夜が明けて、一行はここから先、どこへ向かうかと話し合った。灰色の魔法使いを失った彼らは、どの道をたどろうとも、その先に望みをつなぐことができなくなったのだ。ゴンドールか、モルドールか。はたまた、それぞれの意志に任せてここで旅の仲間を解散するか。
選択は指輪所持者であるフロドに任せられた。彼は暗い顔でしばらく一人になりたいと願い出る。アラゴルンはこれを許し、仲間たちははフロドが戻るまで野営地で待つこととなった。
彼らはしばらく押し黙ったまま落ちつかなげにしていたが、やがて輪になって座り、ぽつりぽつりと話しはじめた。ただボロミアだけはきまり悪げに一人輪から外れていた。
は話に加わっていたものの、ほとんど聞いてはいなかった。昨夜はあの後眠ることができず、また大泣きしたこともあって頭の中が綿にでもなってしまったかのようにぼんやりしていたからだ。
朝の身支度としていつもはきっちり結っている髪も下ろしたまま。なぜなら睡眠不足と泣きすぎで目は真っ赤、顔はひどくむくんでしまっていたからだ。それに気づいたレゴラスが何事があったのかと力一杯知りたがったのだが、いたずらに仲間たちの分裂を招きかねないと判断したは口をつぐんで一切答えようとしなかったのだ。
そしては時折睡魔に負けてうつらうつらと船をこぐ。見かねたレゴラスが自分に寄りかかるように言うと、彼女はありがたくその言葉を受け取った。
しばらく昏々と眠っていたは、声にならない悲鳴と共に飛び起きた。
「?」
男たちは弾かれたように立ち上がると少女の周りに集まる。
「一体、どうしたっていうんだ?」
アラゴルンが困惑したように眉間にしわを寄せた。
(フロドが指輪をはめた!)
は答えようとしたのだが、恐怖に固まった喉からはどんな声も出てはこなかった。落ち着け、落ち着けと彼女は自分に言い聞かせる。
(フロドに何かあったんだわ。この恐怖はわたし感じているものじゃない。彼が感じているものだ。何が……何があったというの?)
その時恐怖の束縛から逃れようともがくの脳裏に、黒い塔の姿が浮かび上がった。塔の頂には巨大な赤い一つの目が、強烈な意志を発して存在していた。
(サウロン――!)
初めて目にする暗黒の王。これが自分たちの敵なのだ。
は息苦しいほどの圧迫感を感じて身体を丸めた。四肢の先は火にあぶられたように熱いのに、身体の芯は凍えるほど寒い。手足が震える。息がうまくできないのだ。浅い呼吸を繰り返し、はどうにかして気絶することを免れる。
一つの目は塔の上から求めるものを取り戻そうと手のように黒い影を伸ばした。我が物を取り戻そうとする狂おしいほどの渇望が嵐のように吹きつけてくる。
(外して、外して! 指輪を外して!)
フロドに届くはずもないと知りながらも、は胸の内であらん限りに叫んだ。影の手は黒い門を超え,一面に広がる沼地を過ぎ、アモン・ラウに触れ、トル・ブランディアを一瞥した。
(いや……こっちにこないで!)
抵抗という抵抗はすべて封じられ、なす術もなく黒い手が伸ばされるのを待つしかできなかった。逃げたところで、サウロンの意志はどこまでも追ってくるだろう。そして逃げようにも、身体はまるで動かないのだ。恐怖に縫いとめられてしまったがゆえに。
(……?)
だがふいに心が軽くなり、忌まわしい影は姿を消した。
「あ……」
まだ恐怖の残滓が残っている身体をそろそろと起こすと、心配そうな表情の仲間たちがわずかに安堵したようにをのぞきこんでいた。
「、。大丈夫? 何があったの?」
は自分を抱きとめているレゴラスを放心したように見上げた。そしてゆっくりと仲間たちの顔に順繰りに眺める。
アラゴルン、ギムリ、サム、メリー、ピピン。
(ああ……)
一人足りないことに気づいたは何が起きたかを悟ると、彼のために涙を流した。最悪の事態は免れたのか、にはわからなかった。しかし、今の彼女にできるのは、これだけしかなかった。
「フロドを探して。指輪をはめてしまったの」
フロドを探すため、岸辺を離れたアラゴルンたちと入れ違いになるように、フロドが一人戻ってきた。
船と荷物が残る岸辺。誰もいないのは、きっと自分を探しているからだ。フロドは服越しに指輪を握り、悲しみをこらえた。
仲間たちがいた痕跡はかすかにフロドを安心させた。一人ではないのだと感じられたから。だけどもう、一緒にはいられない。
フロドは自分の荷をつかむと、船に乗せた。それを川の流れに乗せるために押す。ロスロリアンの木でできた船は軽いが、ホビット一人の力で細かい砂利の岸辺に引き上げられた船を押し出すのは骨が折れた。
「よい……しょ」
フロドは一生懸命力をこめる。決意を固めたことで少しは心の中に満ちる不安から気をそらせられると思ったが、そういうわけにもいかないようだった。
こんな旅にでたばかりに、ガンダルフを失ってしまった。そして指輪は仲間にも手を伸ばしたのだ。
狂気に捕らわれたボロミアの顔がよぎる。だが彼がことさら弱かったのではないのだろう。フロドの近くにいるものは、遅かれ早かれああなるのだ。多少持ちこたえられるものがいるとしても。
一人で行くのは怖かった。だが自分はそれをやりとげなければならない。これは自分に課せられた使命なのだ。わかれの挨拶をしたかったけれど、そんなことをしたらきっと止められるだろう。心残りもあったが、きっと距離が解決してくれる。きっと、おそらく。そうであることを祈りたい。
ようやく船が川面に浮かび、フロドは船に乗り込んだ。岸から離れてすぐ、遠くから自分を呼ぶ声とともに転がるように走ってくる人影が見えた。
「旦那! フロドの旦那! 待ってくだせえ!」
サムは船の上のフロドを認めると、泳げないにも構わずに、置いていかれまいと水に入る。
「戻れ、サム! この先は一人で行く!」
「わかってますだ。だからおらも行きます!」
サムは怯まなかった。ザブザブと水をかきわけてフロドの元へ行こうとする。しかしもう少しというところで深みにはまり、沈んでしまった。
「サム!」
慌てたフロドは船を戻し、サムを引き上げる。ぜいぜいと息を切らすサムは、それでも決心を変えてはいなかった。
「おらは旦那のお供ですだ。ガンダルフとも約束したんです。サムワイズ・ギャムジーはけして旦那から離れないって。そうするつもりですだ。約束がなくたって、そうしますだ!」
「サム……」
ただ一人で行くという決心は、サムの行動ですっかり台無しになってしまった。けれどフロドの胸中には喜びがこみあげてきていた。どうやら指輪破棄の旅は、彼も共に行く運命のようだと。
再び船を漕ぎ出したとき、頭上で鋭い鳴き声がした。見上げると、真っ白い翼の鳥がフロドめがけて急降下してきたのだった。
鳥は船にぶつかる直前に少女の姿に戻った。
「!」
船は大きく揺れ、フロドとサムは落ちないように船縁にしがみついた。少女はよほど焦っていたらしく、しばらく荒く息継ぎを繰り返していたが、落ち着きを取り戻すとその柔らかい茶色の瞳に悲しみを湛えてじっとフロドをみつめた。
「行ってしまうつもり? あなたたちだけで」
「うん」
フロドは悲しげに笑った。指輪を持たずに指輪の重荷を背負うことになった人間の少女。彼女はきっとなぜ自分がこの選択をしたのか、察しているのだろう。
「最後に会えて良かった。には頼みたいことがあったから」
「いやよ」
はきっぱりと頭を振った。
「まだ何も言ってないよ。あのね……」
「いや!」
駄々っ子のように聞く耳をもたないに構わず、フロドは話し続けた。
「カタシロを解いてほしいんだ。そしてできることならロスロリアンに戻って、迎えがくるまでそこにいてほしい。あそこなら旅の結果がどうなっても、迎えの方がきてくれるまでは持つだろうから。いままでありがとう。それから、ごめ……」
「謝ったりしたら怒るわよ、フロド・バギンズ! わたしはわたしの意思で一緒に行くんだって言ったじゃない。そうするべきだと思ったからそうしたのよ。あなたが悪いことなんて何もないじゃない」
「僕もそうだよ。そうするべきだと思った。だからみんなとは離れるんだ」
少しの間フロドをじっとみつめると、は小さなホビットの身体を抱きしめた。
「ごめんなさい、フロド。困らせたいわけじゃないの。でも、術は解かない。ロスロリアンには戻らない。みんなが戻ると言わない限りは。……だけどあなたのことも止めないわ」
「そうするべきだと?」
腕のなかでフロドが小さく呟いた。
「そうよ」
「……わかった」
別れの挨拶を交わして船を降りたは、岸辺でフロドたちが対岸に渡るのを見送った。船を下りたフロドに向かって彼女はゆっくり手を振る。幅広の袖は風をはらんで翻り、彼女の翼を思わせた。
最後にと振り返ったフロドとサムはそれに気づき、二人とも手を振りかえした。そして荷を担ぎ、エミン・ムイルへの道を求めて歩き出した。
行ってしまったとはそっと溜息をついた。
これが最良の選択だったのかはわからなかったが、そうするしかできなかったのだけは確かだった。
塞いだ気分を振り払い、フロドとサムを行かせたことをみんなにも伝えなければと踵を返そうとした時、背後から透明な声がした。
〈フロドは行ったのだな〉
穏やかな、しかし哀切な響きを帯びたその声は、ボロミアのものだった。目を見開き動きを止めた少女の背にボロミアは話しかける。
〈すまなかった、。昨夜の今日で、こんなことに……〉
「ボロミアさん!」
勢いよくが振り返ると、まさか聞こえると思っていなかったらしいボロミアは、驚いてたじろいだ。
〈お前……私が見えるのか?〉
「ボロミアさんどうして? わたし、わたし、間違えてしまったのね。知っていたのに。あなたが指輪に狙われているって、知っていたのに!」
ぼろぼろと涙を流す少女にボロミアは小さく頭を振った。
〈お前が悪いんじゃない。私が弱かったせいだ。指輪の誘惑に耐え切れなかった〉
「でもそれは、ゴンドールを思ってのことでしょう。あなたの愛する故国を」
〈だからといって許されることではない。私は事の重大さを理解していなかったのだから。指輪は葬られるべきなのだと〉
わずかに輝きを帯びた、しかし背後の景色が透けて見える、ボロミアであってボロミアではなくなった者の強い口調に、はかける言葉を失ってしまった。
ボロミアは娘の頬に手を伸ばす。涙を拭おうとしたが、それは叶わなかった。ボロミアの手は彼女をすり抜けてしまう。
彼はそっと手を下ろすと、痛みをこらえるような表情でに告げた。
〈よく聞いてくれ。メリーとピピンがオークにさらわれた。アラゴルンには今際の際に伝えることができた。だからおそらくこのあと彼は二人を助け出そうとするだろう。お前の選ぶ道は二つある。アラゴルン――我が王と共に行くか、それともその白き翼でエルフの黄金の森へ戻るかだ〉
ホビットたちがさらわれたということに息をのんだだったが、我が王というボロミアの言葉に彼女はわずかに瞳を明るくした。
〈王がゴンドールに戻られる。長きに渡って待ち望まれていた王が〉
ボロミアは薄く笑った。
〈私も共に行きたかった。共に戦い、共に守りたかった。白き都と我らの民を。もう叶わぬ望みだが。なんということだろう。今になってから大切なことがわかるとはな〉
ボロミアは目を閉じる。はまばたきをして涙を振り落とした。
「わたし、アラゴルンと一緒に行きます。メリーとピピンを助け出すわ。必ず。……その先がどうなるかは、わからないけれど」
〈すまない〉
毅然と顔を上げる少女に、ボロミアは苦しげに顔をゆがめた。
〈すまない。本当に〉
はそっとボロミアの背に腕を回した。完全には後ろに回らず、そしてやはり触れることはできなかった。
〈。このようなことを頼める身ではないのだが……〉
「何ですか?」
〈……いや、やはり、だめだ〉
「そこでやめないでください! 気になるじゃありませんか。聞かせてください。わたし、何を言われてもちゃんと考えた上でお返事しますから」
憤然と頬を膨らます少女を、ボロミアはほほえましく思った。それはまるで迫力のない代物だったが、彼女の必死さは伝わってきた。だからこそ言うのはためらわれた。考えた結果として受け入れるにしても断るにしても、言えばこの娘は絶対に苦しむ。それなのに、死者の願いとして告げるとはあまりに浅ましいのではないか?
〈先に言っておくが、断ってくれてかまわないからな。これは私の感傷なのだから、お前がそれに囚われる必要はないのだ〉
真剣な表情では頷いた。
〈心残りがある。ゴンドールのことだ。戦いの行方を、王の戻られた国を、私の代わりに見届けてほしいのだ〉
ボロミアに告げられた事の意外さに、は驚き、またなぜ言うのをためらったのか納得した。
今ならゴンドールに行くということに関しては異存はなかった。フロドの運命はからも離れた。そしてアラゴルンと共に行くとなれば自ずとそうなってしまうのだろうから。
しかし戦いの行方を見届けるとなると、どれだけ時間がかかるかわからなかった。ヴァロマが来るまでに終わるのならば構わないのだが、そんな保障はどこにもない。
彼の気持ちを思えば無碍に断ることなどできるはずがなかった。だが承諾すれば自分は一生帰ることができなくなるかもしれないのだ。ボロミアもそれをわかっているのだ。だからこそ言うのをやめようとしたのだ。あえて言わせたのは自分だ。
はぐらぐらと揺れ動く心を静めようと大きく息を吸い込んだ。
懐かしい故郷。大切な人々。誰よりも大好きな、大好きな、大好きな半身。ボロミアの願いを受け入れるのならばそれらすべてと別れる覚悟をしなければならない。それは身を切られるより辛いことだった。
はそこまで自分がしなければならないのだろうかと己に問うた。
(だけど――)
目の前にいるのは、いつ終わるともしれない戦いを続けてきた国に生まれた男だった。
故国を愛して、愛して、愛するあまりに命を奪われた男だった。
は目の端に残った涙を乱暴に拭うと、俯いていた顔を上げた。
「わかりました。お約束します」
彼女の長い沈黙を否定の発露だと思い始めていたボロミアは、信じられないと目を見張った。
「わたしには剣を振るう力はありません。あなたの代わりにアラゴルンと共に戦うことはできない。ここにいるのは非力な異邦人です。神々に慈悲をこいねがうことさえできなくなった無力な娘です。だけど、見届けることならできます。ありがとう。わたしにできることを、あなたはくれたんだわ」
涙の跡もそのままに、少女は鮮やかに笑ってみせた。
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