ひどい臭いの風が拭きつけてくる。

 薄暗くて狭い。

 ああそうだ。
 ここは檻だ。
 見世物小屋の檻。

 小さな、雨をしのげればそれで充分というテントは隙間風がひどく、臭いは檻に敷き詰められた汚い藁から発していた。
 いや、自分自身も負けず劣らず臭っていたのだろう。
 風呂に入ったのはもうどれほど前だったか思い出せない。


 人の足音がする。
 また今夜も『公演』があるのか。
 恐ろしさに、思わず身体を縮こませた。

「さあ、世にも珍しい悪魔の子供だよ!」
 口上役が客に呼びかけている声が聞こえた。
 ざわざわとした気配が近付いてくる。
 嫌だ。
 来るな。
 来るな!



 私の願いも空しく、ばさりと入り口が開けられ、鍵持つ男が檻の中に入ってきた。
 抵抗するよりも早く棒が飛んでくる。
 鈍い痛みに私は身体を丸め、嵐が過ぎるのをただ待っていた。

 男の手が、伸びてくる。
 そいつは私の顔に被せていた麻袋を外し、乱暴に髪を掴んだ。
 広くなる視界。
 目に入るのは、厭わしげだが興味津々とこちらを見つめてくる顔、顔、顔。

「悪魔の子!」
  「化け物よ」
     「なんて醜い」
       「恐ろしい…」


 もう嫌だ…。

 見るな。

 ボクを、みるなぁっ…!


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 目を開けると、そこは私の寝室だった。
 地上のあらゆるものから私を守ってくれる、優しい暗闇を湛えた空間。
 ああ、夢だったのかと思うと同時に、助かった、と安堵していた。
 だが、焦燥感が拭いきれない。
 ふらふらと起き上がり、居間に続く扉を開けた。
 そこにあるのは、圧倒的な静寂。
 耳が痛いほどの静けさ。
 それに、何一つ見えない。
 明かりが消えていたのだ。
 どうして…?

…?」
 こんな真っ暗なところに彼女がいるはずもないが、呼びかけてみる。
 返事はない。

「アイシャ……?」
 あのクリーム色の貴婦人は、足音を忍ばせて歩くのが得意なのだ。
 だが、やはり甘えるような鳴き声もしなかった。

……? アイシャ……?」
 暗い中を歩いていると何かにぶつかった。
 オルガンのそばにある机だ。
 蝋燭を探して火をつける。
 オレンジ色の炎に浮かび上がるのは、散らかっている居間だった。
 ここまで汚れているのも久しぶりかもしれない。
 何しろ、が来てからというもの、見苦しくない程度には片付けるようになったのだから。
 だが、なにか変だ。

 何かがおかしい。

 違和感の正体を確かめようと、私は記憶を探ってゆく。

 ああ、そうだ。

 ないのだ。

 なにもない。

 アイシャのエサ皿も、誕生日にマダムからもらったクッションも。
 暖炉の上には、が時折買い求めてくる花が花瓶に生けてあった。
 だが、そんなものは初めから存在しなかったとでもいうかのように、花瓶ごと見当たらない。
 背筋が寒くなった。

 これはなんだ。悪夢か?
 いや、それとも、彼女たちの存在こそが夢だったのか?
 私は恐ろしい考えに捕らわれ、矢も盾もたまらずにの部屋へ向かった。
 そこへ行けばきっと、彼女が微笑んで「どうかしたの?」と聞いてくれるはずだ。



 扉の先にも、何もなかった。
「そ…んな」
 家具類は私がここへ運んできた時のまま、白い布をかけられて冷ややかに立っているだけ。
 うっすらと埃がつもり、かび臭い臭いがする。
 女性のいたような形跡はない。
 何一つ。
 何一つ、ない。

 私は思わず膝をついた。

 という女がいたのは、夢だったのか?
 あの幸福な日常。あの煌くような日々が。
 なんてことだ。
 なんてことだ。

 なんて、ことだ……!


 やはり私は一人だったのだ。
 心を傾けてくれる優しい恋人の幻を作りあげていただけだったのだ。
 だが、ああ……。

 あれほど幸福な夢ならば、醒めないでほしかった。
 夢に酔いしれ、そのまま朽ち果ててしまう方が良かった。
 こんなに空虚な現実の中に戻りたくはなかった……!

……。 ……。 ッ……!」

 夢の中の恋人に呼びかける。
 だが、答えはない。
 幻の女に、答えられる声などあるはずもないのだから。

「う、ああ……。ああ、あああ――!!」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 自分の絶叫で目を覚ますと、そこは私の寝台だった。
 どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、もうわからない。
 もしかしたら、人間を憎むあまりに終わりのない悪夢の世界に入り込んでしまったのか。
 私はただ彼女が存在することだけを祈って、ベッドから起き出した。
 これでまた目にするものが、がらんどうの客室だったら……。
 嫌だ、そんなこと、考えたくもない。


 扉が壊れてしまいそうな勢いでの部屋に入った。
「あ……」
 家具には白布がかかっていない。
 それに、寝台にかかっている布団は、こんもりと膨らんでいた。
「は……はは」
 嬉しいのか気が抜けたのか、自分でもよくわからない笑いがこみあげてくる。
 よろけた足取りでベッドに近付くと、黒髪の娘が穏やかな寝息を立てていた。
 これが本当に現実のことかどうか確かめようと、私は彼女の頬に両手を伸ばす。
「ああ……」
 挟み込むように頬を包むと、温かく滑らかな肌の感触が伝わってきた。
 良かった。
 夢じゃない。
 現実だった。

 安堵のあまり、布団ごと彼女を抱きしめる。
 私の腕の中で、が身じろいだように感じた。

 なんてひどい悪夢を見たのだろう。
 もアイシャもいないだなんて。
 彼女たちがいないこの暗闇の世界は、震え上がるほど恐ろしかった。
 一人でいることに慣れていたはずなのに、もう、私は以前の私ではなくなってしまったのか。
 だが、ああ、本当に夢で良かった……。
 この幸福が、現実で良かった……。


「……ック?」
「うん?」
 小さく名を呼ばれたような気がして、顔を上げた。
「え? エリック? どうしたの、朝?」
 が寝ぼけ眼でぱしぱしと瞬いている。
「うん? 朝じゃないよ。まだ真夜中……だとおもう、が……」
 徐々に自分が何をしているのかを思い出し、私は一気に現実に引き戻された。
 ああ、私としたことが、寝ぼけて夢と現実の区別もつかないまま、 の寝室に無断で侵入してしまったなんて……!
 あまつさえ、寝ている女性に抱きつくだなんて……!
「まよなか? どうかしたの? なにかあったの?」
 彼女はゆっくりと肘を使って身を起こしてきた。
 だがまだ寝ぼけているのだろう、言葉遣いがたどたどしい。
「ああ、いや、なに……。なんでもないんだ。すまない、起こしてしまって」
「ふうん?」
 血の気が下がっているのが自分でもわかる。
 およそ紳士らしくない振る舞いをしてしまったのだ。
 いくら彼女が私の恋人であっても、やって良いことと悪いことがある。
 ああ、だが、断じて、断じて! 下心があってやったのではないのだ。
 寝ぼけていただけなのだ!
 本格的に目が覚めてきたのだろう。はサイドボードにある蝋燭に火をつけた。
「エリック、本当にどうしたの?」
 は驚いたように大きく目を見開いていた。
「え?」
「なにかあったんでしょう?そんなに慌てて……」
 慌てて?
 訳がわからず、私は自分を見下ろしてみた。
「!」
 なんたることだ。
 私の格好ときたら、とても女性の前に出られたものではなかったのだ。
 ガウンすら羽織っておらず、着ているものはパジャマだけ。
 足も素足だった。
 それに、とようやく気付く。
 仮面と鬘もつけていない。
 あまりの情けなさに穴でもあったら入ってしまいたかった。
 唯一の救いは、彼女がすでに私の素顔を知っていたことか。
 もしも彼女が私の素顔を見たことがないまま今日を迎えていたらと思うと、恐ろしさに背筋が寒くなる。化け物に襲われそうになったと彼女は思うに違いない。そうならなくて、本当に良かった。
 何度目かの安堵に、私は深く深く息をつくのだった。


「なんかよくわからないけど……。目が覚めちゃったし、なにか温かいものでも飲もうか?」
 ぽんぽんと背を優しく叩かれ、私は頷いた。
 彼女はさっさと寝台から抜け出すと、化粧台の椅子にかけてあったドレッシングガウンを羽織った。
 内に巻き込まれた黒髪を両手ですくうと、さあっと広がって背中に流れる。
 その様子に、思わず胸が高鳴った。
 そういえば、彼女が身支度を整えているところなど、今まで見たことがなかったな。
 なんというか……妙に淫靡なものだ。
「さ、行こ?」
 は燭台を片手に、小首を傾げて腕を絡めてきた。
「あ、ああ」
 ぎこちなく頷くと自分でも滑稽なほど、ギクシャクとした歩みになってしまった。
 居間に出ると、起きていたのか起きてしまったのか、アイシャが私の足に「なでてくれ」と言うように身体を摺り寄せてきた。
「アイシャ」
 呼びかけるとにゃあん、と鳴いた。
 良かった。お前もちゃんといたのだな。
 かがみ込んでクリーム色の背を撫でてやる。
「ヴァン・ショーでいい?」
「あ、ああ。私がやろう」
 アイシャを抱えて立ち上がる。
「ううん、わたしがするよ。エリックは座って待ってて。それから、スリッパ、履いてきたら? 足、冷たくない?」
「……そうだね」
 こんな格好では普段どおりの威厳など出せるはずもなく、私はすごすごと自分の寝室に引き上げていった。

 部屋に戻ると、またため息が口をついて出てしまった。
 のろのろとガウンを羽織り、室内履きに足を突っ込む。
 仮面はどうしたらよいのだろう。
 あれほど情けない姿をさらしておいて、格好をつけたところで滑稽なだけだろうが。
 しかし、いくら彼女が私の素顔を受け入れてくれているとしても、このような醜いものを彼女の目に入れたくはないのだ。
 やはり仮面はつけることにして、またのろのろと居間に戻った。
 時計を見ると三時になるところで、こんな時間に起こされた彼女はいい迷惑だったろうと思った。


「はい、どうぞ」
 少ししてが湯気の立つカップを二つ、持ってきた。
 受け取るとワインの酒精とともにシナモンの香りが鼻腔をくすぐる。
 いつもは向かい合わせになる形で座るのに、何も言わずには私の隣に来た。
 彼女なりに、なにか感ずるところがあったのだろう。
 さりげない気遣いは温めたワインよりもずっと私を満たしてくれた。
「…言いたくないのなら無理には聞かないけど、良かったら話、聞くよ?」
 半分ほど中身の減ったカップを置くと、はそっと私を見上げてきた。
 黒い瞳にはもう眠気は残っておらず、思案するように眉がわずかに寄せられていた。
「本当に、なんでもないんだ。ただ、ちょっと、寝ぼけてしまっただけなんだよ」
「寝ぼけた? あれが?」
 すごい盛大な寝ぼけ方ね、始めて見ちゃった、とはくすくす笑った。
「怖い夢?」
 そう問う彼女の顔はもう笑ってはいない。
 私はなんだか妙に素直な気持ちになって頷いた。
「昔の夢を、見たのだ。その悪夢から逃れたと思ったら、また悪夢が続いた。この暗闇の中に、誰もいない。お前も、アイシャも……」
 の手が私の腕に触れた。
「また目が覚めたら、自分のベッドで。もう、どこまでが夢なのかわからなくなってしまった。夢でも現実でもいいから、お前がいることを確かめたくて……。後はお前も知っている通りだ。騒がせてしまってすまなかった」
「ううん。いいの」
 は小さく頭を振ると私の肩に頭を預けてくる。
 私は彼女の腰に腕を回して、抱き寄せた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ずっとこうしていたかったが、まだ真夜中だったので、名残惜しいが部屋に戻ることにした。
 腕を放すとはもういいのかと問うような眼差しを向けてくる。
「カップは私が片付けておくよ。付き合ってくれて助かった。朝までまだ時間はあるからもうひと眠りした方がいい。お休み、
「え? うん……」
 まだ座っていたの額に口付けて、私はキッチンに向かう。
 さっと洗って居間に戻ると、が手持ち無沙汰な様子で立っていた。
「どうしたんだ。
「ん?ちょっとね」
 はいたずらっぽく笑うと、小走りで近付いてきた。
 なんだ?
「じゃ、行こうか」
 は私の手を握り、そのまま歩き出そうとする。
「どこへ?」
「わたしの部屋」
 なんだと!?
「お、おい。 ……」
 困惑する私を他所に、はさっさと歩き出した。
「一緒に寝ましょう。それなら、怖い夢を見ても平気でしょ?」
 あっけらかんと言う彼女に、私は開いた口が塞がらなかった。
「何を言っているのだ。未婚の若い娘が男をベッドに誘うなんて」
「ああ、大丈夫大丈夫」
 ひらひらと彼女は手を上下させる。
「何もしないから。怖くない怖くない」
 にっこりと彼女は笑った。
「……」
 それは、私が言うべき台詞ではないのか?
 というか、お前は私になにかする気だったのか……?
 どこまでが本気なのかわからず、私は呆然としたまま、彼女に手を引かれていった。


 は私がベッドに入るまで、自分は立っていると決めたようで、面白そうな表情をしながら私の動向を見守っていた。
 そうであるなら、覚悟を決めねばならぬ。
 しかし、なんだってこんなことに……。
 彼女のベッドにもぐりこむと、まだぬくもりが残っていた。
 私の体重を受けて、底板がきしりと音を立てる。
「もうちょっと、そっちに寄ってくれる?」
「あ、ああ……」
 ガウンを脱いだ彼女は躊躇なくベッドの端に膝を乗せた。
(こういう形だったのか……)
 は私の買った寝巻きではなく、自分で作ったパジャマを着ていた。
 生成りの木綿でできたそれは、襟がなく、ストンとした形で、膝より少し短いくらいの丈の上衣に同じ素材のズボンを合わせている。
 襟ぐりに別色の布でぐるりと縁取っている以外は飾りはないが、シンプルなのがかえって可愛らしい。
 それに、下に肌着をつけていないのだろう、胸の辺りが心もとない様子で、の動きに合わせて揺れていた。
(どこを見ているのだ、私は……)
 自己嫌悪に陥り、目を伏せる。
 そんな私を他所に、はごそごそと布団にもぐりこんできた。
(ううむ…。これは、さすがに…)
 母のベッドは私たち二人が並んで眠るには少し小さく、ぴったりと寄り添わなければどちらかが落ちてしまいそうだった。
「さすがに、ちょっと狭いね。ごめんね、今晩は我慢してね?」
 は済まなそうに小首を傾げた。
 ほんの呟き声だというのに、吐息が当たるほどに顔が近い。
「まあ、仕方があるまい」
 私は内心の動揺を出さないようにするのが精一杯だった。
 なにしろ近いのは顔だけではない。
 足が……。
 足が当たるのだ。
 互いに着ているのは薄布でできたパジャマだけ。
 体温を遮るものはないも同然だった。
「エリック、仮面をつけたまま眠るの?」
「いや、そういうわけではないが、しかし……」
「遠慮はなしにして? そのほうが、わたしも嬉しいし……」
 とろんとした眼差しでが見上げてきた。
(その顔は反則だ、 ……)
 このまま組み伏せてしまいたい衝動がこみ上げてくるが、大慌てで劣情を押さえ込んだ。
 は、彼女はただ悪夢にうなされた私を力づけようとしているだけであって、それ以上のことなど望んでいるわけではないのだ。
 いや、本当にそうだろうかと英知が私に囁きかけてきた。
 いくら鈍いとはいえ、男をベッドに誘った時点で、何が起るかなど彼女にもわかっているのではないか?
 つまり、遠まわしに彼女は了承しているのでは?
 それならば、何もしないのはかえって彼女に恥をかかせることになる。
 そうか。
 そうだったのか。
 ああ、ようやく私たちが一つになる日が来たのだね、
 そのきっかけは少しばかり情けないものだったけれど、だが、これから訪れる薔薇色の未来の前では些細なことでしかなかろう……。
「エリック? どうしたの?」
「いや、なんでもない。……外すよ」
 サイドボードに仮面を置くと、彼女はにこりと微笑む。
 たとえ慣れたところで気持ちの良いものでもないだろうに、どうして、彼女はこのように笑えるのだろう。
 ふっと蝋燭を吹き消すと、辺りは暗闇が支配した。
 そっと彼女の頬に触れ、そこから髪に手を滑らせた。
  が何度か瞬きをし、そしてうっとりと閉ざした気配がして、そして……。
「おやすみ、エリック」
 すがすがしいほどあっさりと目を閉じて、彼女は夢の世界に逃避していった。


 え……と。
  ……?
 なあ、
 どうしたことだ、これは。
 お前は本当に本気で、ただ私と一緒に寝ようとしただけだったのか。
 めくるめく陶酔を、愛の喜びを、私と分かち合おうと思っていたわけではなかったのか?
 なあ。なあってば、おい……。


 しかし心の中で呼びかけても彼女が起きるわけもなく、すうすうと寝息をたてるを前に、私は脱力した。
(せっかくの好機だったのに……。ああ、 はまだ私を男と意識しているわけではないのか……)
 それにしても何たる拷問だ。ご馳走を前にしてお預けにされているのだから。
 愛しい娘が隣で寝ていて、どうして平静を保っていられよう。
 だが耐えねば。
 は私を信用してこのような振る舞いに及んだのだ。
 軽率なことだとは思う。
 すべての男が鋼の精神を持っているわけではないのだ。
 しかしここは彼女の信頼に応えなければならぬ。
 彼女のためにも、私のためにも。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 もんもんとしたまま時間だけが過ぎた。
 この調子では一睡もできずに朝を迎えてしまいそうだ。
 私をこのような地獄に叩き落した小悪魔は、平和な顔をして眠り続けている。
 ええい、明日になったらどうしてくれようかと考えていると、ころんと寝返りを打った。
 丁度私の肩の辺りに頭が来て、向かい合う形になる。
 まったく……どこまでも無防備な。
 どうせ眠れぬのならせめてこの温かさと柔らかさを堪能してやろう。
 腹立ち交じりで彼女の身体を引き寄せ、腕の中に閉じこめた。
 さらに近付いた両足は、自然と絡み合う。
(……?)
 の身体が強張ったような気がして、私は思わず彼女の顔を覗きこむ。
 相変わらず規則正しい呼吸をし、目を閉じている。
 だが……しかし……。
 じいっと見つめたままでいると、そろりとが片目を開けた。
 私が見つめているのに気付いて、その目は慌てて閉じられる。
 起きてる。
 狸寝入りをしていたのか。
「……」
 思案した私は、彼女の胸に手を伸ばした。
 といっても、膨らみの方ではなく、その間。
 心臓のあるところへ。
 私の手が触れた途端に彼女の眉が潜められる。
 鼓動が早くなり、頬も赤くなった。
 だが、目は閉じられたままだった。
(そういうことか…)
 喉の奥で笑うと、彼女の身体がまた強張ったように感じた。
 彼女は私が何を望んでいる理解している。
 それでもこうしてくれたのは、悪夢に怯える子を宥めようとする母性のようなものなのだろう。
 だがは私の母ではないし、私はの子ではないのだ。
 私を意識しないではいられない。しかし男女の交わりはまだ恐ろしい。
 だから彼女は冗談めかして誘い、さっさと眠った振りをした。
 その心の動きがまざまざと感じられるようで、私はの額に口付けた。
 彼女にとってこのことは、虎を巣穴にいれるようなものなのだ。
 文字通り、取って喰われてもおかしくはない。
 実際私は半分そうしかけたのだから。
 だが彼女は逃げなかった。
 多分、私が実行に移してもそのまま受け入れてくれただろう。
 自分の気持ちを押し殺すことになっても。


 なんて愛おしいのだろう。
  の身体は私の腕に納まるほど小さいのに、その愛情は大きな翼となって私を包み込んでいるのだ。
 自然と笑みがこぼれ、私はそっと彼女の耳元で囁いた。
「ありがとう」
 眠り続ける振りをした彼女は答えない。
 だがいいさ。
 今日はお前の勇気に免じて大人しくしていよう。
 だが、二度目はないと思ってくれ。
 私とて、聖人君子ではいられないのだから。







99999hitを踏んだ雨さんからのリクエスト、オペラ座夢です。
日常的でちょっと甘いものならば内容は問わず、とのことでしたので、同衾させてみました(笑)
しかしせっかくのチャンスなのに、なんだかんだ理屈つけてカノジョに手ぇ出さないなんて……へたれにも程があるぞエリック。
(まあ、手を出してたら「ちょっと甘い」どころではなくなりますが。)

ヴァンショーというのはいわゆるホットワインのことです。
好みのスパイス(シナモンとかクローブとか)にオレンジやレモンのスライスしたものを一緒に入れ、砂糖か蜂蜜を入れて甘味をつけて温めたものです。



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