喧騒から逃れるようにハルディアは王の館を出た。
 館の大広間では彼の敬愛するロスロリアン領主夫妻の孫娘アルウェンと、ゴンドールとアルノールの王となったアラゴルンの結婚を祝う祝宴が催されていた。
 ロリアンと裂け谷の主だった重鎮の警護のため、彼も婚礼の一行としてつき従ってきていたのだ。

(騒々しいのは、やはり苦手だ)
 エルフは身分の上下を問わず宴に参加することとなったが、オークの襲撃が起こる以外は鳥と獣の声しか聞こえないようなロスロリアンで長い年月暮らしていたハルディアにとって、人間の都は騒々しいことこの上なかった。無論、同じくロリアンや裂け谷で暮らしていても難なく人間の宴に溶け込んでいる者も多くいるが。
 つまり、どこで暮らしていたかが問題ではなく、単に向き不向きの問題なのであろう、とハルディアは結論を出し、アラゴルンとアルウェンに祝いの言葉を述べるとその場を後にした。
 中庭に出るとはじめに目に付くのはニムロスの若木だった。
 白い花がこぼれるほどに咲き、喜ばしげに風に揺れている。
 若木のすぐそばにある噴水の水も日に輝き、銀のしぶきとなって煌めいている。
 ハルディアはしばらくの間目を細めてそれらを眺めた。
 ゆっくりと歩みを進め、中庭の突端に近づく。
 胸壁に手をつき、東に目を転じると影の山脈の黒い山並みが見える。
 ほんの数ヶ月前までは、ここから冥王の居城であるバラド=ドゥアが見えたことだろう。毎日のように目にする暗黒の塔に、人の子はどれほど絶望と恐怖を募らせたことか。
 彼らにはエルフのような強靭な肉体も、長い寿命もない。ロリアンの周囲に張られていたような、強い護りも。
 この石造りの城塞と、鉄の武器のみが彼ら人の子の持つ力のすべてだった。
 だが、それも終わった。
 多くの協力と犠牲を払って指輪は消え、サウロンは滅びた。
 その犠牲の中にはロリアンを訪れた人の子や、本来ならば指輪に関わることなど無かった者も含まれていた。
 ハルディアが戦いで命を落とした同胞に向かって物思いに耽っていると、快い響きが耳朶に触れた。
 振り返ると人間の少女が鼻歌を歌いながら歩いていた。
 少々足取りが危なっかしく、頬は赤い。
「ハルディア〜」
 少女はハルディアに気付くと、機嫌よく手を振ってきた。
、酔っているな?」
 ハルディアは少女を迎えにいくとひょいと持ち上げた。
「ん〜ん。平気平気。頭ははっきりしているから。たんに身体が言うこと聞かないだけで」
「おい、
 子供を抱えるように抱き上げると、は甘えるようにハルディアの首に腕を回してくる。
 ハルディアは一瞬頭の中が真っ白になった。
「それを酔っていると言うんだ」
 己を取り戻したハルディアは少女の身体を引き離す。
 は不満そうに「むう」と唇を尖らせた。
 ハルディアとて愛しい少女に抱きつかれて悪い気がするはずもない。しかし今の彼女はロリアンにいた時の彼女とは立場が違う。
、君も結婚した以上は軽々しく夫以外の男に抱きつくものじゃない」
「えー? でも、ハルディアだよ? わたし、たまにフロドたちにもぎゅーってするけど、別に誰も何も言わないよ? 皆大事な友達で、仲間だもの」
 当然のように言う少女にハルディアは頭が痛くなった。
 それはそうだろう。
 本人たちがどう思おうとも小柄な少女と小さい人たちでは小動物がじゃれついているようにしか見えないだろうし、魔法使い相手なら、祖父と孫だ。
 ドワーフはどうかわからないが、人の子の王は少女が抱きつくのを拒むだろう。緑葉の森の王子の怒りを買うからだ。その前に少女がアラゴルンに抱きつくということが想像つかない。
 そしてレゴラスはの夫だ。夫に抱きつくのがおかしいなどと思う輩がいるとは思えない。
 しかし、それらの事例と自分を一緒に考えられては困る。
「レゴラス殿はどうした?」
 それ以前にハルディアがに恋心を抱いていると本人がまったく気付いていないことが問題だった。彼女が鈍いのだと知っていなければ、またハルディアの自制心がもう少し弱ければ、酔って潤んだ瞳を誘っているのだと解釈していたことだろう。
 そんな少女を野放しにしては彼女の身が危ない。他の男に見せたら、何をされるかわかったものではない。レゴラスは何をしているのだとハルディアが腹立だしく思っていると、
「レゴラスはぁ、ガラドリエルの奥方さまと、アルウェン王妃さまに捕まってるの〜」
 と、気の抜けるような声で返答が帰ってきた。
「……それならしばらく風に当たって、酔いを醒ましたほうがいい」
 ハルディアはこめかみに指を当てて頭痛を堪えた。



 少女をニムロスの幹に寄りかかるように座らせ、ハルディアもその側に腰を下ろした。
 暖かい風が吹きぬける気持ちのいい日和の中、は幹に頭をもたせかけ、目を閉じた。
 見守るように眺めていたハルディアは、少女の右手に目をやると、気付かれないようにそっとため息をもらした。
 アルウェンら一行を迎えに来たエルラダンとエルロヒアの兄弟によって、がレゴラスと結婚したという知らせ聞かされたハルディアは、意外なほど冷静にその報告を受け止めていた。
 初めて会ったときからレゴラスが彼女に恋焦がれていることは明らかで、旅の間に彼が積極的にアプローチしたのだろうということは容易に想像できた。ロリアンに引き止めることができなかった時点で、ハルディアは負けを覚悟していたのだ。
 それでも、少女の細い右の人差し指に嵌っている金色の指輪に、ささくれ立った感情が湧き上がることまでは止めることができない。丁寧に編みこまれたそれは、髪の毛でできている。は自分のものだと耳には聞こえない声で、レゴラスが主張しているようだった。

 ――むしり取って、見えないところに捨ててしまいたい。

 ロリアンに留めようとするハルディアの意思を真っ向から受け止め、挑戦してきた彼女の言葉通り、彼女の右腕を切ってしまっていたら、少なくとも彼女はレゴラスとは結婚しなかっただろう。その時、彼に代わって自分は彼女の愛を得ていたのだろうか。の隣にいるのは自分だっただろうか。
 自問してハルディアは頭を振った。
 いいや、そうはならない。
 彼女はハルディアの強情を許しても、愛することはなかっただろう。
、眠ったのか?」
 穏やかな様子で目を閉じているので、ハルディアは少女の頬をそっとなでた。あまりにも無防備な姿をさらされては、どこまで自制が持つかわからない。誰も見ていないのをいいことに、抱き寄せて、口付けをしてしまいたくなる。
「ううん」
 は目を開けると伸びをした。
「気持ちいい。こんな日がくるなんて、思っていなかったわ」
「そうだな。闇の気配は取り除かれ、とても穏やかになった。フロド殿とサムワイズ殿のおかげであることは明らかだが、君の助けもあってのことだ」
 ハルディアが断言すると、
「わたしは……実際どれほど役にたったかわからないの。わたしがいなくても、フロドとサムはやっぱり指輪を捨てられたのだと思うし」
 は自嘲気味に笑った。
「それでも、フロドの傷が本来残っただろう大きさよりも小さくなっていればいいと思うわ。あの子たちがホビット庄に帰って、少しでも長くホビットらしい生活を楽しんでくれれば。……それでも、フロドはいつか中つ国からいなくなってしまうと思うのだけど」
「それは……」
 ハルディアはぎくりと顔を強張らせた。
「ハルディアは知っていた? そうだったら隠さなくてもいいよ。わたしはエルロンド様から聞いているから」
「知っていたわけではないが、そうなるのではないかとは思っていた。指輪の傷は、それに関わりすぎたものにはこの国で癒しきれるものではない。それほど大きいだろうと」
「うん……」
 は穏やかな表情で頷いた。
「君にとっても」
「うん」
「……」
 恐れるでもなく、不安がるでもなく、ただあるがままに受け入れている少女を、ハルディアは哀れに思った。
「君も指輪に強く関わった者の一人だ。西行きの恩寵が与えられ……」
「無理だよ。わたしはこの世界の人間じゃないんだから」
「しかし、それでは……!」
「無理だよ」
 指輪所持者ではないかもしれないが、指輪につながった者として、ハルディアはも西へ行く資格があるのではないかと考えていた。そうであればいいという願望であることはわかっていたが、はハルディアのその密かな望みを一蹴した。
「それでも、私はヴァラールの恩寵が君にもあるように願う。そうでなければ、君があまりにも哀れだ。この世界が君に何を与えた? 苦痛と恐怖と悲しみ、癒えることのない傷、それだけではないか」
「中つ国はわたしに新しい友人と夫をくれたわ。わたしがここに来たのは定められてのことではないと思っているけど、もし定められてのことだったとしても、悪くない取引だと思ってる」
 はハルディアを宥めるように彼の腕を軽く叩いた。
 しかしハルディアは不機嫌そうに顔を背ける。
「悪くない、か。『最良』であることを望まないのか?」
 は驚いたように目を見開くと、続いて勢いよく噴出した。
「……ごめっ……ちょっと、驚いたものだから……!」
 はしばらく肩を小刻みに震わせて笑いを堪えていたが、ようやく話せるようになるまで回復すると目尻にたまった涙を拭った。
「わたしはね、ガイアでそれは楽しく暮らしていたのよ。家は結構裕福だし、何よりナセがついててくれたから望んで適わないことなんてなかったもの。でもそのせいかな、本当に欲しいと思ったものなんてないんじゃないかって、最近考えるようになったの。もの覚えもいい方だったし、巫女の才能もあったから危険なことによく首を突っ込んでいたのよね。巫女は絶対的に人数が足りなくて、わたしがやらなきゃ他にやる人がいないじゃないの! って周りの皆には言っていたけど、わたしはずっと他には譲れない、大切なものを探していたんじゃないかと思う。ナセ以外のね」
「それがレゴラス殿だと?」
「突っかからないでよ。わたしにだって実はよくわからないんだから。でもレゴラスを好きになった時、なんでレゴラスはエルフなんだろう、とか、どうしてエルフのレゴラスを好きになったんだろうって、考えたのよ。だって、エルフって、悲嘆に暮れすぎると死んでしまうんでしょう? わたしはね、半分ナセたちの世界で育ったようなものだから、結婚するにしてもそっちの世界のひとの誰かだろうなあ、ってずっと思っていたの。わりとそういう事例はあるのよ。でも格の上下はあっても神サマだから、わたしが死んでも悲しくて死ぬってことは絶対にないわけで、だからわたし、自分が置いていくことになっても、それによって相手に何か起こるってこと、まったく想定していなかったの。そうでなくても好きになった相手が人間だったら、そのときは悩むまでもないじゃない。人間なんだもの、そのうち二人とも年をとっていずれ死ぬわ。どっちが早いかってことだけでしょう。でもレゴラスはそのどちらとも違う」
 はまだ頬が赤かったが、眼差しはしっかりしてきており、酒の力が薄らいでいっているようだった。それでも饒舌に己の心を明かしているのは、まだ酔いが冷め切っていないからだろう。ハルディアは沈黙したまま続きを促した。
「ナセが帰ろうって言ったら、レゴラスとの結婚は絶対駄目って言ったら、わたしは従うしかないの。逆らえないし、逆らいたくないの。『わたし』はナセがいなかったら『わたし』じゃなかったのだもの。でもガイアに戻っても以前のわたしには戻れない。楽しいとか嬉しいとか、感じなくなると思う。レゴラスがいないのだもの」
 の声はだんだんと小さくなっていた。
「……帰りたくないなあ」
 聞き取りにくいほどの小さな声で、は呟いた。
「帰らなければいい」
 ハルディアは少女の美しく梳られた濃い茶色の髪をくしゃくしゃにかき混ぜた。
「君の気持ちをちゃんと伝えるんだ。君が旅を続けることにあれほど渋っていたあの方も君の決心を妨げられなかったではないか」
 はくすぐったそうに首をすくめた。
「そうなるといいなあ。そうなったら、その時には中つ国にこれたのは最良のことだったと思えるもの」
「レゴラス殿は、そのことについては何と?」
 自分よりも当事者であるレゴラスのほうがよほど考えていなければいけないことだ。これで何も考えていない、ということだったら叱っておかねばならない。ハルディアはそう腹の中で決意していた。
「心配はしているけど、ナセが来てくれないとどうしようもないから……。当たって砕けろとは言ってたけど、本当に砕けられるのは困る」
 は眉根を寄せて真剣な表情で言ったのだが、ハルディアは思わず噴出してしまった。
「当たって砕けろ、か。確かに」
「あ、でも子供が出来れば無理やり取り返そうとはしないんじゃないかって考えてるみたい」
 は口に出して言わなかったのだが「だから毎晩つき合わされているのだ」と顔に書いてあった。
「……なるほど」
 彼女の言わんとするところを察して、ハルディアは頷いた。
 レゴラスの溺愛ぶりはハルディアの耳にも入っていた。昼も夜も手放さないので旅の仲間たちもしばらくの間会えなかったほどだという。新妻愛しさゆえの暴走かとも思っていたが、それだけではなかったようだ。
「あまり聞くものではないとは思うが、間に合いそうなのか?」
 ハルディアが聞くと、は真面目な顔で考え込む。
「んー、ナセがいつ頃来るかにもよるけど、でも難しいと思う。そもそもわたし、子供が出来るかどうか、わからないし」
「それは……できるのではないか? エルフと人間の婚姻は今までも数例あり、すべて子供は生まれている。どれも人間の男とエルフの乙女だったので君たちとは組み合わせが逆だが」
「でも、人間の男っていっても、アルダの人間でしょう。わたしはガイアの人間よ。姿形はそれほど代わらなくてもDNAはまったく違うと思うのよね」
「ディーエヌエーとは何だ?」
「えーと、説明するのが難しいから省く。でもこれ、少し違うだけでも子供はできないものなんですって」
「そういうものなのか」
「うん」
 納得したわけではないが、長い上に煩雑になりそうだと判断してハルディアはそこで話を打ち切った。
「それで? それとは別に君としてはどうなんだ?」
「わたし?」
 は不思議そうに首をかしげた。
「君はレゴラス殿の子供が欲しいと思っているのか?」
 はさっと頬を赤らめた。
「ええ、欲しいわ。産みたい。レゴラスに言うと調子に乗るから、伝えてないけど」
「そうか」
「あ、だからレゴラスには言わないでね!?」
 酔ったせいではなく赤い顔では両手を合せてハルディアを拝んだ。
 外見の幼さとは反対に大人びた思考をする少女にしては珍しい素直な反応を彼は微笑ましく思った。
 レゴラス、レゴラスと、愛しいものの名を愛しさをこめて口にする少女の姿は、ロリアンでのすべてにおいて落ち着き払い、痛々しいほど前を向いていた、しかし生きることを諦めていた姿よりも輝いて生気に満ちている。
 その変化をもたらしたのは自分ではないが、それでも良かったと思えた。
 ただ彼女の幸せを共に喜び、さらにその先も幸いに満ちたものであるようにと願うのだ。
 許されるのならば、彼女の兄代わりとして。
 次期に別れの時が来てしまうとしても。
 ハルディアは優しく目を細めての髪をもう一度くしゃりとなでた。
「わかっている」

(頼まれても言うものか。癪に障るからな)
 そう頷いたものの、やはり面白くないものは面白くないのだった。



あとがきは反転で↓
こずみ しん様のリクエストで「ハルディアと二人きりで。「あなたが幸せならそれでいい」でした。
リク内容にはもうちょっと詳しく書いてあって、「ゆっくりお茶でもレゴラスに内緒で遠乗りでもなんでもいいので二人きりに」「苦笑混じりな兄の瞳で」等がありましたが、いかがでしょうか。いい、一応二人きりにはしましたが…
遠乗りは、ちょっと無理でした。(や、だって、ミナス・ティリス滞在中の場合、レゴラスに見つからずに、てのはかなり難しいし、あの頑固偏屈男がロリアンでお仕事放って遠乗りに行くとは思えん。頑固偏屈なのはワタクシがそーゆーハルディアしか書けんせいですが。お茶の場合は…レゴラスが割り込んできそうだ)
作中でヒロインさんがDNAが違いすぎるから子供が出来るかどうかわからんということを心配していましたが、ガイア姐さんが新しい身体を造った時点でその問題は解消している、ということになってます。人間のままのヒロインではやはり子供はできないのだ、ということで、ひとつ。



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