ロスロリアンの国境警備隊長のハルディアは普段と変わらない涼しげな(というよりも、やや仏頂面気味な)表情で主であるロリアン領主夫妻の孫娘、アルウェンとヌメノールとゴンドールの王となったアラゴルンの結婚式に参列していました。
もともと喜怒哀楽が現れにくいハルディアなのですが、内心は非常に動揺していました。
それというのも、彼の愛する女性、がすでに結婚してしまっていたからです。
+++ Before/After +++
サウロンが消滅し、激戦が行われたロリアンも戦後の後片付けが一段落した頃、裂け谷から婚礼の一行が到着しました。人間の王の妻となるエルフの夕星、アルウェンと父のエルロンド、及び裂け谷の宮廷の主だった面々という豪華な顔ぶれです。
ロスロリアンからもケレボルン、ガラドリエルと宮廷の主だった者たちが行く事になりました。ハルディアは国境警備を担当していることからも分かる通り、武勇に優れているエルフなので、警護官として同行することになったのです。
ゴンドールへ向かう旅の間、彼は自らを危険にさらした少女のことを思わないときはありませんでした。
フロドが無事なことは、すでに鷲の一族によって伝えられています。
しかし、指輪所持者と同じだけの危険を背負った少女のことについては――何の知らせもありませんでした。
生きているのか、死んでしまったのかもわかりません。
ゴンドールに着きさえすればはっきりするのでしょうから、すぐにでも馬を駆けさせたい思いにかられます。
サウロンが消滅した以上、エルフが集団で行動しているのに、危険なことがあるはずがありません。生き残りのオークやトロルがいたとしても、彼らの方から避けてしまうでしょう。そういう意味では要人警護の役などなくても構わないはずなのですが、エルフにも体面というものはあるのです。
婚礼の一行はゆっくりと進んでゆきます。
知らせは、思いもかけないところからもたらされました。
アラゴルンの部下である野伏たちと共に戦場へと向かったエルロンドの双子の息子、エルラダンとエルロヒアが妹を迎えにきたのです。
指輪戦争の詳しい知らせを父や祖父母に報告した双子星は、「それから、たぶんびっくりする知らせだと思うのだけど……」といつになく歯切れの悪い調子で、レゴラスと
の結婚を告げたのでした。
+ + + ☆ + + +
その時の衝撃を、ハルディアはまざまざと思い出してそっと目を閉じました。
(彼女が旅を続け、私がロリアンから離れられない以上、旅の仲間であるレゴラス殿に一分の勝機があったことは確かだ。しかし、例えレゴラス殿が
をくどいたところで、彼女が彼を愛さなければ何も問題はないと思ったのだが……。あれほどヴァロマ殿を恋い慕っていたに一体どんな心境の変化があったというんだ)
ハルディアは目を開き、少女に視線を向けました。
しかし何度見てもやはり同じでした。
の右手の人差し指には金色の髪を編んだ指輪がしっかりと嵌っています。
レゴラスも同様でした。ただし、レゴラスの指輪は茶色でしたが。
右手の人差し指はエルフが結婚指輪を嵌める指なのです。
ハルディアは気持ちをはっきりと伝える前に振られてしまったのでした。
こうして彼女の姿を目にしても信じられません。
こんなことが許されるはずがないのです。
通常、エルフが結婚する場合には一年以上の婚約期間を置きます。
ハルディアは人間の習慣には詳しくないですが、それでも人の子もいきなり結婚するという例は少ないらしいということは想像がつきました。
ガンダルフとアラゴルンはどちらの種族の習俗にも詳しいはずですのに、どうして反対しなかったのか、不思議でなりません。
(ヴァロマ殿の許可があって、ということならまだわかるがあの方はまだ来ていないというではないか。時期的にレゴラス殿も父王の許可を得たとは思えない。こんな風に、双方の後見人の意向を無視しては、かえって問題をこじらせてしまうのではないだろうか……)
ハルディアの心に、心配と不安がよぎりました。
恋敵であるレゴラスのことはどうでもいいのです。ただのことだけが気がかりなのです。
ヴァロマに無断で結婚をしてしまった今、彼が来たときに起こるであろう騒ぎを思うと気が気ではありません。彼がを手ひどく扱わなければいいのですが。
(それに、あの気配の薄さも気になるな……)
ハルディアはそっと顔をしかめました。
は一見、最初に会ったときよりも元気そうに見えます。
なにしろ初めて会ったときには、彼女はひどい怪我をしてほとんど気絶していたのですから当然といえば当然です。
しかし血色も良く、楽しげに笑顔を浮かべているというのに、少女は活力とでも言うようなものが薄まっているように感じられて仕方が無いのです。
そしてそれは、指輪戦争の最大の功労者たるフロド・バギンズと同じなのです。
(指輪の魔力が消え去ろうとも、指輪に蝕まれた命は元には戻らない……)
我知らず、ハルディアは唇を噛みます。
は自分の状態をどれだけわかっているのでしょうか。
彼女はおそらく本来持っていたはずの寿命よりも、ずっと短い間しか生きられないのです。
そして彼女が死んでしまったら、レゴラスは悲嘆で嘆き死ぬのでしょう。
それは、彼女にとっても辛いことなのではないだろうか、とハルディアは思いました。
(もしも私だったら……)
ハルディアは考えました。
(私だったら、ヴァロマ殿に
を託すだろう。あの方ならば見えない傷も、蝕まれた命すらも元通りにしてくれるかもしれない。少なくとも、このまま中つ国に留まるよりは遙かに良いはず。離れ離れになるのは辛い事だが、それでもたった一人、真実の意味で同胞のいない世界で癒えない傷を抱えているよりは、人の子として己が世界で真っ当に生きるほうがどれだけ彼女のためになるか……)
しかし、が選んだのはハルディアではありません。
元の世界へ帰るよりも、レゴラスと生きることを選んだのです。
それが残念でなりませんでした。
+ + + ☆ + + +
大きく輝く月が西に傾きかける時刻。
ミナス・ティリスの王の館も城下も、ひっそりと静かになっています。
人の子のように夜毎の睡眠を必要としないエルフであるため、時間をもてあましたハルディアは風に当たろうと中庭に出ました。
誰かの歌声が風に乗って聞こえてきます。
この人の都には今は裂け谷とロリアンのエルフが多数いるので、その中の誰かだろう、とハルディアは思いました。
ミナス・ティリスには森が無いので、エルフは少し退屈してしまうのです。
しかしハルディアはすぐに自分の間違いに気がつきました。
歌っているのはエルフではありません。
「
……」
エルフのように肌に朧な輝きを帯びていますが、その少女は元は人間の娘でした。
三日前に皆の前で殺され、そして試練を終えてつい今朝方帰ってきたばかりの、ハルディアの最愛の少女でした。
「ハルディア?」
呼ばれた少女は振り返るとにっこりと笑いました。
「こんな時間まで起きていていいのか? 新しい身体になったばかりで疲れているだろう。早く休んだほうがいい」
「それがこの身体、人間の頃のような睡眠は必要ないみたいなの。少しも眠くならないのよ」
「そうなのか? それなら食事なども……」
「エルフと同じくらいで済むんじゃないかと思ってるの。今度実験してみるつもりだけど」
は両腕を組んで生真面目に報告します。
その様子は珍しいことを発見した学者のようです。
「これってやっぱり、ナセなりに精一杯気を使ってくれたからじゃないのかと思うのよね」
少女は最後に少し寂しげに目を伏せました。
ハルディアはどう答えていいのか、わかりませんでした。
ただ、慰めても彼女は喜ばないだろうと思えました。
「一人なのか? レゴラス殿は……?」
話題を変えるために出た言葉はあまりにも安易なものでしたが、彼がいないことはさっきから気になっていたのです。
あのレゴラスがのそばから離れるとは思えないのですが、そこにいるのはどう見ても彼女一人のようです。
問うと少女は、
「レゴラスはケレボルン様とエルロンド様とお話をしているの。お二人はレゴラスのお父様をどう説得すればいいのか、知恵を授けたいのですって」
少し困惑したように頬に手を当てた。
「わたしも同席したかったのだけど、これはレゴラスがするべきところだからと言って部屋から出されてしまったの」
ハルディアは頷きました。
「そうか。しかし当然のことかもしれないな。君はヴァロマ殿を説得し得たのだから、今度はレゴラス殿の番だろう」
は難しい顔をします。
「そうかしら。ナセはレゴラスのことも試していったわよ? だからレゴラスのご両親もわたしのことを試していいと思うのだけど。そうでなくても、もうわたし、返品がきかないのだから、義理の娘としてあまり落胆させたくないんですもの」
「返品……」
の言葉にハルディアは身体が傾きそうになりました。
前向きなのか大雑把なのかよくわからないところは一度死んでも治らなかったようです、
「ハルディアはレゴラスのご両親にお会いしたことはある?」
大きな目を(そこもやはりエルフのようにほのかに輝いています)見開いて、はハルディアを見上げます。
同族であるということで何か聞けるのではないかと期待しているようです。
「いや、私は森エルフだが緑葉の森が闇の森と呼ばれる前から南寄りに住んでいたので、北の一族の方とは面識がないのだ。ただ、スランドゥイル王はかなり変わった方だと言うことは聞いている」
「変わっているって……レゴラスよりも?」
ハルディアは思わず噴出そうになりました。
「なんだ、彼が変わっているということには気付いていたのか」
「それなりには。……ふふ。ハルディア、ようやく笑ってくれたわね」
がふんわりと微笑みます。
ハルディアは気恥ずかしくなってそっぽを向きました。
「嬉しいわ。ようやく平和がきたのだし、あなたを煩わせるオークもそうそう現れはしなくなるでしょうから、これからはもっと笑えるわね。いつもいつも厳しい顔をして少しも楽しそうに見えないから、少し心配だったの。笑い方を忘れてしまったのじゃないかと思って」
温かい茶色の瞳は、ハルディアを好意的に捉えています。
しかし、彼女はレゴラスの妻なのです。その好意は友情以上のものではないのです。
決して。
それでも勘違いしてしまいそうなほどに、彼女は優しくハルディアを見つめています。
「スランドゥイル王は頑固だが、暗君ではない。筋を通せば必ずわかってもらえるだろう」
ハルディアはようやくそれだけを言うと黙り込みました。
「そう。ありがとう」
もそれきり黙りこみます。
二人の間を夏の始まりの暖かい風が流れてゆきました。
(言うべきか……。言わぬべきか……。)
ハルディアは逡巡しました。
「ハルディア?」
はハルディアを見上げます。
心持ち、心配している様子です。
「どうかしたの?」
ハルディアはふっと目を細めました。
「」
「はい?」
しばらくして口を開いたハルディアは、思いつめたような表情で少女を見下ろします。
「私は、君が戻ってくるとは、思ってもいなかった」
はちょっとだけ唇の端をあげて笑います。
「ええ。わたしも、戻ってこれるとは思わなかったわ」
ハルディアは首を振りました。
「こんなことを言っては、君に軽蔑されるだろう。だが、聞いてほしい。私は……レゴラス殿を殺そうと考えたのだ」
「……!」
の目が驚きに見開かれます。
「君がヴァロマ殿の手によって人の子の命を終えさせられた後、事態を飲み込むまで少し時間がかかった。あまりに急で、何が起こったのか、よくわからなかったのだ。だが、君が――死んだのだと理解した後、私は凄まじいまでの喪失感に襲われた。今にして思えば、エルフが悲嘆で死ぬのはこういう時なのだろう」
「え……?」
は困惑して目を瞬かせました。
「だが私には悲しみよりも強い怒りがあった。ヴァロマ殿に対する憤りと、レゴラス殿に対する憎しみと」
「なぜ? ナセにならわかるわ。わたしだってあの時は『裏切られた、ひどい』って思ったもの。でも、レゴラスは……」
「レゴラス殿は、妻である君を忘れるための眠りについていたからだ。それがあの方の策略であって、レゴラス殿の責任ではないにしても、彼は一番してはならない罪を犯そうとしていた。時が君を飲み込み、伝承にも語られなくなり、誰もが君を忘れてしまっても、レゴラス殿だけは忘れてはならなかった。その彼が、真っ先に君の存在をなかったことにしようとしている。……許してなるものか、と思った。それくらいなら同族殺しの汚名を着ようとも、彼に君の後を追わせようと思った。君がアルダの生まれで、人間もその死後にマンドスの館に行くのであれば、私は本当にそうしていただろう」
激しい感情の吐露に、は呆然となりました。
無茶苦茶ではありますが、ハルディアなりに自分とレゴラスを慮ったのですから、責める気は起きませんでしたが。それにしても、ずいぶん極端です。
「ハルディアがレゴラスを殺さなくて、良かったわ。せっかくマンドスの館から戻っても、レゴラスが入れ替わりにそこへ行ってしまったら、泣くに泣けないもの」
は真摯な眼差しでハルディアを見つめます。
ハルディアは自嘲しました。
「ああ、実行しなくて良かったと、心から思う。……莫迦な男だと思ったろう?」
は首を振りました。
ハルディアは目を閉じました。
背負っていた重たいものから解放されて、楽になった心地がします。
何て、愛おしいのだろう。
ハルディアは素直な気持ちでそう思いました。
できることなら、不死の身となった彼女の姿をずっと見つめていたい。
エルフである自分ならばそれができるのです。
しかしハルディアにはわかってしまいました。
自分の中つ国で過ごす時は、もう僅かなのだと。
ガラドリエルたちが船出する時には、自分も共に旅立つのだろうと。
「私に欠けていて、レゴラス殿が勝っていたのは実行力なのだと今なら思う。私は君のためを思えば手放すことも厭わないが、レゴラス殿はどんな代償を払っても君と共にいようとした。だからこそ、君を得ることができた。ロリアンで、私が《自身の立場》と《君の望み》という大儀を盾に、君をロリアンから出してしまった時点で、私は負けていたのだ」
一拍置くと背を屈めての目を覗き込みます。
ハルディアの眼差しは熱っぽく、は思わずたじろいでしまいました。
「あの頃はまだレゴラス殿を愛していたわけではなかっただろう? 私にも望みはあったはずだ」
「あ、あの……。それって……」
は真っ赤になりながら、ゆっくり後ずさろうとしました。
ハルディアはそんな彼女の腕を掴み、耳元で囁きます。
「あなたはご両親やヴァロマ殿からも再三に渡って忠告されるほどの鈍いお方なので、ここは言葉を濁さずにはっきり申し上げよう。……私は君を愛しているのだよ」
はぱくぱくと口を開閉させるので精一杯です。
「ハルディア――!ひとのいない隙に何やってるのさ――!!」
そこへ、レゴラスの絶叫が響き渡りました。
エルフの重鎮二名との話は終わったようで、真っ赤な顔で憤慨しながら、緑葉の森の王子は全力で走ってきます。
「ようやくご登場か」
ハルディアはを掴んでいた手を放すと、いつもの淡々とした調子で、
「二度と会えなくなる前に、伝えられて良かった。できれば、あまり気に病まないでもらえれば嬉しいのだが……」
「二度とって……」
は眉を潜めます。
「私は海を渡るからな。……君を煩わせることもないだろう」
少女は息を飲みました。
「行ってしまうの?」
「ああ。私だけではない。多くのエルフが船出するだろう。第四紀は人の時代だ。エルフは退散するのみ」
「そんな!」
はハルディアの袖を掴みます。
「、縋る相手を間違えているぞ」
ハルディアは少女の手を外し、肩を抱いてくるりと回し、優しく押し出しました。
到着したレゴラスはがばっとに抱きつきます。
と、レゴラスはばつが悪そうに上目遣いでハルディアを見上げました。
「ハルディアは格好つけだ。が揺れたらどうしてくれるんだ」
ハルディアは鼻で笑いました。
「そんなに自信がないのでしたら、いつでも私が代わってさしあげますが? あなたと違ってはヴァリノールに住まうことを許されているのですから、何の問題もない」
「誰が!」
「ふっ」
ハルディアは表情を引き締めると、胸に手を当ててエルフ式の礼をしました。
「冗談です。では、お二人とも、私はこれで失礼します。……太陽があなた方の道を照らしますように」
最後の言葉はエルフの別れの挨拶です。
レゴラスははっとして居住まいを正すと同じように胸に手を当てました。
「貴方がヴァリマールを見出さんことを……。ハルディア」
ハルディアは小さく頷くと歩き出しました。
きびきびした迷いのない足取りは、彼の性格そのままを現しているようです。
「ハルディア!」
が叫びました。
「わたし、あなたに会えて良かったって思うわ! 絶対絶対、忘れないから!」
ハルディアは小さく微笑んで、
「お元気で、。あなたに会えたのは私の幸いです」
名残を見せずに立ち去って行きました。
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