いつもの日常が戻ってきた。

表面的には。




朝は楽屋でエリックとのレッスン。
軽く朝食を取ったあとは、全員での稽古。
ハンニバルはまだ公演中で、わたしはまたもとの奴隷女役に戻った。
一度は役を降りたカルロッタだがわたしが代役として成功したことを知ると、ものすごい形相で撤回してきたのだ。
新支配人たちもパリの人々に知名度の高いカルロッタにオペラ座を去られるわけにはいかないと、何もなかったかのように彼女の要求を受け入れた。
だけどカルロッタは腹の虫が収まらないようで、何かというときつい眼差しでわたしを睨んでくるのだ。
変わったことといったら、そのことと、あと一つ。

稽古が終わるのを見計らって、ラウルが面会を求めてくるのだ。
あの日のことがやはり気になるらしく、どうにかしてそちらに話を持っていこうとする。
わたしは答えたくないのではぐらかすものだから、いつまでたっても平行線のままだ。
だけど、ラウルがエリックのことを知ったら、警察に連絡されてしまうだろう。
もっとも、わたしはエリックの地下の住まいへの行き方をちゃんと覚えているわけではないので、すぐには見つからないだろうが……わたしは、わたしに音楽を与えてくれたあの人のことを裏切ることはできない。
それに……。
エリックがわたしの裏切りを知ったら、何をするかわからない。
危険はわたしだけでなく、ラウルをも襲うだろう。
今までのことは許されたが、次はもうないのだ。
何も知らないラウルを、巻き込むことは出来ない。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





『エリック』と早朝の稽古をするようになって五日が経った。
この日の彼は朝から不機嫌で、広くはない楽屋の中を何度となく往復していた。

「こんなことが許されてたまるものか。があがあ鳴きたてるガチョウのようなカルロッタを使い続けるなど、正気の沙汰とは思えん。もの知らずの支配人どもにはオペラがまったくわかっていない!音楽に対する侮辱だ!」

エリックは一度だけの代役としてではなく、正式にわたしをエリッサ役にするよう支配人たちに手紙を書いたというのだ。
だがその要求は黙殺されたため、怒り心頭に発しているのだ。

「そんなにお怒りにならないで。仕方がないことだわ。カルロッタのファンはパリ中にいるんですもの」
「上流社会の意向には逆らえないというのだね?」
エリックは肩をすくめてみせた。おどけたような仕草が逆に彼の怒りの深さを表していて、わたしはぞっと後ずさった。
「莫迦莫迦しい!お前がプリマドンナとして三回舞台に立ちさえすれば、誰もがお前の実力を認め、カルロッタのことなど忘れるだろうよ」
「だからといって、脅して無理やり役を奪うようなことはなさらないで。そんなことをしなくても、いずれわたしの番が回ってきますわ。歌手の寿命はそんなに長いものではないんですもの」
エリックの怒りは恐ろしい。だからこそなんとか穏便に済まそうとするわたしを、彼は鼻で嗤った。
「お前は優しいね、。だが、甘い。そんなことではライヴァルの足を引っ張ることしか考えていない奴らには勝つことが出来ん。だが心配するな、お前に人生を戦い抜く力などないことはわかっている。こういったことは私に任せて、お前はただ歌えばいいのだ」
「エリック……」

姿なき支配者は、今や血肉を備えてわたしの前に立ちはだかっていた。
だが手の届くところに彼はいるというのに、打ち解けるには程遠かった。
わたしの言葉は彼を苛立たせ、彼の怒りはわたしを打ちのめすので、レッスンが終わるたびに精神をひどく疲労させた。





◇   ◇   ◆   ◇   ◇





気まずいレッスンが終わり、彼が帰るのを待つために目をつぶる。
すでに知られてしまっていても、エリックは秘密の通路を自分が使うところを見られたくないというのだ。

心の中でゆっくり十数える。
そして目を開けると彼はいなくなっている。


1、2、3……。


……」
どうしたのだろう。エリックの気配が遠ざかっていかない。


4、5、6……。

「やはりお前も私を恐れるだけなのか……?」
哀しげな呟き。
はっとして目を開けようとしたところを、彼の手でふさがれた。

「エリッ……!」
「目を閉じて、ゆっくり十数えるんだ」
「……っ!」

わたしは泣きそうになったけれど、彼の言うとおりぎゅっと目をつぶって、最初から数えなおした。



「いち」

「に」

エリックの手が離れていった。
小さな衣擦れの音がして彼が遠ざかってゆくのがわかった。

「さん」

「し」

他の人間のように優しくしてやれば、お前は私に笑いかけてくれるのだろうか……?
何か呟いたようだけど、うまく聞き取れなかった。

「ご」

「ろく」

だけど、どうやったらいいのか、わからない。わからないんだ、

「なな」

「はち」

「きゅう」


「じゅう」


目を開けると、エリックの姿はなくなっていた。






◇   ◇   ◆   ◇   ◇





ふと化粧台を見ると、さっきまではなかったものが置いてあった。
両の手のひらに乗るくらいの金で象眼がされた長方形の箱で、蓋の中央部には楕円の切り込みがある。
脇には黒いリボンの結び付けられた紅い薔薇……。
エリックからの贈り物だ。

「何かしら……?」

そっと取り上げると箱の下からゼンマイが出ていることに気付いた。
「オルゴール?」