「国境警備隊はそなたの私兵ではない。国境を守るという役目を逸脱するような行為は到底認められない」
ケレボルンは静かな、しかし厳しい表情で淡々と告げた。
「殿はロスロリアンの正式な客人だ。留まるも出てゆくも、本人が決めることだ。たとえ私やガラドリエルでも、こうせよと命ずることは出来ぬ」
ハルディアは失望したが顔に出さないよう、ことさら無表情になった。
「だが」
ケレボルンはハルディアのそんな反応を見越したかのように小さく笑うと、
「職務が終わった後に何をしようと個人の領域であるからな、そこにまで口を挟む気はない。それに、何かを成し遂げようとする時に、友人の力を借りることがいけないなどと、誰が言うだろうか?」
「殿……。それでは……!」
ぱっと顔を上げたハルディアに、ケレボルンはすました表情のまま片目を瞑ってみせた。
の足止めに国境警備隊を使うことは許可できないが、ハルディアの友人や、彼に協力したいと申し出た者らが集って行うのであれば特に咎めないと暗にほのめかしたのだ。
異世界から来た人間の娘を中心とした騒ぎは日に日に大きくなっており、賭けの対象にまでなってしまったことはケレボルンやガラドリエルも当然の如く承知していた。
ロスロリアンの領主という立場であれば、安易に誰かに票を投じることはできないが、格別その騒ぎをやめさせる気はなかった。エルフと人間であることを差し引いてもだ。親戚であり主君であったドリアスの王シンゴルの娘を知る身であり、今は裂け谷に住むアルウェンの祖父である、ケレボルンなれば――。
エルフの乙女たちからしばらくは部屋に戻らないと聞かされたレゴラスは、今度は何をするのかと問い詰めたのだが、「言わないでって頼まれたから」「殿方がかかわってはいけないのですって」という理由によってあっさりかわされた。にはガラドリエルが付き添うらしく、それならハルディアも近づけないからいいかと気を取り直して仲間たちのところへ戻る。
時刻は正午を少し過ぎた頃だろう。テントの中ではホビット四人が並んで昼寝をしていた。アラゴルンとボロミアは出かけているらしく姿が見えない。
「ギムリ、それって……」
テントのすぐ近くにある木の根の間に座っているドワーフはどこにいれていたのだろう、仕事道具を広げて親指の先ほどの大きさの石を磨いていた。並べられている工具の脇には布の上に置かれたひびの入ったブローチがある。
「ああ。のだよ」
ギムリはちらりと目を上げて、またすぐ手元に集中する。
「壊れたのはそこにあるし……。それは?」
ギムリの前にしゃがんで、レゴラスは壊れた石とギムリの手元を見比べた。
「これもが持っていたものだよ。もともとこの二つの石は一つの塊だったのだそうだ。まさかブローチが壊れるとは思っていなかったから、こっちの石は形を整えていなかったそうでな、頼まれたんだよ」
「もしかして、は今、白鳥のローブを作っているの?」
「聞いていなかったのかね?」
ギムリは意外そうに顔を上げた。それからあんたはめったにテントに戻ってこなかったからなあ、としみじみと呟く。
「が元気になってから話し合いをしただろう。それが終わったあと一度部屋に戻ったようだが、またすぐこっちに下りてきてな。その時に渡されたんだ。布や紙の扱いは慣れているが、石はからきしなんだそうだ。わたしは魔法がかかっている代物には触りたくなかったんだが、これ自体はただの水晶だというからな、まあそれならと引き受けたんだよ」
ギムリの言葉を頭の中で繰り返したレゴラスは、苦いものでも食べたような表情になった。
「ということは、ヴァロマ殿が来る前、だよね」
「そうだが……?」
レゴラスはふるふると肩を震わすと、やおら、ドン、と拳を叩きつけた。ほっそりと優雅な、しかし見た目よりも力の強いエルフの手形が、固い地面にくっきりとついた。
「レ、レゴラス?」
「あの人は〜〜! 止める気がないならないって、はっきりとそう言えばいいじゃないか! それをそれを! 止められないとか説得してくれとか! 邪魔するなとか触るなとか! そりゃあ、最初から何か含みがあるなって思ってたさ。好かれてないってこともすぐに気づいていたよ! だからってあれはないじゃないか!」
「な、何がだね……?」
よせと心の声がしていたのだが、エルフの激高についつられるようにギムリはたずねてしまった。
「なんだよ! 中身は違っていても、姿はなんだよ! そのの姿で冷たい目で睨まれたり無視されたり、挙句の果てには毒呼ばわりされて、どれほどへこんだことか! 私がガイアのこともヴァロマ殿のことも知らないからって!」
レゴラスがヴァロマと会った時のことは、ギムリも本人の口から聞いていて大体のことは知っていた。しかしこのエルフが語ったこと以外にも穏やかならざることがあったらしい。テントを訪れるガラズリムたちや、あちこちで囁かれる会話の端々から、推察することはとても容易だったからだ。なぜなら彼らの話ときたら、と異世界のヴァラと目の前で憤慨しているエルフといつの間にかと友人になっていたらしい国境警備隊長のことばかりだったからだ。
あれはわざとだ、絶対わざとだと言いながらどかどかと地面を叩きつけているエルフを眺めながら、
(……そりゃ、大事な娘が突然行方不明になって、見つかったかと思えば過剰に接近してくる得体の知れない男がいたら、警戒して意地悪の一つも言うだろうよ。というより、よくその程度ですんだものだよなあ)
ギムリは少し遠い目になった。
彼は今考えたことをそのまま口にしようかと思ったが、レゴラスが怒りながらも実際にはまだ落ち込んでいるように見えたので、珍しいことに、ドワーフとしては本当に珍しいことに、天敵とも認識しているエルフをちょっとだけ慰めてあげようか、という気になった。
「だが、あんたの望みは叶っただろう?」
「――え?」
レゴラスはギムリが何を言ったのかわからなくて、きょとんとした。
「あんたはが好きで、一緒にいたいと思っていたんだろう? は自分から旅を続けると決め、異世界のヴァラ殿も、つまり、結局は許していた。あんたが言うのが正しければ、その事を知った最初から」
「え……と、そう……だね」
「ならばヴァラ殿に感謝こそすれ、文句を言う理由などないだろう。はあんたの望みどおり、これからも行動を共にするのだから。ヴァラ殿にすれば、大切な娘をしばしとはいえ手放さなければならないんだ。文句を言われるくらいは仕方がないと割り切ったらどうかね?」
レゴラスはギムリの深く響く声を聞きながら徐々に冷静になっていった。そして代わりに新たな驚きが少しずつ胸を満たしていった。ドワーフの彼が、エルフの自分を元気づけようとしているのだ!
そういえば、と、彼は以前にもこんな風にを思いやっていたと思い出した。
――あの子は本当に、この世界でたった一人なんだと、ようやく理解できた。
ドワーフというのは、他種族にはまるで関心がないのに、恨みごとは何代前のものでも自分のことのように騒ぎ立てる頑固で偏屈で強欲な種族。そう聞かされてきたのものだが……。
他のドワーフは知らないが、少なくとも彼は、ギムリは違うらしい、とレゴラスは思った。
「ギムリ、ごめんね」
唐突な謝罪の言葉にギムリは訝しげにレゴラスを見やった。
「私はギムリのことをただドワーフだとしか思っていなかった。君の事をちゃんと見ていなかったんだ。仲間なのに。それで、あの時どうしてが怒ったのか、ようやくわかったんだ。私は君一人にだけ目隠しさせることを承知してはいけなかったんだって。だから――ごめんなさい」
ペコンと頭を下げるエルフに、ギムリは目の前が真っ暗になるほど驚いて、思わず預かりものの石を取り落としてしまうところだった。
(エルフが謝っている!)
あまりにも突然すぎて、レゴラスが何のことを言っているのかわからなかったが、ロスロリアンの国境でのことを言っているのだとようやく合点がいった。
エルフ、特に闇の森のエルフというのは傲慢で見栄っ張りの鼻持ちならん連中で、他種族、特にドワーフに対して謝るなどということはしない。そう思っていたのだが。
「いや……。まあ、こっちも色々大人げないところがあったと思う……」
やっとのことでそれだけ言うと、くらくらする頭を叱咤しながら、とりあえずその認識は少し修正しなければいけないようだとギムリは考えたのだった。
出発の日が近づいてきてロスロリアンの雰囲気はにわかに慌しくなった。そんな中、レゴラスはハルディアの見張りに余念がなかった。
とハルディアの口論が物別れに終わって以来、タランの一室に篭ったままの少女は未だ出てくる気配がない。もしやすでに警備隊長の手が回ったのかとも思ったが、どうやらそれも違うらしかった。
ハルディアは宣言どおり本当にを旅立たせないための包囲網を敷いていた。国境警備隊とは別であるらしいが、その構成員を見る限り、国境警備隊はほぼかかわっているようだった。そして彼ら以外にもかなりの者が参加しているらしかった。
レゴラスは自分を応援している一派からハルディアたちに対抗しようという申し出を受けてはいたが、丁寧に辞退した。気に食わないことではあるが、ハルディアの行動がへの好意から発している以上、彼女に手荒な真似をするとは思えなかったからだ。どこに閉じ込めるにしろ、ハルディアの動向さえ把握できていればいつでも対応できる。それになによりの心はロスロリアンにはないという確信がレゴラスにはあった。彼女はこの地に留まることを望んでいない。
このことはハルディアも気づいているようで、地の利にも人数にも有利な彼の方が、よほど切羽詰まって見えた。
がいるはずのマルローン樹の根元で、ハルディアは樹上を見上げている。レゴラスはそんなハルディアを少し離れたところから見ていた。
そうして何時間過ごしていたか。ふいに上から歓声が降ってきた。
見上げると木々の合間を縫って美しい白鳥が一直線に向かってくる。
ハルディアは見慣れない種類の鳥に怪訝そうに眉をひそめ、片やレゴラスはぱあっと顔を輝かせた。
「!」
「っな!?」
レゴラスの声に、ハルディアは目を見開いた。そうしている間に白鳥は二人のエルフの前まで飛んできて、さっと頭を左の翼に突っ込むような仕草をし、次の瞬間には人間の少女の姿に戻ったのだった。
「……」
「お久しぶり、二人とも」
明るい笑顔で挨拶をする少女を、ハルディアは呆然と見下ろした。片やレゴラスは久しぶりに見る鳥姿のにうきうきした声で近づく。
「久しぶり、。良かった、出発するまでに出来上がって」
ひやひやしてたんだ、というレゴラスに、はごめんねと笑う。それから固まっているハルディアに目を向けた。
「ハルディア」
警備隊長は少女の声に我に返る。は真剣な表情で上背のある彼を見上げていた。
「そうか、それが、白鳥の……」
「ええ。これが白鳥のローブよ。前のは直せないくらいぼろぼろになったから、奥方様に材料をわけていただいたの。はじめから作り直したから、随分時間がかかっちゃったわ」
くるりとは回ってみせた。くるぶしまである真っ白なローブがふわりと広がる。
広がった裾が落着くと、の笑みも消える。凛としたまなざしで銀髪のエルフを見据えた。
「ねえ、ハルディア。やっぱり、考えは変わっていないの? わたしを止める?」
隠し切れない不安がこぼれるように、声がわずかに震えている。垣間見た少女の儚さに、ハルディアは一瞬彼女が望むことならば何でも叶えてやりたい衝動に駆られた。だが己を制してそれを堪える。
「ああ、止める」
「そう」
は俯いて小さく息を吐くと、すっと右腕を差し出すように持ち上げた。
「では、斬って」
「っ!?」
声にならない悲鳴を上げるエルフの青年たちに対し、少女は笑みさえ浮かべていた。
「今、見たでしょう。わたしは空をも行ける者。さっきの姿になれば、貴方は絶対にわたしを止めることは出来ない。エルフは空を飛べないでしょう?」
「ならばその衣を奪うまでだ」
「奪われたら、取り返す。壊されたら、また作り直すわ。それではわたしを止められない」
歌うように、は囁いた。
「低い位置に枝がついていない、丈高いマルローン樹がある。あなたをそこのタランへ連れてゆく。あなたが故郷から持ってきたものも、あなたが作ったものも、何一つ持ち込ませない。普段は梯子をはずし、番人を置こう。これでも旅立てるというのか?」
熱に浮かされたように、ハルディアは言った。
彼女は惑わしの魔法を使っている。会話を続けてはならない。
ハルディアの頭に警戒音が鳴っているが、視線も心も彼女に引きつけられて自分で自分を制御できなかった。
「わたしはガイアの巫女。異世界の魔女よ。たとえ身一つでも、できることがあるの。あなたはそれを知らない。それではわたしを止められないわ」
「それでも……どうしても……あなたを行かせたくない。……」
「どうしても?」
声を振り絞るハルディアに、は悲しげに笑みを浮かべる。
「どうしてもだ」
ハルディアは少女の華奢な肩をつかんだ。
「では、わたしの右腕を斬って」
「だから、どうしてそういうことになるんだ!」
恋人同士が囁き交わしているような雰囲気にいらついたレゴラスは、ハルディアからを引き離す。
「わたしの利き手は右なのよ」
特に気分を害した様子もなく、はレゴラスを見上げた。
「知ってるよ。それで?」
「左腕を怪我していたときもけっこう大変だったけれど、右手が使えなくなったらもっと大変じゃない。鳥の姿になったって、翼は使えないわ。だから、どうしてもわたしを止めるっていうのなら、それくらいしないと」
「だからって、自分が不利になることをわざわざ言わなくても」
「時間がないもの。あと二、三日で出発でしょう。まだフロドに形代の術をかけていないし、荷造りもすんでいないし。ハルディアたちと追いかけっこしている余裕なんてないわ。だから今、決着をつけておきたいと思って」
「それで、本当に斬られたらどうするつもり? まさか諦めるの?」
「ええ。諦めるわ」
少女はあっさりと答えた。
「え!?」
「本当なのか?」
レゴラスとハルディアが同時に叫んだ。はこくりと頷いた。
「ハルディアがわたしをロスロリアンから出さないように手配していることは知ってた。わたしを捕まえるのは難しいわよ。でも、わたしが逃げ切るのも難しいと思うのよ。ハルディア、ねえ、あなたは国境警備の隊長で、ロスロリアンを守るという役目があるのでしょう。人間の女の子一人に大事な戦力を割いている余裕はないはずよ。わたしは逃げないわ。だから、今、ここで決着をつけましょう。あなたがわたしの腕が使えないようにしたら、わたしはおとなしくロスロリアンに残るわ。わたしが言い出したことだもの、本当にそうしても、わたしは恨まない。でもそれができないのなら、もうわたしを止めようとはしないで」
ハルディアは差し出されているの腕を凝視する。
「今、決めて」
しばらく逡巡してからハルディアは腰に佩いていた剣を抜き放った。磨きぬかれた刀身が光を反射して煌めく。
彼は長い刃を少女の二の腕に軽く当てた。布越しにも固い鋼の鋭さが伝わり、は緊張して息をのむ。それでも怯むことなくしっかりとハルディアを見据えて立ち続けた。
ハルディアは剣を振りかぶり、打ち下ろした。
「やめろ、ハルディア!」
「レゴラス、止めないで!」
はハルディアを止めようととっさに動こうとしたレゴラスを鋭い声で止めた。
「っ!」
ハルディアの剣は、の二の腕のわずか上のところで静止していた。
「あなたの勝ちだ」
ハルディアは剣を地面に突き立て、荒い息を吐いた。伏せられた面には悲痛な表情が刻まれている。今にも泣き出してしまうかと思われるほどだった。
「ありがとう、ハルディア」
はハルディアの腕に自分の腕を絡めて心の底から感謝を捧げた。そして言葉に出さずに謝った。
(ごめんね。そう言ってくれるって、思っていたんだよ――)
そして出発の日が来た。カラス・ガラゾンを出て森の小道を抜けた先、銀筋川の岸辺の船着場に一行は移動する。
指輪隊と彼らを見送るためにケレボルンとガラドリエル、そして旅をするのに必要な荷や贈り物を持ったガラズリムたちがそこに集まっていた。
船に荷を積んでいるエルフたちを眺めながら、は川辺をそぞろ歩く。手伝うと申し出たのだが断られ、やることがなかったのだ。
はガラドリエルから、彼女の世界の衣服では目立つからとエルフの装束を一式贈られていた。鞄を背負った上に白鳥のローブを羽織り、長い髪をきっちりと結っている。
賑やかな声に視線を巡らすと、ピピンとメリーが荷の一つを探りながらわいわいと騒いでいた。何をしているのだろうと近づくと、は声をあげて笑う。
「あなたたちったら!」
二人は早速つまみ食いをしていたのだった。
「まあまあ」
「これ、すっごくおいしいんだよ!」
ピピンは悪びれもせず、も食べてみなよと葉っぱに包まれた薄い焼き菓子を差し出してきた。興味をそそられて受け取り、一口かじる。
「おいしい!」
「ね? ね?」
「言ったとおりでしょ?」
「それはレンバスだよ」
後ろから軽やかなエルフの笑い声とともにレゴラスがのぞきこんできた。
「レンバス?」
「そう。エルフの行糧さ。一つ食べれば大きい人たちでも一日たっぷり歩けるんだよ」
へえ、とは感心する。
「それって便利ね。ねえ、これって、作るのは難しいの?」
好奇心を示す少女に、レゴラスは申し訳なさそうに眉を下げた。
「どうだろう。レンバスは女性しか作ってはいけないことになっているから、私も詳しいことは知らないんだ」
「そういうものなんだ。もっと早く知っていたら奥方様に習っておいたのになあ」
エルフじゃないから駄目かなあ、とが残念がっていると。
「は料理、得意なの?」
レゴラスは期待するように目を輝かせてたずねた。
「すっごく得意というほどではないわ。でも人並みにはできるわよ」
「そうなんだ! ねえ、そうしたらこの旅が終わったら、闇の森に来ないかい? レンバスの作り方なら私の母も知っているよ。の作ったレンバス、食べてみたいなあ」
「闇の森に?」
「そう。駄目かな?」
「ん―、と、ね。果たせるかどうかわからない約束は、したくないの。はら、わたし、こっちの世界にいるのには時間制限があるじゃない。それに……」
は困ったように笑い、語尾を濁らせる。
どれだけ遅くとも、季節が一巡りする前に迎えが来てしまう。それ以前に、生きて旅を終えられるかどうか。
そんなの心の中を読んだかのように、
「どうして悪い方にばかり考えるの? 無事に旅を終えて、それから迎えが来るまで時間が余っているかもって思えない? 私が欲しい約束は、そういうものでいいんだ」
レゴラスの真剣な表情には少し考えるこむと、柔らかくほほえんだ。
「それなら……」
「!」
いいよ、と答えようとしたところを、ハルディアの声にさえぎられる。
「どうしたの? ハルディア」
珍しく慌てた様子に、は腰を浮かせた。一方レゴラスは、ハルディアにだけ見えるように顔を思い切りしかめたのだった。
「奥方様が呼んでおられる。すぐに行くんだ」
「あ、うん、わかった」
どんな大事が起こったのかと身構えたが、言われた内容に少しだけ肩透かしをくう。だがあまりにハルディアが急きたてるので、少女は礼を言うとぱたぱたと駆け出して行った。
「……」
「……」
残ったエルフ二人の間に白々しい空気が流れる。
「さて、レゴラス殿?」
の姿が見えなくなるのを確認してから、ハルディアはレゴラスに向き直った。目は据わり、額には青筋が浮かんでいる。
「余計なことを」
面白くなさそうに呟いたレゴラスに、ハルディアはかっとなり、思わず彼の胸倉をつかみあげた。
「貴方という方は!」
ハルディアの怒号にそれまですっかり置いてきぼりにされていたメリーとピピンがあわあわと逃げ出した。しかし何か興味深そうなことが起きると感じ取った彼らは、木の陰からこっそりエルフたちのやりとりをのぞく。
「がエルフの慣習に疎いことをわかっていて、わざと、あのようなことを言いましたね?」
怒りをあらわにするハルディアに対して、レゴラスはあっけらかんと言い返した。
「もちろんだよ。彼女の邪魔をする気はないし、ヴァロマ殿にも釘を刺されてしまったから、一応我慢できる限りはに触らないようにするけれど、でも別に口説くなとは言われてないもの。はさ、今は意識がほとんどフロドに向いているから、私の気持ちを伝えても困るだけだと思うんだよね。でも時間もあんまりないことだし、取れるだけの言質は取っておこうかと。そうすれば、望みが叶うかもしれないからね」
レンバスというものは、貯蔵するも与えるも王妃にのみ属する権限である。それを作ることを承諾したということは、はなはだ遠まわしではあるが、求婚を受けいれたに等しい。申し込んだ者が王であればの話だが。
また受けた側が、そうした意味合いが含まれていることに気づいていなくても、一度交わされた約束は、易々と取り消せるものではない。両者が反故することに同意しない限りは。
「せこい真似はよしなさい! だいたい貴方は王子であって、王ではないでしょうが!」
「そうなんだよ。だからどこかに私が住むのによさそうな森を探さないといけないんだ。やっぱり先の事を考えたら、ゴンドールに近い方がいいかなあ」
レゴラスの身分は王の息子である。エルフは不死であるが故に王位の交代は頻繁には起こらないが、独り立ちするというのであれば別だ。彼にはその資格がある。
「……貴方の口車に乗らないよう、に忠告しておく必要がありそうですね」
地の底から響くような低い声で、ハルディアは言った。
「……」
「??」
詳しいことは何一つ口に出さなかったエルフ二人人だったが、レゴラスが何をしようとしていたのか薄々察知したメリーはこのことは聞かなかったことにしようと遠い目になり、何が起こっているのかさっぱりわからないピピンは頭をひねっていたという。
「奥方様、お呼びとうかがいましたが」
息を切らせて駆け寄る少女を、ガラドリエルは愛しい者をみつめるようにそのまなざしを優しく細めた。
「ええ。ですがそのように急がずともよかったのですよ」
「そう……だったんですか?」
首をかしげるに、ガラドリエルは何も言わずにほほえんだ。エルフの耳には離れた場所で行われている、異世界の花を巡って繰り広げられている喧騒を聞きつけることなど容易いことだったのだ。
「」
「はい、奥方様」
「一体どのような力が、そなたとわたくしたちの間に働いたかはわかりませぬが、そなたに相会えたことを嬉しく思います。これは別れに際し、ロスロリアンの王妃からの贈り物であると共に、そなたの護り手たる異世界のヴァラールの願いでもあることです。そなたはこれよりアルフィエル、すなわち白鳥の乙女と名乗りなさい。われらクウェンディの言の葉が、そなたを幾許でも護るように」
ガラドリエルとヴァロマの意図を察したは、深い感謝を込めて一礼した。彼女への思慕と敬愛、そして別れの寂しさがないまぜになったは、潤みかけた目を閉じる。そんな少女の小さな額に、ガラドリエルは祝福の口付けをそっと落とした。
ヒロインは白鳥(Swan)に変身するわけではなく、正確にいえば白い鳥(White
Bird)なのですが、エルフ語の意味はSwanの方です。
ややこしくてすみません……。
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