は珍しく遅く起きてきた。
それは遅い時刻に床についたからなので当たり前といえば当たり前のことなのだが。
昨日の騒動のせいで、二人とも起きたのは昼近い。
普段から不規則な生活をしている私と違って、は調子が悪いようだった。
時刻で言えば昼食の、だが最初の食事なので朝食と呼んだ方がいいかもしれない食事を済ませると、は気だるそうに肘掛け椅子に座った。そのままおとがいを上げて目を閉じている。
いつもと同じくらいの時間は寝ているはずなのに、妙に眠たいのだそうだ。
こんなことになった責任の半分は私にもあるので、今日は勉強は休みにしてゆっくり過ごさせることにした。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「エリック、ちょっといいかしら?」
なんとなく彼女と一緒にのんびりと過ごしていると、ふいに声をかけられた。物思いに浸っているようで、どことなくぼんやりしているように見える。
「なんだい?」
「夕べのお詫び……というかお礼をちゃんと言いに行きたいと思うんだけど。マダム・ジリーとベルナールさんとカーンさんに」
人差し指をくるくる回して、彼女はそう提案してきた。
しかし、マダムはともかく、ベルナールとナーディルは……。
ベルナールは使用人なのだから、主人のために骨折りをするのは当然である。事によっては昼夜の別なく仕事を言いつけているが、それを見越して高額な給料を与えているのだ。
それからナーディルについては、彼女が今日ぼんやりしている責任の半分はこの男にあるので、やはり礼の必要はないと思う。
そう言うと彼女はぷうっと頬を膨らませ、
「エリックにはそれでもいいかもしれないけど、わたしが嫌なの! 真夜中までずっとあちこち探し回らせてしまって。そりゃあ、わたしが早とちりしなかったり、エリックが事前にカーンさんのことを教えてくれたりすれば避けられたことだけど」
そう言われては二の句が告げない。
ああそうだ。悪いのは私だとも。
は両肘をついて指を組み、私の反応を待っていた。
涼しげな印象のある彼女のアーモンド形の目に見つめられると、いつも緊張してしまう。
そのことが知られないように厳しい態度を取ってはいるが、バレやしないか戦々恐々としていることはここだけの話だ。
「まあ、それでお前の気が済むのなら」
構わないだろう、と言おうとした瞬間、私は一つの可能性を思いついた。
「まさかと思うが、ベルナールやナーディルの家を訪ねたいのか?」
彼女は礼をしたいのだと言った。となれば、やはり相手の家を訪問したいと思っているのかもしれない。
しかし、その考えは杞憂だった。
彼女はふるふると首を振る。
「そうしたいのは山々だけど、お二人の、あ、ベルナールさんとカーンさんのことだけど、ご家族や、この時代だと使用人がいるのが普通なのよね? そういう人たちにエリックのことを教えないようにしているのなら、それはやめておくわ」
私が安堵したことに気付いたのだろう、彼女は唇の端をあげて微笑む。
「ベルナールさんなら毎日朝と夕方に入り口のところに来るのだし、カーンさんだって、エリックは毎週会ってるんでしょう? だからその時でいいわ。マダム・ジリーにはオペラ座に会いに行けばいいし。ね、いいでしょう?」
彼女は小さく首を傾げた。
可愛い……。
「まあ、それなら、な」
もしかしたら少し頬が赤くなってしまったかもしれない。居間はそれほど明るくないので、注意しなければ気付かないとは思うが。
「それでね、お菓子とか、果物とか、何か差し上げたいなあと思うんだけど、変かしら?」
は楽しげに訊ねてきた。
「……いいんじゃないか?」
答えながらも私は気分が沈んでゆくのを感じた。
贈り物か……。
それが儀礼的なものであるのはわかっているが、羨ましさを覚えてならない。
一度でいいから彼女から私のことを思って選んだ贈り物をされたかった。
もしもその願いが叶うのなら、品物などどれほど妙なものであっても構わないのに。
私の気持ちなど知らぬ気に、彼女は話を続けた。
「マダムはメグちゃんと二人暮らし? 家族構成がどうなってるかで買う数とか物とか変わるものね。知っておかないと」
メグちゃんというその親しげな様子に、少なからず驚いた。一度しか会っていないはずなのだが、もうそんなに親しくなったのだろうか?
まあ、年もそう離れているわけではないし、女同士なので無理もないかもしれないが、それにしても普通の人は、彼女のように易々と新しい人間関係を作れるものなのか……。
自分にとっては夢のまた夢。のような者は男であれ女であれ、二人といないだろう。誰が好き好んで化け物のような男と親しくなりたいというのか……。
「エリック?」
黙り込んだ私をいぶかしんだ彼女が心配そうに見つめていた。
「ああ、なんでもない。たしかにマダムは娘と二人暮らしのはずだ」
「そっか。女二人ならやっぱりお菓子か果物か……。ベルナールさんとカーンさんは?」
「ベルナールは大家族だよ。細君と子供が……三年前から増えていなければ九人いるはず」
「九人!? 九人も子供がいるの!?」
は素っ頓狂な声をあげ、目を丸くした。
「それって、この時代では普通なの?」
「少し多いらしい」
世間一般の平均など知る芳もない私だが、わずかに見聞きしたことから判断して答えた。
ベルナールについては、少しは考えて生活設計をすれば良いのに、と嫉妬混じりで思ったことが何度もあったのだ。
細君にはオペラ座が完成する前の十数年間の間に会ったことが何度かあるが、彼女はひどく私を恐れていた。そのせいでベルナールとの仲が上手くいかなくなったらしいのだが、それでも夫の訪問を拒んでいないあたり、決定的な仲たがいをしたわけではないようだ。
神と法の前で誓う完璧な結婚。
それは私が長い間、求めてやまないことだった。
同時に、決して叶うことはないと諦めていた望みだった。
「それにしても、奥さんと本人を合わせて十一人家族かぁ……。すっごいわねー。わたしの時代の日本だったら、密着取材されてるわよ」
感心したようには何度も頷いた。
本当に、彼女は表情がよく変わる。
再び沈み込みそうになった私は、考え込むのが馬鹿馬鹿しくなって苦笑した。
妻でも恋人でもないが、私にはがいる。彼女は私と向き合っても恐れたりしない。それがどれほどありえないことか、今更考えるまでもないことではないか。
「それだけ大勢なら……。ね、エリック」
「なんだい?」
「もし良かったら、明日、品物を選ぶのに付き合ってくれないかしら? ベルナールさんとの付き合いは長いんでしょう? どういうものが好きか、あなたならわかると思って」
「、それは……」
私と一緒に買い物に行こうというのか?
驚くよりも先に呆れてしまった。
恐れ知らずも極まれり。こんな男と一緒に出歩いたりしたら、どんな思いをさせてしまうか……。
不躾に見られ、眉を潜められ、こそこそと囁かれる。悪口、雑言、およそ愉快な話など聞こえるまい。
私とてと一緒に太陽の下を歩いてみたい思いはある。しかし人気のあまりない公園を歩くのとはわけが違うのだ。
「無理にとは言わないわ。わたしと一緒に歩いたりしたら、不愉快な思いをさせてしまうのは目に見えてるもの」
「……何?」
あまりにもあっさりと言ったので耳を疑ってしまったが、彼女は……もしや……。
「日本人て、珍しいみたいなのよね。わざわざ通りの向こうから顔を覗きに来たりする人もいるの。動物園の珍獣扱いよ」
澄ましたように言っているが、気分が良いはずがない。『珍獣扱い』される辛さは、私の方が良くわかっている。
ああ……。
だからだろうか。
人びとの好意的とは言えない視線が飛んできても、それは自分に向けられているから私は気にするなと?
そう言ってくれているのだろうか?
「それはこちらの台詞だよ、。私と一緒にいれば不愉快な思いをさせてしまうのだが……ね?」
ふいに鼻の奥がつんとなったので、誤魔化すように明るい声を出した。
こういう不意打ちのような気遣いに、情けないほど私は弱かった。自分がどれだけ優しい感情に飢えているのか、否が応にも自覚させられてしまう。
私は泣きそうになっているのを悟られないように、唇を引き締めた。
「行ってくれる?」
「ああ」
「良かった」
本当に嬉しそうに笑う。
こんな時、自分が彼女にすべて肯定されているような錯覚に陥ってしまう。
危険だ……。
「それで、カーンさんは何人家族?」
「一人暮らしだ。召使いが一人いるが」
話が変わったことにほっとしていると、またもや彼女は得意の無自覚の爆弾を破裂させた。
「男の人の一人暮らしか……。それなら、お酒とかの方がいいのかしらね。ワインとか」
「それは駄目だ」
速攻で却下した。
知らないだけだろうが、この場にナーディルがいなくて良かったと心から思う。
「なんで?」
「彼はイスラム教徒だから」
「ああ!」
するとは一拍置いてから手を打ち合わせた。
「そういえば、聞いた事があったようななかったような」
「どっちなんだ」
「イスラム教って、キリスト教以上に馴染みがないんだもの。詳しいことは何も知らないの。でも、そっかぁ、日本と違って、こっちは宗教の問題も色々あるのね」
日本と違って、という言葉に違和感を覚えた。「わたしの時代では」という言い方はよくあったが、このような言い方は初めて聞いたように思う。
「君は何教徒なんだ?」
彼女は一瞬言葉に詰まったように口をつぐみ、うーん、とかあー、とか呟やく。
ややあって、
「大雑把に分ければ……仏教徒になるのかなあ……」
なんだろう、この自信のなさそうな答えは。目が胡乱だ。
「皆が皆とは言わないけど、日本人はあんまり宗教熱心じゃないのよね。新年には神社に行くし、あ、神社は日本に昔からあった宗教の神殿のことだけど、それから春と秋の彼岸やお盆にはお寺に行って墓参りしたり、あとクリスマスもやってる」
ものすごくごちゃ混ぜだな。
「特定の神様なり仏様なりを信仰してるわけではないのよね……て、こういう風に言っちゃうと、ただのいい加減のように聞こえるわよね。うん、だから、ごめんなさい。わたし、宗教談義はできないわ」
彼女は両手を合わせて済まなそうに目を閉じる。
「気にする事はないよ。私もそう熱心な信徒じゃないからね」
「エリックはやっぱりキリスト教徒?」
「……ああ」
「カトリック? プロテスタント?」
それくらいは知っているのだな。
先ほどの話があったので、やや意外に思いながらも答えた。
「カトリック」
しかし私が受けたのは幼児洗礼のみ。初聖体拝領を受ける前に家を飛び出したのでそれ以降は何もしていない。それに、教会をまともに訪ねたことはなかった。母は私を外へ連れてゆく事は一度としてなく、洗礼も毎週のミサも神父が家にやってきて行っていたのだ。それでも教会を見てみたくて、夜中にこっそり訪れたことはあったけれど……。
「それで、話は戻るんだけど、エリック」
の声で我に返る。
「うん? どこの話だね」
「お世話になった方にお礼をして回るという話」
と彼女は人差し指を立てた。
「ああ……。ナーディルも菓子でいいだろう。それで、明日買いに行くんだね?」
「ええ。それから、もう一人いるんだけど……」
「もう一人? 誰だ?」
他に関わった人間はいないはずだが……。
マダムの娘だろうか。個人的に親しくなったようだから。
は肘を突いていた両腕を下ろして両手を組んだ。
思いつめたような面持ちで、わずかに俯く。
しかし意を決したのか、すぐに顔を上げた。
「エリックのことよ」
「……私に?」
向けられる、湖面のような眼差し。
「うん。今回のことがあったからってわけじゃなくて、本当は前から考えていたの。エリックには本当に何から何までお世話になっているし、お礼をしたいなって。だけど、実際、わたしに何ができるかっていうと、何もできないのよね。自分のものなんて、ここに来た当初に着てた服くらい。働くのは抵抗がないけど、わたしが一生働いても返せないじゃないかっていうくらい、エリックはわたしのために散財したでしょう? 現実的に考えて、お金で返すのは無理だとも思ったの。せめて贈り物をしたいなって思ったけど、そのためのお小遣いだってエリックからもらっているものだもの。これじゃあ、お礼にならないじゃない」
は組んだ親指をもじもじと動かしながらとうとうと続ける。
「それで、八方塞がりになっちゃって、恥ずかしいんだけど、直接聞こうって。で……ねぇ、あなたのためにわたしが出来ることはないかしら?」
私のために?
私のために?
信じられない気持ちで、何度も反芻する。
ああ、私は彼女に思われている!
それは天にも昇る心地だった。
「何か、ないかな?」
は私の反応を窺うように目を上げた。
私は感動に打ち震えながらも、理性を総動員して紳士の仮面を被り続けた。
「ここにいてくれるだけでいい。お前がいれば、楽しいのだよ」
「いや、だから、それだけだと心苦しいんですってば」
「しかし、他には何もないよ」
「本当に……?」
念を押してくる彼女に、私は力強く頷いてみせた。
「ああ」
それは嘘だった。
望みならある。
だがそれを口には出せない。
彼女がもし私の心を読むことができたら、私に近づこうとはしないだろう。
彼女に触れたい。
抱きしめて、キスをして、身も心も私のものにしたい。
愛したい。
だが、それ以上に彼女に愛されたいのだ。
飢えにも似た願望は、夜毎に夢を見させる。
彼女の胸に抱かれてまどろむ夢だ。
私は裸の胸に仮面を外した顔を埋め、円やかな曲線を描いている胴に腕を回す。
彼女はそんな私の頭を、背を、愛撫してくる……。
しかし目が覚めるとあっという間に甘やかな情景は消え去り、空しさだけが残るのだ。我が欲望の犠牲になっているとも知らず、生身の
は私に笑いかける。そのたびに、私は自らを嫌悪してやまない。
は私を好いている。
それは確実だ。
だが男として愛されていると思うほどには自惚れてはいない。ただ、過去の世界に放り出されて最初に見た年長者が私であったということだけだ。刷り込みされたひよこのように、慕っているに過ぎない。
それでも、義務感からでも同情からでも、私を受け入れてくれるのではないかという期待が生まれるときもある。
の来訪は神の恩寵。
彼女が私の住処へ現れたこと、私を恐れないことがその証拠。
とはいえ、悪魔の悪戯という逆の可能性もあった。
期待を持たせ、行動させ、その結果、とんだ思い上がりだと撥ね付けられてしまうかもしれない。
私の想いが重荷だと、出て行ってしまうことも考えられる。
それくらいなら、今のままでいた方がいい。
行動を起こすべきか否か。
真実はどうしたらわかるのだろうか……。
日常その13に続く
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