「兄上!」
 ロスロリアン国境警備隊長ハルディアは遠くから自分を呼ぶ弟の声に静かに立ち上がる。
 何日も前にオークの大部隊がモリアに向かっているのを目にした彼らは、以来国境の警備を強化していた。
 タランで久方ぶりの休憩をとっていたハルディアは、階下にいる部下たちのざわめきから侵入者が近づいていることを知る。弓と剣をすばやく身に着けると、彼はタランを降りた。そこに弟のルーミルが駆け込んでくる。
「わかっている。見たか?」
「いいえ、オロフィンが向かいましたが」
 ハルディアは知る限りのことを弟から聞き取った。ニムロデルを渡った者がいると聞いて彼の顔は引きしまる。
 すぐに部下達に号令をかけると、ハルディアは木々の間をすばやく駆け抜けた。
(侵入者ども、このロリアンに入り込んで、無事ですむと思うな……!)


 ガンダルフを失った悲しみに暮れる間もなく、モリアを脱出した一行はアラゴルンの先導でロスロリアンを目指した。しかし半刻もしないうちにが遅れがちになり、それに気がついたレゴラスが少女を抱えたのだった。その折、熱があることを知ったレゴラスはアラゴルンを呼び止める。彼女が薬を飲む間だけ待ってくれ、と。
 は食事のたびに手持ちの鎮痛剤と抗生物質を服用していたのだが、この日は朝早くに食事したきりだったで、とうに効果は切れていたのだった。
 レゴラスの提案は受け入れられたが、肝心のが断った。朝に飲んだのが最後だった。もう薬自体がないから、その必要はない。だから、置いて行けと言ったのにと。
 アラゴルンとボロミアの見立てによると、の熱は戦闘の時に折れていた左腕を激しく動かしたために悪化したからだということだった。すぐに命にかかわるわけではないが、あまり熱が続くようなら危険であると。
 そうと聞いた一行は急げる限り急いで走った。そして日が暮れてようやくロリアンの森の中、ニムロデルに到った。
 流れの浅いニムロデルには橋がなかった。先導するレゴラスはそのまま川を歩いて渡る。そして一度ここで休憩をしようという話になった。モリアから脱出して半日近く、足を止めずにきている。
 水や幾ばくかの食べ物を食べる仲間たちをよそに、レゴラスは何も口にしなかった。地面に座り込んではいるが、人間の少女を抱きかかえたまま、じっと彼女を見つめている。
、気分は?」
 みじろいだ少女にレゴラスは囁く。
「……さむい」
 はレゴラスの胸にもたれてだるそうに熱い息を吐く。伏し目がちな目は生理的な涙で潤んでいた。
 彼女にも何か食べさせないといけない。人間であるはレゴラスと違って何日も食事をとらなくてよいという身体をしていないのだ。だが乾燥してぱさついた糧食は彼女の喉を通ってはいかない。レゴラスにできることは何もなかった。
 魔法使いに続いて彼女までもを失ったらどうしよう。自分の無力さをレゴラスは悔しく思った。
「出発しませんか、馳夫さん」
 簡単な食事を終えたフロドは、そう言いながら荷物をまとめて準備する。アラゴルンは頭を振った。
「もう少し休んだほうがいい。ここまでずっと走り通しだったのだから」
 だが珍しいことに、いつもならそれに賛成するはずのメリーとピピンもさっさと立ち上がるのだった。サムもすでに荷を背負っている。
「僕たちならまだ大丈夫。だけど、は……」
 全員の視線が人間の少女に集まった。
「早く安全なところで休ませてあげたいんです」
 フロドの言葉に、レゴラスは腕に力を込めた。それは私も同じだ、と言う様に。
 そして旅は再開する。だが出発してすぐ、レゴラスは音を聞いたように感じた。葉と葉が擦れ合うほどの微かなものだったが、それが何であるかを察して叫んだ。
「みんな、動かないで!」
気がつくと、彼らは弓を構えたエルフの一団に取り囲まれていた。リーダーらしき銀髪のエルフがゆっくりと近づいてくる。を抱えていたレゴラスはとっさの反応ができず、他の者たちも唐突なエルフの出現に驚き、戸惑った。
 進み出たのはアラゴルンだった。
「ハルディア」
 彼は敵意のないことを示しながら男に近づく。
『貴方だったか、アラゴルン』
 ハルディアと呼ばれたエルフは、弓を下ろすよう配下に指示するとアラゴルンに向き直った。アラゴルンはエルフ語で話しかける。
『助けがほしい。ハルディア』
 怜悧なまなざしでアラゴルンを見据えながら、彼は状況を理解したと頷く。
『指輪を葬る決議がなされたことはエルロンド卿の使いから知らせを受けていた。詳しい話を聞かせてくれ』
 続いてレゴラスに視線を向ける。
『ロスロリアンへようこそ。私は国境警備隊長を務める者で、ハルディアと申します。貴方は北の国の一族の方だろうか』
『そうです。私は闇の森のスランドゥイルの息子レゴラス。ハルディア、来て早々ですまないが、薬草はないだろうか?』
 ハルディアはレゴラスが大事そうに抱えている人間の娘をちらりと見やり、失礼と断って額に手を当てる。小さな顔には汗が浮かび、眠っているのか目を開けられないのか、まぶがきつく閉じられていた。人間のことに詳しいわけでもないハルディアにも、娘の熱がかなり高いことはわかった。
『オークの毒を?』
『いや、それは大丈夫だった。ただ、傷から熱が出ているらしくて』
『タランに少しですが蓄えがあります。どの道今夜は泊まっていただくことになるでしょう。ともあれ、移動を』
 ハルディアの先導で一行はマルローン樹の枝の上にあるタランに案内された。まずはハルディアと知己のアラゴルン、指輪所持者のフロド、エルフのレゴラスが話をするために登り、治療のためにも一緒に上げられた。
 先に登っていたハルディアは脇に控えていた二名のエルフ――ルーミルとオロフィン――を紹介した。
『ではレゴラス殿、殿の手当てを行いますのでお貸しください』
 ルーミルは立ち上がってを渡すようにうながした。
『え? ああ、いや、いいんだ。私がする』
『いえ、レゴラス殿は兄と話をしていてください。さ』
 と、ルーミルは両腕を軽く開いて待つ。それでも尚レゴラスは拒んだのだが、とうとうアラゴルンに怒られて不承不承に手渡した。
 話の輪から外れ、それでもエルフなのでしっかり話は聞こえるルーミルは、手早く治療の準備に取り掛かった。
 熱さましの薬草を煎じている間に娘の傷の具合を確かめる。包帯を外すと、動かした弾みに開いたらしい縫い目から血がにじんでいた。濡らした清潔な布でそっと傷口を拭い、血止めの効能のある薬草をすり潰して塗る。煎じた薬湯を器に移して少し冷めるまで待ち、その間、折れている左の二の腕の様子を見た。かなり腫れて熱を持っているそこは、折れている部分がずれたせいだろうと考えた。
 ならば元に戻して固定するしかないのだが、相当の痛みが生じるだろう事は明らかで、それをこの小さな人間の娘にするのは気が引けた。
 そもそも彼は人間の治療をすること自体が初めてで、力の加減がわからないのだ。人間は自分たちに比べればもろい身体をしている。仲間に対してするように少女に触ったら、悪化させてしまいそうだった。
 やはりレゴラスにやってもらえばよかったかとルーミルはちらりと思ったが、北の国のエルフは熱心に話している最中だった。そうでなくても話の邪魔をすれば、厳格な兄に叱られてしまう。
 ルーミルは意を決しての腕に触れ、手探りでずれた部分を元に戻そうとした。
「ん……。や……!」
 の口から細い悲鳴が上がり、反射的に体がよじられた。ぱちりと開いた目は、熱のせいか痛みのせいか定かではないが、涙で濡れている。
!」
 少女の声を聞きつけたレゴラスはすでに彼女の傍らにいた。
「…だれ?」
 はぼんやりしたまなざしで自分の腕を握って困ったようにしているエルフを不思議そうに見つめる。
、彼はルーミル。ロスロリアンのエルフだ。それからここはタランといって木の枝の上にいるんだよ」
 レゴラスはさりげなく少女の腕にかかっているルーミルの手を外し、器の温度を確かめてからを抱き起こした。
「熱さましだよ。飲んで」
 口元に寄せられた器に右手だけ添えて、は中の液体を一口飲み込み、硬直した。レゴラスがのぞきこむと、眉がくにゃりとひそめられていた。どうやら苦かったらしい。それでも大人しく中身をすべて飲み干した。
 その後の手当てはレゴラスが行った。ずれた部分を直し、包帯を巻いて添え木を当てる。歯を食いしばって痛みに耐えていたは、すべてが終わると気絶するように眠りに落ちた。国境警備隊の三人はその様子を驚いたように眺めていたのだった。
 その後、話し合いが終わると一行はタランで休むことになった。ホビットとはここに、残りの者は隣のタランでと分けられたのだが、またしてもレゴラスがと一緒にいたがってしばし揉めた。エルロンドの知らせがあったとはいえドワーフを信用できないハルディアは、レゴラスに彼の監視も兼ねて同じところにいてほしかったのだ。しかし自分もここで休むかを隣に連れていくといってきかず、ハルディアはほとほと困り果てた。一行の中で重要なのはフロド・バギンズというホビットだという。ならば彼と同族のホビットたち、それから軽くはない怪我をしている人間の娘は自分が警護も兼ねて監督するべきだというのがハルディアの考えだった。機知であり信頼できる人間のアラゴルンもいるので、ドワーフの監視は彼に頼んでも構わないのだが、それでもこのタランにレゴラスを残すわけにはいかない。そうするにはここは少々手狭なのだ。
 埒が明かないといらいらしてきたところに、同じようにいらだったアラゴルンがいい加減にしろと一喝し、レゴラスをひきずってタランを降りていった。彼は最後まで人の子の娘の名を呼んでいたが、生憎彼女は眠りに落ちていたので、レゴラスの呼びかけに答えることはなかった。

 朝になり、目を覚ましたは自分がどこにいるのかわからなかった。モリアを出てからの記憶は霞がかっていて、何が起こったのかさっぱり覚えていない。
 朝食を食べていたホビットたちはが目覚めたことに気づくと、喜んで少女の周りに集まった。その声を聞きつけたレゴラスも早速タランに上がってくる。ハルディアたちは改めて自己紹介をし、は治療の礼を言った。その時ハルディアたちは複雑な表情になったのだが、その理由はにはわからなかった。
 食事がすむと、一行はロリアンの奥に向けて出発した。の熱は下がったのだが随分と体力が落ちていたため、昨日に続いてレゴラスが抱えて歩いた。
 しばらく進んでいくと川に差し掛かった。ハルディアが対岸に声をかけると一人のエルフが姿を現し、川の上に三本のロープを渡してゆく。それを見てレゴラスとアラゴルン以外のメンバーは嫌な予感を感じとった。案の定そのロープを橋の代わりとして使わなければならないということだった。川遊びは好まないホビットたちはみんな青い顔になり、どう見ても自分たちの体重を支えられそうにないとボロミアやギムリは渋い顔になった。そして体力を消耗しているは足どりが不確かなので、到底渡れそうにないと困惑する。いくらレゴラスでもロープの上を自分を抱えて歩くのは無理だと思ったのだ。
 だがそれはまったくの見込み違いで、レゴラスは今度もを抱えて軽々とロープを渡りきったのだった。
 それから少々時間がかかったが、何とか全員が渡りきったところでハルディアが一行に呼びかけた。
「貴方がたはロリアンのナイスに入られた。ここより先に進めるのは許されたごくわずかな者のみ。約束通りドワーフのギムリ殿には目隠しをします」
「何だって!? 私はそんな約束をした覚えはありませんぞ!」
 ギムリは憤慨してハルディアに食ってかかった。
「私が間者ではないかと疑っているならそれはとんだお門違いというものだ。私の一族はいまだかつて敵の召使とかかわりを持ったこともなければ、エルフに害を与えたこともない!」
 しかしハルディアはギムリの抗議に心を動かされた様子はなかった。
「私は貴方を疑っているわけではない。これは我らの掟なのだ。是非の判断を下すのは我らの主の役目であって、私の一存で決められることではない」
「……レゴラス」
 はハルディアとギムリのやり取りを邪魔しないようにレゴラスの服を軽く引き、声を抑えて呼びかける。レゴラスはにこにこしての顔をのぞきこんだ。本当に嬉しそうなその表情になぜだか気おされて、は心持ち身を引く。抱きかかえられているため、それはたいした距離にはならなかったが。
「ギムリさんに目隠しをする約束をしたのって、もしかしてあなた?」
「そうだよ。だけどその話をした時にはアラゴルンとフロドもいたけどね。もいたけど、覚えてないんだね」
 あっけらかんとした返答に、は思わず頭を抱えた。
「本人に無断でそんな約束をするものじゃないわ。ギムリさんが気を悪くするのも当然よ」
「だけど、そういう決まりなのだし……」
 アラゴルンもフロドもはじめはのように反対したのだが、「掟」の一言で引き下がったのだった。
「あのね、エルフとドワーフの仲が悪いんだってことは聞いたわ。だからロスロリアンの方がそういうこと言うのはある意味仕方がないことだとは思う。仕事なんだから。でもあなたは違うでしょう、レゴラス。同じ目的を持って集った仲間なのではないの? 種族が違かろうがなんだろうが、こういう時、全員自由に歩けないのなら、せめて全員目隠ししよう、くらいのことを言いなさいよ」
 が懇々と言い諭していると、後ろから声がかかった。
「なにも全員がすることなどない」
 いつの間にか言い争いを止めていたドワーフが、不機嫌そうに闇の森のエルフをねめつける。
「レゴラスも目隠しをするのならここは引き下がってもよい」
 ギムリの言い様にレゴラスは頬が引きつるのを感じた。
「それは嫌味かい? ギムリ」
「心当たりがあるのならそうなんだろうよ」
 そう言うとギムリは鼻を鳴らして腕を組んだ。
 レゴラスとギムリの間の空気が一気に険悪になり、間に挟まれるような位置にいたはわけがわからず二人の顔を交互に見比べるしかできなかった。
 ギムリの言う心当たりとは、今から約八十年前までさかのぼる。竜に乗っ取られたドワーフの王国エエレボールを奪い返すために旅立った、十三人のドワーフと一人のホビットが闇の森を通ったときのこと。
 ドワーフたちは勝手に領地をうろついたという理由で森エルフたちに捕らえられ、目隠しをされ、数珠つなぎに縛られてエルフ王の前に引き立てられたということがあった。
 そのエルフ王というのがレゴラスの父であるスランドゥイルであり、捕らえられたドワーフの中にギムリの父であるグローインがいたのだった。さらにその場にいたホビットがフロドの前の指輪所持者であるビルボ・バギンズなのだが、彼はその時指輪の力で姿が隠れていたので森エルフたちに気づかれることはなかった。
 そしてこの事はビルボから話を聞いたことのあるフロドと、当時裂け谷に住んでいたアラゴルンも知っていることだった。
「二人とも仲間割れをしているときではないぞ。ギムリ、ここは全員目隠しをしていくことにしよう。ただ一人だけ別扱いをすることなどないように」
 アラゴルンが仲裁するが、レゴラスは不満そうに声を上げる。
「全員って、私もなのか!?」
「もちろんそうだ」
 エルフである自分がエルフの国でそんな辱めを受けるなんてとレゴラスは蒼白になる。だがアラゴルンの「早く安全なところでを休ませたいのではなかったのか?」という言葉に引き下がった。
 目隠しをしてもらう間、レゴラスはいったんを下ろした。再び抱き上げるために手を伸ばそうとしたが、目の前の空気が動いた気配を察知して、
「何をするんだ!」
 反射的に目隠しをむしりとり、ハルディアの腕の中で固まっている少女を取り返す。
「何、と言われても。目隠しをしたまま抱えられるおつもりか?」
 感情の起伏がほとんど見られなかったハルディアの面に、初めて困惑の表情が浮かぶ。
「当たり前じゃないか」
 石でもあったら教えてくれ、と言うとレゴラスはまた目隠しをし直すのだった。

 ハルディアは周囲に目を配りながらも思いの中に沈むのを止められなかった。国境警備を務めるハルディアたちであれば、森の中に住む仲間たちよりも外の情報には詳しいのもので、指輪を葬る旅の中核である所持者が絶えて久しく聞くことがなかった小さい人であり、彼の従者と灰色の魔法使いが同道することは聞いていた。
 危険な旅だが隠密の行動だ。当然人数の少なさは各人の技量で補うものと思っていた。つまり、指輪所持者と彼の従者以外は歴戦のつわものだろうと考えていたのだ。しかし予想に反して一行の半数がろくに戦えそうにもない者たちなのだった。
 なぜこのような構成になったのか、ハルディアにはさっぱりわからない。エルロンドの決定でなければ間違いなく異議の申し立てをしていただろう。
 それから、と後ろを歩いているレゴラスが抱えている人間の娘を思い浮かべた。
 一行の中で最も重症を負っているあの娘は、旅の途中で保護したのだと聞かされている。そのことに偽りはないだろうが、どうにも引っかかるのだ。
 人目を避けての旅であるから道の途中には彼女を預けられそうな集落がなかった。だから危険を承知で一行に加えたというが、そもそもなぜあの娘は、そのようなろくに通る者もない場所にいたのだろうか。詳しく聞きたかったが、あの娘のことに話が移るとアラゴルンもレゴラスもフロドも言葉を濁してしまうので埒が明かなかった。
 そうでなくてもあの娘の髪や肌の色、顔つきなどがロスロリアン周辺でも見ることがあるドゥネダインやロヒアリムとは違っている。小柄でいかにも非力そうなその姿から、危険はないだろうとは思われるが。そもそもあの娘が危険な存在ならば、灰色の魔法使いが一行に加えるのをよしとするはずがない。それに、あれほどレゴラスが大事にしているのだから。
 ハルディアはこれまでのレゴラスの行動を思い出して、軽く息を吐いた。闇の森とロリアンはほとんど交流を持たない。だからレゴラスというエルフの行動があれで普通なのかどうか判断はつかないのだが、あれではまるで……。
(まるで?)
 まるでなんだというのだ。ハルディアは頭に浮かぶかかった己の考えを苦笑交じりに打ち消した。

 正午になり、ハルディアは北の国境に向かう一隊と合流した。その部隊の長と情報の交換をし、告げられた内容に困惑した。何度も確認をして、伝え忘れがあったわけではないことがわかると彼らと別れてから一行に向き直った。
「みなさん、ガラズリムの殿と奥方より伝言が寄せられています。裂け谷から新しい知らせが入ったとのこと。よって、裂け谷から来られた方々は全員自由に歩いてよろしいとの仰せです」
「……は?」
 早速目隠しを外したレゴラスが、全員が思っていたことを代表して問うた。
殿だけはこのままです」
「なぜ?」
 レゴラスの目が細められる。
「何も言われておりませんから」
「どういう意味ですか?」
 は目隠しをしたまま、声のするほうへ顔を向ける。
「私は昨夜のうちに弟のオロフィンを使いに出しました。もちろん貴方がたのことを伝えるためです。オロフィンは殿のことも知っているので伝え忘れたということは考えられないのですが、返答はあくまでも「裂け谷から来られた方」へのものです。貴女はその条件に該当しません」
「だからそれは! は旅の途中で保護をしたのだと言っただろう。エルロンド卿はを知らないんだ!」
 ハルディアは努めて淡々とした表情を崩さなかったが、内心では居心地が悪くてたまらなかった。それははっきりと不服の表情を示すレゴラスの視線のせいでもあるし、いぶかしげな、あるいは困惑の表情を浮かべる他の一行のせいでもあるが、しかし一番の原因は、の眼だった。
 短い間ではあったが、朝の光の下で見たの大きな眼が脳裏に浮かんで離れない。外見の幼さには合わない、妙に落ち着き払った、そしてなにかを諦めてしまったようなまなざし。
「つまり、中に入るのを許されなかったというわけですか。戻れということ?」
 の声に怒りはなかった。小さなおとがいを上げてじっとハルディアを見ている。見えているわけではないにしても。
「ここまで入った以上戻ることはできません。貴女はこのまま我らの都に入り、そこで殿と奥方に裁いていただくことになる」
 はハルディアの言葉に気色ばんだレゴラスを押しとどめると、
「わたしの故郷には「郷に入ったら郷に従え」ということわざがあるんです。ここはロスロリアンなのですから、ロスロリアンの掟に従いましょう」
 唇を笑みの形にした。
「ご理解、感謝します」
 ハルディアは深々と一礼すると、レゴラスに向かって軽く腕を開いた。
「では、レゴラス殿。殿をお渡しください」
「……彼女を罪人扱いするのか?」
 レゴラスは一瞬呆然と眼を見開いた。
「同じことを何度も言わせないでください。是非の判断を下す権限を、私は持っていないのです」
 ずいと踏み出すと、レゴラスは反射的にハルディアから遠ざかる。
「レゴラス殿!」
は渡さない」
 少女も制止するが、レゴラスは聞く耳を持たなかった。
「お叱りなら私が受ける。君の仕事を、私が勝手に邪魔したんだからね」
 冷ややかなまなざしをハルディアに向けると、彼は長い腕を絡めてを愛しげに抱きしめた。
 これ以上説得するのは無理だと判断したハルディアは、仕方なくをレゴラスに任せることにした。そして再び出発したハルディアは、先程打ち消したばかりの考えが確信に変わるのを感じていた。
 彼は、レゴラスは。『まるで』ではなく『本当に』恋しているのだ。
 人間の娘に。




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