「あ、起きた!」
「……すーりん?」
 目覚めると、水穂の世話係を任命されているエルフの女性、スーリンが寝台に乗りあげるようにしてまじまじと少女を見下ろしていた。
「おはよう。ねえ、昨夜のこと、覚えてる?」
「……ゆーべ?」
 寝起きでまだぼんやりとする頭に新鮮な空気を送るように、大きく伸びをする。
「やっぱり覚えていないの? すごい大騒ぎになったのに」
「……なにかあったの? ゆうべ?」
 ついでに大きなあくびもした。おかげで少し頭がはっきりする。
「本っ当に憶えてないの? ひいなってば」
 投げつけられた言葉に、水穂はぴしりと硬直した。さあっと血の気が下がっていく少女を、おやまあと森エルフの娘は面白そうに眺める。
「スーリン、奥方様に会える? 今すぐ!」
 がばっと上掛けを跳ねのけた水穂は、蒼白になってスーリンを揺さぶった。
「ちょ、ちょっと、落ち着きなさいな。やっぱり憶えているの?」
「ないです! ないけど、でもっ……!」
 水穂は混乱して叫ぶ。
 記憶が途切れたところまでは思い出した。清めの禊を終えようとした時に、身の内を瞬く間に占めていった圧倒的な力の塊。懐かしくもなじみのあるその力にたちまち意識は絡みとられ、奥底に沈んでいった。何が起こったかなんて、聞く必要もない。
「うっわあああ。ナセ、来ちゃったんだ……」
 どうしようと頭を抱えてうめく水穂に、スーリンは不思議そうに首をかしげた。
「嬉しくないの?」
「う、嬉しいけど、絶対に何か騒ぎを起こしただろうから……。ああもう、くやしい! 何にも覚えてないなんて!」
 直前までガラドリエルと話していたのは覚えている。だから早く彼女に会って、森を騒がせたおわびをし、彼が何を言ったのかを聞かなくては。
 そうスーリンに言ったが彼女は、
「だめだめ。あなたはまずドレスに着替えて、朝食を食べるの。奥方様にお会いするのはその後よ!」
 と笑って取り合わなかった。

ミズホ!」
「あ、レゴラス、おはよう。ごめんね、ちょっと急いでるの」
 スーリンの先導でガラドリエルとの謁見に向かっていた水穂は、後ろからレゴラスに呼び止められた。気が急いていた水穂は、立ち止まらずそのまま歩みさろうとする。だが。
「昨夜のことだけど!」
 その一言で水穂の足が止まった。
「……もしかして……会った?」
 ふるふると指を震わせて、レゴラスを指さす。レゴラスがあっさり頷くと、水穂は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
 気を取り直した水穂がこれからガラドリエルに会うのだと説明すると、レゴラスは自分が連れて行くからとスーリンを帰し、二人で連れ立ってマルローン樹の高みに建つ館に向かう。
「他のみんなは? みんなも吾が神に会ったの?」
「いや。多分彼の君がこちらに来た時のものだと思うけれど、ロスロリアンの護りが吹き飛ぶんじゃないかっていうくらい、強い力が吹き荒れたから……。サウロンや黒の乗り手ではないとは思ったけど、念のために避難していてもらったんだ。彼の君と直接話したのは、ガラドリエルの奥方とケレボルンの殿、それから私とハルディアだけだと思うよ」
「ハルディアも?」
 きょとんと不思議そうに水穂はレゴラスを見上げる。彼は森の境界近くに警備のためにカラス・ガラゾンから離れていたはずだ。
「ハルディアは外の様子を報告するために戻っていたんだ。異変に気づいたので、その現場を見にきたんだよ。いざとなったら戦うのが彼の務めだから。でも異変は我らの敵からもたらされたものではないとすぐにわかった。それで私たちは少し離れたところから奥方と共に歩いていた、一応見かけはミズホである彼の君を見物していたんだ。近づくのも話しかけるのもはばかられるような状況だったから。他にも野次馬がいっぱい」
 ここまで聞いて、水穂は大きくため息をついた。レゴラスはくすくす笑いながら話を続ける。
「あの方は奥方とは随分気さくに話していたよ。でも急に私たちのほうにやってきて「やあ、こんばんは」ってされてさ。それで色々話をしたというか……怒られた」
「怒ったって、レゴラスを? どうして?」
「私が君を止めなかったからさ。ミズホには旅を続けてほしくないんだよ」
 他にも理由はあったがレゴラスは言いたくなかった。彼がしばらく来られないとわかった以上、水穂のそばにいることを遠慮したくない。ハルディアにだって邪魔させる気はなかった。
 水穂はぷんと頬をふくらませる。
「レゴラスを怒るのは筋違いだわ。別にレゴラスが無理やりわたしを連れ出そうとしたわけじゃないのに。……無理を言ってついて行くって言ったのはわたしなんだから。ごめんなさい、嫌な思いをさせてしまって。吾が神が来たら、絶対に謝らせるから。まったくもう、八つ当たりするなんて」
 すまなそうに自分を見上げるそんな小さなことも嬉しくて、レゴラスは気にしないでとほほえんだ。
「彼の君はミズホのことが心配だったんだよ。それは私もわかっているから」
 だがしっかり牽制されたことはわざと言わなかった。
「あ、でも、ハルディアもミズホが旅を続けるのに反対なんだって。それで、彼の君がハルディアにミズホがここに残るように説得するよう頼んでいったよ」
「うーん……」
 水穂はありがたいが迷惑だという顔でうなった。
「気が変わった?」
「変わらないわよ!」
 むくれた表情が可愛らしくて可笑しくて、レゴラスは思わず声をあげて笑ってしまった。少女はそれでますますふくれてしまったのだけど、機嫌を直してと髪をなでる。艶々とした濃い茶色の髪の感触と共に、棘刺すように投げつけられた言葉もまた思い出された。
『男は毒だ。穢れよりもなお悪い』
 あれはどういう意味なのだろうと、レゴラスは不安になった。

「スーリン、スーリン!」
「どうだった?」
 レゴラスと水穂を見送っていたスーリンは、友人たちの声にやれやれと振り返る。
「やっぱり覚えていないのですって。当てが外れたわね」
「そうなんですの? 残念ですわ」
 おっとりとした話し方の、このエルフの乙女はニムロス。
「で、結局、あなたはどうするわけ? スーリン」
 砕けた口調のもう一人の乙女はエスイラノール。
 興味津々と目を輝かせる友人たちに、スーリンは苦笑しながら答えた。
「そうね……。同じガラズリムとしてハルディアを応援したいとも思うし、熱心さでいえばレゴラス王子が勝っているとも言えるけど……ここは手堅くヴァロマ殿にするわ」
「え~~~!」
「どうしてよ!」
 二人はスーリンの返答に不服そうに声をあげた。
「そんなの、つまらないですわよ。ありきたりです。もう少し冒険いたしませんと」
「今だってね、レゴラス王子とハルディア隊長の二人でようやくヴァロマ殿と同数くらいの票なのよ。ミズホの世話係してるあなたまでヴァロマ殿に入れちゃったら、この後みーんな、そっちに流れていっちゃうわよ」
「そういわれても、ねえ」
「ハルディアになさいな。あの厳格で堅物で朴念仁の彼がようやく興味を示した女の子なのよ! 見かけは子ども過ぎるかもしれませんけど、なかなかしっかりした性格みたいですし、悪くないですわ。ミズホは人間ですけど、アルウェン姫様の婚約者のアラゴルン殿も人間ですもの。本人たちがよければ問題なんてありませんでしょう? 種族を超えた愛! しかもライヴァルは闇の森の王子と異世界のヴァラ! 身分や立場から考えれば一番不利ですけれど、恋の障害はあればあるほど燃え上がるものと決まっていますわ。このロスロリアンでハルディアが動かせる兵士の数を考えれば、彼女は指輪所持者殿と共に旅立つことは出来ないでしょうね。ミズホは……怒るのかしら悲しむのかしら。どちらでもいいですけど、ともかく気を落とすでしょうから『貴女の為を想ってやったことだ』って慰め続ければ落ちますわよ、きっと」
 と、ニムロスが手を組んで夢見るように語ると、エスイラノールが負けじとまくしたてる。
「何言ってるの、種族が違うのはレゴラス王子だって同じじゃない。ヴァロマ殿は手荒な手段はなしだって言ったでしょう。ミズホは旅立つことを望んでいるのだから、これから一緒に過ごす時間が多くなるのはレゴラス王子よ! 共に危険に立ち向かうとなれば、絆は深まるもの。ちょっとくらいヴァロマ殿の心証が悪くたって気にするほどのことではないわよ、きっと。それにミズホってレゴラス王子と初めて会ったときって、白い鳥の姿だったっていうじゃない。で、その後乙女の姿に戻ったんでしょ? 劇的な出会い方よね。本人に聞いたわけじゃないけど、王子は一目惚れしたんだと思うわ。これは歌になるような恋物語になるわよ!」
 友人たちの主張を聞いたあと、スーリンが冷静に締めくくった。
「だけどやっぱり、これまで共に過ごした時間の長さで言えばヴァロマ殿が一番長いわ。培ってきた愛情と信頼も堅固なもののようだし。その二人の間にたかだか長くて一年くらいで割り込めるものかしら。朝のミズホの様子を見る限りでは勝手に身体を使われた上に記憶も読まれたというのに、そのこと自体はなんとも思っていないようなのよね。普通なら嫌じゃない、そんなことされるの。恋人にだってされたくないわ。まあ、もとからヴァロマ殿とミズホは恋人以上の関係みたいだから当然なのかもしれないけれど。それに、これはまだ確認してないから絶対にそうだとは言えないのだけど、ミズホって殿方の基本がヴァロマ殿なのじゃないかしらね。ヴァロマ殿はヴァラにも等しい方なのよ。単純に考えて、エルフがかなうと思う?」
 三者三様の意見に、エルフの乙女たちは難しい顔をしてうなった。
 ところで彼女たちはけっして大きな声で話をしていたわけではない。していないのではあるが――エルフの耳はとても良いのだ。だからこの話は聞きたかったわけではないものの、レゴラスの耳にもはっきりと届いてしまっていた。

「あなたってずいぶん強情なのねえ」
 水穂はぷうと頬を膨らませ、厳しい表情のエルフの青年を見上げる。
「強情なのはそちらの方だろう」
 ハルディアはぴしりと言い放った。
 ヴァロマ来臨から一昼夜経ち、いつもの落ち着きを取り戻したロスロリアンでは、三人の男女が小一時間ほど言い争いをしていた。旅を続けるのだと言ってきかない水穂と、断固反対の姿勢のハルディア。そして、
「いい加減にしたら。しつこい男は嫌われるよ、ハルディア」
 つまらなそうに時々口を挟むレゴラス。
 話は平行線のまま、どちらも引こうとはしない。
 ハルディアは表情の変化に乏しい顔に苛立ったものを浮かべ、懇々と説得を続ける。
「初めて会ったときから不思議だった。傷の痛みも喪失の悲しみも、あなたの誇り高さを奪ってはいなかった。なのに私には、あなたが何かを諦めていたように見えていたのだ。それがこれなのか? ミスランディアの代わりとして行くことが。故郷に帰れなくなっても――」
 いいえと水穂は首をふる。
「それは少し違うわ、ハルディア。わたしにガンダルフの代わりが務まるはずがないじゃない。旅を続けると決めたのは、ガンダルフがいなくなったからじゃない。もっと前からなのよ」
 ハルディアは秀麗な面をしかめた。
「もっと前――? あなたはこちらに来てから一月と経っていないはずだろう。旅するよりも、ロスロリアンにいる時間の方がすでに長くなっているではないか。一日二日で決めたとでも? 何があなたにそうさせたんだ?」
「一日二日じゃないよ、五日だ」
 しれっとしてレゴラスは口を挟む。
「モリアに入った日の夜だもの。五日目だったよね?」
 むっとしたようなハルディアの表情をさらりと無視して、いかにも親しげに水穂に笑いかけた。
「……そうだけど」
 あまりハルディアを刺激しないでほしいという表情で水穂はレゴラスを見上げる。レゴラスは軽やかに笑った。
「ハルディアと同じことをフロドも聞いているんだよ。私だってその事を知るまでは、てっきりミスランディアの代わりに行くのだと思っていたけど、そうじゃなかったんだ。ミズホが旅するのは、そう定められているからなんだよ」
 だから止めても無駄なのだと言外に含める。
「これがミズホの運命だと? しかしヴァロマ殿はそのようなことは一言も仰ってはいなかったが?」
 ヴァロマの名前を出されて、レゴラスは言葉に詰まった。なんとなれば、自分とハルディアに対するヴァロマの評価は、わずかな差ではあると思うがハルディアの方が勝っているようだったからだ。
「運命かどうかはわからないけど、でも吾が神はやっぱり止めようとはしなかったでしょ?」
 水穂が本気でそう言うと、
「あれのどこが!?」
「今までの話を理解していなかったのか!?」
 レゴラスとハルディアは同時に絶叫した。
「え? え? だって、吾が神、結局フロドに会いもしなかったんでしょ?」
 水穂は二人の剣幕にたじたじとなりながらも確認をする。
「フロド殿?」
「たしかにそうだけど……」
 なぜそこに彼の名前が出るのだという顔になるエルフたちに、水穂はがっくりと肩を落す。
「二人ともしっかりしてよ。いいこと、旅の中心は誰? フロドでしょう? もし吾が神が本当にわたしを止めようとしたのなら、ハルディアに説得を頼むよりフロドをどうにかしてるわよ。フロドに何かあったら、もしくは指輪がどうにかなったら、旅する理由自体がなくなっちゃうんだから」
「……確かに」
「……そういえば」
 真顔で呟く二人に、水穂は長いため息をついた。
「まあ、だとしても、だ。ミズホ
 ハルディアは照れ隠しのように咳払いを一つして居住まいを正した。
「うん?」
「私はやはり、あなたが旅をすることには反対だ」
「ハルディア、まだそんなことを言うの?」
「あなたの決意が固いことはよくわかった。ヴァロマ殿でもあなたを止め得ないことも。だがあなたは弱い。剣も弓も使えないのだろう。あなたの特殊な能力がいくら有効であっても、いや、だからこそ却って危険があなたを取り囲むだろう。それに対し、いかなる対処が出来る? 死にに行くようなものだ。決意や熱意だけではどうにもならないこともあるのだということを、あなたは知るべきだ」
 まっすぐ水穂を見つめながら淡々と話すハルディアには逆らいがたい迫力があった。水穂は言葉に窮し、恨みがましい目つきでぼそりと呟く
「……石頭」
 しっかりと聞こえていたハルディアはにやりと口の端をあげた。
「石頭で結構。本来ならば、これは職権乱用になるのだが、ロスロリアンの国境警備隊長として、ミズホ、あなたの出発は許さない。覚悟するんだな」
「それって、横暴!」
「何とでも言うがいい」
 二人が睨み合っていると、軽やかな声が割って入った。
ミズホ、準備できたわよー!」
「あ、はーい」
 世話係の姿を認めて、水穂は表情を明るくする。スーリンは友人二人を伴っていた。
ミズホ、準備って?」
 問われて水穂はじっとレゴラスを見、次にハルディアにも視線を向けた。さらにもう一度レゴラスに目をやり、いたずらっぽくほほえんだ。
「内緒」

 水穂がスーリンと連れ立って行ってしまった後、その場に留まったニムロスとエスイラノールは少女が十分遠ざかったのを確認すると、やおら二人のエルフの青年たちに向き直った。
「ハルディア……!」
「何をする、ニムロス!」
 胸の前で手を組んでいたニムロスが感極まったように頬を染めながら、弾みをつけてハルディアの胸を連打した。
「もうもうもうっ! なんて予想通りの行動をとりますの!? 頑張るのですよ、わたくし応援しておりますから!」
「何の応援だ、一体」
 女性たちの情報網の輪から外れているハルディアは、彼女たちの騒ぎようが理解できなかった。けれどひどく嫌な予感がする。
「欲を言えば告白の一つもしていただきたいところなのですけど……」
「話を聞いているか?」
「あ、安心してくださいな。ルーミルとオロフィンはちゃんとあなたに一票入れておりますから」
「……」
 にっこりとニムロスは笑う。だがあまりにも話が噛み合わないので、ハルディアは空恐ろしさすら感じた。
「もしかして、結構盛り上がってるの? えっと……エスイラノール、だっけ?」
 一方レゴラスは青い目に楽しげな光を浮べて女性たちとの話にすんなりと加わる。
「まあ、光栄です、王子。ええ、そうなんですよ。お聞き及びだったのですね」
「いや、聞こうと思ったわけじゃないけど、聞こえてきたんだよね」
 それで順位はとレゴラスがたずねると、エスイラノールはヴァロマ殿が二七五票、レゴラス王子が一二八票、ハルディアが一二一票、その他が三六票というところですね、とさらりと返した。
「やっぱりヴァロマ殿が優勢か。でも、票の多さで結果が決まるわけじゃないし」
「ええ、そうですよ! これは単なる誰がミズホの心を射止めるか予想であって、実際の結果がどうなるかとは無関係です! でももし結果がはっきりしたら、そのときは外れた者たちから何か一品ずつ食べ物か飲み物を提供してもらって、当たった者たちだけで宴会をすることにはなってるんですけどね。ちなみにわたしはレゴラス王子に一票入れましたから!」
 和気藹々としたレゴラスとエスイラノールに、ハルディアは頭を抱えてうめいた。
「……そんなことをしていたのか? お前たち」
「ハルディア、本当に知りませんでしたの? わたくしたち、ヴァロマ殿がいらしてからこの話でもちきりだったのですけど?」
 ニムロスがあきれたように銀色の頭をふる。
「……今がどういう状況なのかわかってるのか?」
 ハルディアがもう一人のエルフ娘に不快そうな視線を向けるも、彼女はどこ吹く風と受け流した。
「固いこと言わないでよ。こんな時代だからこそ明るい話題がほしいんじゃない」
「ガラズリムたちってけっこうノリが良かったんだね。知らなかったよ」
 ハルディアとエルフの乙女二人が騒いでいる中、レゴラスはのんきに的外れなことを感心していたのだった。




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