闇の中に音が響く。

 地上から、静謐な地下へ。

 騒がしい、わずらわしい、苛立たしい人間との関わりを絶てる、私だけの居場所。

 そこに「私以外」の住人が住み着くようになって、どれだけ経っただろう……。

 こうして我が家へ帰る道のりも、以前は何の感慨も抱かなかったものだが、今では待っている人がいると思うと、自然と足取りも軽くなる。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



「ただいま」
 時刻は深夜を過ぎている。
 彼女はだいたい規則正しい生活をしているので、こんな時間に起きていることはまずない。
 にもかかわらず、そう言ってしまうのは彼女が来て以来ついてしまった習慣のせいだ。
「おっと……」
 案の定彼女からの返答はなかったが、代わりにアイシャが私の身体を駆け上がり盛大に甘えてきた。
「おやおや、どうし……。ん?」
 クリーム色の貴婦人の背中をなでようと抱き上げた瞬間、思わず顔をしかめてしまった。
 アイシャの首輪がなかった。
 ペルシャから持ってきた素晴らしく大きなダイヤモンドを上等の革でつるした私の自慢の品だった。
 留め金は猫の手で外せるものではないし、特に緩んでもいなかったはず。
 となれば彼女が外したのだろう。ここに住んでいる人間は私達二人だけなのだから。
 だが、何故?
 いぶかしく思ったが、確認するべく彼女の寝室の扉を叩くべきかどうか迷った。
 彼女が来るまではボッシュヴィルから運んだ家具が置いているだけのがらんとした客室――なんて皮肉な名前だ!――は今では我が家の中で最も神聖な場所となっていたのだ。
 本人は気付いていないだろうが、この向こうに彼女がいると思うだけで、作曲がままならないときも、地上で不愉快なことがあっても一種の感慨と共に心が穏やかになるものだった。
 本当のところをいえば、自分から同居を提案したこととはいえ、そうなるまでにはずいぶん時間がかかっている。
 なにしろ人間とは命令するかされるかという関係しか持ったことのない私だ。親愛の情すら滲ませてくれる相手が「ただそこにいるだけ」という状態はまったくなかったことなので、彼女の一挙一動に戸惑うばかりだった。
 居間で長い間彼女と空間を共にしているうちに、だんだん気詰まりになってきて発作的に地上に出たこともあった。
 少し不安そうな顔で送り出してくれる彼女に対して罪悪感を覚えたが、それ以上に家に帰ったら彼女が元の世界に戻っていたらいいのに、という思いが強かった。
 それがなくなったのはいつ、とははっきりと言えない。
 いつのまにか彼女がいることを当たり前だと思うようになったからだ。



 そんなことを考えながら彼女の部屋の前で起こすべきかずいぶんと迷っていた。
 一刻を争うようなことではないし、彼女が起きてからでも、とは思ったが、ものがものだけに気にかかるのは事実だ。
 結局、一度だけ声をかけて起きなかったら明日にしようと結論付けて、ノックをしてみた。
 この部屋は内側から閂を掛けられるようになっているが、彼女はいつも施錠はしないことを知っている。
 ノブは簡単に回った。
 だが――。
「なんだ……これは……?」
 ベッドは入り口から見えるところにあるので、寝ているかどうかは一目でわかる。部屋に彼女はいなかった。
 それどころか、ベッドからはシーツが外されており、むき出しになったマットレスの足元に二つに畳んだ羽根布団が置いてあった。
 枕はなぜか肘掛け椅子の上。飾り戸棚に置いてあったグラス・シェイドには大きなヒビが入り、その隣にあった造花を飾っていた花瓶はなくなっていた。
 鏡台の上に置いてある小物もなんだか雑然としていたし、壁紙が何箇所か破れていて灰色の石壁が覗いていた。
 浴室に通じるドアは開け放たれ、真っ暗なそこにも彼女がいないことを示している。
 どきん、と心臓が強く打った。
 不安が頭をもたげてくる。
 なにがあった……?
 彼女はどこだ……?
(留守中誰かがここに入り込んだ?)
 いいや、そんなことはありえないと頭を振る。
 中から手引きするものがいない限り私の仕掛けた罠にひっかからずにここまで辿りつけるはずはないし、彼女には地上に通じる道はまだ教えていない。
 大きく息を吸い、激しく脈打ち始めた心臓に叱咤をいれ、落ち着け、落ち着けと言い聞かせた。
 この部屋の惨状も、彼女が説明してくれるだろう。
 きっと図書室にでもいるのだ。
 うたたねでもしてしまって、まだ戻っていないだけだ。
 彼女は私の図書室をずいぶん気に入っていたから……。

 だがそこへ行ってみても彼女はいなかった。


 愕然とした。
 目の前が真っ暗になって、私はひどく打ちのめされた。
 こんなことが起きるなんて信じたくなかった。
 考えられることは二つ。
 ここに来たときと同じように元の世界に強制的に戻されたか……。
(逃げたか、だ)
 ああ、逃げたのだとしたら、ひどい裏切りだ。
 だが元の世界に戻されたのであれば、彼女のためにも喜んであげるべきなのかもしれない。そんな気分にはとうていなれないとしてもだ。
 だが、そんなことをどうやって確かめたらいい?
 アイシャが人間の言葉を話すことができたら、留守中に何が起きたのか教えてくれるだろうかなどと、愚にもつかないこと考えながらも、もしかしたら他の部屋にいるのかもしれないという一抹の希望にすがり、私はふらつく身体を励まして一つ一つ見て回った。
 キッチン、物置、実験室、私の部屋……。最後のところはクロゼットの中まで開けてみた。だが彼女の姿は影も形もない。
 焦燥がじりじりと胸を焦がし、叫びだしたくてたまらなかった。
 だがここで声を出したら、なけなしのプライドで保っている我が身は簡単に崩れ落ちてしまうだろう。
 手放しで泣き喚き彼女の名を呼んで……返ってくることのない返事を待つだけの抜け殻になってしまう。
 はじめて「人」に心を許した結果がこれだ。
 オペラ座の怪人ともあろうものが、無様なものだ……。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



 キャビネットからウイスキーを出して一杯やろうとのろのろと立ち上がる。
 私室から居間へつっきるように歩き――。
「……ん?」
 目の端に違和感を感じてとっさにそっちを向いた。
 パイプオルガンの設置してある壁際には以前から作曲に夢中になるあまり、ベッドに寝に行かないことがよくあったため、いつでも横になれるよう寝椅子をオルガンの脇に置いてあるのだが、その寝椅子に置いておいた毛布が……こんもりと膨らんでいたのだ。
 私はめまいがしそうな気分になりながらもそこに近づき、毛布を軽くめくる。案の定彼女がほとんど頭まで包まるようにして眠っていた。
 一気に力が抜ける。
 普段彼女がいない場所でもあり、あまりにも静かに寝ていたものだからまったく気付かなかった。自分の取り乱しぶりが滑稽に思えてくる。
 八つ当たりにも似た気分で、彼女を起こしてやろうと手を伸ばした時、オルガンの椅子にアイシャの首輪と手紙が置かれていることに気付いた。





エリックへ


留守中、あなたがふたを閉めていかなかったインク瓶をアイシャがひっくり返しました。
(絨毯まで走っていく前に確保したのでご安心を。だけど今後はインク瓶はちゃんと片付けてよね!)
アイシャのお腹と後ろ足が真っ黒になったのでお風呂で洗ってあげていたら(あ、首輪は濡らすといけないと思って外しました)、途中で逃げられて、あの子はわたしの部屋で思い切り暴れてくれました。
部屋中走り回って物は落とすし壁は引っかくし、びしょぬれのままベッドを駆け回ったのでわたしの部屋は滅茶苦茶です。(再確保して洗い終わるまで大変だったのよー!)
床についたインクの染みはなんとか落ちたけど、わたしの部屋の方は全然片付いてなくて、でももうくたくた。続きは明日します。
ベッドは使えないので寝椅子を借りました。
どうか、今日はオルガンは使わないでください(お願い。ね、ね?)。


かしこv




「……なるほど」
 シーツが濡れたので外し、マットレスを乾かしているのだろう。
 花瓶はきっと粉々にでもなったのだろうし、鏡台の小物はとりあえず散らかったものを乗せただけ、といったところか。

 わかってしまえばなんてことはない。
 フィユトンで流行している探偵小説ならば、くだらないオチだと一蹴されてしまうようなものだ。
 馬鹿馬鹿しくて思わず笑ってしまう。
「ん……」
(おっと)
 彼女が身じろぎしたのでぱっと口を閉じた。
 こんなことがあったのなら、起こすのは可哀想だ。
 ゆっくり寝かせてあげたい。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



 オルガンの椅子に座り、彼女の寝顔を眺めながらぼんやりした。
 彼女が来てから私の日常は少しずつ変化している。
 今日のようなことはできれば二度と御免だし、彼女が本当に帰ってしまう日が来るかもしれない。
 だが、それでも――。

 願いがあるのだ。

 いつか、彼女の私に対する信頼が揺るぎないものになったら、自らの手で仮面を取ろうと。
 二目と見られぬ化け物のような顔。
 そのせいで一切の人間的な暖かい感情から締め出され、何度も屈辱に身を焼いた……。
 だけど彼女なら、受け入れてくれるかもしれない。
 私を愛してくれるかもしれない。
 儚い望みではあるが、すがらずにはいられなかった。
 彼女があまりにも私を理解しようとしてくれるから……。

 だが、まだだ。
 まだ、彼女は私のすべてを――闇に沈み、幾度も手を血で染めた怪人の、その象徴ともいえる顔を受け入れるには至っていない。
 時間が必要だ。
 まだ、足りない……。
 だが――。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



「アイシャ、おいで」
 にゃお、と鳴いて膝の上に乗ったアイシャに首輪をつけてやる。
 ごろごろと喉を鳴らして甘えてくるアイシャの背中を機械的になでながら、私の心は寝椅子で安らかに眠る彼女に注がれた。


☆   ☆   ★   ☆   ☆



 彼女の信頼がどれだけ強ければ私を受け入れてくれるのか。
 その見極め方を私は知らない。







誘惑に負けた……
(後日、これを読む方へ。
これがアップされたのは「アンジェ・エリック」を作っている最中で……他の読み物を書くとアップが遅れるので控えていたのですが、2ヶ月くらい読み物系が何もアップできないのが強い欲求不満になってとうとう書いてしまった、ということです)
本当なら先にお馬鹿話「エリック(40代)女性用下着の注文をしにいく」を書きたかったのですが、すっかり頭の中がシリアスになっちゃってねえ……。(……シリアスか?これ)




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