一日目 祈る
(……明るいな)
地下から地上へ出た私は、これまでのことが夢なのだと感じた。
昨夜、一昨日とほとんど眠っていない。こういうときは身体が疲れていても頭が冴えてしまって、寝ようにも眠れなくなるものだ。
だが、意識がはっきりしていたと自分では思っていても、本当は気付かないうちに眠ってしまったか、寝ぼけていたかしていたということは充分考えられる。
だとしたら……多分そうだと思いたいのだが、あの出来事は本当にあったことではないのだ。
しかし――。
ポケットを探ると、ベルナールに渡すための買い物メモが出てくる。間違いなく自分が書いた字だ。
そこには時期を一ヶ月間違えたかのような、大量のリンネル類に女性物のガウンなど、およそ私がするとも思えない注文が書かれていた。
昨夜というか今朝早くというか、つまりまだ夜が明けないうちに我が家に同居人が増えることになった。
男のような、といってもズボンを履いているだけだが、全体的に変わった格好をした東洋人の娘だ。
オペラ座中にほどこした、私の罠を掻い潜ってたどり着いたわけではない。気付いたら我が家の居間にいたのだ。
これをどう理解したらよいか説明がつけられる者がいるというならば、ぜひとも伺いたいものだ。
ハデスだって、浚ってもいないペルセフォネーを己が館で見出したなら、困惑するだけだろう。
背後を振り返ると、我が家へと続く階段は、まるで黄泉への入り口のようだった。冬の弱弱しい光はただ明るいだけで、奥まで照らしたりはしない。一月の空は無情だ。夏に比べてあまりにも力のない太陽は、化け物の目を覚ますことはできても、迷妄を吹き払うことまではできないのだ。
私はもう、自分が狂ってしまったのか正気でいるのかもわからない。
(このまま帰ろうか)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
このような買い物は、あまりにも馬鹿げている。
だがあの娘が本当に存在するのならば、何も注文しないとなると、夕方になっても何も届かないということになり、結果として彼女に不自由な思いをさせてしまうことになる。
しかし、彼女が私の頭が作りあげた存在ならば、買い物など頼むだけ無駄だ。
だが、再びメモに視線を落とすと、インクの間から彼女の笑顔がにじんできて、私を苛む。
幻であっても、あの笑顔はよいものだった。緊張の抜けきれていない、だが紛れもなく私に向けられた、嘲笑ではない笑み。
彼女が本当にいるのなら、またあれを観られる。
彼女はいるのだ。
いるのだと思う。
……頼むから、いてほしい。
私は覚悟を決めてメモを郵便箱に入れようとした。
買い忘れがないか、もう一度確かめる。と、ふいにどこからか香ばしいパンの匂いが漂ってきた。
誰かがパン屋から帰る途中なのだろう。
改めてメモを読み返すと、肝心なものを忘れていたことに気付いた。
私はペンを探して身体のあちこちを探ったが、どうやら忘れてしまったようだ。仕方がないので手袋を外し、左の親指に歯を当てる。にじんできた血で追加の注文を書いた。
『食料を今までの二倍、届けるように』
☆ ☆ ★ ☆ ☆
二日目 血走る
彼女がいたのは、やはり夢ではなかった。
一晩経っても消えたりしない。
とはいえ、彼女はまだ新しい屋敷に――あるいは、世界にか――慣れていないようで、一言発するにも緊張している雰囲気が感じられた。
それは私も同じだった。
うら若き同居人を怖がらせないように、不安にさせないように、精一杯気を張っていたのだから。
私の身をあらゆる危険から守ってくれるこの屋敷で、これほど緊張を強いられるとは思ってもみなかった。これではここに篭っている意味がなくなってしまう。
しかし……それでも、家で待っている者がいるというのはこういうことなのか、と思うことは多々あった。
彼女は、昨日私が外へ出ようとしたときに、「いってらっしゃい」と言ったのだ。帰ったときには「お帰りなさい」と。
こんなものは普通の人びとにとって、当たり前の挨拶なのだろう。
しかし、私にとっては……。
これからは毎日こうして日々を過ごしてゆけるのだと思うと、不思議と暖かな気持ちになった。
なにがあっても絶対に、彼女を手放したりはしない。あの娘はもう私のものだ。
それにしても昨日は大変だった。
客間を彼女の部屋にしようとしたのだが、よくよく見るとずっと閉め切っていたため、大掛かりな手入れが必要だとわかったのだ。
風呂や洗面台に繋がっている水道管は、内側が錆付いたようでしばらく水を出しっぱなしにしなければならなかった。そのくらいならまだたいした手間はかからないが、新たに買い換えたりしなければならないことのなんと多いこと!
壁紙は湿気で隅の方にカビが生えていたし、椅子のクッションや寝台のマットレスも似たようなものだった。
居候になる心苦しさからか、彼女は掃除は自分でやると言ったが、一端家具を客間から全て出さなければならない都合上、まさか本当に彼女にさせるわけにもいかない。結局、昨日は一日中大掃除をしていたのだ。
始めは奇異に思っていたズボン姿も、このときは如何なく効果を発揮した。くるくると働く姿は、まるでリスのよう。特に壁紙剥がしが気に入ったようで、刷毛を湯につけて糊を柔らかくしてはびりびりと破っていた。あまりに楽しそうだったのでそれは彼女に任せて、私は艶を失った家具を磨いたり、蝶番に油を差して回ったりした。
だが夜になって大きな問題が浮上した。彼女の寝る場所がないのだ。
客間はまだ散らかっているし、マットレスも湿っていたのでとても寝られる状況ではなかったのだ。
こんなことならもう少し考えて行動するべきだった。しかし悔やんだところでどうしようもない。
他には私の寝台と、オルガン脇の寝椅子くらいしかないが、私の部屋もかなり散らかっているので女性を入れるのはためらわれる。かといって、居間では無防備な姿の彼女と遭遇しかねない。
迷っているうちに彼女が自分は気にしないからと寝椅子を選んだ。私は、せめて彼女が怖い思いをしないようにと、ナイトガウンに着替えに客間へ行ったあと、自室へ引きこもった。だが妙に興奮してしまい、昨夜もほとんど眠れなかったのだ。これで三日程徹夜していることになる。
朝食の後、簡単に片付けをして、今日の買い物は私自身が品物を選ぶことにした。ベルナールに馬車の用意をするよう命じている。
時期が時期なので、コートの襟を立てて帽子を深くかぶれば、私の容貌もさほど人目を引かない。とはいえ、ベルナールが私を見た瞬間、棒立ちになったのはそれなりに疲労が顔にも出ていたのだと思う。
家具屋では、明るい色の壁紙、マットレスと羽根布団、枕を購入した。始めは買う予定ではなかったが、小さなテーブルと絨毯も。それに、もしかしたらこういうものが好きなのではないかと思い、中にドライフラワーが入っているグラス・シェイドも買い求めた。
店に入ったときには気味悪そうな顔で私を出迎えた店員も、最後にはこれも如何ですかと商品を勧めてくるようになった。全く、金という奴はつくづく世渡りには欠かせない相棒だ。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
三日目 刺激的
彼女が来て二度目の夜が明けた。
部屋を出る前に強く扉を叩く。
「はい」
すぐに返答がきたので、彼女がもう起きていることがわかった。安心して居間へ出た途端、私は凍りついた。
昨日、買出しから帰ってきたあと、早速客間に壁紙を貼ったのだが、糊が乾ききらず、空気がじっとりとしていたので、またあの部屋を使うことができなかったのだ。
それで、彼女は昨夜も居間の寝椅子を使ったのだが……まだ着替えていなかったのだ。
さっき起きたばかりというように、寝椅子に腰掛けて、白いレースとフリルのついたナイトガウンをゆったりと纏ったまま、寝乱れた髪を手櫛で梳いていた。
私に気付くと「おはようございます」とぺこりと頭を下げた。声はやや掠れている。本当に起きたばかりだったのだろう。
信じられない思いで呆然と突っ立っていると、不思議に思ったのか、彼女は首を傾げて立ち上がる。
「あの……?」
スリッパを履き、こちらへ近寄ってきた。歩くたびにゆらゆらとガウンが揺れる。覆っている布地は、こちらの方が余程多いのに、昼間の服装よりもずっと無防備に見えた。
彼女は先の言葉を続けなかった。何を言えばよいのかわからないのかもしれない。
私はというと、目の前の血と肉と熱を持った存在にただ心を奪われていた。
「えーと、昨日はお疲れ様でした。あの、良かったら朝食の仕度は、わたしがやりますけど」
気まずい沈黙に耐え切れなくなったのか、早口になって彼女が言った。
「あ、いや……それは私がやろう」
ようやく我に返った私は、不躾に寝起きの女性を見つめ続けていたことに気付いて、視線をそらした。
だが無理もない。こんな格好をして私の前に出てくるなど、思ってもみなかったのだ。私は自分を必死で弁護していた。
「君は着替えて身支度を整えてくるんだ、いいね」
内心の焦りをなんとか隠し、できるだけ優しく声をかけると、彼女はあからさまにホッとしたように息を吐いた。
「はい、エリックさん」
照れ笑いのようなものを浮かべて、髪をかきあげる。それで、気付いた。
「ブラシが必要みたいだな」
「え? ああ、ブラシですか。そうですね、お願いしようかと思っていました」
最初、彼女は何を言われたのか解らないというように目をぱちぱちとさせたが、合点がいくとこっくりと頷いた。
「ほしいものがあったら遠慮なく言ってくれ。なにしろ私は年寄りだからね。若い娘にとってどんなものが必要なのか、わからないのだよ」
おどけたように言うと、ちらりと彼女が笑う。
「ありがとうございます。でもまだここでの生活に慣れるのに精一杯で、自分でもよくわからないみたいなんです」
「そう。そういうものなのかもしれないな。ところで、君はいつも髪をおろしているのかね?」
女性は眠る時以外、髪はまとめるか編んでおくのがこの時代の作法だった。しかし彼女は一度もそんなことをしたことがない。短いわけではない。充分、結えるだけの長さはあるのだ。それが気になっていた。
「気が向いたときには結んだり編んだりしますけど……」
彼女は途端に落ち着きをなくした。咎められたと思っているのかもしれない。
しかし、気にはなっているが、咎めるつもりは毛頭なかった。
「じゃあ、その『気が向いたとき』のために、リボンとピンも用意しておこうか」
「でも、そんなの悪いです。昨日だって色々買っていただいたのに……」
「遠慮はなしだと言ったはずだよ。ところで、化粧台に鏡はついているけれど、手鏡もいるかい?」
「手鏡、ですか? まあ、あればあった方がいいと……って、無理やり買うものを増やさなくっていいんですよ!?」
もう、と膨れる彼女に、私は喉の奥で笑いながら、初日から繰り返した問答をもう一度持ちかけてみた。
「ドレスは?」
「気絶したくないので、いいです」
これにはきっぱりと拒絶してきた。小説だか動く写真だかで得た知識だか知らないが、彼女の中にはこの時代に対する妙な思い込みがある。もっとも、オペラ座に観劇に来るご婦人たちの中で、コルセットの締めすぎで気絶する者が出るのは毎回のことなので、否定できないのが面白いところか。
まあ、いらないというのなら無理強いすることはなかろう。彼女だって女なのだから、いずれは新しいドレスを欲しいと言い出すに決まっている。こと、衣装にかける女の情熱は凄まじい。オペラ座の女たちを見ているだけでもよくわかる。
さて、朝食をとったら、彼女の部屋の片づけを済ませてしまおう。今日一日で大体終わると思うが……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
四日目 ない、ない、ない
今日はもう着替えていた……。
居間で彼女の姿を認めたとき、私は思わず安堵の息をもらした。
昨夜からようやく彼女は彼女の部屋となった客間で寝起きするようになった。そこは見違えるほど綺麗になり、彼女という存在を得て生気を帯びたほどだった。
住人がいるといないとで、これほど様相を変えるとは……。改めて、人の存在というものの大きさを思い知る。
バゲットにカフェオレと昨夜の残りのスープという簡単な朝食をとる。しかし誰かと向かい合って食事をするということに、未だ慣れなかった。食事の最中というのは、妙に間がもたないのだ。
昨日までは良かった。彼女に何が必要か、どんな手順で模様替えをしようかと打ち合わせる必要があったので、必然的に会話の糸口ができていたのだから。しかし、もうそれも尽きた。これから一体どうすれば……。
「換気扇は……」
「え?」
しまった、いきなりすぎたか。彼女はきょとんとしてこちらを見返している。
「換気扇がどうかしましたか?」
聞き返された以上、答えないわけにもいかない。
「まだ糊は完全に乾いたわけではないだろうし、ずっと閉め切っていたから壁が湿気を含んでしまっているのだ。だから一週間くらいは換気扇は止めないほうがいい。音が気になるかもしれないが」
「そうですね、ええ、ちょっと気になってはいました」
彼女はカフェオレを口に含んで、一息つく。
「でも眠れなくなるほどではありませんから、大丈夫ですよ」
「そうか……」
ここで会話が途絶えた。
何か、何か話題はないか?
……あまり言いたくはなかったが、やはりこれしかないか?
「余計な世話かもしれないが、もし良かったらフランス語の訓練を受けてみないか?」
「訓練って、あの、わたしのフランス語、聞き取り辛かったですか?」
「いや、上手だよ。外国人にしてはね」
正直に答えると、彼女は傍目にもわかりやすいほど肩を落として、表情を曇らせた。
彼女の場合、発音に日本訛りがあるというだけではなくて、二十一世紀訛りとでもいうべき変化がついているので、時折彼女が口にしたことを吟味しなくてはならなかったのだ。
「……つまり、そういうレベルだってことですね。……わかりました、受けます。あなたが教えてくださるんですよね?」
「まあ、ここには他に住人はいないからね。だが、無理にとは言わないよ。こちらの生活に慣れるだけでも大変だろうしね」
「いえ、でも聴き取り辛いのであれば、直さないと。やってやれないことじゃないんですから」
ぐっと彼女はスプーンを握った。蝋燭の光を受けて、黒い目がキラキラしている。
言葉が、詰まった。
私に向き合っても嫌な顔をしない。私と言葉を交わしても目をそらさない。……私が近付いても――こんなに近くにいても、逃げ出したりしない。悲鳴をあげない。震えない。
これが本当に現実なのか?
何度も繰り返した疑問が、また浮かび上がる。私はカフェオレを一気に飲み干すと、腕を伸ばした。
「っ!」
彼女が身体を強張らせて息を詰めた。
私の手は彼女の額にかかる髪に触れる直前で止まった。
「……すまん」
大きく見開いた目に、彼女が私を恐れていないわけではないということを悟った。
(当然だな……)
己が浅はかさに自己嫌悪していると、「危ないと思いますよ」と消え入りそうな声で彼女が言った。
「……」
危ないというのは、私の行動だろう。これで一気に警戒されてしまったのだ。
「蝋燭、袖に当たりそうになっていました。テーブルの上に腕を伸ばすのは、危ないと思いますけど……」
もごもごとした口ぶりだったが、彼女は確かにそう言ったはずだ。
蝋燭……。そっちか。
「あ、ああ。気をつけよう」
「はい……」
彼女は俯いてパンをちぎり始めた。私と会話をするのが嫌になったのか、特に気にしているわけではないのか、さっぱりわからない。
いくらなんでも、私の行動の意味が理解できないはずはないと思うのだが……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
五日目 気が散る
この数日は、ここ数年なかったほど目まぐるしかった。
私は新たに加わったこの興味深い人物にすっかり心を奪われ、作曲はおろか、オペラ座を巡回しに行くことすら中止したほどだった。
だが、もう一段落ついたので、元の生活に戻ろうと思い立った。
午前中は彼女にフランス語の稽古をつけることにし、午後から夜にかけては各々好きなように過ごすように取り決めた。
私はいつも早起きをするわけではないが、まあその時には授業をしてから寝ればよいだろう。
五日振りにオルガンの前に座る。
書きかけの楽譜は彼女が私の前に現れたときのまま広げてあり、少し埃をかぶっていた。
適当に表面を払い、最初から頭の中で音をなぞる。
『ドン・ファンの勝利』の第二幕、不安と幻想を呼び覚ますような響きを強調した場面だった。
(これはやめておくか)
私は楽譜を脇へ置いた。
今はもっと別のものを作りたい。たとえば、彼女が来てから感じた様々な思い――興奮、緊張、愉悦、感嘆……それに、歓喜を表現したい。
あるいは、彼女をモティーフにした曲を作るのも良い。柔らかく、捕らえ所がないが、前向きで中心にはしっかりした強さがあるようなものを。
あるいは……女性が喜びそうな曲を書いてみても良い。静かで優しい曲などどうだろう。そういうものを考えたことは一度もないのだが、自分の力に挑戦するという意味も含めて、やってみる意義はあろう。
私は新しい五線譜を用意し、腕を組んでどれから手をつけるかじっくり考えを巡らせていた。その時――。
コトン。
それほど大きな音ではなかったと思う。だが、私の思考を中断させるには充分で、反射的に音の出所を振り返った。
「どうかしました?」
彼女と目が合った。
「いや……なんでもないよ」
思わず上ずった声で答えるも、彼女は少し不安そうな顔になる。
音の原因は他愛もないことだった。革で装丁されている本の背の部分がテーブルに当たっただけである。
彼女は私の図書室を一目見るなりすっかり魅了され、読んでもよいかと訊ねてきたのだ。私は、集めるには集めたものの、繰り返し読むのはほんの一部であり、ほとんどは一読して放っておいたので特に拘ることなく了承した。
本だって棚に置かれっぱなしより、誰かに読んでもらうほうが嬉しいだろう。
彼女が広げていたのはその中の一冊だった。
「面白いかい?」
何も言わないのも変だろうと、当たり障りのなさそうなことを聞いてみる。
しかし彼女は、
「まだ前書きを読んだだけなので、そこまではわかりませんけど……」
と、困ったような笑みを浮かべた。
「そうか……」
私は、自分がとんでもなく間抜けに思えて、すっかりうろたえてしまった。会話を続ける気力もなく、顔を合わせていることも苦痛になってきて、彼女から視線をそらした。
五線譜に興味をそそられているふりをして、ペンを握る。しかし、背中に彼女の視線を感じて集中するどころではなかった。
しばらくして本を読み始めたのか、ぱらりとページを繰るかすかな音が聞こえてきた。緊張が解けた安堵で大きく息を吐きそうになる。
だが、再び作曲を始めたものの、結局一小節もすすまなかった。
まったく集中ができなかったのだ。
別に彼女は騒がしくしているわけではない。むしろ私に気を使ってか、ずいぶんひっそりと過ごしていたのだ。
それでも彼女が身じろぎをしたり、足を組んだりする衣擦れの音や、時折立ち上がって歩く音、咳や動作の折に漏れる呟きなどに、目と耳が勝手にそちらを向いてしまうのだ。
じろじろ見るのはみっともないという意地もあり、辛うじて何度も振り向くことは免れている。しかしかすかな音で今彼女が何をしているのかと勝手に頭が想像してしまうのだけはどうしようもなかった。
音がする。
気配がある。
人がいるというのは、こういうことなのだ。
我が家は自分でわかっていた以上に静かだったのだと思い当たる。
きしっ……。
また小さな音が鳴った。
多分、読書に疲れたかして、ソファにもたれたのだろう。
そっと振り返ると、予想通りの格好をした彼女を見出した。
これではいけない。彼女のことばかり気にかけていたら、何もできなくなってしまう。
そう理性が叫ぶものの、心も身体もまったく言うことを聞いてくれそうになかった。
(慣れ、の問題だろうか)
慣れれば、このようなことはなくなるのだろうか?
これまでの人生からではまったく導きだすことの出来ない問いに、私は目の前が薄暗くなるように感じた。
(早まったかもしれないな……)
同居生活五日目。
後悔しているのは、私の方かもしれない。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
ヒント
50話は5つに別れて隠しています。
「なぜ5つか」を考えればすぐわかるかも…?
もっとわかりやすいヒントは別のところに隠してあります。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
今回は変則的な作りになっています。
日常シリーズ通算50作記念ということで、49作目と50作目を同時公開(?)しています。
エリック視点の話が49作目で、ヒロイン視点が50作目です。
そのヒロイン視点話はこのページ内に隠してあります。
Tabや反転、その他色々やってみてください。
難しくないとは思いますが、イジワルな隠し方をしているとは思います(笑)
補足
・一日目のところ、『時期を一ヶ月間違えたかのような、大量のリンネル類に』というのは、二月になると白物(リンネルなどの白生地を使ったワイシャツ、ブラウス、シーツ、タオル、クロス類など)のセールがあるからです。てことで、今は一月。
・『寓話』…『ラ・フォンテーヌの寓話』とも。1668年に書かれた主に動物を主人公にした寓話集。そのなかにイソップ物語を翻案したものが含まれています。
ちなみに「アリとセミ」はオチがかなり皮肉が効いている。
アリ「暑いとこにはなにをしていたの?」
セミ「夜も昼も、歌っていました」
アリ「あらそう、それじゃ今度は踊ったら?」 ―了―
…フランスのアリって、キツイね。
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