光の差さない真っ暗な中、ガンダルフの杖の先に灯った明かりを頼りに一行は進んで行く。階段はあちこち崩れ、通路のそこここに裂け目や穴ぼこがある。進みにくいことこの上なかったが、足元にばかり注意しているわけにもいかない。どこに敵が潜んでいるかわかったものではないからだ。
 転んでもとっさに片手が使えないは、危ないからとレゴラスに手を引かれて歩いている。暗がりでも目の利く彼は危ない個所があると小声でそうと教えてくれる。
 音はなかった。外界から遮断されたこの坑道に、生き物がいる様子は感じ取れない。聞こえるのは一行の足音や衣服の金属部分が触れ合う音くらいだった。
 モリアに入って何時間経ったのか。時間の感覚もあやふやになったが、真夜中にはなっているだろう。けれど誰も休もうと言い出さなかった。
 全員の頭には入り口のドワーフたちの死体がある。不吉な予感をひしひしと感じるが、後戻りも出来なくなった。ひたすら先に進むしかない。
「右の方に石が落ちてる」
「ん」
「あ、ちょっと飛んで。大き目の穴が開いてる」
「ん……っと、きゃ……」
 レゴラスの指示で右に左に蛇行するように進んでいたは、ジャンプしたものの穴の縁にかかとがひっかかり、体勢を崩す。小さく悲鳴をあげると、とっさにレゴラスが彼女を抱きかかえた。
「大丈夫?」
「……なんとか」
 神経が過敏になっているところへ出来事だったため、は肝をつぶした。息を整えながらレゴラスに礼を言う。これまで通った道では、手すりのない階段などもあった。うっかり転んだら落下していた、などということなったら洒落にならない。
 レゴラスは浅く息をするの頭をよしよし、となでた。優しい手つきに安心感を得られたものの、どこか釈然としない。
(……前から思っていたけど、レゴラスってわたしのことをちゃんと人間だと認識しているのかしら。なんだか扱いが怪我した動物の仔に対するもののような気がする)
 出会い方のせいだろうかとつらつら考えていると、周囲の状況がさっきよりも良く見えるようになっていることに気がついた。全体的に明るくなってきているのだ。おかげで道の片側が崖であることがよくわかる。これならばでも転ぶことなく進めるというものだ。
 けれどどこに光源がと不思議に思っていると、ガンダルフが説明を始めた。
「どうやらこのあたりはミスリルの採掘跡地のようじゃ。かすかに残るミスリルが小さな光を増幅させておる」
 ガンダルフが杖の明かりを消すと周囲のほの明かりも消えうせた。このあたりの石に光をよく反射する金属成分が含まれているのだとは気づく。
「ミスリル?」
 メリーがたずねる。
 ガンダルフは再び杖に明かりを灯してから答えた。あたりにはまた白い光りがにじんだようにきらめきだす。その輝きは胸にうずまく不吉さを消し去ってしまうような清らかさだった。
「ミスリルはモリア銀とも呼ばれておる。銀という名がついていても銀とは別のものじゃ。銅のように打ち延ばすことができ、ガラスのように磨ける。ドワーフたちはこれ軽いが鋼よりも堅い金属に作り上げることができた。金や宝石はミスリルの価値に比べれば足元にも及ばぬ。モリアが繁栄したのもそれが理由よ」
 ガンダルフは杖の明かりを崖下に向ける。白い光が強くなった。つられてみんながのぞきこむと、感嘆の表情が浮かんだ。どこまで続くとも知れない深い谷底全体がちらちらと光っていたのだ。
「ミスリルを掘ったからこんなに深い谷ができてしまったのかしら」
 が呟くと、ギムリがゆかいそうに笑った。
「いやいや、この谷は自然にできたものだろう。ドワーフはどんなに急な斜面でも足場を作って採掘することができるのだよ。もっともミスリルを掘ったので、この谷の形が変わったかもしれないが」
「まあ」
 珍しいドワーフの軽口に、ふふっとも笑った。全員の上にのしかかっていた緊張感がこのなごやかなやりとりで消えてゆく。
厳しい顔で眉間に深いしわを刻んでいたガンダルフも今は笑みを浮べていた。
「ビルボはミスリルの胴着を持っておった。トーリンからの贈り物じゃ」
「なんですと?」
 ギムリはぎょっとして魔法使いを仰ぎ見た。
「わしはビルボに教えたことはないのだが、あれの値打ちはホビット庄全部を合わせたものより大きいのじゃ。ビルボはこの胴着を裂け谷へ持っていったのじゃろうか。そうでなければまだマゾム館で埃をかぶっておることじゃろう」
 ギムリはそれを聞いて残念そうな顔になった。もしかしたら貴重な宝を目にすることができたかもしれない可能性を思ったのだろう。
 そして静かにこの話を聞いていたフロドは驚きを飲み込んだような顔をしていた。義理の父がそれほどまでに価値があるものを持っていたと知らなかったのだろう。
 それにしても、とは意識を切りかえる。
 ミスリル、トーリン、ビルボ、裂け谷、マゾム館と知らないものの名前がどんどん出てくる。は知らないことを知ることは苦にならないが、それでも一度にたくさんでてくるとそれが何であるかを理解しきれず、話が把握できなくなるのだった。
 そうでなくともこの一行は四つの種族で構成されているため、文化や種族的な性質がみんな違う。覚えなければいけないことは、きっとまだまだあるだろう。その膨大さを思ってはひそかにため息をついた。
 ミスリルの光を後にした一行はやがて傾斜のきつい階段に差しかかった。半分以上崩れているそれは、かなり危なっかしい。
 片手が使えないには厳しいかと、レゴラスは彼女を抱きあげる。しかし射手がいざという時にとっさに動けないのはよくないと断固たる抵抗にあってしまった。
 確かにそういったことも考えなくてはいけないとレゴラスは認める。けれど彼は森エルフだ。闇夜に小鳥の目を射抜けるという評判を得ているレゴラスにとって、の心配は杞憂に等しい。敵に攻撃を受ける前にレゴラスはその存在に気づけるだろう。彼は目だけではなくかすかな物音も聞き取れる耳を持っているのだ。
 だから遠慮なく頼ってくれて良いのに。
 けれどその願いは今のところ叶っていない。それがレゴラスには不満だった。
 彼女は彼女なりに、自分がレゴラスたちの旅の妨げになっていると思っているようだ。確かに怪我人が一行にいるというのは、懸念材料にはなる。けれどそれはその怪我人が邪魔であるという意味ではない。できるだけ早く治ってほしい。そのためにはきちんとした手当てができる場所に行き着きたい。それが不可能ならば、悪化しないようにさせたい。
 そう思うのは当たり前のことではないか?
(だというのに、ってば……!)
 レゴラスがの世話をしたいと思うのはレゴラスの意志だ。これが古馴染みのアラゴルンのように、黒くて大きくて臭う上にあまり可愛げがない相手であるのならばレゴラスもこうも不満には思わないだろう。アラゴルンが怪我をしたら、それはそれで心配はするだろうが。
 レゴラスは自分の脇を歩く小さくて白くて可愛い生き物をそっと見下ろした。レゴラスの肩より少し下にある栗色の頭をなでまわしたい。血や土埃でくすんできている白いローブを手入れしたらどれだけ綺麗だろうか。それに、うかつに動かさないようにと首からつって固定している左腕――。怪我が治って自由に動かせるようになったら、きっと先ほどより見事な舞を見せてくれるだろう。
(さっき……か。何日も前のような気がしていたけど、まだ一日だって経ってはいないんだよなあ)
 モリアに入る前の出来事を思い出し、レゴラスは苦笑した。エルフの自分が時間の感覚を狂わせているなんてと、おかしくなる。
 けれどのんきに構えているわけではない。生の気配が感じられないこのモリアに、ドワーフたちが古の王国を復活させているとは思えなかった。何が起きたか起こるのか、エルフの予感は働かないにしても、レゴラスはただ一つのことを決意していた。
(安全な場所にたどり着けるまで、のことは私が守るんだ。もちろんフロドのことも忘れていないけど、敵が襲ってこない間は私まで彼にかかりきりにならなくても大丈夫だろう。ミスランディアやアラゴルンもいるのだから。しばらくは分担制ということにしてしまおう、うん)
 アラゴルンや魔法使いが聞いたら馬鹿エルフ! と青筋を浮べて怒鳴りそうなことをエルフの王子は心の中で勝手に決めるのだった。
 階段を上りきると、道が三方にわかれていた。道は同じ方向に向かって伸びているが、一つは上りに、もう一つは下りに、そして残る一つは平坦な道になっているようだった。
「この場所は記憶にない」
 ガンダルフは困惑したように呟く。そして彼は何か決め手になるものはないかと、道の入り口を探ったが、何も見つからなかった。
 先に進むことが出来なくなった一行はここで休憩することになった。ガンダルフは三方の道が見える大きな岩の上に腰かけ、パイプをくゆらせていた。岩の下にあるやや広い平らな場所に焚き火を起こし、他の者はそこにじっとしてガンダルフの邪魔をしないように努めていた。
「僕たち、迷ったのかな」
 モリアの門で学習したことを覚えていたピピンは、小さな声でメリーに囁いた。
「どうなんだろう」
 メリーにはそんなことはわからなかった。
「迷ったんだと思うよ」
「しーーーーーっ」
 ピピンの言葉にメリーは慌ててピピンの口をふさいだ。こんなことがガンダルフに聞かれたら、また叱られると思ったからだ。
「メリー」
「なんだよ」
「お腹すいた」
「……僕もだよ」
 静かな暗い空間で、長時間の歩行の後だ。座りこんでからしばらくすると、疲労からはこくりこくりとうたた寝をしだす。安眠できるような場所ではないものの、たゆたうようなまどろみは心地良い。だが何度目かの舟こぎの後、カクリと頭が動いた弾みでは目を覚ました。一瞬何があったのかわからなかったが、目を瞬かせて、ああ、眠りそうになっていたのかと思い当たり、ぼやけた頭をすっきりさせようと立ち上がる。
「ここにいてもいいですか、ガンダルフ」
 上に上がって、ガンダルフの座っている岩に寄りかかった。魔法使いはパイプの先から煙をくゆらせながら頷く。
「かまわんよ。じゃが、無理をすることはない。眠いのなら今のうちに、眠ってしまうことじゃ」
「いいんです。起きていたいから」
 が小さく頭を振ると、ガンダルフはそれ以上何も言わず、の頭をなでた。
 その一方では手持ち無沙汰なフロドがこれまで上ってきた階段の下を見下ろしていた。暗闇の中でぼんやりしていると、何か動くものがいたように思えたのでフロドは気を引かれる。よく目を凝らしてみると、岩から岩へ飛び移ってゆく何者かの影をはっきり見たのだった。
「誰か下にいます」
 フロドは焦ってガンダルフの横に駆け寄った。ははっとしたように顔を上げる。
「敵なの?」
「ゴラムじゃよ」
 ガンダルフは落ち着いて煙を吐き出しながら答えた。
「ゴラム?」
「ゴラムだって?」
 はその名が誰のことか思い出せず、困惑した。片やフロドはすぐにその名が誰のことか思い当たり、戸惑った。
「しばらく前からついてきておる」
 ガンダルフは動じない。そこへ足音をさせずにレゴラスがやってきて、密やかな会話に加わった。
「そうか、あれはゴラムだったんですね。こそこそと隠れるように移動してばかりいるから、正体がつかめなかったんだ。けれどあれがゴラムなら、どうしてここにいるんだろう」
「レゴラスさん、気づいていたんですか?」
「うん。だけどこっちの様子をうかがうばかりで襲ってくるようではなかったから、泳がせていたんだ。オークではないようだったからね」
 レゴラスは階段下に目を向ける。もうそこに小さな怪しい影は見つからなかった。
 ゴラムをじかに見たことがあるのは、ガンダルフとアラゴルン、それにレゴラスだけだった。そしてレゴラスにとってゴラムはこの旅に加わるきっかけとなっている存在だ。父王スランドゥイルがゴラムを囚人として預かってほしいとガンダルフに頼まれたものの逃げられてしまったため、その謝罪と弁明のための使者として裂け谷へ赴いたのだった。もっとも指輪隊の一員に選ばれたのは、この件とは別の思惑があってのことだろうとレゴラスは考えていたが。
 魔法使いはレゴラスの疑問に答える。
「指輪に誘われてきたのじゃろう。ゴラムは長い間指輪を所持し、ために指輪の魔力に蝕まれた。それは指輪を失っても消えることはない。愛着と憎悪。ゴラムはこの二つの感情に突き動かされておる。再び指輪を取り戻そうと、永らく隠れ住んでいた暗い山の下から這い出てきたほどにな」
 ガンダルフの言っている暗い山というのは、ここモリアのある霧ふり山脈ではあるが、もっと北の方だとフロドが付け加えた。それからゴクリと指輪の関わりと、それがなぜフロドの手に渡ったのかを彼はかいつまんでに教えた。偶然の上に偶然が重なったような数奇な内容に、は彼にかける言葉が見つからなかった。誰の手にも負えない禍々しい指輪。それをフロドが請け負わなければいけない理由は、その話からは何ひとつないように思える。彼はただの被害者ではないかとは憤った。
 フロドは話し疲れたかのように、背中を丸めてため息をついた。
「ビルボがあの時に、あいつを殺しておけば良かったのに、なんて情けない」
 黙ってフロドに話させていたガンダルフは、ぴくりと眉を動かした。
「情けないじゃと? その情け、情こそがビルボの手を止めたのじゃよ。なればこそ、彼は悪の害を受けること少なく、そこから逃れることができたのじゃ。多くの死に値するものが生きており、幾人かの生きるに値する者が死んでしまっている。お前さんは命を彼らに与えることができるのかね? 死の判決を下すことに熱心になってはいかん。賢者にしても全ての結末を見通すことはできぬものじゃ。わしの心は、ゴラムが全てが終る前に善かれ悪しかれ、果たす役割があると告げている。そしてその時が至れば、おそらくビルボの情けが指輪の運命を決するじゃろう、とな」
 重々しくいい諭すガンダルフの言葉をじっと聞きいっていたフロドは、胸元にあるものを服越しに握りしめた。
「ごめんなさい。でも僕は怖いんです。だから頭から離れないんです。指輪なんか、僕のところに来なければ良かったのにって。こんなこと、みんな、みんな、起こらなければ良かったのに」
 強く目をつぶりその声は悲痛に満ちている。
「こんな時代に行き当たった者は誰しもそう思う。しかしどのような時代に生まれるかは決められないことじゃ。わしらがせねばならんのはこの与えられた時代にどう対処するかを決めること。この世界には邪悪な意思の他にも働いている力がある。ビルボは指輪を見出すように定められた。ただし指輪の主によってではない。そしてフロド、お前さんの場合もまた、それを持つことを定められたのじゃ。付け加えるならば、わしもまたそれらを導くように定められておる。それは勇気づけられる考えじゃないかね」
 二人のやり取りをじっと聞いていたは、ふ、と瞳を伏せた。そのまま自分の膝に額を埋める。
?」
 眠いの? とフロドが声をかける。頭を振るだけの否定の返事をして、は切なげに魔法使の名を呼んだ。
「ガンダルフ。ガンダルフ」
 密やかな声はわずかに震えていた。老賢人は黙って少女の華奢な肩に優しく触れる。が泣きだしたと気づいたフロドは、慰めようととっさに腰を浮かせたのだが、いったい何を言えばよいやらさっぱり思い浮かばず、またゆっくりと腰を下ろした。
 そもそも彼女が泣き出す理由がわからない。ガンダルフの話は確かに考えさせられるものだったが、が悲しく思うようなことはなかったはずだ。
 ガンダルフを見ると、彼は何もかも得心したように、哀れみを込めたまなざしで、声を押し殺して泣く少女をなだめ続けた。二人の入り込めない雰囲気に気まずくなったフロドは、そっと顔をそむける。そして予想外に近い場所にいたエルフと視線が合ってしまった。フロドと同じように彼女を慰めようとして、その機会を失したらしい。レゴラスはさりげなさを装ってやり場のなくなった手をおろした。
 しばらく気まずい静けさが支配していたが、やがて魔法使いが己の膝を叩き、
「おお、思い出した。あの道じゃ」
 晴れ晴れと告げた。

 旅は再開され、ここでフロドは少々の冒険を試みてみた。いつも少女のそばにいるエルフの先手を打って、と手を繋いでみたのだ。案の定、後方からレゴラスの刺すような視線を感じたが、フロドはわざと気づかないふりをした。
 フロドの行動には少し驚いたように目を見張った。繋いだ手の平は温かく、そして柔らかい。
……」
「ん?」
「えっと、あの……」
「うん、なあに?」
 見上げるとはもう泣いてはいなかった。柔らかな笑みを浮かべ、フロドの言葉の続きを待っている。涙の名残か、瞳はいつもよりも潤んでいて、先を歩くガンダルフの杖の明かりを受けて、不思議な輝きを放っていた。
「その……大丈夫?」
 フロドは言ってから自分の言葉の陳腐ぶりを口惜しく思った。もっと気の利いたことを言えればいいのにと。
「ガンダルフは、どこまで知っているんだろうね」
 は少しだけ目を細めて笑う。
「え……?」
 何がどこまでなのだろうとフロドが首をかしげると、は何でもないと頭を振った。
「困っちゃうなあ……」
「何が?」
 は本当に困っているようで、弓月形の眉はひそめられていた。だが、その下の表情は穏やかにほほえんでいるといってもよいもので、フロドはますます困惑した。
「あのね、フロド。わたし、フロドが好きよ」
 少女の唐突な告白に背後の空気が一気に固まった気配がした。突然のことでフロドは真っ赤になる。
「あ……え……その、ありがとう」
 はもごもごと礼を言うフロドに、ふふ、とほほえみ、繋ぐ手に力を込める。
「みんな好きよ。ガンダルフもレゴラスもギムリさんも。サムもメリーもピピンも。アラゴルンもボロミアさんも」
 の言葉にフロドと後ろの七人は一気に脱力した。
「あ……そう。そういう意味」
 フロドはあはは、と乾いた笑いを浮かべ、は何やら一人で納得したように頷いていた。
「つまり、そういうことなのよ」
「……?」

 真っ暗なモリアの中では、今が昼なのか夜なのかまるで見当もつかなかったが、導き手のガンダルフによってその後は順調に進み、丸一日が経過した。小休憩を挟んで歩きつめていると、やがて狭くて曲がりくねった道が不意に途切れた。自分たちが立てるかすかな音の響きや、床の堅固さから、そこが広い場所であると一行は知った。
「選んだ道に間違いはなかった。思い切って少し明かりを強くしてみるかのう」
 ガンダルフはほっとしたように言うと杖を高く掲げた。杖の先の光が強まり、一行の影が大きく伸び上がる。
「わしの推測が間違っていなければ、ここは東の山腹からそう遠くない大広間じゃろう。昔は坑道の上層階には大きな窓や外の光をとりいれる採光筒があった。昼間であれば闇に難儀することはなかったじゃろうに」
 光は広大な広間を浮かび上がらせた。巨大な柱が幾本も立ち並び、光が届かないほど高い天井を支えていた。長く伸びる廊下の先に分かれ道が見える。だが三つの入り口の先まで光は届かず、旅人たちを惑わすように暗い口をぽっかりと開けていた。
「こんなすげえものが地下に……」
 あんぐりを上を見上げ、サムが呟く。も同意した。
「ドワーフってすごいものを造るのね。ねえ、ギムリさん。……ギムリさん?」
 後ろを振り返ると、ギムリはじっと立ち尽くしていた。厳しい顔をしていたが目が燃えるように輝いている。感動をかみしめているのだろうと、はそっとしておくことにした。
 ガンダルフは再び明かりを元の光量に戻し、先へと進む。磨かれた床はこれまでの旅路の中でもっとも歩きやすかった。
 がぜん意気があがったギムリは、前にいる仲間をのしのしと追い抜き、魔法使いの隣に並んだ。彼は古のドワーフの技量に驚嘆しながらも、一方ではバーリンや一族の者たちがいる様子が感じられないことを不安に思っていた。
 ほのかな明かりが分かれ道の影を浮かび上がらせる。どうやらこの道は行かずにまっすぐ進むのだなとギムリが思っていると、目の端に何か不吉なものを見たような気がした。ぎくりとして足を止める。 魔法使いの明かりはゆらゆらと揺れて離れていった。だがその淡い明かりでもドワーフの目には十分だった。
「まさか……!」
 ギムリは走り出した。
「ギムリッ!」
 道をそれたドワーフに、魔法使いの声が飛ぶ。だが駆け出したギムリにはガンダルフの声は耳に入らなかった。
 奥へと進むと、壁の高い位置についている採光筒から細くて弱弱しい光が差し込んでいた。朝が近づいているのだ。
 その一条の光に照らされた長方形の台がギムリの目に入ってくる。台の上部には文字が彫られていた。見知った形からそれが何であるかをギムリは悟った。
「なんてことだ」
 ギムリの膝から力が抜ける。
「なんてことだ」
 両手をついて床を叩く。無念さに胸がつまった。
 ガンダルフが近付き、彫られた文字を読み上げる。
「モリアの領主、フンディンの息子バーリン」
 ぐっと息をのみ、ギムリは嗚咽を堪える。
「ここで戦いがあったんだ……」
 レゴラスの静かな声に、一同はあたりにも目を向けた。その部屋にはバーリンの棺以外にも多くのドワーフとオークの亡骸があった。散乱した武器、叩き割られた盾や兜、干からびた骸に戦いの痕がないものは一つとしてなく。それらの上に積もった埃だけが、静かに時の経過を告げているのだった。
 ガンダルフは棺によりかかった姿の骸が本を抱えているのに気がつくと、ピピンに帽子と杖を預け、慎重な手つきで取り上げた。バーリンの棺の上にそれを置き、ページをめくる。焼け焦げや血の跡であろう黒っぽいしみ、それに切りつけられた跡がある本は、元は頑丈なつくりのようだったが、少し触れるだけでぼろぼろと崩れそうになった。ガンダルフは採光筒からもれてくる光で本を読んだ。まだこぼれくる朝の光は弱く、本の上にかがみこまないと見えないらしい。彼はゆっくりと書物を読み進めていった。
「これはバーリン一党の記録のようじゃ。最初はモリアに到着してからのことが書かれておる。じゃが全てを読んでいる時間はない。年度ごとにわけているようなので、終わりの方を読んでみよう。『モリアの領主バーリン、おぼろ谷にて討たる。鏡の湖をのぞかんと、一人でかけしが、岩陰にひそむオークに射殺されぬ。我ら、かのオークを討ち取りしもさらに……』この先は読み取れん。それから『我ら門を閉ざし――しばらくは保ち得ん――』『我らは外に逃れること叶わず。橋と第二広間は敵の手中に落つ。――太鼓の音、深き所より太鼓の音が……』『我らは外に逃れ得ず。奴らが来る』」
 その時、ガンダルフの声を掻き消すような大きな音が響いた。一同の視線が、ぎょっとしたように魔法使いからその音のほうに移る。すると井戸の前にいたピピンが驚いた様子で立ちすくんでいた。
 ぼろぼろの井戸の上の朽ちかけた死骸がゆっくりと落下し、それに絡まっていた鎖がじゃらじゃらとにぎやかな音をさせて続いた。そしてとどめとばかりに鎖の先の桶がぶつかりながら落ちていく。その音は何度も何度も反響していった。
 ピピンはばつが悪そうに嵐が過ぎるのを待っていた。またガンダルフに叱られるのは確実だった。
 ようやく音が止み、何か悪いことが起きるかもしれないと用心していたガンダルフは、どうやら何事もなさそうだと、つめていた息を吐く。そしてずかずかとピピンに近づいた。
「ばか者トゥック!」
 ガンダルフは帽子と杖をひったくる。それから大きく息を吸った。ピピンは来ると直感してすでに肩を縮こませている。
「これはホビットの遠足ではないぞ。次にやったらお前自身を投げ込んで、その間抜けさ加減をわしらの中から取り除いてやるわ!」
 ひとしきり怒鳴りつけ、最年少のホビットに背中を向けたガンダルフは、数歩歩いて動きを止める。遠くから落下音ともその反響音とも違うものが聞こえたような気がしたのだ。
 いや、気のせいではなかった。振動が直接伝わってくるような、低い響きが井戸を伝って聞こえてくる。それは最初に間隔を置いて、そしてすぐに連続したものになっていった。
「太鼓の……音……」
 硬い声でが呟き、フロドはベルトに挟んでいた小剣を抜いた。つらぬき丸の刀身は青白い光を放っている。これから起こることが何なのか、言わずとも全員が理解した。




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