私は、機嫌が悪かった。
 舞台の出来が悪かったから。
 そして閉演後、舞台裏に意気揚々と乗り込んできた新入りの定期会員が、通ぶって『オペラ座の怪人』のことを馬鹿な笑い話にしたからだ。
 怪人とか幽霊などと呼ばれているオペラ座の主がオペラ座関係者の間で話題にならない日は、ないと言ってよいほどであるが、だからといってあんなろくでもない舞台を絶賛するような、節穴の目と頭の持ち主に笑いものにされるいわれはない。
 なので私はオペラ座へようこそという意味を込めて、やつに怪人からの洗礼を授けてやった。
 相当肝を冷やしたようなので、再び我が劇場へ足を踏み入れる気になるまで時間がかかるだろう。もしかしたら定期会員をやめるかもしれないな。まあ、どちらにせよ、私の知ったことではないが。
 慌てて劇場から立ち去る、無粋な男を見送りながら、私は腹の中であざけり嗤った。
 だが――すぐに虚しくなる。

(ああ、私はいつまでこのようなことを続けなくてはいけないのだろう)


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 オペラ座からの視察から帰った私は誰もいない居間――深夜過ぎだったからだ――でぼんやりと物思いに耽っていた。
 それというのも、最近、『オペラ座の怪人』としての仕事をするのが苦痛になってきたからだ。
 理由ははっきりしている。
 地上と地下、この混じりようのない二つの世界での、私に対する評価があまりにも違いすぎるからだ。
 地下での私、つまり、可愛らしく誠実な女性を婚約者に持ち、静かな生活をしている自分と、一歩でも外へ足を踏み出した途端に幾多の罪に塗れた怪物になってしまう自分というこの現実。
 暗き世界にいるのは、私の素顔を知ってもなお、私に愛情を向けてくれる
 一方明るい世界で私に寄せられるのは、畏怖と蔑み、排斥と嘲笑だ。
 どちらの世界が良いか、問われるまでもない。
 ああ、生活の心配さえなければ、怪人業などやめてしまいたいところだ。
 これまで支配人から搾り取った金があれば、当座はしのげようが、それだけではいずれ足りなくなる。貧乏暮らしの辛さは若い頃に嫌というほど味わったので、たとえを安心させるためであっても、ここを出て慎ましい生活をすることなど考えられない。
 私には未知の領域であるのだが、先人達の言うところによると、金で愛は買えないが、愛を持続させるには金がいるということだ。参考にはあまりしたくはないのだが、オペラ座の女たちを見ていると、確かにそういう側面が無きにしもあらずと感じる。となると私は怪人業をやめるわけにはいかない。
 ……そして実際のところ、時折あるわずらわしいこと――『怪人』の存在を印象付けるためにわざと目撃されなければならないこと――を除けば、オペラ座の怪人という役職は、これまで私が経験したどんな仕事よりも精神的にも肉体的にも楽なのだ。
 それでも、これまで辛酸を嘗め尽くしてきた私にとって、の与えてくれる温かな居場所は何にも変えがたく、できることならそこに閉じこもって生涯を終えてしまいたいとさえ思える。
 しかし。
 そうすればやはり生活に困ってしまうので、地上へ行かざるをえなくなるのだが。
 ああ、まったくの堂々巡りだ。
 これではなにも解決しない。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 小さな音がして扉が開く気配がする。
「あら、おはようエリック」
 女性特有の、どこか甘さを秘めた柔らかい声……。
 だ。
 ではもう朝なのか。
 一体何時間考え事をしていたのだろうか。
 いや、考え事などというものではないか。ずっと、同じことばかりが頭の中を廻っていたのだから。
「また徹夜していたの?」
 シンプルな白と藍色のドレスに身を包んだ彼女はゆっくりと近付いてきた。
「ああ……。つい考え事に夢中になっていたようでな」
 そう答えると彼女はやっぱり、と言いたげな苦笑を浮かべる。
「しかし、どうしてわかった? 徹夜ではなく早起きをしただけかもしれないではないか」
 一年以上一緒に暮らしているのだ。互いの行動はある程度予想できる。それでも妙に確信のある彼女の言に、思わず疑問が口をついて出た。
「そんなの、簡単だわ」
 彼女は私の隣にすとんと腰を下ろすと、そっと手を頬にあてる。
「ね?」
 そしての細い指が仮面に覆われていない顔の線をなぞった。なるほど、髭か。
 それにしても、この子は……。
「わかったから、やめなさい」
 背中がぞくりとする感覚に、私はたまらず彼女の指を握って動きを止めようとする。
「やぁだ」
 しかしは楽しげに笑いながら私に触れるのをやめようとしなかった。
 再び空いている方の手で頬をなでてくる。
「……っ、本当にやめるんだ。やめないと」
「やめないと?」
 押し倒してしまいたくなる。
 だがそんな事を言ったらさすがに彼女は私を警戒して逃げてしまうだろう。気まずくなるのだけは何よりも避けたい。
 まだ余裕の表情で笑っている彼女に、私は小さくため息をついた。本当に、無邪気であるというのは時として罪深いものだ。
「やめないと、キスをするぞ」
 は瞬間、目を見開いて動きを止めた。これで離れてくれるかと思ったものの、すぐに微笑を浮かべ、
「今更よ。別に構わないけど?」
 と肩をすくめた。
 なんともはや、大胆なものである。これには私の方が参ってしまった。
 だが本人のお許しが出たのだ、これを逃すほど私の欲は小さくはない。
「言ったな?」
 彼女が前言を撤回する前にと、腰を抱き寄せ、顔を上向かせた。
 は微笑を浮かべたまま私の腕の中に収まり、目を閉じる。
 今朝の『挨拶』はいつもより長く、深かった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「……少しは加減してよ、もう」
 私の肩に額を預け、彼女は浅い呼吸を繰り返す。
「煽るお前が悪い。これに懲りたら、男を挑発するようなことはしないことだな」
「そんなつもりじゃなかったんだもん」
 ぷうと頬を膨らませると、顔を赤くして彼女は顔をうつぶせる。
 私はやれやれとため息をつくと、彼女の背中に手を回し、落ち着くようにゆっくりと上下になでた。
 幸福……だな。
 ああ、間違いない。私は幸せなんだ。
 なのに、なぜだろう、どことなく納得のいかない思いにかられるのは。
 に愛されて、私はとても満たされているはずなのに……。
 そうだ。

 なぜ、彼女は私を愛してくれるのだろう。

 彼女が私を愛しているから、優しくしてくれるから、地上での活動が余計に苦痛に感じられるのだ。
 だが現実から目を背けることなく考えてみれば、私は、およそ女性に好かれるタイプではない。
 にしたって私が理想の男性だというわけではないだろう。
 なのに、一体どこを、彼女は好いているというのだろう。
 容姿や肉体が彼女を惹きつけているのではないというのは間違いない。
 この表層部分は一度たりとも私を幸福に導いてくれたことなどないのだ。
 顔のことはもちろん、それ以外をとっても、表面的な部分では私に良いところなどありはしない。
 昔からどれだけ食べても骨と皮ばかりにやせているし、皮膚は踏みにじられた古紙のよう。
 上等の絹や麻や毛織物を身にまとっているので、服の上からならばまだましであろうが、そうでなければ彼女とて私に抱きしめられることに耐えられるはずはない。そして服の上からでも、私が生きているのが不思議なほどに痩せこけていることがわかるだろう。
 無様に太っているものは得てして世間の嘲笑の的にされやすいが、痩せすぎている者は恐怖感を抱かせるものなのだ。なぜならそこから連想されるのは貧困と無教養であり、実際にその立場に置かれているものは、自分がみじめなのは社会とか国というものが悪いからだと考えるものだ、と考えられているからだ。
 この百年、フランスでは何度も政治体制が変わったが、その原動力の一角をいつも貧しい人びとが担っていた。しかし過ぎたるは及ばざるが如し、争いに次ぐ争いに辟易した人びとは、平穏を望むようになった。そうなると、社会を揺るがそうとする、あるいはそのようなイメージを負う存在を忌避するようになる。
 だからこそ、例え金持ちのような格好をしようとも、私が世間から好かれるはずはないのだ。
 では、見えない部分ならばどうか?
 心とか、精神と言ったものだ。
 良くありたいと私は思っているが、もしも公平な第三者が見たら――それがキリストの神でなくとも私は構わない――私の精神を良いものだと思ってくれるだろうか?
 わからない。
 人に対して、世間に対して、神に対して、怒りや憎しみを感じたのは一度や二度ではない。それというのも、が現れるまでの間、誰も私をまともな人間として扱ってくれなかったからだ。優しい感情を向けてくれた者が一人もいなかったからだ。それでも怒らず、憎まないでいることが出来る者がいるのならば、お目にかかりたい。
 私が凶暴な性質を持っているにせよ、それがどこまで私のせいであるのだろう。
 そうとも、私だって、優しくしてもらえれば、ちゃんと優しくすることができるのだ。だからこそ彼女は私と共にいるのではないか。

 愛しい者の名を呼んでみる。
「な、なに?」
 どのような音でも自在に出せる私の喉。それが今は天使もかくやという響きを紡いでいる。
 常ならぬ声に、彼女はびくりと身を震わせる。
「愛しているよ」
「……!」
 は勢いよく身を起こすと、目を丸くして金魚のように口をぱくぱくさせる。その顔は真っ赤だった。
 こうしてみると、やはり私の最大の武器は、心や精神とは別の、ぱっと目には見えないものなのだろうと思う。
 つまりは声と、培ってきた才能だ。
 人を、場合によっては廃人にすらできる声と、広範な知識、それに器用さ、そういったものだ。
「エリック……」
 頬の赤さはまだ引いていなかったが、は心配そうに覗き込んでくる。
「大丈夫?」
「……何がだ?」
「だって、なんか、落ち込んでいるみたいだから」
「……そんなことはないよ」
 自分でも落ち込んでいるとは思っていなかったが、明朗快活ではないことは確かだ。まあ、私の場合、明朗快活な時などほとんどないのだが。
「そう? なら、いいけど……。あのね、エリック。私にはあなたの悩みごととかは難しくって一緒に考えることとかはできないと思うけど、聞くだけならできるから。無理にとは言わないけど、話してもいいなと思ったら、話してちょうだい。ね?」
 彼女はわずかに眉を寄せ、真剣な表情で言った。
「可愛い事を言ってくれるね」
 今度は私が彼女の頬に触れる番だった。恥ずかしげに目を伏せるも、されるがままになっている。
「……お前は、どうして私が好きなんだ?」
「え?」
 驚いたようには顔をあげた。
 聞くべきではなかったのかもしれない。
 望む答えが返ってこないかもしれないからだ。
 何を望んでいるのか、自分でもよくわかっていないのだが、それでも、私は彼女に安心させてもらいたいと思っている。
 ……だから、問うことを止められなかった。
「どこが良いと思っているんだ? 私は……こんな男なのに」
 思わず仮面をおさえてしまう。
 この下にあるもののせいで、どれほどの苦しみを味わったことか。
「それが、悩みなの?」
 彼女は私の問いに、問いで返した。
「悩みの一部分、だろうか」
 呟くと、は難しい表情を浮かべて沈黙する。
「あのね」
 しばらくして口を開くと、彼女は困ったように首をかしげた。
「色々考えたけど、どれも違うような気がするの」
「違う?」
「そう。えっとね、わたし、エリックが動いているところを見るの、すごく好きみたい。元気な時は優雅、っていうのかな、洗練されているというか隙がないというか、流れるような動作で、見てるとドキドキする」
 思いがけないことを言われて面食らった。動作だって?
「で、疲れている時はさすがに『あ、疲れているな』って感じでよろっとしているじゃない。こういう言い方もなんだけど、年相応というか」
「……」
 多分、褒めてはいないだろう。年相応……さすがに私も四十過ぎであるから、体力の限界にくるのが若いときよりは早くなったが。
 ひっそりと肩を落としていると、ははにかむような笑みを浮かべて続けた。
「でもね、エリックのそういうところを知っているのは、多分世界中でわたしだけだろうなって思うと、なんだか嬉しいの。だってエリック、他の人の前では気を休めたりできないでしょ? あ、ベルナールさんとかカーンさんとかマダム・ジリーの前では別かもしれないけど」
「いや、あの三人の前でだって、私は隙を見せたりなど……」
「じゃあ、本当にわたしだけなのね」
 恥ずかしげだが本当に嬉しそうには笑う。
 ……すごい。彼女が輝いて見える。
 薄暗いはずの居間が明るく感じる。
 これが愛の力というものか。
 普通の女なら私のそんな姿をみっともないと思いこそすれ、見れて嬉しいなどと思いはしないだろう。
「だ、だが、私はお前の誇らしい恋人にはなれないだろう? お前が私を好きだと思っているのだって、ただお前が選べるカードが一枚しかなかったからではないか? そこにもう一枚別のカードがあったとしたら、お前は私を選んだりは……」
「あのね、わたしは、目の前に選べるカードが一枚しかないとしても、選びたくないカードだったら最初から引いたりしないわよ」
 力強く、断言するように彼女は言った。胸を反らし気味にして私を見上げているので、睨んでいるようにも見える。
「……」
「大体わたし、恋愛って絶対しないといけないものだとは思ってないし」
 そう、だったのか。
「だから無理やり好きな人を作ろうとか考えていないし。自然に任せるつもりできたもの」
「意外に、淡白なんだな」
 彼女くらいの年の娘なら、何を差し置いても恋人を欲しがるものだと思っていたのだが。
 はゆっくりと頭を振る。
「そんなつもりはないけど、でもやっぱり環境のせいかなぁ。わたしの時代の日本って、今までなかったくらい結婚する人の数、減ってるみたいだし。わたしも別にしないならしないでいいや、って思ってたし」
「なに!?」
 聞き捨てならない台詞に、私は思わず彼女の腕を掴む。
「もう、最後まで聞いてよ。好きな人ができて、その人となら一生一緒にいてもいいなと思えたらしてもいいなと思ってたのよ。別にわたし、独身主義者じゃないわよ」
「あ、ああ、そういうことか……」
 では私は正真正銘、彼女の眼鏡にかなったということでいいのだろうか。
 ところで彼女の私に対する評価の中には顔のことは一切含まれていなかったが。
 真実を聞くのは怖いが、曖昧にしたままでいるのはもっと恐ろしい。私自身が作りあげた想像に押しつぶされてしまいそうになる。
 それで、身を切るような苦痛を覚えつつも私は彼女に改めて問いただした。
「……この顔のことはどう思う?」
「いくらわたしでも、かっこいいとは言えないわ」
 彼女は小さく首を振る。
「だからって、怖いとは思わないし、ただ、エリックの顔だな、としか」
「私の顔……」
「ええ。わたしはもう慣れたから、あなたがそうしたければ仮面を外して生活してもいいと思っているし。……でも、あなた、なにかに反射したりしたのを目にするのも嫌なんだったわね。だから、無理にとはいわないけれど」
「私よりもお前の方が私の顔を受け入れるのが早いようだな」
 自嘲的な笑いが思わずこぼれ出る。
 同じ家で暮らしていた年月は十年にも満たないが、母は最期まで私の顔を恐れ続け、見ないようにしていた。なのにわずか一年余りを共に過ごしただけの彼女が至高ともいえる境地になれたのは、いかなる奇跡が働いてのことだろうか。
 はふと真顔になって私を見上げる。
「だからね、さっきのところに話は戻るのだけど、色々あって、でも違うのよ」
「……?」
「普通の恋人同士みたく、別々に住んでいて、時折デートするとかじゃなく、最初から一緒に住んでいるんだものね、わたしたち。だから、表向きに見せているものばかり見ていたわけじゃないでしょう? ……まあ、最初はわたし、結構猫かぶってたとは思うけど……」
 微妙に目を逸らしつつ、彼女は続ける。
「エリックのこと、最初は胡散臭い人だなーって、思ってたわ。ごめんね、気を悪くした?」
「いや、胡散臭い程度ならましなほうだ」
「うー」
 は顔をしかめながら私に抱きついてきた。私が自虐的な発言をしたことで、私が傷ついていると思ったのだろう。だが本当に、私にとってはこの程度ならば高評価とすらいえるのだ。
 続けてくれと促すと、彼女は気乗りがしない様子ではあったが、再度唇を開いてくれた。
「……それで、エリックは、生活無茶苦茶だし独り言多いしその内容もわたしにはさっぱり理解できないし、新聞読んで怒りだすしオペラ聞きに行っても怒りながら帰ってきたりするし」
 ……鬱憤が溜まっていたのか?
 あまりにも一気に言われたので私はこの話題を向けたのは間違いだったかと密かに後悔し始めた。
「でも、わたしには意外に気遣いしてくれるし、ネコ好きなところとか可愛いし、仮面で顔隠しているけど結構表情はわかるし、声は文句なく良いし、気を許してくれるようになってからはすごい技とか見せてくれるし、それは腹話術でも手品でも音楽的なことでも知識的なことでも本当にすごいとしか言えないし……。でも、このどれかがあるから、わたしはあなたが好きなわけじゃないのよ。そこのところだけは覚えておいて」
 真っ直ぐに私の目をみつめる彼女の瞳はとても美しい。
 そこにはどんな欺瞞も偽りもないように思えた。
 しかし肝心の話の飛躍にはついてゆけず、私は、
「は?」
 と間抜けな声を出してしまった。
 は首を傾げると、
「だから、『こういうところがあるからエリックが好き』とかじゃないの。色んな面を知って、それで、えーと、総合的に判断して? あなたが好きなんだと思えるようになったの。あなたは顔のことをすごく気にしているけれど、もしもあなたの才能がそのままで、顔だけ人並になっていたら、あなたの性格も雰囲気も、今とはまったく違うと思う」
 それはそうだろう。そして私はそうなりたかった。いくら才能があっても、喜びを共にしてくれる者が一人もいないのは、空しすぎる。寂しすぎる。辛すぎる。
「少なくとも世の中に打って出るのには躊躇しなくて済んだでしょうね。その後はどうなるかはわからないけれど、でも、そういう『もしもの世界』のエリックはわたしのことを好きになったかどうかわからないし、わたしもエリックを好きになっていたかどうか、わからないわ。多分、好きにはならなかったと思う、お互いに」
「そんなことは……」
「ない、とは言えないでしょう? だってあなたの顔以上に、わたしの出自は胡散臭すぎるんだもの。係わり合いになろうとする人なんて、そうそういないわ。出会いそのものがなくなったとしても、おかしくはないと思う」
 悲しげには微笑む。私も、なんだか重苦しい気分になってきた。
「……この話はやめよう。仮定のことをいくら話し合ってもなにも答えはでない。こんなことで暗い気分になるなど、時間の無駄だ」
「そう、ね」
 軽く、彼女の頬に触れると、は目を閉じて擦り寄ってきた。
「すまないね、朝からこんな話を……。食事にしようか、もう八時近い」
「え、もうそんな時間?」
 ぱっと立ち上がり、彼女は時計を見やった。
「本当、気づかなかった。すぐ用意するね」
 我が家の朝食担当であるは、慌ててキッチンに向かおうとしたが、それを咄嗟に引きとめる。
「私も手伝おう。遅くなったのは私のせいでもあるのだから」
「そんなに手間はかからないんだけど……いいわ、お願いします」





 キッチンに場所を移し、私たちは並んで作業を始めた。
 バゲットを切り、コーヒーを沸かし、バターやコンフィチュールを用意する。
 簡単な朝食を食堂へ運んで二人そろって食事を始めた。
「……ねえ」
 バゲットにコンフィチュールを塗りながら、が小さい声で話しかけてきたような気がした。
「何か言ったか?」
 私もバターを塗っていたので、彼女の口の動きを見ていなかった。聞き間違いかもしれないと思いつつも答えると、はなぜか顔を赤くしていた。
「どうした?」
「……さっきの話の続き、みたいなものなんだけど」
「……ああ」
 やはり話しかけられていたのかと思いつつも、端切れの悪い彼女の口調に思わず身構える。
「エリックは、わたしのどこが好きなの?」
「それは、お前……」
 上目遣いでちらりと見上げられ、私は心臓が強く打つのを感じた。
 彼女の好きなところ。
 それはもちろん、私のような男を愛してくれる芯の強さだ。
 そう即答しようとしたところで、戸惑った。
 それは、裏返せば、私を好きになってくれなかったのなら、好きにはならなかったということではないか?
 彼女としてはこのような薄情とも言える答えを聞かされて嬉しいものだろうか。
 少なくとも、私ならば聞きたくはなかったと思うだろう。
 いや、しかし待て、彼女の良いところはそこだけではない。
 危機意識は非常に薄いものの、物事を打開する能力は相当高いように思える。拷問部屋を乾燥室に変えてしまったり、暇だからと勝手に散歩に行き始め、気分転換をするようになったことなどから出てきた評価だが。うむ、少々、おてんばとは違った意味で行動的すぎるかもしれない。しかし前向きだし、頭も悪くはないし、なにより情に厚い。
 私には過ぎた娘だと思う。
 それになにより私のことを好いてくれているし……と、だからこの件は外さなくては。
「エリック?」
 私がなかなか答えないので、不安そうに彼女は眉を寄せた。バゲットをちぎっていた手がテーブルの上に力なく置かれる。
「ああ、いや、良いところがたくさんありすぎて、とても言葉には尽くしきれないんだ。お前の存在は私の宝なのだよ。どれくらい大事かというと……私たちは婚約をしているわけだが、もしもお前が私を恋人として好きにならず、ただの同居人のままでいたとしても、それでもお前が一番大切だと思っただろう。……上手く、言えないのだが」
 おかしい。
 詩や歌詞ならばいくらでも甘い言葉がでてくるというのに、どうしてこんなにぎこちなく白々しいことしか言えないのだろう。
 もっと上手い言い方はないかと考えるも、妙に焦ってしまい、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。ああ、はさっきの私の台詞をその場しのぎの誤魔化しだと思っただろう。
「総合的に判断して?」
 くすり、とは小さく笑った。
「まあ、そういうことだ」
 気恥ずかしくなった私は、目を逸らしながら頷いた。
「そっか。なら嬉しいな」
 は再びバゲットを取り、小さくちぎって食べ始めた。
 気を……悪くしてはいないようだ。しかしこんな答えで本当に良かったのだろうか。
 女の気持ちというのは理解しがたい。
 それでも、彼女の笑顔を守るためならば。
 私と共にいるのが嬉しいと言ってくれるのならば。
 この生活をこのままに。
 誰にも邪魔されないよう、守らなければ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 そのためにはまず最近手ぬるくなってきていたオペラ座の巡回と支配人への接触を強化しなければ。
 オペラ座には怪人がいる。
 そのことを地上の者たちにしっかりと叩き込むのだ。







とにかくエリックが読みたいとのことでしたので、あんまり明るい話ではないけど、怪人をやめたくなったエリックがヤル気を取り戻すまでの話を書いてみました。
本人にとっては怪人をすることで一家の大黒柱になっているつもりなので重要なことなのでしょうが、オペラ座と支配人にとってはいい迷惑だろうな……。




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