宴が終了すると、参列者たちはそれぞれの戻るべきところへと散っていった。
エドラスに住まうものは自宅へ。ゴンドールからの客人は用意されていた黄金館の部屋へ。
エルフたちの寝場所も用意されてはいたのだが、彼らは人間のような眠りは必要ない。夜が明けるまで思い思いの場所で過ごすことになり、その多くは外へ出て行った。
部屋に戻ったエオメルは、うっとうしげに襟に指をかけた。式典用の上等な衣服は襟が固くて高く、長時間着ていると息苦しくなってくる。
乱暴に衣服を脱ごうとする王に、控えていた小姓たちが慌てて駆け寄って着替えを助けてくれた。
シャツにズボンというくつろげる格好になると、もう休むといって彼らを部屋から出す。
扉が閉まり、人目がなくなると同時にエオメルは呻きながら寝台に倒れ伏した。
ひどく疲れて身体が重い。それに胸の中にもやもやとしたものが蜘蛛の巣のように絡みついている。
うつ伏せになって大きく息を吐くと、疲労感は少し和らいだ。
これまでは王家の一員とはいえ、場を取り仕切る役目をしたことはほとんどなかったのだ。気付かぬうちに緊張していたのだろうと自分に言い聞かせる。
なにしろ気心の知れた仲間たちと酒盛りをするのとはわけが違う。ゴンドールの大将や高官、それにエルフの一団がいるのだ。粗相のないようにしなければならない。
それでも宴は成功したと思えた。親交はより深められ、エオウィンとファラミアの婚約発表はローハン、ゴンドール両国人に祝福された。だから自分はもっと満足を覚えてもいいはずなのだが、正体のわからない澱みがますます強くなるだけだった。
「くそっ……!」
エオメルは拳を力任せに振り下ろした。頭の脇でぼすんと、間の抜けた音がする。
苛立ちの原因など一つしかなかった。ロヒアリムにはほとんどいない、まっすぐな金髪が脳裏に浮かぶ。
「冗談じゃない」
咄嗟に口をついて出たのは、否定の言葉だった。
レゴラスがに結婚を申し込んだという。彼女は自由の身なのだから、誰を夫に選んでも問題はない。ないのだが、そのような話が持ち上がるのはもっと先だと思っていた。
それも相手があの何を考えているかよくわからないエルフの公子だ。喜びなど少しも感じず、むしろ断ってくれと祈りたいほどだった。
はどうするつもりなのだろう。今夜はまだ混乱しているようだが、頭が冷えれば決断をしなければならなくなるだろう。彼に対して恋情を覚えているようには見えなかったが、好意を感じてはいるようだ。だからもしやと思わないわけでもない。
「……っ!」
エオメルは起き上がり、嫌な考えを振り払うように激しく頭を振った。何度も梳かれて整えられた髪が瞬く間に乱れてゆく。だがエオメルがそのようなことに頓着するはずもなく、さらに両手で頭を掻き毟った。
「このままにしてなるものか……!」
エオメルは誰にともなく呟くと、意を決したように立ち上がった。レゴラスにを諦めるよう言わなければ。エルフであろうが、公子であろうが、ぽっと出の男に彼女を渡す気はないのだから。
エオメルは寝台から降りるとブーツを履き、部屋を飛び出していった。
レゴラスはきっと起きている。確信に似たものを感じてエオメルは外へ続く扉に急いでいった。だが、外へ出る必要はなかった。人気の絶えた広間にじっと立ち尽くす人影があったのだ。
そこには薪を足す者も残ってはいないため、篝火は半分ほど消えている。残りもほとんどが燃え尽きようとしていた。そのため広間は薄暗い。
だがその人影はローハンの歴史を綴っている壁掛けに熱心に魅入っているように、心持ち顎をあげて若木のようにまっすぐに立っていた。エオメルが声をかけるより早く、その人影は振り返る。気配を感じ取ることにかけては、自分たちよりも上手の種族だ。そうわかってはいても圧倒されてしまう。普段が陽気であるから尚更だった。
「レゴラス殿……」
レゴラスは邪気のない笑みを浮かべると、エオメルに近付いてきた。
「エオメル王、まだ起きていたのですか? 人の子は皆、眠りについていますよ」
歌うような声は優しい響きを帯びている。
いや、声だけではない。宴の時のままの衣装はエルフ独特の植物を模した柔らかい印象のガウンで、それを身にまとうレゴラスからは奔放さは窺えなかった。それにエルフは内側から淡く光輝を放つ。こうして眺めていると、この世のものとは思われないほど幽玄だった。
「できなかったのですよ。どうしても、あなたと話さなければなかったので」
レゴラスの雰囲気に飲み込まれないように、エオメルは殊更攻撃的な気持ちを奮い立たせた。ようやく和解ができた相手だったが、構ってはいられない。
だがレゴラスは彼の挑発に笑みを深くした。
「見当はついているよ」
エオメルは総毛立って思わず一歩退いた。
これほどまでに美しいのに禍々しいと思うのはなぜだろう。美しすぎるからだろうか。人には決して持ち得ないものだから。
レゴラスは強張るエオメルに、困ったように軽く眉を寄せた。そうするといつものレゴラスに見える。このほうがまだ理解ができそうな気がした。
エオメルは力をかき集めて数歩レゴラスに近付く。
「それならば話は早い。レゴラス殿、を惑わすのはやめていただきたい。彼女はわが国にとって大切な方だ。あなたの気まぐれに付き合わせるつもりは我らにはないのです」
レゴラスは形のよい眉を釣り上げた。
「気まぐれだって? 私が彼女を弄んでいると思っているのか」
「違うとでも? あなたの行動は、悲しみに沈んでいる乙女を慰めるというには、度が外れている。二重三重の意味で珍しいだけなのでしょう? あなたの一族は人間と交流があるとはいえ、のような娘にそう何人も会えるとは思えませんからな。愛玩動物のように思っているとしても、私は驚きませんよ」
「あなたはもっと見る目のある人だと思っていた」
レゴラスは失望したように目を伏せた。晴れ渡った空のようなその眼差しが隠れると、暗さに一層の拍車がかかったように感じた。
「本気でそう考えているというのなら、私もあなたに対する認識を改めなければいけないね。だけど……」
エルフの声は哀切に満ちており、エオメルの心を苛んだ。
再び顔をあげたレゴラスは怒ったようにエオメルを見据えた。
「自分の言葉で語れない者にとやかく言われたいとは思わないね」
「何……?」
責めるような調子にエオメルは気色ばんだ。こんな風に言われるのはそれこそ心外だ。
「私が自分の意見を言えていないと?」
レゴラスは腕を組んで、見下すように斜に構えた。
「そうじゃないか。『わが国』だの『我ら』だの。じゃあ、あなた自身はどう考えているっていうんです? あなたがレオフォストを手放したくないというのならば私も恋敵として受けて立ちましょう。だがあなたは同じ場に立とうともしていない。そんなあなたに私を止める権利などありませんよ。彼女はあなたの持ち物ではないのですから」
「彼女は私の身内……」
「のようなもの、でしょう? 血縁関係も姻戚関係も実際にはない。おまけに、彼女はロヒアリムでもない。レオフォストに対してあなた方が主張できることなんて、本当は何一つありはしないんだ」
言い訳の余地を奪われて、エオメルは怯んだ。レゴラスの主張は真っ直ぐすぎるが故に有無を言わさないものがある。自分にできることといえば、に代わって現実を伝えることだけだった。
「それでも、彼女が心からあなたを愛することはないでしょう。たとえ悲しみが癒えようとも、の中に根付いた存在が消えるわけではない。既に存在しないがゆえに、決して勝つことのできなくなった相手と彼女を分かち合う。あなたにそれが我慢できるのですか?」
「そんなこともわかっていないと思われていたなんて、心外だな」
レゴラスはしかめ面をして鼻を鳴らした。上品な仕草ではないのに、エルフの公子はそれすらも優雅にこなした。
「馬鹿にするにも程があるよ。私が始めてレオフォストに会った時点で、彼女の心の中にはすでにセオドレド殿がいたというのに。そんなことを気にするくらいなら、気持ちを打ち明けたりなどするはずないだろう。彼の思い出も含めて彼女を愛おしく思っているんだ。忘れる必要も、なかったことにする必要もないんだよ。そんなこともわからないの!」
最後にはものわかりの悪い生徒を叱るように、レゴラスは声を荒げた。だがエオメルが一言も言い返せないでいるのを見ると、哀れみをこめた眼差しになった。
「あなたは心配することなどなかったんだ。私だって、彼女に無理を強いるつもりなどないのだもの。レオフォストは否というだけで、私を退散させられる。だけど、それまでは諦めるつもりはないよ」
エオメルは望みが潰えるのを感じた。レゴラスの決意は固い。自分の力では彼の意見を変えることなどできそうになかった。
「どうしてなのです……。他にも多くの人間がいるというのに、よりによってなぜ彼女を選んだのです。他の者ならば私だって応援も祝福もしたでしょうに」
エルフの公子はひょいと肩をすくめた。
「私だって、自分が人の子に心を奪われるなんて思っていなかったんですよ。最初は面白いと思っただけだったし、悲しみにくれる彼女を可愛そうだと同情したりもした。それだけで終わっていたのなら、私にもあなたにも良かったのでしょうね」
何の気負いもてらいもなく話すエルフをエオメルは羨ましく思った。これほど真っ直ぐに物事を考えることは自分にはできない。
しかしレゴラスの率直さに感化されたのか、エオメルはようやく自分のへの思いがどういった形であるかを理解したように思えた。
「レゴラス殿。私もを愛していますよ。両親や伯父や従兄、妹に対するものとは違う。だが男が女に対して抱くようなものとも違うように思える。しかし彼女が私にとって大事な人であることには違いない。私は彼女の一番の理解者でありたいし、彼女にもそうなってほしいと思う。だからあなたでなくとも、彼女を譲るつもりはまったくないのだ」
生真面目に語るマークの王に、エルフの公子は楽しげに口の端をあげた。
「それで?」
「つまり、マークの十七代国王としては、あなたは大切な友人の一人ではあるのだが、エオムンドの子エオメルという一人の人間にとっては、あなたは邪魔なのだ。彼女があなたのように、ふらふらした言動を取るエルフに誘惑されているのを見るのは我慢ならん」
レゴラスは弾けたように笑った。
「そこまではっきり言われるといっそ清清しいね。だったら気を抜かないことだ。私はマーク王にだって遠慮するつもりはないのだから」
そして挑発するように顔を近づけて片目をつぶった。
「レオフォストが応じてくれさえすれば、例えあなたが権力を総動員して彼女を捕まえていても浚ってみせる。覚えておくんだね」
次の日になるとエドラスに逗留している客人たちは思い思いに過ごし、長旅の疲れを癒していた。
ローハンが誇る名馬を借りて遠乗りに出かける者や、館の中を見てまわる者、エドラスの住民と語りあう者など様々だ。そして広間にはご馳走を用意し、いつでも食事をすることができるようにしていた。
マーク第一の女性であるエオウィンは、部屋に高位の女性だけを招いてお茶会をすることにした。招かれたのはガラドリエルとアルウェン、それからだ。夏の花を生けた花瓶を飾り、テーブルには裾に繊細なレースをつけたクロスをかけている。窓はすべて開け放っているので明るい日差しが差し込んでいた。
飲み物は地下室で冷やした果実のジュースと香草茶が用意され、お茶請けには木の実の入った焼き菓子、果物のシロップ漬け、甘いクリームなどが用意されている。
テーブルについた四人の女性たちは和やかな雰囲気でゆったりとした時間を楽しんでいた。
ただし、話題は一点に集中していたのだが。
カップを置いたアルウェンは星のような目を瞬かせて困ったように微笑んだ。
「……ですから、わたくし、ようく観察してみたんですの。そうしたらローハンの殿方たちの多くがレゴラスを射殺しそうな目で見ているのですもの。エステルの言った通りだったわ。彼らはレゴラスがレオフォストを連れて行ってしまうのではないかと思っているのでしょうね」
ゴンドールの王妃アルウェンが幼馴染であるレゴラスの起こした騒動を知ったのは、宴が終わってだいぶ経ってからだった。彼女はついに迫ってきた父との別れの時を過ごすため、その場に居合わせなかったのだ。
エオウィンは申しわけなさそうに頬に手を当てる。
「当宮廷の無作法には本当に申し訳なく思っております。レゴラス殿は一つの指輪を棄却する旅の仲間のお一人で、先の戦争でも大変に功のあった方。その方にあんな無礼なふるまい…を…。それも、一人や二人ではないのですもの」
前日の椿事はエドラス中に動揺を与えていた。宴に参加していた者から話が瞬く間に広がり、都には知らない者はいないという状態になった。館に自由に出入りできるものはこぞって参上し、問題のエルフを一目見ようとしている。そのエルフは騒ぎを嫌って早々に遠乗りに出かけてしまったのだが。
この件に関して、男は大抵レゴラスを自分たちから天恵であるを奪おうとしているとして敵意を露わにしている。気に入らない男に娘を取られそうな父の心境になっているらしい。
しかし女の方は事情が違った。彼女たちは事態を静観しようとする動きが強いのだ。それはセオドレド、レゴラスという高い地位にいる男たちがこぞって求婚していることに興味をそそられているかららしい。の謎めいた素性がさらに拍車をかけ、ロマンティックな物語のように思っているようなのだ。
ガラドリエルは低く笑ってエオウィンを慰める。
「そうされても仕方がないことを彼はしたのです。あなたが責任を感じることはありませんよ。マークの姫君」
「ガラドリエル様」
アルウェンはそうよ、と祖母に賛成を示し、子供のように唇をとがらせた。
「レゴラスが無神経なのがいけないのよ。わたくしたちエルフだって、あんなに大勢の前で告白をしたりはしませんわ。相手の方が気まずい思いをするのですもの。騒がれるレオフォストがお気の毒よ。なのに自分ばかりさっさと逃げてしまって」
ね、と小首を傾げて同情を示すゴンドールの王妃に、は乾いた笑いを浮かべた。
朝から会う人すべてにこの話題を振られていたのだ。いい加減逃れたいのだが、さすがに同盟国の王妃とその祖母にして偉大な古のエルフを相手に適当な対応はできなかった。
「場所を選んでほしかったのは確かですけれど、率直なところは好感がもてます。それに、彼は当宮廷の大切なお客様の一人。自由にふるまう権利がおありなのですから」
とりなすにアルウェンが頬を膨らませた。そうすると美しさよりも可愛らしさが勝って見える。
「甘やかすことはないわ。ちょっと厳しいくらいが彼には丁度良いのよ」
「そんなつもりはありません。レゴラスにはわたしが一番辛かった時期を支えてもらったのですもの。だからこそ、でしょうか。わたしのことで彼を悲しませたくないと思うのです」
するとエオウィンが息を飲んだ。
「その気持ちはわたくしにもわかりますわ。だって、わたくしもそうだったんですもの。わたくしの場合は片思いでしたし、その想いが叶わないということに絶望したのですけれど」
これにはの方が驚いた。
「エオウィンって、そうだったの。知らなかった!」
エオウィンがナズグルの首領との戦いで怪我を負い、ミナス・ティリスの寮病院にしばらく入院していたことは聞いていた。そこでファラミアに出会い、いつしか相愛の仲になったのだと。
だがその前の行動――つまり彼女が生きて戻ってくる望みの薄い遠征に密かに加わったのは、死ぬのならば戦って死にたいと思ったからだとは思っていたのだ。騎士としての実力を試すことも生かすこともできないまま、館の奥で朽ちることに耐えられなかったからなのだろうと。
だがそうではなかったのだ。しかしそれならば狂気染みた行動も納得ができる。
遠征に行く騎士の中に、エオウィンの愛していた人がいたのだろう。遠い異国の地で死ぬかもしれないその人と離れ離れになるのができなかったのだ。それで思い余ってあのような暴挙に出たのだろう。しかしその相手は一体どうなったのだろうか。戦いで亡くなってしまったのだろうか。それとも徹底的にエオウィンを振ったのだろうか。どちらにしても古傷を抉るような疑問には違いなく、は聞くのをためらった。
「気になって仕方がないというお顔になっているわ、。大丈夫、その方はちゃんと生きていらして、今、とてもお幸せになっているの。わたくしに負けず劣らず、ね」
エオウィンは曇りのない笑みを浮かべた。
「そうなの……」
彼女は失った恋を引きずっていない。そうわかってはほっとした。
「もしかしてレオフォスト、あなたもそうなの? 友情や感謝の気持ちが愛情に変わってしまったのかしら」
アルウェンは両手を握りしめて生来輝いている目をさらに煌かせていた。
王妃が誤解をしてしまったらしいと、は慌てて打ち消しにかかる。
「いいえ、違います。彼のことは好きですけど、恋しているわけではありません。わたしの気持ちはまだセオドレドに向かっているのですもの。もう届かないとわかっていても、止まらないのです」
「そう。でも、そういうものなのかもしれないわね」
王妃は残念そうに両手を膝にもどした。
「少しだけ期待していたの。あなたがレゴラスと一緒になってくだされば、種族を超えた愛情ゆえに苦しむのは、わたくし一人ではなくなるから。それに、イシリアンにもう一人、お友達ができるかしらって。ゴンドールの方には良くしていただいているわ。だけどわたくしはエルフだから、どうしても一線が残ってしまうのですもの」
「王妃様……」
「いけないわね、わたくし。とうに覚悟はできていたはずなのに……」
アルウェンがあまりにも寂しげな風情なので、はふいに疑問に思って訊ねた。
「あの、エルフと人間が結婚するというのは、どのくらい珍しいことなのですか?」
不死の一族とはいえ、中つ国に住んでいるエルフの数はが考えているよりも多いようである。ならばそれなりに前例があるのではないのだろうか。
の故郷にも不死の一族はいる。しかしそれはエルフとは違う存在であり、数も彼らよりは少ないだろう。しかし大昔の話も含めればそれなりにあったことだ。もその一人に直接見守られていた家系の生まれで、過去には彼に対して激しい恋心を抱いた娘もいたと聞いている。もっとも、彼は人間の妻を必要としていないのであるが。
の問いに答えたのはガラドリエルだった。
「わたくしたちが本当のこととして知っているのは、アルウェンの件を含めて三例だけです。この地に人の子が現れて数千年が経ち、強い愛情や友情で結ばれたことがあるにしても、伴侶として互いを選んだのは、わずかこれだけしかいないのですよ」
「三例……」
あまりの少なさには呆然となった。
「同族同士であっても、夫婦が別れ別れになることはあります。だけど人の子を選べば、別れは確実にやってくるのです。それも、早いうちに。わたくしたちにとって、人の子の寿命は短すぎるのですから。そして、伴侶の死はエルフにしばしば身を損なうほどの悲嘆を与えるのです。そう、アルウェンもきっと同じ道を辿ることになるでしょう」
「ガラドリエル様、何を!」
とエオウィンはそろって腰を浮かせた。茶器が弾みで傾き、清らかな音を立てる。
慌てる二人にアルウェンは座るように促した。
「驚かないでくださいな。わたくしはエステルと出会い、自分の運命を悟りました。その上で西方に続く黄昏の光に背くことにしたのですから」
「そんな……でも……それでは……」
は青ざめた顔を両手で覆った。
「わたしには少しも感じ取れなかったのですけれど、レゴラスも何か運命を悟ってしまったのでしょうか」
もしそうならば、彼の申し込みを断ろうものならば、レゴラスは悲嘆で倒れてしまうのではないだろうか。自分の選択が一人の青年の命に関わるのとなるとなると、下手に断ることはできなくなる。
(レゴラスが悪いわけではないけれど……なんてやっかいな相手に好かれてしまったんだろう)
は天を仰ぎたくなった。
英知を宿した目をまっすぐ向けてガラドリエルは言う。
「確証はありませんが、あなたに対してはエルフの予感は働かないことでしょう。それというのも、あなたは中つ国の、いいえ、西方の世界を含めて、この世の理の外からいらした方なのですから。ただ、そうであってもスランドゥイルの息子レゴラスのあなたへの想いが減ずるわけではないでしょうが」
「では、わたしはレゴラスの想いに応えなければならないのでしょうか」
判決を下される気分では訊ねる。
ガラドリエルはゆっくりと頭を振った。
「それを決めるのは、あなた自身ですよ」
宴の日々も終わりを迎え、客人たちはエドラスを発つことになった。
エルフたちと旅の仲間たちは北へ、ゴンドールの諸将は南へとそれぞれ戻るのだ。
アラゴルンはもうしばらくフロドたちを見送るために北行きの一行に加わる。王の護衛としてファラミアとイムラヒル、そして彼らの随員たちはエドラスで王が戻るのを待つことになった。アルウェンも家族との最後の別れをすませると、やはりエドラスで夫の帰りを待つことになった。
朝から出発の準備で館の内でも外でも慌しくなっている。は女官たちに混じって糧食を用意していた。食物貯蔵庫からチーズや燻製肉の塊を取り出しては小分けする。かなりの重労働だった。
それが一段落すると自分も挨拶回りをするために、一度部屋へ戻って着替えをした。広間へ戻る途中、誰かに見られているような気がして足を止めると、柱の影から金色の光が零れ出てきた。
「レゴラス」
あえかな笑みを浮かべ、彼はゆっくりと寄りかかっていた壁から身を起こす。
レゴラスは告白をした日からほとんどを外ですごしていたので、こうして会うのは一週間ぶりだった。
「あなたを探していたんだ。レオフォスト。旅立ちの前にもう一度話をしたくて」
「わたしも皆さんにご挨拶をと思っていたわ。もちろんあなたともよ。レゴラス」
彼と顔を合わせるのはどれほど緊張するかと案じていただったが、しばらく間を置いていたせいか、自分でも驚くほど落ち着いて相対することができた。
レゴラスもほっとしたようで、優雅な軽い足取りで近付いてくる。そして胸に手を当てて一礼した。
「あなたを困らせてしまって、申しわけありませんでした。あれから皆にずいぶん叱られてしまったのですよ。ギムリにアラゴルン、アルウェンやそれにエオメル王にも」
は目を瞬かせた。
「もしかして陛下と喧嘩になったの?」
含みが潜んでいるようなレゴラスの言い方には不安を覚えた。だがレゴラスはいいえ、と頭を振った。
「だけど、ライバル宣言をされてしまったよ。私にはあなたを譲る気はないってさ」
ああ、とは苦笑した。
「陛下はわたしをセオドレドの形見だと思っているのよ。そのうち宝物庫にでも大事にしまいこまれるのではないかと思ってしまうわ」
いたずらっぽく言うと、レゴラスはくすくすと笑った。
「それは言えてるかも。でも、私も少し心配しているんだよ。レオフォストが別の世界から来たのだと知ってしまったから……。私が再びこの地を訪れた時に、あなたはまだいてくれるのだろうかって」
目を伏せてレゴラスはの手を取った。
彼にその話をしたことはなかったが、誰かから聞いたのだろう。ガンダルフかエルロンドやその息子たちか。あるいはアルウェンかもしれない。エドラスに立ち寄ってくれたのを幸いと、彼らに異世界に戻る術を知らないかと訊ねていたのだ。成果はまったくなかったのだが。
「そればかりはわたしにもわからないわ」
この地へ来てもう一年以上経つ。自力で戻れない以上、連絡が来ることしかにはできないのだ。
「そうだよね」
互いにやるせない気持ちで見詰め合う。
ついとレゴラスはの頬を両手で包み、上向かせる。
「どうか、再びあなたに会えますように」
そっと額に口付けを落とす。不意打ちに驚いているに、レゴラスは笑みかけた。
「私にも祝福をしてくれないだろうか、レオフォスト。もう一度会えることを願ってくれる?」
「あ……、ええ」
は我に返ると、レゴラスの肩に手を置く。導かれるように背をかがめ、突き出されてきた白磁の額に、も口づけた。
「旅路の無事を祈ります。そして再び相見えんことを……」
レゴラスは背を伸ばすと両手を後ろで組んで照れたように笑った。
と、くるりと振り返り、両手を腰に当て、鋭く一喝する。
「覗き見なんて良くないよ!」
途端に複数の気配が動きだす。
「う、うわぁっ!」
「ちょ……急に動くなって!」
気配の主がどこにいるのか、にはすぐにわからなかった。だがよくよく見ると、エルフのマントを纏った小さい人たちが二人、もつれるように倒れていた。逃げようとしたお互いに引っかかり転んだらしい。
「メリー、ピピン。あなたたち何をしているの!」
見られて困るようなことはしていないのだが、こっそり見守られていたのかと思うと恥ずかしくなってくる。
「申しわけありませんでした、姫様!」
メリーはようやく立ち上がると、真っ赤になりながら深々と頭を下げる。
「レゴラスも、ごめん」
ピピンは上目遣いで背の高いエルフを見上げた。
「まったく……」
レゴラスが怒ったように腕を組み、仁王立ちになったのでピピンは言い訳をまくし立てる。
「本当にごめん! 邪魔する気はなかったんだけど、なんだかいい雰囲気だったから進展するのかなぁと思って……」
「あ、馬鹿!」
メリーはピピンを小突いた。
「ほう?」
レゴラスは一歩、彼らに近付いた。笑みを浮かべているが目は全く笑っていない。
「ご、ごめんなさ〜い」
ピピンは恐ろしさのあまり立ちすくんでいる。メリーも息を飲み、冷や汗を流していた。
「レゴラス、やめなさいよ。二人が怖がっているじゃない」
「でも……」
「駄目よ。これからしばらく旅をするというのに、喧嘩なんかさせられません!」
ぴしゃりと言われてレゴラス渋々引っ込む。はまだ震えている二人の前に膝をつくと、安心させるように笑顔を向けた。
「二人とも、しばらくお別れね。もっとたくさん話をしたかったけれど、いつまでも引き止めて行くわけにもいきませんもの。道中の無事を祈ります。いつかまた、マークへいらしてください。あなた方ならいつでも歓迎です」
「ありがとうございます、姫様」
二人は表情を改めると、そろって一礼した。
「それからメリー。ローハンの騎士として、あなたにお願いしたいことがあります」
「何でしょう、姫様」
メリーはしゃちほこばった。
「グリマのことなの。あなた方は南北街道を通るために、まずは西へ進むのでしたね。途中で角笛城とアイゼンガルドに寄ると聞いているわ。それで、グリマに会ったら以前わたしが言ったことを忘れないでと伝えてほしいの。マークへ戻るのは彼にとってとても辛いことでしょう。だけどサルマンといてももっと辛くなるだけだわ。逃げたところで何も変わらない、悪を断ち切る勇気を持って。待っていますから、と」
思いがけない頼みにメリーは一瞬呆気に撮られた。だが次の瞬間にっこりと笑うと、
「承知いたしました。必ず伝えましょう」
と力強く請け負ったのだった。
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