私達は生まれも育ちも、それどころか属する時代すら違っているのだから、互いによくわからない行動をしていることがままある。
 わざわざ指摘するほどではないと思ったものは放っておくが、どうしても気になることは尋ねる。
 私が尋ねられた時もそうなのだが、相手が不思議に思うものほど、本人にとっては当たり前であることが多い。
 だから特に説明しなければいけないとは思わないのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 普段、がさつとしか思えない行動を取る事が多い彼女であるが、しかし「普通の」「まともな」家庭で育った娘であることは想像に難くない。
 基本的なマナ――それがフランスのものとは違っていても、だ――は弁えているし、不用意にこちらのプライベートには踏み込んだりはしない。
 私のような人間相手には、これは賢明な事といえよう。
 挨拶もきちんとする。
 朝起きてきた時と夜寝る前。それに食事の時。
 食事のときには手を合わせて真っ直ぐに指を伸ばし、軽く頭を下げる。
 ずいぶんと丁寧な作法だと感心した。
 しかし……!
 私にはどうしても我慢できない事があった。
 彼女には悪気も下心も何も無いとわかっているからこそ、今まではずっと沈黙を守ってきた。
 だが、そろそろ我慢も限界である。
 私はこの顔以外で彼女を驚かせたり怖がらせたりしたくはないと思っているのだが、いつもいつも余裕があるわけではない。
 不愉快な出来事があった日や、疲れた時、それに、昼夜の別はない地下とはいえ、やはり夜にはほの暗い魔力が働く……。
 理性のたがが緩んでしまわないとも限らなかった。
 もしもそうなってしまったら……。
 事態が、私の望む方向に進むなど、ありえない。
 彼女の信頼を裏切ってはならない。
 それくらいなら、多少揉めようとも、率直に忠告した方がいい。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



。少し良いか?」
「うん?」
 どうしたのかというように彼女は軽く首を傾げた。
 時刻は十二時近い。
 いつも通りであれば、彼女はそろそろ寝に行くはずだ。
 その前に白黒はっきりつけておきたい。
 彼女は私が静かな曲を扱っているときにはオルガンの横に置いている寝椅子にクッションをあてがい、それで背を支えてお気に入りの本を読んだり、簡単な手芸をするのが常であった。
 一人で何かしているのは退屈らしい。
 今もそうなのである。
 彼女は真面目な話があると思ったらしく、読んでいた本にしおりを挟んで閉じると、身を起こして真っ直ぐこちらを見た。
「確認したいことがあるのだが、日本では夜に風呂に入るのが普通なのか?」
「は? ……ええと、そうね。ほとんどの人はそうだと思う。人によっては朝に入る人もいるみたいだし、朝と夜二回入る人もいるみたいだけど」
 唐突な質問に、怪訝そうな表情で彼女は眉根を寄せる。
「そうか。やはりな」
「それがどうかしたの?」
「お前がいつもそうしているから、不思議に思っていたのだ。なぜ夜に?」
「なぜ夜って……なんで? 当たり前のことじゃないの?」
 彼女はますますわけがわからないという表情になった。
「こちらでは朝に入るのが普通なのだ。まったく夜に入らないというわけではないが……。ひどく汗をかいてしまった時などにな」
「でも、ここは温度が一定だし、汗をかく機会もそうそうあるわけじゃないけど、それでも一日過ごしたそれなりに身体は汚れているものだと思うんだけど……。第一そのまま寝たらナイトガウンもシーツもすぐに汚れちゃうじゃない」
「汚れてもいいようにシーツを敷いて、寝巻きを着ているんだろう?」
 言うと、彼女は目を丸くしてひどく驚いた。
「えぇ!? そういうものなの? でも……」
 うーむ、と腕を組んで考え込む。
「でも、わたしはやっぱり夜の方が慣れてるし……。変えなきゃいけないの?」
 ややあって、彼女は困惑したように額に手を当てた。
「まあ、君の時代では電気照明が普及しているのだから、朝でも夜でも変わらんだろうが」
「あ、そっか。この時代じゃ夜に入るのは暗いもんね。そういうことなら、わかるわ。でも、それなら尚更朝でも夜でもどっちでもいいんじゃないの? ここはいつでも暗いじゃない」
 一体、何の問題が? と彼女は首を捻る。しかし次の瞬間、はっとしたように顔を上げて、
「あ、毎日お湯を使ったのがまずかった? 薪代が大変だとか、持ってくるのが重いとか……」
「そんな些細なことは気にするな。湯くらい好きなだけ使えばいい。問題なのは……」
 彼女は肝心なことにはまったく気付かないようで、私は軽く落胆した。
 ああ、やはり全部言わなければならないのだな……。
 私は咳払いを一つして、
「どうして風呂を使った後にまた居間に来るのだ、ということだ。後は寝るだけならそのまま自分の部屋にいればいいだろう?」
「どうしてって、髪が濡れてるんだもの。乾くまでの時間って、中途半端だし、一人でいるのってつまらないんだもん」
 あっけらかんと彼女は答えた。
 私は頭を抱えた。
「ねえ、エリック。何が言いたいの?」
 は私の顔を覗きこんでくる。
 こちらこそ聞きたい。どうしてわからないんだ。
「夜にお風呂に入るのが駄目なの?」
「いいや」
「じゃ、お風呂上りに居間にいるのが駄目なの?」
「別に、駄目ではない」
「じゃあ……」
「まともな格好をしていないことが問題なんだ」
 は一瞬ぽかんとして、次には自分の格好を見下ろした。
「つまり、これでは駄目だと」
 彼女は自分の着ているドレッシングガウンを摘んだ。
「そういうことだ」
 私は頷いた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 彼女は夕食の後には風呂に入り、寝るまでの間をナイトガウンの上にドレッシングガウンを羽織った姿で過ごしている。
 身体を締め付けるものは何も無く、自然なラインがゆったりとした寝衣越しにもよくわかるのだ。
 まじまじと見ないようには務めているが、私とて石で出来ているわけではない。自然とそちらに目が行ってしまうことも、一度や二度ではなかった。
 身内の男であっても、女性が寝衣姿などそうそう晒すものではないというのに。ましてや私たちは他人同士なのだ。
 しかし彼女は恥ずかしがるわけでもなく平然としているので、これは日本ではなんということもないのだろうと自分に言い聞かせたが、培われた習慣はそうそう払拭できないものだ。
 案の定彼女は、
「えっと、よく、わからないんだけど、エリックはわたしがこの格好でいるのは恥ずかしいのね?」
 真面目な顔でそう言ったのだ。
「わたしからすればナイトガウンは足首までの長さがあるし、ドレッシングガウンだってこんなに袖が大きいし、かなりしっかり着てると思えるんだけど」
 そんなことだろうと思ったさ。しかし、羞恥心に関する世代差――民族差かもしれん――というのはずいぶん大きいものだと思わざるを得ない。
 今回はこれで何とか片がつきそうだが、はたして次はどんなことに頭を抱えることになるのか……。
「まあ、そういうことだ。例えばだが、君だって私が風呂上りにパジャマ……寝巻きでここをうろついたら、嫌だろう?」
「別に? 素っ裸でさえなければ……」
 ……そうか。
 根本的に考え方が違うようだ。
「エリックは一人で暮らしていた頃にもそんな風にきっちり決めてたの? 面倒くさくなかった?」
 私は肩をすくめ、
「出来る限りはきちんとするように心がけていたよ。こんな暮らしだ、何でもありだということにすれば、たちまち自堕落になってしまうのは目に見えていたからね」
「そっか。すごいね」
 の素朴な賞賛に苦笑する。
「すごくなどない。そうするしかなかっただけだ」


「ところで」
 は先ほどまでのしんみりした口調を払拭し、人差し指を立てて詰め寄ってきた。
 目が好奇心できらきらしている。
「……どうした?」
 嫌な予感を覚えつつ、問うと
「エリックは寝るときパジャマなの?」
「ああ。パジャマを知っているのか?」
 男の寝巻きに興味など持つんじゃない、と思いつつも返答だけはする。
 この時代、男が寝るときに着るのは丈の長いシュミーズだ。女性のもののようにレースやフリルはついていないが、基本的な形は同じである。
 だがあれはどうにも頼りなく思えるし、睡眠時間は最も無防備になる時間である。この時を狙われたら防ぎきれないだろう。
 ただでさえ生きるために多くの敵を作ってきたのだ。いついかなる時でもすぐさま行動を取れるようにしたい。そう考えてのパジャマ着用である。幾重にも罠を仕掛けた安住のこの地に住まうようになっても、その考えは変わらなかった。
「いぃ〜〜〜なぁ〜〜〜」
 私がしんみりと過去を思い返しているのをぶち壊し、彼女は身を捩って羨望の声をあげた。
「……?」
「いーなー。いーなー。わたし、ずっとパジャマだったのよ。これ――と、ナイトガウンの裾を摘んだ――はこれで可愛いけど、わたしあんまり寝相が良くないから、朝になるとよく捲くれているのよね。わたしもパジャマがいいなぁ〜〜」
 捲れ……。
 っ、いかん!想像するんじゃない!!
「エリック」
 がしいっと彼女は私の腕を掴んできた。
「わたしもパジャマがほしいです。寝室でしか着ないなら、ナイトガウンだろうとパジャマだろうと問題はないはずよね?」
 彼女は熱い眼差しで私を見つめた。
 どうせなら、もっと色っぽい理由で見つめてほしいものだが……。
「一応言っておくが、あれは売っていないぞ」
「そうなの? ああ、そうよね、わたしもパジャマの宣伝って、見たことないもの。そうなったら……作るか」
 うん、と彼女は頷いた。
「できるのか?」
「平気平気。家庭科の授業で作った事あるもの。あの時はミシン使ったけど、別に今日明日までに作らなきゃいけないわけでもないし、じっくりやるわ。……そうだ」
 にっこり、と笑って、
「参考にしたいから、エリックのパジャマ、貸してくれる? 替えくらいあるわよね?」
 と両手を差し出してきた。
 頭を抱える事態は意外に早くやってきたなあ、と頭の片隅で思いながら、私はこっそりため息をついた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 まだ袖を通していないパジャマを渡すと、気が済んだのか彼女はさっさと自室に戻ってしまった。
 今日もまた彼女に振り回された。
 気を落ち着けるためにブランデーを落とした紅茶を入れると、思わず安堵の息が漏れる。
 と、パタンとまた彼女の寝室の扉が開く音がし、
「エリックちょっとお願い。肩の位置調節したいから、待ち針刺してくれない?」
「なん……だあっ!」
 目を向けた途端、驚きのあまりにカップを落とすところだった。
 あの子は……こともあろうに、パジャマを着て戻ってきたのだ!
 私のサイズだ、当然ながらぶかぶかである。
 ああ、それに、スタンドカラーなのだからきちんと上までボタンを嵌めればいいものを、どうして途中でやめてるんだ。
 お前は私と自分の身長差というものを考えたことがないのか!?
 なんて、心臓に悪い……。





どうせなら上だけパジャマにしたかった……。
これは例の「エリックって、寝るときに何着てるんだろ」アンケートの結果の産物です。
だんだん傍若無人になってきてるな、カノジョ……。



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