「ん……と」
 鏡の前で格闘すること十数分。
「……ああ、また失敗した」
 ふう。
 わたしはためいきをつくと髪からピンをすべて抜き、頭を振った。
「さすがに伸びたよねぇ」
 呟きながら一房手に取る。こちらに来て以来結うのに必要だと、一度も後ろの髪を切っていなかったのだ。もともとセミロングだったのが、今では立派なロングヘア。手入れの煩雑さは増すばかりである。
「ま、仕方がないけどね」
 これがこの国この時代のルールだというのなら、従う方が懸命だ。ドレスは重い、コルセットは嫌い、髪を結うのは面倒。これはどう頑張っても覆せない事実だけれど、だからといって、現代の格好をし続けるのも馬鹿げたことだろう。わたしがあの格好を好んでいるのは、偏に現代の日本ではそういう格好が当たり前であり、誰も奇異に思わなかった、ということだけ。それこそあの国あの時代のルールに則っていただけなんだから。変な人だという視線に晒されながら、コルセットなしのパンツスタイルを貫くような信念などがあるわけではない。
「にしても、どうしよう」
 そういうわけで、手順がよくわからなかったり面倒だったりする結い髪にも慣れてきたこの頃だが、髪が伸びすぎてきたらしく、上手くまとめられなくなっている。前髪なら自分で整えることもできなくはないが、後ろとなるとお手上げだ。どこか美容院に行ってカットしてもらわねばなるまい。でも、どこに行けばいいのかなぁ……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「あ、おはようエリック。起きてたんだ、良かった」
 扉の開く気配とともに明るい声がする。顔をあげるとが小走りで寄ってきた。
「おはよう。どうかしたのかね」
 起きていたのか、良かった。
 これは彼女が私に何か頼みたいことや聞きたいことがあるときによく発せられる言葉だ。
 それも朝が多い。おそらく、私の生活が不規則なため、いつでも朝に顔を合わせられるわけではないからだろう。
「ええと、ちょっと相談というか、聞きたいことがあるんだけど……」
 うむ、思った通りだ。……当たったところで褒められるようなものではないが。
「聞きたいこと?」
「ええ。あなたに聞くのはなんか違うような気がするんだけど、意外に詳しそうな気もしたから」
「……だから、なんだ?」
 謎かけのような口ぶりに、私は首を傾げる。
「あのね、美容院に行きたいんだけど、どこかいいお店、知らない?」
「美容院?」
「そう。髪を切りたいの。どうせなら腕の確かな美容師さんのいるところがいいし。エリック、オペラ座の女の人たちの話もよく聞いているんでしょ? いいお店の噂とか、聞いたことない?」
「ああ……美容院、ね」
 それにしても知らない人間が聞いたら誤解を招く発言だな、いまのは。あれでは私がオペラ座の定期会員かなにかで、オペラ座の女達とよろしくやっているようではないか。実際はただ盗み聞きをしているだけなのだが。
「残念だが、私もあまり知らないのだよ」
「そうなの?」
「ああ、オペラ座には専任の髪結い師がいる。必要なら散髪も彼らがやるだろう。それに客として訪れる金持ちのマダムやマドモワゼルなら、店になど行かず自分の家に呼ぶものだ。だから町の美容院の話など、ほとんど聞かないな。誰それは評判のよい美容師だ、というようなことなら聞かないでもないがね」
「そうか。服の時と同じなんだ」
 納得した、というように彼女は頷いた。
「たしかに。自分で店に行かずに呼びつけるとは、金持ちというのはよほど忙しい怠惰者らしいね」
 エリックったら、とはくすくす笑う。
「それで、髪をどうしたいんだ? ここには美容師を呼ぶわけにはいかないが、ある程度なら私でもなんとかできるかもしれない」
「……どこまで器用なのよ、あなたは」
 驚いたというよりも呆れたように彼女は言うと、リボンで一つにくくっただけの髪の束を前に回した。
「後ろの方を五cmくらい切りたいの。いつもの髪型にしても、崩れてきちゃって。多分量が増えて重くなったからだと思うんだけど」
 艶々と美しい黒髪がランプの明りを受けて照り輝く。
「それくらい、まだ長いというほどでもないよ。いつものと言わず、新しい髪形を試してみたらどうだ?」
 こんなに綺麗な髪を切るなどもったいない。
「そうは言っても、なにをどう結ってるのかわからないから、やりようがないのよ。ヘアスタイルだけなら雑誌にも載っているけど、懇切丁寧な結い方の手順までは載っていないんだもん。三つ編みを頭の後ろにぐるぐる巻きにするだけでよければこのまま伸ばすけど?」
 彼女は拗ねたように下唇を突き出す。私は左右に首を振った。
「そんな農婦みたいな格好はやめてくれ。ドレスと似合わないだろう」
「だから、切るって言ってるんでしょう?」
「まったく、仕方がないな」
 私はため息をついた。
「後ろを五cm、だな? 朝食が終わったらやってあげよう」
「え、本当にできるんだ、散髪」
「ただ切るだけなのだろう? なら問題はない」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 朝食とその片付けが済むと、エリックはガウンに着替えてくるようにとわたしに言いつけた。そうでないと、ドレスのあちこちに髪がくっついてしまうだろうからって。
 それはそうだと思ったわたしは散髪の準備はエリックに任せると部屋に戻って着替えをしようとした。
 しかし途中でふと気がついた。
(髪って、切る前に洗った方がいいよね……)
 現代にいた頃にわたしがいつも行っていた美容院はそういうことになっていた。ドライヤーのない十九世紀のパリでは洗髪は結構大変なのだけど、髪を切るためには必要ならば仕方あるまい。ちょっと遅くなるけど頭だけ、洗おう。
(洗面台にシャワーがついてれば楽なんだけどなぁ……)


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 椅子を一つ、絨毯を敷いていないところへ移動させる。
 髪があちこちに付着するのを防ぐためだ。
 床に古新聞でも敷いておいた方がいいだろう。後片付けが楽になる。
 私は動かしかけていた椅子を置くと、一端居間を離れた。
 自室に戻ったついでに、剃刀を取る。
(刃は新しいものに換えた方がいいな……)
 私が散髪に慣れているのは、いたって単純な理由からだ。
 自分の髪を自分で切っているからである。
 私のような客など、どの理髪店でもお断りだろうし、私としても断られる屈辱を覚悟して店の敷居を跨ぐなどとうていできるはずもなかった。
 私の頭部は、かなりの部分が忌々しい顔の皮膚と同じような様相を呈しており、正常な部分はわずかにすぎない。そのため、髪の毛が生える箇所も限られているので、伸びすぎたところを適当に切るだけで済んでいる。綺麗に整えるような無意味なことはしていない。大体、整えたところで鬘の下になってしまうのだから。
 切るための道具も、特別なものは何も用意していなかった。使用頻度が低いので、髭を剃るための剃刀で代用している。とはいえ彼女くらいたっぷりした量の髪でも、特に問題はないだろう。
 剃刀の刃を新品に換えて、古新聞を持ち、私は居間に戻った。
 床にそれを広げ、椅子を運び、彼女が来るのを待つ。
「……何を、しているんだ、あれは」
 思わずの部屋に目を向ける。
 ゴンゴンと低く鈍い音が壁から伝わってきた。これは外のパイプがたくさんの水か湯を送っている音だ。つまりこの音がしたら私たちのどちらかが風呂に入る準備をしているということが自動的にわかってしまう。顔を洗うくらいの水ではここまでの音はしないのだ。
 ということでつまり、はこれから風呂に入ろうとしているのだろう。
(髪を切るのではなかったのか?)
 中に入って聞いてみようかとも思った。
 だがすでに浴室に入っていたりしたら……そこに踏み込むのはさすがにまずい。
「本当に、困った子だ……」
 どれくらい待たされるのか。私はため息をつくと、どかりと椅子に座り込んだ。
 さて、今度のこの奇妙な振る舞いの理由は一体なんだろう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 うわ、結構時間がかかっちゃった。エリック、待っているだろうなぁ。
 髪を洗うのにさほどの時間はかからないものの、ドライヤーなどないこの時代、ある程度水気を拭うだけでも時間がかかってしまうのだ。まったく、こんなことなら昨夜お風呂に入った後にでもエリックに頼めば良かった。あの人なら髪の毛を切るくらいできても不思議じゃないもの。
「あ……」
 というよりも、今夜、お風呂に入った後に頼めば良かったんだ。うわあ、気づかなかった、馬鹿だ、わたし!
 とはいえ、今更後回しにするとも言えず、濡れた頭はすぐには乾かず。
(……次に髪切る時には、そうしようっと)
 ひっそりと肩を落として、わたしは居間に戻った。
「遅い。一体どうしたんだ」
 いつもとは違う場所に置かれた椅子にふんぞり返って座っていた彼は、わたしを見るや立ち上がる。ちょっと苛々しているみたいだ。やばいなぁ。
「どうって、髪を切る前には頭を洗うものでしょう?」
「……日本ではそうなのか?」
 エリックは怪訝そうに眉を寄せた。
「え? フランスでは違うの?」
 これって、日本の習慣だったのだろうか。
「いや、よく知らないが……」
「知らない?」
「私はいつも自分でやっているのでね」
「あ……」
 当然の如く言う彼の言葉が何を意味するのか、わからないわたしではない。ああ、また墓穴を掘ってしまったと思わず口を押さえる。
 まったく、わたしときたらいつになったら彼のことをちゃんと理解できるようになるのだろう。
「ごめん」
「お前が気に病むことではないよ」
「でも……」
「気にするなと言っている」
 彼は真顔で念を押した。となれば、わたしは黙って頷くほかはない。
「まあいい、早速始めようか。その前に、櫛かブラシは持ってきたか?」
「あ、ううん」
「じゃ、持っておいで。それと、手鏡も」
「はぁい」
「ああ、どうせならケープもあったほうがいいな」
「わかったー」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ようやく準備が整ったので、私は椅子に座った彼女の背後に回る。
 髪はどれくらい濡れているのだろうか。触れてみると、ひやりと冷たかったが滴が落ちるほどではない。すぐに乾くものでもないし、このまま進めるか。しかし、なぜ日本ではわざわざ切る前に洗うのだろうか……。
 櫛で髪を梳いてゆく。
 引っ掛けたりしないように私はゆっくりと櫛を動かした。
 だが、そんな心配は無用とばかりに、櫛の歯はするすると下へと下りてゆく。
(ここまでとなるといっそ清清しいな)
 私のものとはまるで違う質のそれに、感嘆の念すら覚える。改めて切ってしまうのが残念だった。
 彼女はできないと言ったが、それなら私が毎朝彼女の髪を結えば……。
(まあ、現実的ではないな)
 思ったものの、すぐに内心で頭を振る。
 私の生活は不規則だ。毎朝彼女のようにきちんと起きれるわけではない。徹夜はざら、彼女が起きる時刻に寝室に行くことも珍しくない。それに、彼女が寝る頃になってようやく起きてくることもある。夕食は共に取りたいので、さすがに最後のものはあまりないが。
「エリック?」
 なかなか切らないので焦れてきたのだろう、がわずかに頭を動かして、声をかけてきた。
「ああ、動くんじゃないよ。切りすぎたらどうするんだ」
「だって、なかなか始めないんだもの」
「慎重に様子を見ているんだよ。なにしろ自分以外の髪を切るのは初めてなんだから。さ、前を向いて」
「はぁい」
 櫛で髪をより分け、意を決して刃を当てた。さくっと軽い手ごたえと共に、黒い糸がはらはらと零れ落ちる。
(ああ……もったいない)
 何度目かのため息が零れそうになるのをぐっと堪えて、私は作業に集中した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 さくり、さくり。
 少しずつ頭が軽くなってゆく。
 剃刀が当てられるたびにちょっとひっぱられるような感じがし、それからわずかな刺激とともに離れてゆくのがわかった。
 ああ、なんだか気持ちいい。
 わたし、美容院に行くとかなりの確率で眠くなるのよね……。
 駄目だ、すでに負けそう。
 瞼が重くなるのを堪えてじっとする。


 ……眠い。
 さっき起きたばっかりなのに。


 かくんと首がうな垂れそうになるのを防ぐのは、生憎なことにわたしの意志ではなくて、エリックの指だった。
 長くて繊細なそれが髪をよりわけるときに時折首筋をかすめる。と、背中が粟立つような、ぞくりとしたものを感じるのだ。


 さくり。
 眠い。
 ぞくり。



 さくり、

 眠い、

 ぞく……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「っ……!」
 危なかった。
 急にの頭が傾ぎ、髪が一気に横になびいた。
 どうしたのかと中腰の状態から立ち上がる。
 すると、彼女は転寝をしているではないか。さっき起きたばかりなのに。
 私は呆れて内心で頭を抱える。
 よくこんな状態で眠れるものだ。
 それは、もちろん私はに危害を加えるつもりなどまったくないが、そうでなくとも髪を切っているときなら、後ろにいる奴はハサミや剃刀を持っているのだぞ。
 うっかり肌を傷つける可能性だってないわけじゃない。
 それに店を構えて商売をしている人間がみな善人だというわけでもない。
 噂に聞くイギリスの殺人理髪師のような奴だっていないとも限らないではないか。それなのに……。
 まあ、こんなことを言っても、彼女にはあまり真剣に取られないことはこれまでの経験からわかっている。
  はあまりにも平和な時代でこれまで過ごしてきたせいで、危険に対しての警戒感がほとんどないのだ。本人が警戒しているつもりでも、こちらから言わせればまったくお粗末だったりする。
 まあいい。とにかく髪を切っている最中に眠りこけられては危ないし、おかしな具合に切れてしまう可能性もある。さっさと起こしてしまおう。
 肩を揺さぶろうと手をあげる。
 が、その手は彼女の肩に触れることはなかった。
 頬の上に落ちる睫毛の影に、小さく開いた唇に、安堵しきった寝顔に、つい目を奪われてしまったからだ。
 思えば彼女はこちらの習慣にまだ慣れていなかったころ、風呂上りに髪が乾くまでこの居間で過ごしていたのだった。あまりにも目に毒だったのでやめさせたので、ガウン姿の彼女を見るのはずいぶん久しぶりだ。
 それに寝顔といえるものは、彼女が私の前に現れたときに見た以来ではないだろうか。もっともあれは眠っていたというよりも気絶していたのだろうが。
 それに加えて……いまの彼女は、おそらく……。
 ああ、いけない、考えるな。
 考えれば止まれなくなる。
 私は強く頭を振って邪念を追い払うと、作業を再開した。
 ともすると火の点きそうになる身体を押さえるのは至難の技だったが、数学の公式を何度も頭の中で繰り返すことで乗り切った。
 そうして剃刀を動かし続けること十五分ほどで、満足のゆく出来栄えに仕上がる。
 完成品を吟味するために一房とると、滑らかなそれが私の手の中で淡い光沢を放った。
 私に完全に身を委ね、何の危険も覚えない
 その暢気さが嬉しくもあり、時折憎たらしくもなる。彼女はすべてをわかっていて、私を弄んでいるのではないだろうか。彼女の一挙一動に一喜一憂する私を影で嗤っているのではないか……。そう、思ってしまうことが度々ある。
 これは疑心暗鬼、というものだろう。
 いままで女性に愛された経験がないので、どうしても穿った見方をしてしまうのだ。
に言ったら、怒られるのだろうな……)
 わたしを信じていないの?
 彼女のそんな声が聞こえるようだ。
 私は自嘲するとゆるゆると頭を振った。
 信じたいさ。信じられるものならば。
 恐れることはないのだと。失望することなどないのだと。
 だが頭の隅に、心臓の奥に、そんなことはありえないと告げるものがこびりついて消えないんだ。
……」
 私の光、私の望み、私の愛よ……。どうか、私を救ってくれ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ……ふぁ。

 また勝負に負けてしまった。
 なんでこう頭をいじられてると眠くなるんだろうなぁ。
 ところで終わったのかしら。
 なんかまだ髪の毛引っ張られているような感じがするんだけ……。
「っぅえ!?」
 思わず変な声があがってしまった。
 いや、だってだってだって……。
 エリックがちらりと目だけ動かす。でも、やめなかった。
 な、なんで髪の毛にキス、してるんですか、ねえ……。
 おおお、落ち着け、わたし! エリックが頭にキスしたことくらい何度もあるじゃないか!
(こんなにじっくりとしているのは初めてだけどね!)
 頭の中は大パニック。思わず自分で自分に突っ込みを入れてしまうほど。
「エ……エリック……?」
 わたしは動揺しまくっているのに、その原因である彼は平然としたものだ。
 どうしよう、見ているこっちが恥ずかしいんだけど。
 とはいえ、俯き加減の彼は、光の具合もあっていつも以上にその姿が引き立って見えた。
 仮面を被っていても隠し切れない目の辺りの肌が、影で隠れてしまうので、さながら彼は仮面舞踏会でダンスを求める紳士のようだ。片膝をついているので、なおさらそう見える。
「ど、どうしたの……」
 わたしの寝ている間に一体何が。本気で説明を要求したい。
 だが情けないことに、わたしの声は震えてしまって、言いたいことの一つもろくに言えなかった。
 そうこうしている間に、エリックは徐々に立ち上がりつつ、上へ上へと唇を動かす。首のほぼ真後ろ、というところまで来ると、髪越しに強く押し付けてきた。と、舌先らしきぬめっとしたものが吸い付いてくる。
「……ぅ」
 反射的に立ち上がりかけたが、エリックは許さない。彼の右腕は椅子ごとわたしの腰を押さえつけていた。
 そうこうしているうちに、彼の手が膝に添えられ、ゆっくりとガウンを引っ張りあげてゆく。
 これは、本気で、マズイ、のではないだろう、か……。
 なぜなら、わたしはガウンの下にはシュミーズしか着ていないのだ! お風呂あがりだったし、髪がつくからガウンを着て来いといわれたので、切り終わったあと洗い流せるようにすぐに脱げる状態にしておこうとしたのだ。
 ……それがいけなかったのだろう、か?
「ねえ、エリック……」
 とりあえずこの状況をなんとかしようと、わたしは悪さをする彼の手に自分の手を重ねた。
 わたしはエリックが好きだし、いつかはこういうことになるとは思っていた。これがわたしの大いなる勘違いだったとしたらただただ布団をかぶってじたばたするしかないのだが、状況から察するに、エリックはその……わたしに欲情してる……よね。
 でもこんななにかのプレイっぽいのはさすがに勘弁してほしい。できれば、最初は普通がいいのだ。
「とりあえず、落ち着こう。ね、エリック。ほら足元とか髪の毛だらけだし、掃除しよ、ね。ね!?」
「ふむ?」
 わたしの提案に彼は動きを止めた。
 ああ、良かった……と思ったのも束の間、そのまま膝の後ろに腕を入れられ、いわゆる姫抱きにされてしまった。わたしを抱えて歩くエリック。その先には……ソファ。
(うぇぇええぇぇっ! ほ、本当にするの? いまから!?)
 なにもかも急すぎる!
 そっとソファに下ろされる。と、体制を整える間もなく、エリックが覆いかぶさってきた。
 唇を割って侵入してきたのは彼の舌。それがわたしの舌を絡めとろうと、激しくうごめく。その間、ほとんど息もできなくて、なのに心臓は激しく動くものだから、あっというまに意識が飛んでしまいそうになった。
 ようやく楽になったかと思えば、なにやら別のところが熱くて涼しい。
 シュミーズごとガウンの肩口を広げられ、あらわになった胸元に彼がむしゃぶりついていた。
「ま、待って。待って。ねえ、待って!」
 嫌だ。怖い。
 こんなの、嫌だ!
「待ってぇ……」
「……
 のろりと顔をあげる。その目はどこか茫洋としていた。
「怖いのか?」
 その問いに、わたしはこくこくと頷く。
「無茶はしない。……恐れることはないよ。誰でも、そう、アダムとイブの時代から誰でもやっていることなのだから」
 そうかもしれないが、そういうことではない。
 言い返したかったけれど、エリックに本気で囁かれて抵抗できるはずもなかった。
 腰砕けになる、というのがぴったりの状況だろう。
 本当に、力が入らない。……背中を駆け抜けるぞくりとした感覚はますます強くなるばかりだ。
「愛しているよ、
 ちゅ、と音を立てて鎖骨の下に彼は口付ける。
「お前のすべてを、私に見せておくれ」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 身体を強張らせ、震えながら、大きく目を見開いて私を見上げる
 なんて愛しいのだろう。
 彼女への恋心を自覚してから、長い時が過ぎた。
 そして彼女にも愛されていることを知り、婚約までこぎつけた。
 あとは式を挙げれば名実ともに彼女は私の妻となる。そうするためにはいささかやっかいな事情が絡んでいることもあり、なかなかスムーズには行かないものの、そう、彼女はいつ私の妻になってもおかしくはないのだ。
 婚前交渉は褒められたことではないが、この際、順番が多少前後したところで問題はあるまい。
 なぜなら、私たちは愛し合っているのだから。彼女は私に愛を与えるために存在するのだから。これは神ですら否定できないことだろう!
……」
 ようやく、彼女が私のものになる。感激と興奮で、頭がどうにかなってしまいそうだ。
 ああ、だが、我を忘れてはいけない。
 彼女は初めての事に脅えている。優しくしてあげなくて……。



「にゃー」



 思わず、動きが止まってしまった。
「アイシャ……」
 お前、このタイミングで……。
 脱力しそうになる私にかまわず、アイシャはソファのすぐ下でぐるぐると回る。
 おなかがすいたという合図だ。そうか、空腹か。しかしできれば今日は自分で調達してほしかったな……。
 かといって、このまま放っておいても彼女はそばを離れないだろう。仕方がない、食事を与えてすぐに戻ろう。
 と、ソファから降りた途端、バネ仕掛けの人形のようにが起き上がると、脱兎の如く走り去ってしまった。
「ま……!」
 静止する間もなかった。彼女は自室のドアを音高く響かせて閉め、閉じこもってしまった。
 あまりの早業に私が呆然としていると、早くご飯を頂戴とアイシャが足元にすりよってくる。
「ああ、うん、すぐ用意するよ……」
 我に返った私は、機械的に小さなレディの身体を抱き上げた。喉を鳴らして擦り寄ってくるアイシャ。いつもならばそんな態度に私の頬は崩れがちになるのだが、さすがに今日は……。
(泣きたい気分だ。そんなに嫌だったのか、……)
 キッチンに向かおうとすると、小さな音が聞こえた。振り返るとが頭だけ出してこちらを窺っている。
「別に逃げたわけじゃないから! 髪切ったあとは流さないとちくちくするものだし!」
 なにもそんなに真っ赤になって大声で誤魔化さなくてもいいだろう。
 嫌だったんだろう、ようするに。
「でも……」
 彼女は涙目になってきっと睨みつけた。
「いきなりなんて、ずるい!」
 それだけ言うと、またバタンと音を立てて部屋に立てこもった。



 そうか、ずるいか。
 ということは、ちゃんとその気にさせてから取り掛かれば逃げなかったということだな。
 なるほど、確かにそれは一理ある。
 愛があっても合意がなければ片手落ちだ。
 それに、やはり結婚前だからな。
 道徳的にも婚前交渉はやはりよろしくないと……思……。


 ええい、くそ!
 たとえ合意があろうとなかろうと、続けていれば彼女とて最後には受け入れてくれただろうに!
 こんな機会など滅多にないというのに……!
 ああ、こんなことがあった後だ、しばらく彼女は恥ずかしがって私と差し向かいになったりはしないだろう。
 これがきっかけで婚約破棄をされたら!?
 返す返すも口惜しい。
 ああ、アイシャ、どうしてお前はそんなにが嫌いなんだ……。
 あのタイミング、私にはわざととしか思えなかったぞ。



 などと愛猫を呪うも、本気で怒れるはずもなく、ただただ失望のあまり前のめりになって膝をつきそうになるのを堪える私だった。







セクシーなエリックで最後はヘタレ可愛くというリクエストでしたが…(ヘタレなのはいつものことですが)セ、セクシーかな、これ?
すみません、これが私の限界でした!
今度はお猫さまに邪魔されないように、彼女の部屋でやればいいと思うよ!(←殴)

* 補足 *
イギリスの殺人理髪師→スウィーニー・トッドのこと。この時代にはまだミュージカルはもちろんなかったのですが、その元となる殺人事件らしきものは19世紀前半にあったとか。とはいえ、なかば眉唾の、都市伝説みたいなものらしく、実在性は薄いようです。

それからさすがに19世紀の理・美容院の設備やメニューに関しては調べきれなかったので(髪型ならある程度はわかるけど、家で結ったり切ったりしているのか、専門の店に行ったのかまでは……)この辺は捏造しています。
素人見解ですが、夜会に出るときなどの気張った髪型にする時でなければ、貴族や富豪の奥方やお嬢様は侍女に髪結ってもらったしりたんじゃないかなぁ。




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