・第三回パリ万国博覧会
5月1日〜10月31日まで、トロカデロとシャン・ド・マルスを会場に開催。
現在シャン・ド・マルスにはエッフェル塔がありますが、これは次の万博(1889年開催)に作られたので、この時にはまだありません。
入場者数は1600万人。(ちなみに愛知万博は2200万人)
面白い展示物としては、自由の女神像(アメリカにあるアレ)の首から上。アメリカの独立100周年を記念して作製されていたのですが、資金が足りなかったので完成した頭部だけを展示して寄付金を集めていました。
日本関係でいえば、わかっていることは大体作中に書きましたが、他に万博関係でパリに来ていたと思われる日本人には松方正義(1835〜1924 薩摩藩 第4、第6代内閣総理大臣)と山本芳翠(1850〜1906 洋画家)がいます。
松方氏は仏国博覧会事務局長官、山本氏は博覧会事務局雇通訳です。
他には、たとえば67年のパリ万博や73年のウイーン万博などには日本人女性が参加していたという記述を見つけたのですが、78年にはいなかったみたいです。というのも、政府としては日本人女性を参加させるつもりは全くなかったようで、67年の時はみづほ屋清水卯三郎という商人が私的に参加したものでしたし、73年時のは横浜にいたオーストリア人が会場で日本茶屋を開くために雇った人たちだったのです。(が、その店は日本の事務局とは無関係だったため、開店することはできず、連れてこられた女性たち(三人)は仕方がないので手袋の製法を学び、万博の閉会式の時に影絵として登場しました。政府としては何が何でも顔出しさせたくなかったんだろうなぁ)
万博に関係なくてこの当時パリにいた日本人女性となると、11代佐賀藩主(まあ、廃藩置県があったので、すでに藩主ではありませんでしたが)鍋島直大が夫婦でいたそうなので、その人は確実。あとは他にいるとしてもかなり少ないでしょう。
しかし、78年万博に限らず、この次期のパリの資料も微妙に少なくて困ってます。
もうちょっと前とか後だったら結構あるのになぁ〜。
・『琴(コト)』
日本の弦楽器の総称。
三弦の三味線、四弦の琵琶、七弦の琴(キン)、十三弦の筝など。
ちなみに筝にはさらに弦の数が多いものもあります。春日は十七弦のものも使ったことがあります。でかくなるとその分音も低くなるのは、西洋弦楽器と同じです。
また、78年万博に雅楽器が展示されたことまではわかったのですが、会場配置図が手に入らなかったので、本当にシャン・ド・マルス宮に展示されていたのかまではわかりません。
それと、楽箏というのは、お稽古などで使う筝(楽箏と区別するために俗筝といいます)と区別した名前です。
ところで、今って小学校だか中学校だかで音楽の時間に筝を主に、和楽器を習うって聞いてるのですが、本当ですか?
・黄色いアヒル(のおもちゃ)が村長をやっている地図に名前の載っていない村
ここ数年、春日が愛してやまないTV番組「鉄腕DASH」のDASH村のことです。なごみます。
・鮫島尚信(サメシマナオノブ)1845〜1880(作中年齢:33歳)
薩摩藩。外交官
1865年薩摩藩留学生に選ばれ、野田仲平と変名しイギリスに渡った。1867年7月アメリカに移り新生社でハリスに師事した。翌年帰国し、東京府外務省に勤務。1870年小弁務使として英仏独に派遣。1878年1月特命全権公使として渡仏し、ポルトガル、スペイン両国公使も兼任。1880年パリの公使館で勤務中に死亡。墓はモンパルナス。
* 作中で鮫島氏とカノジョがなんだか普通にしゃべっていますが、多分実際のところはお互いの日本語が聞き取りづらかっただろうと思います。ていうのもこの当時はまだ標準語などないはずですし(広まったのはテレビやラジオなどが普及するようになってからだろう)、人口の移動も少ないので、いわゆる「お国言葉」がはっきりしているはず。
春日は地元のじ様たちのしゃべってることがもう聞き取れなかったりしますので、それより前となるとどこの言葉でももっとわからなかっただろうなあと思うのですよ。(ちなみに春日は北の人間なので、薩摩弁はわかりません〜/汗)
・前田正名(マエダマサナ)1850〜1921(28歳)
薩摩藩。明治期の経済官僚、産業運動指導者。
明治二年〜十年までフランスに留学。一時帰国後大久保利通内務卿にパリ万博参加を説き、パリ万博日本館事務局次長として再渡仏。会場で自作の「日本美談(ヤマトモノガタリ)(『擬忠臣蔵』)を上演。明治12年帰国。
・起立工商会社
1873年に行われたウイーン万国博覧会が開かれたのですが、日本は海外の公式行事に初参加ということで非常にはりきり、張りぼての鎌倉大仏や名古屋城の金のしゃちほこや五重の塔の模型、高さ4mの大提灯や直径2mの大太鼓などを出展。同時に日本から大工を送り神社と日本庭園を組み合わせたようなパビリオンを作りました。(この建物が一番評判が良かったらしいです)またこの庭園のそばに売店が開かれ日本から持ち込まれた工芸品が売りさばかれました。特にうちわが好評で、一週間で数千本を売りつくしたそうです。ていうか、一体どんだけ持っていったんだろう(汗)。とにかくこの日本人気に目をつけたウイーンの商人が取引を申し込んできたのですが、日本政府としては商売はできない。そこで随行してきた日本の商人、松尾儀助と若井兼三郎が起立商工会社を設立し、販売ルートを開くようになりました。この企業がその後の万博がらみの出品物を担当します。林忠正(富山藩。1853〜1906(25歳))は78年のパリ万博出店にともない、通訳として雇われ渡仏。万博終了後はパリ支店駐在員として残り、若井の仕入れ、林の販売という分担が確立します。(だから作中で「巴里支店駐在員」と名乗ったのはフライングかもしれませんが、まあ雇われている時点で駐在員でもあるだろうしな、と思いまして。そもそもカノジョには通訳は必要ないわけですし。)
・トンキン
ベトナムです。原作でエリックがここに行っています。
自分の知ってるとこなので、『設定』を作るには好都合だと思ったようです。
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