ちらちらと雪が舞う。
 風はあまりないようで、小さな白い破片は揺れながら地上に向かって落ちてくる。
 空には厚い雲が垂れ込めているが、月もないのにずいぶんと明るい。こんな日は積もるのだ。明日は銀世界になるだろう。
 スランドゥイルは窓辺に立ってそれを眺めていた。
 戯れに手を伸ばすと、極小の氷の粒が触れた端から解けてゆく。空気は刺すほどに冷え切っているが、それが逆に心地良かった。
 雪が音を吸い込み、外は不自然なほどに静まり返っている。この雪で鳥や獣たちも動きを控えているということもあるだろうが。
 背後で炉の中の薪が燃える音だけを聞きながら、彼は飽きることなく見つめ続けた。





「おや、そなた一人なの?」
 時刻を気にしてか、押さえがちな声がかかる。振り返るとそこには、
「雪の女神の風情ですね、エレナ」
 スランドゥイルは苦笑した。
 入り口に立っていたのは全身を白い衣装で包んだエレナカレンだった。ただし雪の女神に例えたのは、それが衣装と冴えた銀髪から連想したからではない。彼女は外に出ていたらしく、頭や肩に降り積もった雪が溶けずに乗っていたからだ。
「屋敷に入る時に払い落とそうとは思わないのですか、あなたは」
 窓辺から離れて、彼はエレナの側に歩み寄った。
「別に良いではないの。そのうち溶けてなくなるのだから」
 エレナは気にした風もなく、そのまま中へと入る。この部屋は増築した際に建て替えた広間という名の多目的な部屋であり、床を一部切り取り、灰を敷き詰めた箱が据え付けられている。これがこの屋敷の炉だった。その傍らには蔦を揉んで柔らかくしたものを編んだ敷物が置かれてある。エレナはそこに足を折って座った。肩に残っている雪がわずかに舞いあがり、火灯りに煌きながら消えてゆく。
 スランドゥイルは斜め向かいに座り、わざとらしくため息をついた。
「あなたがそれでいいのならば私が小言を言う筋合いはありませんが。でも溶けた雪で服が濡れたり、滴が伝って首筋に入ってひやりと冷たくなったりするのは不快だろうなと思ったので」
 しれっと言うと、エレナは渋面になった。それからぱっぱっと雪を払い落とす。
 溶けた雪が炎に炙られ、じゅうじゅうと音を立てた。
「今日の髪飾りはそれですか。よくお似合いです」
 雪がどけられてようやくエレナの全貌が明らかになる。編んだ髪をバンドのようにぐるりと頭に巻き、そこに実のついたヤドリギの小枝をところどころに刺している。鮮やかな緑と赤みがかった黄色が色数の少ない彼女を彩っていた。
「この時期になると、花や実のある草木も減るからね。葉も枯れるし。選択の余地が少なくなるのが難点だ」
「ユールも近いですからね」
 口に出してふと思いついた。
「ユールの日も宴ですか?」
「もちろんだよ」
 エレナは目を細めて笑った。
「外で?」
「当然。一年でもっとも夜の長い日に星や月を愛でないでどうするの」
 緑の目でスランドゥイルを見据えて首を軽く傾げる。
「不服か?」
 訊ねられてスランドゥイルは頭を振った。
「いえ、ただ確認をしただけです。多分宴があるだろうとは思っていましたが」
 なにしろ満月だからと宴を催し、新月だからと酒盛りをするような彼らだ。こうも宴会の開催数が多いとなると財政的なかかりも相当なものだろうと推測し、勝手に心配していたが、それも無用なものであったとわかるともう案じることはやめた。いかに自分からしてみれば奇異に思えることであっても、彼らには彼らの理屈があり、それで上手くやっていっているのだ。外部からきた己が口出ししたところでそれをかき乱すだけである。自分にできることは、まずは受け入れること、そして慣れることだとようやくわかってきた。
 エレナはにんまりと笑う。
「そういうことだ。もちろんそなたも参加するだろうね?」
 エレナは足を伸ばして姿勢を変えた。
「ええ。今年は落ち着いてユールを過ごせるようで、楽しみですよ。……いや、落ち着けはしないのかな。毎回毎回、ここの宴は賑やかだから」
「うちのものたちは遠慮がないからのう。しかしそなたら、これまでどんなユールを過ごしていたというの。落ち着けぬだなんて」
「いえ、それはどちらかというと私自身の問題で……。シンダールがそうだというわけではないのです」
「うん?」
 スランドゥイルは余計なことを言ってしまったと眉を寄せた。
 エレナは聞き流すつもりはないらしく、視線を微動だにさせない。スランドゥイルは気がすすまないながらも、話を続けた。
「ユールの頃は雪が降ることが多い。雪が降っている時に空を見上げると、吸い込まれるような感覚に襲われるでしょう?」
「うん、わかる。翼を持たぬ身だが、己がずいぶんと身軽になった感じがするね。それが面白くて、わたくしなどはよく空を見上げたりするものだけど」
 エレナは楽しげに笑う。
「もしやエレナ、先ほどもそうしていたのですか?」
 雪塗れになっていたのはそのせいかとスランドゥイルは疑問に思った。
「そうだよ。飾りになる草木を探したりもしていたけれど」
 エレナは気軽そうに頷く。スランドゥイルはそんな彼女を羨ましげに眺めた。小さく息を吐く。
「私はその感覚が恐ろしいのです。空に吸われるという感覚が、強制的にどこかへ移されるようで。西へ行くのならばまだわかるが、空へ昇ってなんとなるというのです。私はまだ何も為していないのに……」
 エレナの顔から笑みが消えた。心を探られていることを察して、スランドゥイルはとっさに壁を作る。ちっと小さく舌打ちをされたが、聞かなかったことにした。
 この胸の内は読まれたくない。
「放浪中は特にそうでした。空を遮るものが何もありませんでしたからね。だからここに滞在できたのは私にとって本当にありがたいことなのですよ。屋根があるのとないのとでは大違いだ」
 エレナは釈然としない様子で首を傾ける。つられて真っ直ぐな銀の糸が肩からこぼれた。
「そなたは本当に繊細なんだね。空を見上げて怖いと思うエルフがいるなどとは、ついぞ思いもよらなかったよ」
「繊細というよりも神経質なのでしょう。もう少し大らかでいたいと、思うこともあります」
 そうであれば、もっと早くこの森に馴染めただろうか。公子の矜持だのシンダールとしての威厳などというものに振り回されずに済んだのだろうか。ドリアスから率いてきた民の中には、すっかりシルヴァン風の生活に溶けこんでいるものもいる。自分もそうなるべきなのだろうか。
 スランドゥイルは迷いを見られたくなくて目を伏せた。
「確かに、オロフェアくらいのほほんとしていたら、もうちょっと楽だったかもね」
「……父のあれは、大らかというかなんといいますか。確かにそう見えますが」
 たいていにこにこしてのんびりと話すオロフェアはのん気と思われてもしかたがない。しかしそれだけではないのだ。上手く説明できないが。
 エレナは含むように笑うと、ごろりとうつ伏せになった。肘をついて顎を支えると、銀色の髪が背中から床に広がる。目を奪う光景だった。
「わかっておるよ。あれは結構喰えない性格に育ったね。ただののん気者だったら、わざわざ苦労するとわかっている東になど来るものか。さらには不毛の地と化したと伝わっているクウィヴィエーネンに行こうなどと思うまいよ」
 ふっと彼女は瞼を下ろした。長い銀の睫毛が緑の目を覆い、煙るような色合いになる。
「根は頑固なんだな。タルランクはまだ出発に反対しているようだが、徒労に終わるだろうよ。あれは柳の木のようにのらくらと攻撃をかわして、その場に立ったまま勝利を勝ち取るだろう」
 さすがは姉だけあって良く見ている。スランドゥイルが感じていたことをそのまま言葉にされたようだった。
「のう、スランドゥイル」
 瞼を持ち上げてエレナはスランドゥイルを見つめた。
「なんでしょう、エレナ」
「そなたも行った方が良いのではないの?」
「……私がここにいるのはご迷惑なのでしょうか?」
 唐突な言いに、スランドゥイルは困惑する。父と比べて度量の足りない不肖の甥に我慢がならなくなったのだろうか。
 エレナはむくりと起き上がると呆れたように目を細めた。
「そういうことではないよ。お馬鹿だね」
「……」
 馬鹿といわれたのは初めてだったので、スランドゥイルは思わず絶句する。
 エレナは髪をかきあげると居住まいを正した。
「そなたの中には焦りと野望が滾っていて、はちきれそうになっているのだよ。何かを為したいと思っているのに、恐怖が足を捕らえて離さない」
 同情の色が緑の目に浮かぶ。
「そなたは若い。対処をするだけの術も知らなかっただろう。ただ状況に流されるだけ。もっとも、知っていたところでどうにかなったのならば、ドリアスは滅びはしなかっただろうけれど」
 スランドゥイルはとっさに俯いた。すべて知られている。心を閉ざしたところでエレナには隠せないのだ。
「そなたがもう一度動き出すためには、まず抱えている傷をどうにかしなくてはならない。跡形もなく、とはいえないだろうが、治すことに専念するのであれば、西へ行くことが一番だ。かの国は清く、不幸も苦労も忘れられるというから」
 スランドゥイルは唇を噛んで頭を振った。その道はすでに拒んだのだ。空しく過去を葬り去る事は、たとえ愚かといわれようと彼の矜持が許さなかった。それがちっぽけなものであるとしてもだ。
「うん。そうならマンウェの伝言がきた時にそうしていただろうね」
 わかっていた、というようにエレナは微笑んだ。強情を張る子供を見守っているような眼差しだった。
「他には納得がゆくまで休息をとることだ。そなたが望めば緑森大森林はそれを保障してくれるだろう。それからもう一つ、これがわたくしがそなたもクウィヴィエーネンへ行けと言った理由だよ」
 興味を覚えて、スランドゥイルはわずかに身を乗り出した。エレナはにやりと唇を持ち上げる。
「そなたは世間知らずなところもあるから、あえて厳しい環境に身をおくのも勉強になると思ってね。大きな傷が一つだけあるから目立つんだ、痛むんだ。だったら細かい傷も増やすといい。何かを成そうと思うのならば、尚更だ。ここは浄福の国ではない。辛いことなど今後いくらでも起きるだろう。身体と共に心も鍛えるんだよ。世界は美しく、豊かで、かつ理不尽で非情だということをたくさん学ぶといい。学びすぎて生に倦む可能性もあるが、ま、己を鍛えるには手っ取り早い方法だぞ」
 スランドゥイルはあまりといえばあんまりな提案に開いた口がふさがらなかった。エレナはそんなスランドゥイルを見てひとしきり笑うと、すっくと立ち上がる。
「おいで、スランドゥイル。外に出よう」
 どこへ、とは彼は問わなかった。
 雪の舞う中へ出ることにも頓着しない。
 ただ目の前に差し出された手を取りたいと、そう思っただけだった。





 一歩先を行くエレナの指の先を握るように手をつないでいる。
 わずかに触れたそこからほのかに温もりが伝わってきた。
「なあ、スランドゥイル、ドリアスにも雪は降るの?」
「ええ。あまり積もりはしませんが」
 メリアンの魔法帯の影響もあったのかもしれない。ドリアスは一年中過ごしやすい気候だった。エルフにとっては多少の暑い寒いは関係ないとしても。
「そう。なら氷滑りをしたことはあるだろう。それをしよう。ここのところの寒さで、池の表面が凍ってきているのだよ」
「氷……滑り?」
 なんだそれは。口には出さなかったがエレナには伝わったようで、不思議そうな顔で振り返ってきた。
「氷滑りをしたことがないの?」
「ありません。氷で滑ることにどんな意味があるのですか?」
「意味などないよ。ただ楽しいのだ。それだけ」
 あっさりと返されて、スランドゥイルは呆気にとられた。
 エレナはくすりと笑うと、スランドゥイルに背を向けてどんどん歩いていった。ふと、歌が聞こえてきた。歌っているのはエレナだった。即興歌らしく、ただ単語を羅列しただけの単純なものだったが、心地良さそうに紡いでいる。
 雪はまだ止まず、白い破片がちらちらと目の前をよぎっていった。足元は積もったばかりで柔らかい。エルフの常で動物たちほど足跡はつかないが、それでもわずかなくぼみが後ろに残っていた。
 エレナの頭にも再び白いものが積もってゆく。自分も同じようになっているだろう。目を上に向けると、髪の先に溶けかかった滴が水晶の飾りのように点々とついていた。
 頭を振って払い落とす。急に動いてびっくりしたのか、ぱっとエレナが振り返った。
「なんでもありません。歌を続けてください、エレナ」
「つまらないのではないの? わたくしが無理につれてきたから来ただけで」
「行きたくないと思っていたら、断っていましたよ。続けてください。あなたの歌は好きだ」
「世辞などいってもなにもでないよ。それよりもそなたも歌ったら? それとも歌えないの? ここに来てから一度も歌っているところを聞いた事がないけれど」
 とうとう言われたか、とスランドゥイルは思った。ドリアスを脱出して以来、歌う事は自らの中で禁忌となっていた。意識的にそうしたわけではない。ただ感情を音に変え、昇華させることに抵抗があるのだ。
 今の自分に歌えるものがあるとしたら、それはドリアスに関してのことだけだから。
 失ったものへ対する愛惜と、失う原因となったものへの怒りしかないからだ。
 そんな歌はこの森にはふさわしくない。
 答えないことが答えだとわかったのか、エレナカレンは軽く肩をすくめると、悪かった、と呟いた。
「余計なことを言った」
「いいえ……」
 しばらく無言で歩き続けると、ようやく池にたどりついた。
 普段ならば水を飲みに来る小鳥や獣たちを目にする機会が多いそこは、沈黙で満たされていた。枝は重たげに頭を垂れ、すべてが白と影とで彩られている。
 池の表面にも薄っすらと雪が降り積もっていた。縁はいつもより曖昧で、どこまでが地面でどこからが水面なのかがわからない。
「さあ、ついたよ。始めるか」
 手を放すと、エレナはにんまりと笑って池に向かって足早に進んだ。スランドゥイルはその後を追う。
「本当に凍っているんですか?」
 もしも凍っていなかったら、冷たい水の中にどぼん、だ。エルフといえど、水の上は歩けない。他の生き物と違って病になどはかからないが、ぬれた衣服をまとうのは重いし動きにくいしで好ましいものではない。
「心配せずとも大丈夫だよ。わたくしはもう何度となく遊んでいるんだから」
 伯母上を信用しなさい、とエレナは胸を叩く。
「ほれ、もうそのあたりからは池だよ。滑るので気をおつけ。ひっくりかえって頭でも打たれたらさすがに事だ」
 足元を指差され、スランドゥイルはつられて下を向いた。そっと一歩を踏み出してみると、確かに感触が違っている。硬い。
 とんとんとつま先で確かめる。左右にこすると、半透明の氷が現れた。気泡が混じっていてところどころデコボコしている。
「凍っているな」
「だろう?」
 言うが早いか、エレナは池に飛び乗ると、軽く表面を蹴った。反動でついっと滑ってゆく。
「ほら、おいで。怖くないから」
「別に怖くなどない!」
 初めてのことで慣れていないだけだと憤然としながらスランドゥイルも同じようにした。意外に速度が出てしまい、身体が傾ぐ。体勢を整えると、エレナを追いかけるべくもっと速くした。
 しかしエレナはくるくると動き回ってつかまらない。ゆっくりと、時には鋭く旋回をすると、衣の裾が翻った。ふと下を見やれば、滑った跡が筋となっている。これを全部消してみよう、とスランドゥイルは思いついた。
 積もったばかりで軽い雪は、スランドゥイルが通るとその勢いで左右に押し出される。半透明の部分は多くなったが、完全にどけることは難しいようだ。
「何をやっているの」
 笑いながらエレナが突進してくる。自分で止まる気はないようなので、スランドゥイルは腕を広げた。
 エレナがそのまま突っ込んでくる。受け止めたものの、踏ん張りきれずに自分も後ろに滑ってしまった。
「エレナ、危ないぞ」
「こういうものは多少危ない方が面白いのだよ」
 笑いながら身を翻す。再び歌を歌い始めた。やはり意味のない旋律。だが楽しいということだけは伝わってきた。
 スランドゥイルは天を見上げた。雪は一向にやむ気配はなく、灰色の空から次々と舞い落ちてくる。
 身体が浮き上がるような感覚がする。しかし恐ろしいとは思わなかった。
 滅茶苦茶な歌詞の、しかし耳に快い歌が恐怖心をかき消してしまう。
 包み込まれる気配に安心する。
「エレナ――」
 思わず名を呼ぶとエレナは滑るのをやめてこちらを見た。
 それを真っ向から受け止めて、スランドゥイルは微笑む。
「続けてください。あなたの歌が好きだ」
 あなたの歌が。
 あなたが。






あとがきは反転で。
自分で設定しておいてなんだが、エレナの屋敷は冬はすごく寒いと思う。
炉はあるということにしたけど、部屋中暖める効果は多分ないだろうなー。
彼らが平気そうにしているのはエルフだからだとしか言いようがない(笑)
どの程度までなら寒くても平気なのかはよくわからないけど。
ノルドール族のヘルカラクセ横断の時にはさすがに脱落者が出たみたいだけど、レゴラスはカラズラスの吹雪くらいなら平気だったし。





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