
 それから彼は挨拶に忙殺されることとなる。泊り客が次々に彼の元を訪れて寿いでくるのだ。
 さらに朝食の時間が終わると、宴会の支度をするために女官たちも大勢広間に入ってくるようになり、そこはかなりごった返すようになった。
 エオメルは自分が準備の邪魔をしているように感じたのだが、客人を放っておいて部屋にひっこむわけにもいかず、にこやかにしつつも内心は非常に困惑していた。
 そんな時、広間の一隅にざわめきが起こった。
 何があったのかと思う間もなく、騒ぎは大きくなり、おめでとうという言葉が繰り返される。人ごみを縫って顔を出したのは、案の定王妃水穂だった。
「歩き回って大丈夫なのか?」
 妃に駆け寄ると、彼女は平気そうににこりと笑う。
「まだ陣痛の感覚も短いし、痛みもそれほどでもないから大丈夫よ。本格的に痛くなるにはまだ何時間かかかるってユルゼが言っていたから、今のうちに宴会の指示を出しておこうと思って」
「まあ、お前が大丈夫ならそれでいいが」
「今のところはね。でも実際どれだけ痛くなるのだか想像がつかない。話だけは色々聞いているけれど」
「まあな」
 話だけならエオメルも聞いているのだ。それに馬の出産にはなんども立ち会ったことがあるので、どういうことが起きるのかもわかる。
 しかし男の身では出産の痛みがどれほどなのか、それこそ想像がつかない。怪我をしたことは何度もあるが、それよりももっと痛いのだろうか。
「できる限りの指示はしておきます。でもわたし、ユルゼにもついていてもらいたいから、彼女にずっと宴の手伝いをしていてもらえそうにないの。だから不備はどうしてもでちゃうと思う」
「ああ、そのことなら気にするな。最初の挨拶が済めば後は無礼講だ。要は酒とつまみが切れなければいいのだからな」
 そう答えると、水穂は苦笑した。
「こっちが盛り上がっている頃あたり、わたしの痛みも最高潮に達しているんじゃないかしらね。まったく、よりにもよって今日だなんて。きっとこの子、お祭り好きよ」
 言いながら腹をなでる妃に、エオメルは笑った。
 彼女が立ち去ると、ふと周囲が静かになっていることに気がつく。
 見ると、準備をしていた女官たちは手を休め、客人や廷臣たちは話をやめて、王と王妃を温かく見守っていたのだった。





 昼前に祝宴は始まったが、いつもと感じが違った。
 話題は主に二つに限られている。一つは先日戻ってきたセオドレドのこと。そしてもう一つが出産に関わるものだ。
 自分の妻のときはどうだった、とか、姉のときは、妹のときは、などと誰にもそれなりに関わった経験のあることなので、尽きることがない。
 そして時折、エオメルの部屋の通じる廊下から女官が出てくると、面白いくらいに話が途切れた。その女官は大抵、ちょっとした用事を受けて通りかかっただけなのだが、男たちは何か大事が起きたかのように固唾を飲むのだ。
 そのうち女官たちの方が男たちのそんな反応に慣れっこになってしまい、登場するごとに言い付かった用件を大声で告げるようになった。水穂の様子に心配なところはないということもあり、それはちょっとした余興のようになった。
 エオメルはその間にも何度か水穂の様子を見に部屋に戻っている。横になるほど痛みも強くないということで、まだまだ余裕の表情をしながら産着を縫っていた。
 その様子に変化が起きたのは昼を過ぎてからのことだった。血の気が下がっているようで顔が青白くなり、痛みを堪えるかのように唇をかみ締めている。
「そろそろなのか……?」
 付き添っていた産婆にエオメルは尋ねる。彼女は眉間にしわを寄せ、王妃の額に浮かんだ汗を拭っていた。
「そうですね。陣痛の感覚がもう少し頻繁になれば……。王妃様、寝台に移られますか?」
 後半の問いは水穂にしたものだった。それまで水穂はクッションをあてて椅子に座っていたのだった。彼女は頷いて、身体を支えられながら立ち上がる。
「私が運ぼう」
 エオメルは水穂を抱きかかえると、寝台に横たえた。少し楽になったのか、水穂はほっと息を吐く。
「辛いだろうが、頑張ってくれ」
「ええ。でも、すぐ産まれるというわけではないのだから、あなたは広間へ戻って。お客様をあまり放っておいてはいけないわ」
 名残は惜しかったが、彼女の言うとおりなので、エオメルは水穂 の額に口付けると再び広間へ戻った。もちろん何かあったらすぐ知らせるように女官に言いつけるのは忘れずに。
 その大きな変化が起きたのは、それから一時間もしない頃だった。
 破水をした。もうじき産まれる、と聞かされて、エオメルは一気に酔いが醒めた。もともといつもより酒が進みはしなかったのだが、もう今では一滴も喉を通りそうになかった。
 様子を窺いに行くも、水穂はエオメルの相手をする余裕をなくしており、ただ痛みと苦しみで顔をしかめて唸っている。
 何かできるわけでもないが、生まれるまで付き添うつもりでいたエオメルは、しかしユルゼに追い出された。王妃の気が散ってうまくいきめないというのがその理由だった。
 自分は夫なのに、とぷんぷんしながら戻ると、大勢の男たちが通路に身を乗り出して様子を窺っていた。その様子たるや、盗み聞きをしている子供の群れようで、しかし実際にはいい年をしたひげ面のむさくるしい男たちなので、あまりの落差にエオメルは噴出してしまった。
「産まれたのですか、王!」
 先頭にいた廷臣が聞いてくる。
「いや、まだだ。だが破水はした」
「ではもうすぐですな」
 隣の男が我が事のように喜びながら言う。
 それから口々に、奥に向かって「頑張れ!」だの「もう少し!」だのとがなり立てた。足踏みを慣らして飛び跳ねる者もいる。その音はただでさえ響きやすい廊下にがんがんと鳴り渡った。
 新年の祝いなどそっちのけという状況に、エオメルは苦笑する。だがどちらも目出度いことだからいいか、と気を取り直した。
「ところでエオメル様。姫様のお名前はもう考えたのですか?」
 水穂は当分女児しか産めないということは、すでにして周知されていた。セオドレドが戻ったという奇跡的な出来事を皆詳しく知りたがったし、そうなるとなんのために、どうやって、彼が戻ってきたのかという理由を言わないわけにもいかなかったからだ。
 王子は十年以上先、ということに失望する者もいないわけではなかったが、王妃の若さがなんとかその不満を抑えたようなものだった。それに、在りし日のセンゲル王を知っている者たちは、そういうこともあるだろうさと、意外に落ち着いたものだった。
「いくつか候補は考えているのだがな。まあ、顔を見てからどうするか決めようと思っている」
 第一候補はセオドヒルドというものだった。セオドレドの名の一部をどうしても入れたかったのだ。それに「セオド」というのは母の名の一部でもある。いい名前だ。
 そんなことを思い出しながら答えるエオメルに、質問した男は酒と熱気で赤くなった顔を笑顔で一杯にした。





 冷静に眺める者がいたら、この時の黄金館は妙だったと言っただろう。
 広間の半分に人が固まり、王の寝室に繋がる通路を凝視している。そしてもう半分にはほとんど誰もいないのだ。
 固まった人びとは通路に向かってひっきりなしに声をかける。
 通路を通してその反対側からは、産みの苦しみを訴える若い女の呻きが切れ間なく続いていた。ただしその声は広間側からの声でかき消されがちだったが。
 女の声が一際大きくなると、男たちの声は一気に沈静化した。敵からの攻撃を待っているときのような、ちりちりとした緊張感が起きる。
 呻き声が一回、二回、三回、と続いて、ふっと静かになった。
 と、紛れもない赤ん坊の声が廊下を満たして響き渡った。
 産まれたのだ。そう認識した途端、エオメルは走り出した。背中には、男たちが一斉にあげた勝鬨を背負って。
 部屋に飛び込むと、女たちがぎょっとしたようにエオメルを振り返った。寝台は血に染まって、赤ん坊はへその緒も切っていない状態だ。
「ふ、二人とも無事か!?」
 小さくて赤いものが、産婆の手の中でうごめいていた。妃はぐったりと寝台に横たわっている。
 十四年経ったら王子が産まれるようになる、とはいうものの、お産というのはやはり命がけの行為であって、王子を産む前に水穂の方が産褥で帰らぬ人となる可能性は大いにあった。
 大きな産声をあげていたのだから赤ん坊の方は大丈夫だろうと頭ではわかっていたが、心配は拭えなかった。
「母子共に無事でございます、陛下」
 産婆が赤子をエオメルに見せた。
 くしゃくしゃの顔の生き物が、息をしようと口を開けている。
「沐浴をさせますので少々お待ちくださいね。このままではお召し物が汚れてしまいますから」
 エオメルは頷くと、妻の下へ歩いていった。汗で髪が額に張り付き、ひどく疲れた様子だった。
「意識はあるのか?」
 側に控えていたユルゼに聞いたつもりだったが、彼女が答えるより早く水穂が目をあけた。
 その目もいつもと違って生気がないが、エオメルを認めると小さく笑った。
「エオメル……」
 かすれた声で彼女は囁く。エオメルは衝動的に妃を抱きしめた。
「……良かった。お前が無事で。……子も元気だ」
「ええ。すごく元気な産声で……。びっくりしちゃった」
 エオメルに身を任せたまま、水穂は満足そうに目を閉じて微笑んだ。





 血に染まった敷布を変え、新しい寝巻きに着替えた頃、赤ん坊の沐浴も終わり、おくるみに包まれて母親の隣に寝かせられた。
 赤ん坊の頭にはふわふわした短い髪が生えている。色はどうやら茶色が強いようだ。目はまだ開いていないのでどんな色かはわからない。
「うふ、おサルさんみたい」
 横向きに寝ていた水穂がくすぐったそうに笑った。
「まあ、生まれたその日のうちに走れるようになる馬の子とは違うな」
「比較対象は馬なの? エオウィンが生まれたときよりも美人だとかそうでないとかはないの?」
 呆れたように水穂は笑う。
「といってもなあ、小さい時のことだから、覚えていないぞ。エオウィンのことで覚えている一番古い記憶は、あれがまだ歩けるようになる前のことで、ゆりかごを覗き込んだら私の髪を引っ張って、どうしても放してくれなかったことだ。お陰で髪が抜けたんだ」
 そのときの痛みを思いだして、エオメルは頭に手をやった。くすくす笑っていた水穂は、ふと思い出したように口を開いた。
「ところでこの子。名前はセオドヒルドでよろしいんですか?」
 改めて問われてエオメルは口をつぐんだ。
 別にこれといって不都合なことがあるわけではないのだが、しかしどこかしっくりこないような気がする。
(悪い名前ではないのだがな。だがこの子は最初の子だということを除いても特別な子なのだ。なにしろ、神々を巻き込んだ賭けの対象になっていたんだから)
 セオドレドが帰ってきたあの時のことを思い出して、エオメルは感慨に浸る。
 そして自分が選んだ道と、その結果を思い返すと、じわりと暖かいものが心に広がっていった。
 水穂が生きている。
 子供も生きている。
 時が至れば、世継もできるだろう。
(減って行くばかりだった家族が増えるんだ……)
 にぎやかになってゆくであろう未来を考え、エオメルはほう、と息を吐いた。
 その最初の子がこの子だと思うと、エオメルは自分が幸福という名の水に浸かっているように思えたのだ。
「どうしようか。それで悪いというわけではないのだが、改めて考えると困ってしまうな。金銀駿馬に勝る宝子には物足りないような」
 途端に水穂は眉を寄せた。それから、
「ああ、大伴家持……」
 と呟いた。
「オオトモ……?」
 意味がわからなくてエオメルも眉を寄せた。
「ああ、大伴家持って人の名前。昔の歌人なの。わたしの故郷の歌というのはマークの歌とはかなり違って、かなり短いのよ。それで、そういうものをたくさん集めたものがあるの」
「へえ」
 それが何の関係があるのだろうかと、エオメルは首を傾げる。
「それで、その大伴家持が詠んだ歌の中に、さっきあなたが言ったようなものがあるの。えっと確か『銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも』っていうの」
 古い言い回しだったが、何を歌っているのかはエオメルにもわかった。
「子が一番の宝、ということか」
「そう。金よりも銀よりも宝石よりももっと大事って」
「ふうん。それはいいな…」
 エオメルは赤子の額の産毛をなでながら微笑んだ。
「それにしよう」
「それって、どれ?」
 水穂はきょとんとしてエオメルを見返した。
「だから『宝』だよ。シンクという名はどうだ?」
 ぱちくりと瞬きをした水穂だったが、ややあってにっこりと笑った。





 それから無事王女が誕生したということとその子の名を発表しにエオメルは広間へ戻った。
 しかし、すでにそこではたがが外れたような騒ぎが巻き起こっていた。
 通りかかった女官によって、すでに知られていたのだ。
 顔を出したエオメルは、喜びのあまりに勢いよく突き出された杯から飛んだ麦酒を浴び、宴が終わる頃には髪も上着も大そうひどいことになっていた。
 しかし、やはり喜びに酔っていたエオメルはそんなことは少しも気にかけなかったのだった。




あとがきは反転で

リク内容は「子供が生まれる時のエオメル達の様子」ということで、主に男性陣を中心にお送りしました。
ヒロイン視点も書けるものなら書きたかったのですが、何分子供産んだことがないもので、どんな風にどう痛いのか辛いのか嬉しいのかがわかりません。ので、そちらは省略いたしました。スミマセン…。

セオドヒルド:少し補足を。
セオドヒルドは「セオド(theod)」と「ヒルド(hild)」の二語で構成された名前です。thは本当はdという字を使っています。
セオドの語は、作中でも出たように、セオドレドやエオメルとエオウィンのママ、セオドウィンなどに使われている語です。意味はpeople,nation
セオデンは、んじゃあ、このtheodという語から派生した名前なのか? とお思いになる方もいるでしょうが、意味は全然違うので、つながりはないんじゃないかと(わたしの持ってる古英語辞典は、すごく小さいので詳しいことは載ってないのよ)
セオデン(theoden)は、prince,lord,Godという意味です。

もう一つの語ヒルド(hild)は、十代目の王様であり、第二家系の初代でもあるフレアラフの母親の名前と同じです。意味はbattle
ということで、二つあわせると、「国民の戦」姫みたいな感じ。
個人的に、この名前は音の響きは好みなのですが、意味がちょーっとよろしくないかな、と。戦争終わったばかりなのに、battleというのも、ね。
というわけで、大伴家持(←一発変換できた…)に登場していただきました。
どうせなら、次女ちゃんは金姫、三女ちゃんは銀姫という名前にしようかな、とか考えたのですが、どうも古英語でもgoldはgoldのようで…。すごく、微妙です(汗)
そして銀は…よくわかんない。(アージェントargentというのがあるけど、これは中英語みたいだし)
悩むなあ。



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