ファラミアら残党狩りに出かけていた人々が帰参した次の日から、はきちんとしたドレスに着替えることにした。
 うつ伏せで横になることにも疲れてきたこともあるが、一番の理由としては手足はなんともないというところにある。これ以上寝ていても徒に体力を減らすだけだと思ったからだ。
 胴体を締める装いは避けたものの、ドレスを着て髪を整えただけでも気分が違った。まだ歩き回るには辛いのだが、肘掛け椅子にゆったりと腰をおろして外の景色を眺めると、長い間薄暗い部屋しか見ていない目には快かった。
 身体に障ると案じる侍女たちの制止を振り切り、窓を開けて外の空気を入れる。一段と深まった秋の風は肌がぴりりとするほど冷たい。ぶるり、とは身体を振るわせた。だが、冷たいと感じることが嬉しかった。自分はまだ生きているという感慨で胸が一杯になる。
 あの時、自分のそばにエオメルがいてくれて良かった。無論、近くにいたのがエオメルではなく、ファラミアやアムロスの兄弟たちだとしても、自分を見捨てていたとは思えないのだが、やはりより親しい相手の方が安心感は強い。当然のことをしたまでとエオメルは言ったが、その当然のことの当然だと言い切れる精神を好ましく思った。自分では何と思っていようと、彼もやはり王としてふさわしい器量を持っている。
 改めて思う。自分は自分の全力でもって、彼を助けるのだと。それこそが恩義に報いる唯一の方法であるとは考えた。
(とりあえずわたしがするべきことは、療病院設立に向けて構想を練ることなんだろうな)
 自分から言い出したこととはいえ、その道のりは長く険しいものになるだろう。まさか、自分に一任されるとは思わなかったのだ。だが、やるしかあるまい。
(仕方がないわね)
 は諦めたようにため息をついた。だがその表情ほどには、心の中は重くない。覚悟を決めた者の持つ、晴れやかさがあった。
 それからしばらくして、は見舞いの訪問を受けた。訪れたのは三人。アムロスの兄弟たちである。
「ようこそ、いらっしゃいませ、エルフィア様、エルヒリオン様、アムロソス様。このような格好でお出迎えをする無礼をお許しくださいませね」
 は椅子に座ったまま、彼らに微笑みかける。
「もちろんですよ。まだ傷が塞がっていないのに無理をしてはいけません」
 長男のエルフィアが礼儀正しく一礼した。
「お元気そうなご様子、安心いたしました」
「ええ、本当に……」
 エルヒリオンが続けると、アムロソスも頷く。
 はふたたび丁寧に礼を言うと、侍女に窓を閉めさせて茶の用意を頼んだ。小さな机をの前に置き、彼らは銘々椅子を運んでその机を囲む。兄弟たちは、どこそこの紅葉がとても美しくなったとか、鹿の親子をみかけたとか、冬支度をする領民の様子だとかを話して聞かせた。残党狩りの話をしないのは、彼らなりに自分を案じてのことだと思い、もあえて問わなかった。
 話に区切りがついたところで、ふと気付く。
「そういえば、ロシリエル様は今日まだお見えになっていないのですけど、彼女はどうしていらっしゃるのですか?」
 てっきり家族と一緒に過ごしたいのだと思っていたのだが、兄たちはここにいるのだ。もしかしたらずっと怪我人の世話をしていて疲れたのかもしれない。心配になって訊ねるも、兄たちはてんでに首を振る。
「ロシリエルなら父に大事な話があるとかで、私たちは追い出されてしまったのですよ」
 エルフィアは苦笑する。エルヒリオンもにやりとした。
「そう、ものすごく真剣な表情でね。多分見合いの件だろうって、兄上たちとも話したんですよ」
「まあ。それじゃ……ったた」
 は驚いて目を見開いた。しかし思わず前のめりになった弾みで、傷口が引き連れる。
「ああ、ほら、急に動いてはいけませんよ、殿」
 エルフィアがさっと立ち上がり、を抑えた。ついでとばかりに侍女に命じ、ひざ掛けをもってこさせる。
 姿勢が楽になるようにクッションを直し、ひざ掛けをかけられながらはくすくす笑った。
「エルフィア様って本当にお兄様という感じですね。お世話の仕方がとても上手だわ」
「おや、それは光栄だな。まあ、弟妹が三人もいれば自然にそうなるのでしょう」
 優美な面におどけたような笑みを浮かべ、エルフィアは笑った。
「それで、なんの話をしていたのでしたっけ……。ああ、そうそう、ロシリエル様でしたね」
「そうでした。私たちも結果は気になっていましたし、早いところ決断してほしいと思っていたのですけど、ようやく決まったんだと思います。ロシリエルの方は、ですが」
「できればそちらの国王陛下にもいい加減決断していただきたいところなのですが。自分のことではないというのに、すごく気を揉んでしまって生きた心地もしないくらいなんですよ」
 長男と次男はごく明るい調子で言った。だが三男はさきほどからずっと黙ったままで、言いたいことを飲む下すかのように、茶をすすってばかりいる。
 だがとうとう我慢できなくなったのか、彼はいつもの様子からふさわしくないほど乱暴に茶碗を置いた。その不躾ながちゃんという音に、三人はぎくりと口を閉ざす。
「兄上たちが盛り上がっているところ、悪いとは思いますが、多分こちらの思っているようにはならないと思いますよ……」


 普段以上に念入りに身繕いをしたエオメルは、イムラヒル大公の部屋へ向かった。ノックしようと手を持ち上げたエオメルだが、中に先客のいる気配がしてためらった。何を話しているのかまでは聞こえないが、揉めているような感じがする。間が悪かったかもしれないと思いながらも、そのまま叩いた。
 大公の侍従が顔を出す。エオメルを認めると一拍置いて、すぐに主人に伝えると告げた。侍従の顔が強張っていたような気もするが、本当に間が悪かったのであれば、改めて訪れてほしいなどの旨を伝えられるに違いない。互いに忙しい身なのだ、そんなことは充分にありえる。
 しかし再び姿を現した侍従は、エオメルに中に入るように告げただけだった。たいした用事でもなかったのだろうとそのまま踏み込むと、そこにはロシリエルがいた。
「これは、失礼。父君とお話中だったのですね」
 とっさに退室しようかと後ろを見るも、ロシリエルは、
「いいえ、わたくしの話はもう終わりましたから……。これでお暇いたします。エオメル様、どうかお気使いなく」
 と硬い表情で返す。つねに柔らかな表情を浮かべている姫であるだけに、エオメルは訝しく思った。そこでどうかしたのかと問おうとしたのだが、ロシリエルは泣きそうな笑顔を浮かべて先手を打つ。
「それではお父様、わたくしはこれで失礼いたします」
「あ……うむ」
 大公も娘にまだ言いたいことがありそうな表情をしていた。だがエオメルの前では言い出せないのか、不承不承頷く。
「お父様、わがままを申しまして申しわけございません。ですが、わたくしの気持ちは変わりません」
 ロシリエルは父とエオメルに目を向け、深々と頭を下げた。逃げるようにエオメルの脇をすり抜ける。取り残されたエオメルは事情がわからずにひたすら困惑した。
「大公……」
 事情を尋ねるべきか否かエオメルが迷っていると、大公は鎮痛な面持ちでため息をついた。しかし表情を改めて、エオメルに一礼する。
「失礼しました。みっともないところをお見せしてしまった」
「いえ、それは構わないのですが、ロシリエル殿はどうなさったのです?」
「なに、少々強情を張っているだけなのです。普段は聞き分けのよい子なのですが、そういうこともあるものですよ」
「なるほど……」
 親子喧嘩をしていたのかと思いながら、エオメルはとりあえず頷いた。
 部屋には気まずい空気が流れる。大公はそれを払拭しようと、侍従を呼んだ。ロシリエルが飲んでいたであろう茶器を片付けさせ、新しいものを用意させる。
 エオメルには椅子を勧めた。恐縮しながら大公の真向かいに座り、エオメルは腹を括る。
 ここで自分の決意を伝えなければ、何も進まない。
「それで、どのようなご用事なのでしょうか、エオメル王」
 ゆったりとした表情を浮かべ、大公としての威厳を取り戻していたイムラヒルに、エオメルは単刀直入に切り出した。
「見合いの件ですが、お断りをしようと思います」
「娘はお気に召しませんでしたか?」
 咎めるでもなく至極真面目な顔つきでイムラヒルは訊ねた。エオメルは頭を振る。
「姫に落ち度があったわけではないのです。彼女の美質はやはり素晴らしい。多くの男にとって理想の妻となるでしょう」
「しかし、あなたの理想の妻にはなれないということですな」
 イムラヒルは間髪を入れずに返した。嫌味ではないかもしれないがきつい、とエオメルは思った。
「そうではありません。いや、やはりそうなのでしょうな。私には姫以上に大事な方がいるのです。その娘がいる以上、姫は私の一番とはなりえない」
 イムラヒルは長いため息をついて、深く椅子にもたれた。疲れたように顔を片手で覆う。が、ややあって威儀を正してエオメルに向き合った。
「その女性とは、・レオフォスト姫ですか?」
「……はい」
 誰かと問われるだろうと思っていたが、いきなり名前が挙がったので、エオメルは心臓を鷲づかみされたように驚いた。それほどまでに自分の考えていることはわかりやすいのだろうか。
「お聞きしたい、エオメル王。それならばなぜ娘との見合いを受け入れたのですか。殿はローハンの方、イシリアンで初めて会ったというわけではないでしょう。貴公のお心が始めから娘になかったというのであれば、私が申し出た時に断ってくだされば良かったのだ。そうすれば娘が傷つくことはなかったのですぞ。……あの子は貴公を愛しているのですから」
「……」
 大公は憤激しているのだろう。だが声には少しもそのような様子を見せなかった。淡々と告げられることで、返って彼の怒りの強さがわかる。
「私も素晴らしい息子が得られるのだろうと、期待していました。それらはすべて水泡に帰したというわけですな」
 イムラヒルはエオメルから視線をそらす。彼の落胆振りに、エオメルは心が痛んだ。
「何を言っても言い訳にしかなりませんが、大公のご期待を踏みにじったこと、そして姫を傷つけたとこには変わりありません。すべては私が愚かだったせい。本当に申しわけございません」
 エオメルは頭を下げた。
 冷ややかな沈黙が流れる。エオメルは甘んじて受けた。ぐだぐだと自己肯定をするつもりはない。イムラヒルはゆるゆると首を振った。
「それだけですかな?」
「は?」
「言い訳をしないという心意気は結構。ですが、それでは納得ができません。一体どうして今更になって宗旨替えをするようなことをなさったのです。父親の贔屓目かもしれませんが、貴公は最初の頃は娘を見ようとなさっていた。それが一転したのはあの不幸な出来事が起こってから……。もしや、貴公は罪悪感を愛情と勘違いしてはいらっしゃらないか?」
「大公……。私の考えていることは、それほどわかりやすいのでしょうか」
 ここまで読まれていたとは思わなかった。妹には身内であるがゆえに鈍感だ単純だと歯に衣を着せずに指摘されてはいたが。
 唖然とした草原の王に、イムラヒルは苦笑する。
「私は以前にも貴公が豹変するのを見知っておりますからな」
「はあ……」
 エオメルは目を伏せる。
 ペレンノール野のときだろう、と彼は思った。前例を知っていたとしても、やはり自分の思考は周囲にはすっかり見顕されているのだ。情けない思いでエオメルはうな垂れた。
 イムラヒルは喉の奥で笑ったが、やがてその笑みを引っ込める。
「とまれ、もしも罪悪感から殿を選んだとしたならば、それはあなた方にとっても最上の選択にはならないと忠告申し上げよう。同情は愛情とは違うのです。どちらも心を責めさいなむことはありますが」
 イムラヒルは両手を組んだ。そして物分りのよい伯父のように若い王を言い諭す。
「賊の凶行を防げなかったのは、見張りの落ち度と言っても良いでしょう。ですが、起きた出来事自体は不幸な偶然です。殿は貴公をかばって倒れられたわけではない。女子供が苦しんでいる様は我々にとっても苦しみを覚えるものですが、あれは、貴公のせいではないのですぞ」
「違う、違うのです、そういうことではありません!」
 エオメルは叫んだ。そのことに自分で驚き、呆然となった。
「私は……私はあの時、彼女の代わりに自分が射られれば良かったと思ったのです。痛みも苦しみも全て引き受けたかった。国王という立場にあってそれがどれだけ無謀な望みかはわかっているのに」
 エオメルは自分で自分を抱え込んだ。身体が震えて止まらない。ずっと目を背けていたことに向き合わねばならなくなった衝撃が、今になって現れているようだった。
「私はを愛しているのです。ただ、それがいつの頃からだったのか、自分でもよくわからない。おそらく、従兄が生きていた頃からだと思いますが」
「セオドレド殿か……」
「その事に、私はずっと気付けなかった。私はが好きですが、それでもセオドレドへの愛情が勝っていたからです。なぜなら私は十数年に渡って彼に憧れ、崇拝し、彼に並べるほどの男になりたいと願ってきたのですから。そもそもはセオドレドが連れてきた娘です。も私などよりもセオドレドを頼りにしていました。といっても、彼女の場合はなかなか愛情には変わらなかったようですが」
 エオメルは目を閉じた。話している間にも、異界の少女が現れてからのことが次々と思い出される。そして、彼女の隣にはいつだってセオドレドがいるのだ。
「ですからセオドレドが生きて王位を継ぎ、彼女を王妃に迎えていれば、すべてが丸く収まったのです。セオドレド相手に、私が恨みも妬みも持ちえようはずもない。綺麗ごとだと言われてもそうなのです。私にとってセオドレドはどんなことがあっても裏切れない人なのですから。……例え、死した後であっても」
「……」
 血を吐くような告白に、イムラヒルは黙ったまま目を閉じた。しかし目を伏せたままのエオメルは気付かない。勢いがついたまま、熱に浮かされたように続けてゆく。
「そのためには、私は彼女以外の女性と結婚する必要がありました。私にとっては何があっても近付いてはいけない、神聖な存在だから。ですが、妻となる女性を愛せないとは思えなかった。への愛は、父祖の地へと赴いた、従兄への愛と別ちがたく結び付けられていたからです。天に輝く星を愛するようなものだから、と。実際、途中まではそうなると思っていました。ロシリエル姫の愛らしさや健気さに、心を打たれたこともあるのです」
「ならば、なぜ?」
 当然の疑問を大公は口にした。
 ぶるり、とエオメルは震える。冷たい汗が身体を伝った。なのに身体は燃えるように暑い。自分を制御することができなくなってしまったのではないかという焦りが生まれる。だが、止めることができない。
「それと同時に、が誰かと親しく笑い交わしているのを見ると、苦しくなるようになったのです。その相手が女子供の場合はなんともない。既婚者や年寄りも同様です。苦しくなるのは独身の男の時だけ。これが嫉妬でなくてなんだというのです! なのに私は愚かにも、その感情を誤魔化して見ない振りをして遠くへ押しやれると思い込んでいた。私が彼女を妻にすることが出来ない以上、彼女は他の男と結婚するしかない、そして場合によっては私自らが話を進める必要があると! ……とんだ道化だ!」
 エオメルはかっと目を見開いた。情けなくて苦しくて涙が出てきた。みっともない、イムラヒルにはこんなことまで聞かせる必要はないとわかっているのに。
 イムラヒルはわずかに腰を浮かせたが、考え直したのかまた座りなおした。難しい議題を審議しているように、厳しいが真剣な顔でエオメルを見据えている。
「私は自分が正しいと思う道を進んでいました。ですがその道は、進めば進むほど苦しくなっていくばかりなのです。そしてとうとう破綻してしまった……。最悪の形で……」
 すすり泣くことを堪えているせいで、一層震えた声でエオメルは続ける。
「矢を放った賊は、腕は悪くなかった。あとほんの少しずれていたら、心臓か肺に刺さっていたところなのです。それがどんな結果をもたらすかは、公もよくご存知のはずだ」
 矢は剣や槍に比べていかにも小さく頼りない武器に見える。しかし当たり場所によっては一撃で相手をしとめることもできるのだ。命の源たる心臓ならば即死するだろうし、肺に当たれば血が溜まって、陸にいながら赤い海で溺れ死ぬ。後者ならば、長く苦しい末期も加わる。まだしも心臓に当たるほうが幸いというものだ。
 とっさの行動とはいえ、自分の手で愛しい娘の肉を切った感触がまざまざと思い出される。助けようとしているのに、殺しているような錯覚。何人もの敵を屠ったエオメルにしても、その時ついた血は二度と落ちないのではないかと思った。
「助かると、大丈夫だとわかったときには、愛おしさが募りました。天に、父祖に感謝しました。ですが、こうも思いました。たまたま、運が良かっただけだと。は死んでいたかもしれないのだと。そう思うと死の恐怖が付きまとって離れないのです。私が死ぬことではありません。彼女が死ぬのが怖いのです。こんな気持ちを抱えて、一体どうしてのうのうと他の娘と結婚などできましょう。その娘に対して、あまりにも無責任ではありませんか」
 エオメルが言葉を終えた後も、イムラヒルは沈黙したままだった。額にはしわが刻まれているものの、若かりし時の美しさを残した顔には、気難しい表情が浮かんでいる。椅子の肘掛に指を掛け、トントンと神経質に叩いていた。
「先ほど、娘と話していました」
「――はい」
 ようやく口を開いたイムラヒルだが、話の内容はエオメルのものとはずれている。それでも何か考えがあるのだろうと、神妙に聞く体勢になった。
「娘はこう言ったのです。エオメル王が愛しているのは姫だと。それがわかった以上、自分が王の妻となることはできない、とな」
 エオメルは言葉を失った。彼女にまで気付かれていたとは思わなかった。なんて可哀想なことをしてしまったのだろう。
「私はこう答えました。例えそうだとしても王や大公家の人間は愛情のみで結婚をするわけではないのだと。大切なのは互いに信頼しあうこと、尊重しあうことなのだと。それでも娘は頑なに拒むのです。愛されていないのにどうしておめおめエオメル王の前にいられるだろうかとね」
「だから、あれほど泣きそうな顔で」
 部屋を出て行ったときのロシリエルの表情を思い出して、エオメルは心が痛んだ。あれほど一途な娘の思いを自分は踏みにじったのだ。
「若いというのは時に必要以上に頑なになることがあります。私はいまの娘がそうだと考え、思い直すように説得しました。何しろ私には娘の気持ちがわかるのですから。貴公への愛情があるがゆえに、身を引こうとしているだけだと。しかし娘は、エオメル王の重荷にはなりたくない。自分がいれば、王はずっと自分の心を殺すことになるだろうと泣くのです。その上、私に対して、もしも本当に自分を愛してくれているなら、これ以上苦しめてくれるなと言ったのです。私はまだ説得するつもりでした。しかしそこへ貴公が訪れ、こうして見合いを断ってきたのです。これ以上、私にできることなど、なにもありません」
「本当に、申し訳なく……っ!」
「もう、良いのです」
 いたたまれずに頭を下げるエオメルに、イムラヒルは制した。
「見合いというのは必ずしも成立するわけではないでしょう。今回は私の期待が大きすぎたのです。貴公が気に病むことはありません」
「しかし……」
「気に病んではなりません。貴公が考えを翻し、改めて娘を娶ってくださるつもりがあるのでしたら、別ですが」
 試すようにイムラヒルは言う。
「それは……できません。無理です」
「そうでしょう?」
 痛いほど拳を握って頭を振るエオメルに、イムラヒルは穏やかとも言える様子でエオメルを見つめた。
「それではこの件に関してはもう終わりにしましょう」
「はい……。ロシリエル殿には改めてこちらからお詫びを言いに参るつもりです」
「そうしてやってください。そしてどうぞご自身の幸福を掴んでください」
 寂しげなイムラヒルに、エオメルはまた罪悪感を覚えた。
「いえ、そんな……。は私を特別好いてはいないので、実際のところ、どうなるかわからないのです。ふられ続けるかもしれません」
「弱気なことはおっしゃらないでください。それでは娘の立つ瀬が無くなります。そうでなくとも、恋愛は強気でいかなければなかなか進展しないものですぞ」
「肝に銘じておきます」
 エオメルはペコリと頭を下げた。四人の子を持つ父であるだけに、イムラヒルのその一言には妙に説得力がある。
(強気、か……)
 思い返してみると、確かに大公の言っていることは正しいとエオメルは思った。あれほどその気のなかった少女と婚約できたのは、偏にセオドレドが積極的に働きかけたからだ。レゴラスだって、傍若無人なほど言い寄っていた。あの二人と比べるのは可愛そうだとは思うが、アムロソスもよく少女と話しているではないか。
 欲しいものは手に入るのを待つのではなく、自ら手に入れようとしなければならない。そのために必要なのは、一にも二にも行動だ。
(まずは……恋敵になりそうな相手の排除、だろうか)
 真っ先に脳裏に浮かんだのは、目の前の要人たる大公の三男坊だったことは、さすがに黙っていることにした。


「アムロソス様は兄がロシリエル様をお断りになると思っていらっしゃるの?」
 エオウィンは釈然としないように首をかしげる。アムロソスは気まずそうな笑みを浮かべ、
「確信があるわけではないんです。そんな気がするだけですよ。ロシリエルはともかく、エオメル王は王なのだから、割り切った考え方をするのかもしれませんし」
「割り切ったって、何に対して割り切るんです?」
 訳がわからなくなっては目を白黒させた。あんなに二人の婚約に乗り気になっていたのに、急に歯切れが悪くなったのが理解できない。
「だから、その……」
 アムロソスは頭をかいた。
「どういうことだよ、アムロソス」
「そうだぞ、自分ひとりで何を案じているんだ。こっちにも説明しろ」
 兄たちにせっつかれて、しぶしぶアムロソスは答える。
「だから……嫌いじゃないけど好きでもない相手と結婚するかどうかっていう、割り切りだよ」
「え?」
 は目を丸くした。どうしてここでそんな話が出てくるのだろうか。しかしとは違い、エオウィンには納得できるところがあったのだろう、はっとした表情で口元を押さえた。
「エオメル王がロシリエルを好きでも嫌いでもないってことか?」
「ええ」
 長兄の問いにアムロソスは頷く。
「でも、あの二人、結構いい感じになってたじゃないか」
 言い募る次兄に、今度は首を振った。
「ロシリエルはね。エオメル王はそうじゃないよ。礼儀正しく接してはいたけど。だから、割り切りに走るか、自分の気持ちに正直になるかで、結果は分かれると思うんだよね」
「確かに以前、陛下は妥協で結婚する気はないとおっしゃっていましたけど、だからって結論をそう急がずとも。ねえ、エオウィン」
 助けを求めるように王の妹に目をやるも、エオウィンは深刻そうな表情で考え込んでいた。の視線に気がつくと、諦めたように小さく頭を振る。
「わからなくもないわ」
「エオウィン、どうして?」
 納得がいかなくては問い詰める。
「だって……」
 エオウィンはアムロソスに視線を転じた。それを受けてアムロソスも然りと頷く。だがそれ以上答える気はないようで、彼は力なく微笑むだけだった。
「よしておくわ、まだ何もはっきりしたことはわからないのですもの」
 エオウィンが締めくくったので、それ以上聞く勇気はにはなくなった。
 盛り下がった茶会は、切り上げる機会を見つけられないままだらだらと続く。一時間が経ち、二時間が経っても、エオメルもロシリエルも現れない。
「来ないね」
 が彼らのために用意されていた茶器を見て、呟く。
 一度も茶が注がれない冷え冷えとした白い器が、嫌な予感をますます強めた。
 エオウィンもちらりと視線を落とす。
「そうね」





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