に関するある重大な問題で、どうしても自己解決できそうになかった私は、マダム・ジリーの助言を仰ぐべくオペラ座へ向かった。
普段の私ならば私的な分野の相談など絶対にしない。
しかし、こればかりは私の手には余るのだ。
「それで、大事な相談というのは、どのようなことです?」
今日はファントムとしてではなく、エリックとして話をしたいと持ちかけると、マダム・ジリーは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの調子を取り戻した。
さすがである。
私は彼女の落ち着きぶりに敬意を表したが、これから己のしようとしている問いが、あまりにも世間的無知をさらけ出すだろうことを予想して、口を開く事をためらった。
「ムッシュウ?」
「……ああ、その、つまりだ……。先日の私の誕生日には結構なものをいただいて、感謝している」
「まあ?」
マダムは意外そうに眉をあげ、首をかしげた。
無理もない。私の誕生日からはすでに一ヶ月以上過ぎているのだ。礼を言うにはいささか遅すぎるだろう。
「気に入っていただけたのなら、良かったわ」
それでも彼女は面白げに唇を笑みの形にし、ここからどんな話が展開されるのかと待ち構えているようだった。
「それで、だ……。聞きたいことというのは、贈り物についてなのだが」
ううむ、面と向かって訊ねるのがこれほどきまり悪いものだとは……。こんなことになるのなら、直接会わずに壁の向こうから声をかえれば良かった。しかしすでにマダムの教官室に招かれてしまっている。今更逃げるには、遅い。
「女性は、どのような誕生日プレゼントを贈られるのが嬉しいのだろうか」
覚悟を決めて問いを放つ。問われたマダムは、呆気にとられたように小さく口を開いたが、すぐに心得顔に変わった。
「わたくしの誕生日はだいぶ先なのですけど」
「いや、あなたへの贈り物ではなくてだな……あ」
言ってから、私は自分が誤解を招く発言をしてしまったことを悟った。たしかに、この流れではマダムへの贈り物だと解釈されてもおかしくはない。そして言下に否定したこともまずかったように思う。期待をされているのかどうかはさっぱりつかめないのだが、礼儀上、私も彼女の誕生日に贈り物をする方が良いのだろうということはさすがに分かる。
どういい繕おうかと沈黙をする私に、マダム・ジリーは澄まして言った。
「わかっていますわ、への誕生日プレゼントのことなのでしょう?」
「あ、ああ、そうだ」
わかっていてわざと自分への誕生日プレゼントだと勘違いしたふりをしたのか。なんと人が悪い。そう思ったものの、人が悪いのはお互い様だと考え直した私は、マダムのささやかなひっかけをやりすごすことにした。
「どんなものが喜ばれるのだろうか。あなたならば詳しいだろう? 一般的なことで構わないので教えてほしい」
「そうですわね……」
マダムは考え込むように腕を軽く組むと、しばし沈黙した。
「リヴォリ通りにある宝石店のショーウインドウに、サファイヤのイヤリングが飾ってあったわ。それとおそろいのデザインのネックレスも。繊細な細工が金具にまでされていてね、さすがにお値段は張るけれど、それに見合うだけの品だと思うわ。ああいうのは、いいわね」
「サファイヤのイヤリングとネックレスか……」
具体的な案を示されたので、私は感心した。
さすがは女同士といったところか、すでにそういう話をしたことがあるのだろう。まさかここまではっきりとした答えが返ってくるとは思わなかった。そうとわかれば、さっそくベルナールに注文をさせよう。
しかし意外だったな、は宝石にはあまり関心がないと思っていたのだが。
なにしろあの子は普段のドレスにも合わせられるような、ささやかな装飾品すらほとんど身につけないのだ。デザインが気に入らないのかと、色々デザイン画を描いてみせたこともあったが、こういったものをつけること自体があまり好きではないという話で……。
(……身を飾るのが特別好きではないのに、値の張るというイヤリングとネックレスを欲しがるものだろうか?)
ふとした疑問が頭をよぎる。
そして私は目の前の女性を見やった。
マダム・ジリーは涼しげな眼差しに、ちらりと楽しげな色を浮かべている。
「……マダム、つかぬことを訊ねるが、あなたの誕生日はいつだろうか」
「あら、お気を使わなくても結構よ」
とは言いつつも、彼女はその日を教えてくれた。だいたい二ヶ月後だった。
「……あー、マダム。オペラ座の怪人からの贈り物を受け取っても構わないのであれば、なにか差し上げたいと思うのだが」
「ですから、お気を使わずとも結構ですと申し上げましたが?」
彼女は笑いを抑えきれずに肩を小刻みに揺らす。唇の端がぴくぴくと震えていた。
「サファイヤのイヤリングとネックレスがほしいのでは?」
あの具体的な話しぶりは、そういうことではないのだろうか。
そう思って問うと、彼女は綺麗な笑みを浮かべる。
「ええ。でも、あなたからいただく理由はありませんわ、ムッシュウ。わたくしたちの間柄でやり取りするには、高価すぎますもの。わたくしにはそうね、お花と、ボンボンあたりでいいわ。宝石は、あなたの恋人にお渡しなさい」
この人は……。
またからかわれたのだとわかり、どっと疲れがこみ上げてきたが、不思議と怒りは湧き起こらなかった。を介して、私とマダムとの間もまた、微妙に変わってきているのだろう。
「……はサファイヤが好きなのだろうか」
「ムッシュウが知らないことを、わたくしが知っているはずもありませんわ。でも、花とお菓子とドレスと宝石なら、贈られて不機嫌になる女はいないでしょう。好みはあるにしてもね」
誰にともなく呟いたつもりだったのだが、マダムから明快な答えが返ってきたので、私は苦笑した。その好みがわからないから苦労しているのである。
「ところでの誕生日はいつなんです? 近いのでしたら、わたくしも用意しないと」
「いや、そういうつもりではないのだが」
プレゼントをせびりに来たわけではないのだ。しかし、
「ムッシュウに贈って、あの子に贈らないとでも?」
と睨みつけられた。
「いや失礼。あなたからの贈り物ならばも喜ぶだろう」
そして彼女の誕生日を教えると、マダムはけげんな顔になった。
「半年以上先ではないの……。なのにもう考えているの?」
「早いに越した事はないだろう」
「そうかもしれませんが」
なにしろ私とが出会ってから初めての誕生日だ。
本当はすでに一度来ているのだが、が教えてくれなかったのでその時には祝えなかったのだ。なので今度こそはしっかりと祝福してやりたい。
そのための準備が早くて困る事はないだろう。
などと考えているうちに、一ヶ月が経ち、二ヶ月目が過ぎて、三ヶ月目が駆け去った。月日が経つのは本当に早い。
その間に私とは正式に婚約交わし、多少の諍いはあったものの、おおむね順調に日々を積み重ねていった。
私の人生を振り返って、ここまで幸せが続いた時期などありはしなかった。
このままこの暮らしが続けばどれだけ良いか……。
いいや、続けてみせる。
彼女は見た目で人を判断するような、凡百の女ではない。
私が彼女を尊重し、愛情を捧げれば、それに応えてくれるはずだ。
私たちは最後の時まで一緒だよ、……。
それはそうとして、への贈り物候補から、私はまず指輪を除外した。
婚約指輪をすでに渡しているので、装飾品を贈るのならばそれ以外のものの方が良いだろうということもあるが、なによりも彼女は婚約指輪であっても、指輪というものをつけることはめったにない、ということがわかったからだ。
これは私たちの生活スタイルの影響もあるのだが、彼女はちょこちょこと水仕事をしたりする。料理も作る。贈った当初こそ、彼女は指輪をはめていてくれたのだが、手を濡らさなければいけなくなるたびに指輪を外しているうちに、わずらわしくなってきたのだそうだ。
うっかりなくしたりぶつけたりしてしまうかもしれないという思いもあって、それからしばらくの間、婚約指輪は彼女の化粧台の中に大事に仕舞われていた。
本来ならああいう指輪は家政を使用人にすべて任せるような女性がつけるような代物だ。だから実際の環境がそうではないということは、私自身が負わねばならない責任であり、彼女のせいではない。それに、指輪を雑に扱いたくないというの気持ちは理解できる。
それでも指輪を身につけてほしい私としてはその状態は大変不本意で……。
しかたなく、妥協案としてチェーンに通して首から下げるように言った。現在も、それは守られている。
(ああ、となると、ネックレスも駄目だな)
婚約指輪――を下げている鎖――とかちあってしまう。
となると、ブレスレット、イヤリング、髪飾りあたりか。
いや、
の性格を考えれば、装飾品でなくとも構わないどころか、装飾品でない方が良いのだろうということはわかるが――とにかくこの方面にうとい子なのだ――それでも記念日なのだ。価値のあるものを贈らせてほしいというのは、私のわがままだろうか。
それに、だ。
私は彼女からの贈り物、カフリンクスが本当に気に入っている。
彼女に宣言したからというわけではなく、シンプルでものもよく、毎日つけていても飽きる事はない。
そのカフリンクスを観るたびに、私も彼女にこれくらい気に入ってもらえる品を渡したいと思うのだ。できれば、このカフリンクスのように、毎日でも身につけることができるものを。
身につけるとなるとドレスでも良いだろうし、もちろん、贈り物のなかには定番ではあるが、それも入れるつもりではあるが、しかしドレスというものは、毎日同じものを着るものではないだろう。
私は彼女にそんな不自由をさせてはいないし、させるつもりもない。
だからこそ装飾品、ということになるのだ。
(しかし……問題がないわけでもない)
男の衣服と違って女のドレスは本当に色も模様も多種多様だ。特定のドレスとはこの上なく似合う装飾品も、別のドレスとはバランスが取れない、ということは普通にありえる。こういうものは、シンプルであれば使い勝手がいいというものではないのだ。
そのあたりの兼ね合いをどうするか、それが私の腕の見せ所だろう。
とはいえ、店に注文を出すにしろ、私が自分で細工をするにしろ、そろそろデザインを固めないといけない時期が近付いている。
さて、何か良い案はないだろうか……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
わたしの誕生日まで三週間となった頃、エリックに当日はどのようにして祝おうかと、相談を持ちかけられた。
自分から話を切り出すのは催促しているようで気恥ずかしく、なんとなく言い出せずにいたのだけど、エリックはちゃんと覚えていてくれたようだ。
こちらから言い出さなかったのだから、何を言っているんだと言われるだろうが、これで当日までスルーされていたら、さすがに凹んだだろう。そうならなくて本当に良かったと思う。
誕生日当日は、エリックとの話し合いの結果、エリックの誕生日の時のように盛装しての食事会をメインとすることにした。
わたしの誕生日だということなので、メニューはわたしが考えなくてはならない。それで、考えた結果、以前もらったもののイマイチ活用しきれないでいた、日本の調味料――醤油と味醂――を使うことにした。
簡単に言えば、メインは照り焼きチキンだということだ。
どうせなら総和食にしたいところだが、如何せん食材が、というよりも調味料が足りない。そしてお米もない。
いや、あるにはあるのだが、こちらで手に入るのはジャポニカ米ではなくてインディカ米なのだ。
そしてわたしは鍋で御飯を炊いた事がない。
作るとしたら、一応お祝いごとなのだから、散らし寿司なんていいんじゃないかと思ったりもしたが、しかしフランスで一般に出回っているお酢は穀物酢ではなくワインビネガーのようだ。
インディカ米にワインビネガーを使った酢飯……。
食べられなくはないとは思うが、激しく何かが違うと思う。
そういうことで、御飯系を作るのは断念した。
となるといつものバゲットを食べることになるだろうが、テリヤキバーガーというものが存在するのだ、照り焼き味とパンの相性はけっして悪くはないはず。うん、そういうことにしてしまおう。
オードブルにはラディッシュの酢の物だ(酢はワインビネガーだけど、油は使わないからマリネではない、はず……)。レタスの上に盛りつけ、薄く切ったタマネギと和えれば、彩りも綺麗なのではなかろうか。
そうそう、照り焼きチキンの付け合せには、アスパラガスにゴママヨをかけたものをと考えている。ゴマが入っていれば、ちょっとは和風っぽくなるだろう。
どうせならば煮物も作りたかったのだが、『だし』がない以上、わたしに作れる煮物はない。肉じゃがとかならできるけど、誕生日に肉じゃがはちょっと……。
同じ理由で、日本的な汁物も無理だった。だしがなければすまし汁も作れないのだから。
だから汁物ではなく、ジャガイモを裏ごししたポタージュを作ることになった。
そしてデザートにはケーキ。これは、エリックにお願いして、シフォンケーキを作ってもらうことにした。
これで料理はばっちりである。
かなり、『どこの国の料理だ!?』という感じではあるけれど。
そしてメニューが決まれば、当日までわたしがするべきことは、特にない。
せいぜい、なんのドレスを着ようかと、頭を悩ませることくらいだ。
なにしろ盛装で、なんだから。
そして当日。
わたしは朝からとても忙しかった。
今回はほとんどの料理をわたしが作るのだから。
朝食後、いそいそとキッチンに入り、前日のうちに届けてもらった食材を運んでくる。
「まさか、丸のままくるとは思わなかったわよ……」
それを作業台に並べ、わたしは苦笑した。
材料はいつもの通り、ベルナールさんが買ってきてくれたのだ。
そしてわたしは確かに注文書に鶏肉(骨付き)と書いた。
誕生日の食事会用なので、ちょっといいものをお願いします、とも書いた。
が、立派すぎるのだ。
照り焼きチキン、と言っても通じないだろうから特に説明をしなかったわたしが悪いのだが、どうやらローストチキン的なものを作るのだと思ったのだろう。
届けられたのは、丸ごとの鶏一羽。
羽と中身は取り除かれていたものの、わたしはこんなのを扱ったことがない。
昨日、届けられたそれを見て思わず呆然としてしまったが、エリックがこともなげに刷毛でテリヤキソースを塗りながら焼いてゆけばいいと言ったので、そうすることにした。
しかし丸ごととなると、焼くのに時間がかかるし、中に詰め物もしなければならない。
なので一番時間がかかるであろう、このテリヤキローストチキンから作り始めることにした。
お昼までに間に合うだろうか……。
チキンを焼く前にと、エリックがキッチンに入ってきて、ささっとシフォンケーキの生地を作っていった。相変わらず手際が良い。
それを焼いている間に、彼は食堂の準備をする。
ケーキが焼けると、今度はチキンをレンジの中に突っ込む。
ポタージュを作り、野菜を切ったりゆでたり。
マヨネーズはエリックにコツを教えてもらったので、自分でも作れるようになっていた。それにつぶしたゴマをまぜまぜまぜ……。
お皿を準備し、できたものから盛ってゆく。
と、作業に夢中になっていると、エリックがふらりとキッチンに入ってきた。
「、そろそろ一時になるのだが、どうだ、進み具合は」
「え、もうそんな時間!?」
キッチンには時計がないので気がつかなかった。
「やっぱりチキンに時間がかかり過ぎたのね。あとはこれが焼けるまで待てばいいんだけど……」
「だったらここは私に任せて、お前は着替えてきなさい」
「でもまだ片づけが残ってるし」
作業台の上も流しの中もかなり散らかっているのだ。エリックはそれらを一瞥し、
「それくらい、私がやっておくよ。今日は朝からずっと頑張っていたのだからね。それに、ここを片付けて、チキンが焼きあがるのを待ってから着替えたんじゃ、昼食には間に合いそうもない」
「う……確かに」
「だから、行っておいで」
「わかった、じゃあ、あとはお願いするね」
ああ、とエリックが頷く。そして彼に背を押されるようにして、わたしはキッチンを出た。
「そうそう、」
「なあに?」
呼び止められたので振り返ると、レンジの前でしかつめらしい顔をして立っていたエリックが、何気なさそうに、
「今日のドレスは私が選んだから、それを着ておくれ。ソファに置いてある」
「……え? あ、うん」
いつの間にわたしの部屋に入ったんだろう。それに、自分でドレスを選びたかったのなら、先に言ってほしかった。そうしたら、どんな風にドレスアップすれば良いか、悩まなくても済んだのに。
などと思うも、せっかく選んでくれたのだからと、特に文句をいうことなくわたしは居間に行った。
エリックの言うとおり、ソファにはさらりとドレスがかけてある。
「……あれ?」
思わず声に出してしまった。なにしろそれは見たことのないドレスだのだから。
てっきり、わたしの衣装ダンスにあるものから選んだのだと思っていたけれど。
そしてドレスの上にはカードが一枚。
取り上げてみると、そこには『誕生日おめでとう』とフランス語で書かれていた。
なるほど、これがプレゼントということか。
すぐにお礼を言いに行こうかと思ったけれど、着替えてからのほうがいいかな?
(うん、そうしよう)
わたしはドレスを抱えると、いそいそと部屋へ戻った。
「……なるほど、こういう弊害があるんだ」
エリックから贈られたドレスに袖を通し、確認を兼ねて鏡の前で後ろを向いたり横を向いたり腕をあげたりしてみた。
ドレスは襟ぐりが四角く開いており、色は青。青といっても青空のような色ではなくて、朝顔を連想するような、少し紫がかっている色合いだ。アクセントについているリボンや花飾りは臙脂色が中心で、わたしには少しシックかもしれない。
全体的なシルエットは、最近の流行を取り入れてか、バッスルなしのスリムなものだ。
とはいえ、ウエストは絞っているので、野暮ったい感じはしない。
このバッスルなしのドレスは、わたしも気になっていたのだ。
なにしろバッスルは邪魔だ。それをつけなくていいとは、なんて素敵なんだろうという、主に機能面でのことなのだけど。
いや、それ以外にも一応、自分で着たことがあるわけではないけれど、テレビなどで有名人が、身体にぴったりしたドレスを着こなしているのを見たりしているので、どちらかというとこういうスリム系のドレスの方が印象が良いということもあるのだろう。袖やスカートがあまりにも膨らんでいるドレスは、童話の挿絵や歴史物映画の影響などから、やはり時代がかっている印象があるし。
しかし、しかしだ。
このスリムなドレスには一つ難点があった。
つまり、裾が長いのにスリットなどないので、歩くのが非常に困難なのだ。
パンツスタイルの時の三分の一も足をあげられない……。
タイトスカートのスリット。わたし、あれ、あんまり好きじゃなかったけど、そうか、あれがないとこんな風に歩く事もできなくなるのか。
目から鱗が落ちるというのはこういうことだ。
そして、足というものを見せるのは胸を見せるよりもはしたないと思われているこの時代、歩きにくいからスリット入れてくれ、というのはやはり無理な注文なのだろう。
(まあ、別に踊るわけでも走るわけでも、飛び跳ねるわけでもないからいいんだけど……)
しかしどうしてこの時代の女性たちは、こんな動きにくいものを好き好んで着ているのだろう。この点だけは、今でもわたしには理解できない。
と、現代との衣服に対する認識の違いを再びかみ締めながらも、わたしはなんとか格好よく髪を結い上げ――練習をした甲斐があったというものだ――、指には婚約指輪を、首にはリボンでできたチョーカーをつける。
よし、準備OK。
食堂に行こうと、歩き出す。
と、スカートが足にまとわりついて躓きそうになった。
危なっ……!
ばくばくする胸に手を当てながら、わたしはしゃがみこんだ。
びっくりした。これでスカートがびりっとかいったりしたら大変なことになったところだ。
ふう、と大きく息を吐き、今度は慎重に歩いてみた。
スカートを少し摘みながらだと、ちょっとは歩きやすい。しかしそもそもスリムなスカートなので、あまり摘むとみっともないことになる。
ううむ、難しいな、これ。
そしてしずしずと、いつもの倍の時間をかけて食堂に行く。
中へ入ると、エリックが顔を上げてこちらを見た。
目を細め、「良かった、似合う」と嬉しげに言う彼は、わたしの苦労には気がついていないようだ。
よし、このまま悟らせないようにしよう。あまりドレスがきついだの動きにくいだのと連呼するのは、さすがに情けないし。わたしにも一応、女としてのプライドはあるのだ。
誕生日おめでとう、とエリックは額にキスをしてくる。わたしもありがとうと言って、彼の頬に返した。
すでにエリックによってセッティングされていたテーブルには、中央にでんとテリヤキローストチキンが焼き色もいい感じで置かれている。
マリネのような酢の物サラダとアスパラガスも良い色合いだ。
そしてクリームと輪切りにしたオレンジや飾り切りのされたイチゴなどでデコレーションされたシフォンケーキは、どう見てもお店で買ったようにしか見えない出来栄えで。
いつも食事をしている場所だけど、いつもとは違う場所に見える。
それはしっかり磨かれた燭台や、普段は置かない花籠などのせいもあるけれど。
やっぱり、誕生日という特別な日を一緒に祝ってくれる人がいるからだろう。
手間ひまかけて作った食事は、なかなかおいしかった。
テリヤキチキンは初めて食べたであろうエリックにも好評だったし。
わたしも久々に日本を思い出す味を口にして、懐かしいやら嬉しいやら。
でもやっぱり、ご飯はほしかったかも……。
この際インディカ米でいいから、鍋で御飯を炊く練習をしてみようかな。
食事の後はプレゼントを渡すからと、場所を居間に移す。
もうプレゼントはもらったのに、と思いつつもソファで待っていると、エリックは乾燥室から幾つも箱を持ってきたのだ。
エリック、そんなところに隠していたんだ。
というか、なんだこの数は!
一、二、三、四、五。五個か。それに花束が二つと小さな鉢植えが一つ。
な、なんでこんなに。
「別に頼んだわけではないのだが、お前の誕生日だということを聞き知って、皆が私にプレゼントを預けていってね」
疑問が顔に出ていたのだろう。エリックは肩をすくめてそういうと、まとめてテーブルに置いた。
片手に乗るくらいの小さな箱と一つ目の花束を指差す。
「これはマダム・ジリーからだ」
「開けてもいい?」
「もちろん、お前への贈り物なんだから」
「他には、誰から?」
「ベルナールとナーディル、それとメグ・ジリーとクリスティーヌ・ダーエからだ。この二人はマダム・ジリーから聞いたようで、マダムに贈り物を預けていたのだよ」
そういえば、わたし、クリスちゃんに誕生日プレゼント、贈ってたんだっけ。メグちゃんはまだ先みたいだけどやっぱり贈るつもりでいたし……。それでも二人からもらえるとは思っていなかった。だってそんなにしょっちゅう会うわけでもないし、誕生日パーティに呼べるわけでもないのだから。
「メグ・ジリーはどうやら自分のこづかいで買うには高価なものを買いたかったと見えて、クリスティーヌ・ダーエに少し金を出してもらったのだそうだ。ダーエは、自分からの贈り物がそれだけでは侘しいので菓子を作ったのだそうだ。それがこれだ」
エリックはリボンを結んだサイコロ型の紙箱を指差す。
「そんな風に言われたら気になるじゃない」
「まったく、若い娘の考えることは、よくわからんよ」
エリックは苦笑いを浮かべる。
「エリックは中身を知らないの?」
「無論だ。プレゼントは贈られた者が最初に見るべきなんだから。私はマダムから聞かされたことを言っているだけだよ」
「ふうん、じゃ、メグちゃんとクリスちゃんのから開けようっと」
中身が気になるから。
リボンを外し、箱を開ける。
「あ、あはははは……」
中からはかなり派手な髪飾りがでてきた。
それも、わたしにも使い方が簡単にわかるもの。頭の下で結ぶヘアバンドタイプのものだったのだ。
装着すると見える部分は、幅広のレース。それも、かなりひらんひらんとしたものだ。これだけでも黒髪のわたしには十分目立つだろう。なのに、その幅広レースには、布でできた花がいくつも咲き、あまつさえ、小鳥まで留まっている。
「メグちゃん……すごいわ」
以前わたしは、彼女に地味だ地味だと言われて大幅にイメージチェンジをされたことがあった。それ以降も会うたびに、もうちょっと華やかなほうがいいんじゃないかとか、どうしていつも同じ髪型なんだと言われ続けている。
それでもわたしが頑として自分のスタイルを貫いているので――というよりも、派手な格好というのは気恥ずかしくてできないだけなのだが――とうとう業を煮やしたかのか……。
「いいんじゃないか?」
「え、そう思う?」
エリックが褒めたのでびっくりして顔をあげる。
「ああ。散歩をする時に付けるには、少し派手かもしれないが悪趣味というほどではないし、今日の食事会くらいの盛装をする時にも使えるだろう」
「そ、そうなんだ」
こういうことはエリックの判断の方が確実だと、わたしは知っている。その彼が言うのだからそういうことなのだろう。
「わたしにはかなり派手だと思うんだけど、エリックがそう言うなら、今度これつけてオペラ座に行ってみるよ。お礼も言わないといけないしね」
「……その時には外からではなくて中から行ったほうがいいな。私も一緒に行こう」
「え? だって、メグちゃんとクリスちゃんに会うんだよ?」
もちろんマダム・ジリーにも会うつもりだけど。
しかし彼は首を振って、
「私はお前を送ったら、オペラ座の見回りに行くさ」
「そう?」
「ああ。どうせ行くなら今度の休演日がいいな」
「……わたしは別に構わないけど。休演日なら、メグちゃんたちいないかもしれないよ」
「それはないな。公演はなくても練習があるはずだから」
「そっか、ならいいよ」
エリックの意図はよくわからないが、そうしたほうがいい何かがあるのだろう。
オペラ座には色々な意味でお世話になっているのだから、余計な騒動になるようなことは慎みたいし。
再びわたしはプレゼントに意識を戻し、今度はクリスティーヌからという箱を開けてみた。そこには素朴なクッキーのような焼き菓子がぎっしり詰まっている。
続いてマダムからの贈り物を開けると、絵付けされた陶磁器でできた指貫がでてきた。指輪のようにはめるものではなく、指の先に付けるタイプだ。エリックによると、これはどちらかというと贈り物としての色合いが強いもので、実用品というわけではないのだという。なるほど、では飾っておこう。
ベルナールさんからは、鉢植えの小さな花と綺麗な箱に入ったお菓子の詰め合わせ。
カーンさんからはもう一つの花束と、本――アラビアン・ナイト――だった。
ひとまずプレゼント開け大会が終わったので、お花を生けに立ち上がる。
だが、
「最後は私からだな」
とエリックに引きとめられた。
「え、でも、だって、ドレス……」
「まさかドレスだけで済むとは思っていなかっただろう?」
いえ、そうだと思ってましたが。
だってドレスですよ?
これだって十分高価なのに、さらにまた何かくれるなんて思いませんって。
そう言うと、彼は薄く笑い。
「ドレスはおまけみたいなものだ」
と言った。
「おまけだったんだ、ドレス……」
「だって、お前のことだから、ドレスを贈ってもそうそう着ないだろう?」
そうですけど。でも普段着くらいのドレスだったら、それなりに着ると思うんだけどな。
このドレスをしょっちゅう着ないのだとしたら、それは盛装用だからなんだけど。
「私としてはもっと普段から身につけてもらえるものの方が良かったのでね」
いいながら、彼はぱっと両手を開いて見せたかと思うと、それを軽く打ち合わせた。
再び開いたその手の中には、小さめの箱。
おお、手品ですね。
ぱちぱちと拍手をすると、彼は「ご声援ありがとう」と芝居がかった礼をする。
そして箱を、片手で器用に開けた。
「わ……」
ビロードで内張りされたその箱には、花の形のチャームがついたアクセサリーが入っていた。
重なった花びらは、交互に色が違う花弁が八枚。
半透明の白と艶やかな赤だ。
そしてシルバーのチェーンはあまり長くない。
「ブレスレット?」
「いいや。そうじゃないよ」
彼はいたずらっぽく片目をつぶる。
「私がつけても? お嬢さん」
「う、うん」
ブレスレットじゃないというのなら、どこにつけるのだろうか。
そう思っていると、彼は「失礼」といいながら、ドレスの裾をめくった。……って、えええーーっ!
「ちょ、エリック!」
足くらい、見られてもなんとも思わなかったはずなのに、なぜだか焦ってしまってわたしは思わず大声をあげた。
しかし当のエリックは、すぐに終わるからと言って、わたしの驚きなど気にしない。
そしてそれを左の足首につける。
「あ、アンクレット?」
「そう。知っていたのか」
「現代ではつける人、それなりにいるから」
「そうなのか……」
「でも、今の時代だと珍しくない?」
エリックは頷く。
「ああ。スカートが長いせいだろうが、足にまで宝石をつけようとする者は、さすがに私も聞いたことがない。私としても、もう少し一般的な装飾品を贈りたかったのだが、どうも上手い考えが浮かばなくてな……」
彼は苦笑しながら、宝石とドレスの相性について語った。
それで、いくら考えてもどんなドレスにも合うアクセサリーが思い浮かばず、どうしたものかと考えているうちに、それなら逆に見えないところにつけるものならば、どんなデザインでも大丈夫なのではないかと思ったのだそうだ。
なるほどそれで、アンクレットなのか。
たしかにこれなら、わたしでも毎日つけることができるだろう。ドレスに合わせる必要がないのだから。……彼は一言もそう言わなかったけれど、それを期待されていることが伺えたのだ。
わたしが足を動かすと、花形のチャームがゆらゆらと揺れる。
ちなみに、白い花びらは表面を加工した水晶で、赤い方は珊瑚でできているそうだ。
それにしても、頻繁に身につけてほしいからアンクレット、だなんて……。
エリックはわたしが誕生日の時に贈ったカフリンクスを本当に毎日つけているし、そういうこともあってこれを選んでくれたんだろうけど、そうなると今年の彼への誕生日プレゼント、どうしよう。ここまで気に入ってもらえるものを選ぶ自信がない、よ……。
思いがけず頭の痛い問題が発生してしまったが、ぐっと押し殺してわたしは笑顔でエリックにお礼を言った。
彼は満足げに頷くと、そっとスカートの裾を離す。
ふわりと床についた裾は、彼のくれた綺麗な花を隠した。
ということで、彼女の誕生日を祝う話でした。
……彼女の誕生日、特に決めていなかったんですけど、これまで書いてきたものを総合してしまうと、この話の舞台は1879年の春とかかなぁ。
エリックのところに来て一年以上経っていると思います。
アンクレットについて:色んなアンティークジュエリーを扱うサイトとか本とかを見てみましたが、やっぱりこの時代はアンクレット、全然一般的ではなかったと思います。まず見かけません。
でもエリックは色んなところを放浪した経験があったわけですし、どこかで足につける装飾品を見ていてもおかしくはないかな、とか思いまして。
ほら、ハレムの女の人たちとかつけてそうなイメージがありますし。
うん、というか、アンクレット渡すシーン、彼女視点なので彼女は気づいていませんけど、このアンクレットには『足枷』の意味が込められています…(←独占欲強いからな……)
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