良くない兆候だ。

 居間のソファに仰向けになりながら、わたしはぼんやりと考えていた。
 なんだか気が滅入っている。
 なにもやる気が起きない。
 それでもって、わたしが元々いた二十一世紀とは違って、エリックの地下屋敷では、なにもしたくなければ本当に何もせずに済むというところに問題があった。
 学校に行くとか仕事に行くとかがあれば、いくらやりたくないからといってもおいそれと休むわけにもいかない。
 それにもし、わたしが専業主婦だったとしても、家事とか育児とかご近所付き合いとかで、やっぱりやらなければならないことがたくさんあっただろう。
 だけどここでは、本当の意味でわたしがしなくてはならないことはほとんどないのだ。
 なにしろ学校には行っていないし仕事はないし、家事やなんかは基本的にエリックがやると言って聞かないし。
 フランス語の勉強も、もう毎日ガリガリとする必要もなくなり、このところ、時間を持て余していたのだ。

「はー……」
 思わずため息が漏れる。
 しかしそれはすぐに沈黙にかき消された。
 ここはとても静かだ。
 だから、エリックがいない時間は、とても寂しい。
 耳に痛いほどの静寂を和らげてくれるのは、時計の針が動くカチコチという音だけ。
 だがそれすらも、ずっと意識を向け続けてゆくと、なんだか怖くなってくる。
 自分が世界中から見捨てられ、忘れられているような感じがする。
 ここにいる自分は本当の自分なのだろうか。なにか、良くない夢をずっと見続けているのではないだろうか、なんて考えてしまう。
 だけどこの静けさこそがエリックには必要なのだ。
 どこへ行こうと何をしようと、奇異の目を引かずにはいられない彼が自分の身を守れる唯一の場所。
 それでも、思ってしまう。
 こんな静けさの中にいて、エリックは寂しくなかったのか、と。
 ……まあ、その生活をぶち壊したわたしには言われたくないだろうけどね。

 ああ、この傾向は良くない。
 夜中に考え事をするのと同じだ。
 妙に感傷的になって、感情がセーブできなくなっている。
 こういう時は散歩にでも行くのが一番だ。
 ウインドウ・ショッピングでもいい。
 とにかく外にでかけて太陽の光を浴びるのだ。
 引きこもっているのは肉体的にも、精神的にも、よろしくない。
 でも……。
(どうしよう。なにもする気になれない……)
 時刻は昼を過ぎたところ。
 外に出てないからお天気はわからないけど、たとえ雨や曇りだとしても、外の空気を吸えばそれだけでも気は晴れるに違いないのだが、何だかとにかく何もしたくないのだ。
 外へでかけるための着替えをするのも面倒なら、階段を昇るのもおっくうだ。
 気分が乗らない。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 そのままぼうっとしていると、扉が開くときの軋みが聞こえた。
 続いて密やかな足音がする。
(エリック、起きてきたんだ)
 わたしは目を閉じて彼がどう動いているか、耳を澄ませて想像した。
 エリックはその気になればまったく足音をさせずに歩くことができる。そうしないのは気を緩めている時だ。
 エリックの足音は彼の部屋から居間の奥に向かった。段差になっているところを昇ったのだろう。少し音が大きく、リズミカルになった。
 パサリという軽い音は、昨夜の成果をオルガンのそばの机に置いた音か。
 だとしたら、それは楽譜ではなくなにかの設計図のはずだ。
 今度は何を思いついたのか知らないけれど、一昨日からずっとかかりきりだったのだ。
 一瞬、沈黙が漂う。
 エリックが身じろいだ気配がした。
 そして大きく息を吐く。
 わたしのよりも大きなため息が居間の空気を震わせ、散った。
 また沈黙した。
 そして再び歩き出す。
 まっすぐにこちらへ来ているようだ。

 呼びかけられたので目を開けると、身を乗り出すようにして足元の方から覗き込んでいたエリックと目があった。
「いたのだね。てっきり、散歩に行っていたのだと思っていたよ」
 茶化したような口調だが、眼差しには嬉しげな色が滲んでいる。
 まあ、こんな時刻にわたしが家にいるのは確かに珍しいものね。
 エリックが何かに熱中している時は特にそうだ。
「……気分が乗らないの」
 答えると、彼は仮面に覆われていない方の眉をあげた。
「珍しいこともあるものだね」
 前にまわって膝をつき、わたしの額に手を当てる。
「少し顔色が悪いようだな。熱はないようだが……」
「病気ではないわ。気分の問題だと思う。たまにはエリックにだってあるでしょ? 何もしたくない時が」
 わたしはエリックの手をやんわりと外そうとした。
 しかし彼はもう片方の手でわたしの手を捕らえる。
 手袋を嵌めていないエリックの手は、乾いていてほの温かい。それが額から頬にすべり、顎の下に指をかけてくる。
 ……恥ずかしいんですが、その仕草。
 アイシャですか、わたしは。
 ひとしきりわたしを構い倒すと、エリックは自分の分の昼食――実質一食目なので朝食というべきか――の用意をしにキッチンへ行ってしまった。
 開け放たれたままの扉の向こうから、彼が作業をしている音が聞こえてくる。
 何かをテーブルに置いた低い音。細かく切り刻む、かすかな連続音。
 調理器具がぶつかったのだろう、金属的な高い響き。
 その合間合間に石の床を踏む靴音が混じる。
 なんてことのない生活音。それだけのことなのに、なんだかもやもやしていた胸の中が少しすっきりしてきた。自分でも顔が笑ってくるのがわかる。もっとよく聞き取ろうと、肘で身体を支えるようにして半身を起こした。
 熱されたフライパンが食材の水分を飛ばす一際大きな音がし始めると、バターの香りが漂ってくる。
 わたしはむっくり起き上がると、急いでキッチンに向かった。
 エリックはガウン姿のまま、エプロンもしないでレンジに向かっている。あーあ。きっと袖口なんか、バター臭くなったはずだ。しっかり洗わないと取れなくなるのに。まったく、こういうことには無頓着なんだから。
? どうした」
「コーヒーを淹れようかと思って。わたしも飲みたいし」
「ああ、頼んだよ」
 小さく頷くとエリックは作業に戻った。
 下ごしらえをしたりできあがった料理を置いておくための小さなテーブルの上には、すでにコーヒーミルがあり、豆も挽いてあった。なら、あとはお湯を注ぐだけね。

 用意できたものから食堂のテーブルに移していると、ほどなくしてエリックがおいしそうに湯気をあげるオムレツを持ってきた。
「わたしも少し食べようかな」
「食事をしていなかったのか?」
「あんまり食欲がなかったから……。朝に軽く食べただけだったの」
「まったく……」
 エリックはちょっと顔をしかめてみせたが、オムレツを半分に切り分けて皿に移した。
 あ、中に玉ねぎとベーコンが入ってる。
 タルティーヌも少しもらって、わたしたちはテーブルについた。


「エリックはこれからどうするの?」
「そうだな、着替えてオペラ座を観てくる。それから……夕方になったら出かけるつもりだ。遅くなると思うから、夕食は先に食べていてくれ」
 今度は出かけるのか……。
 オペラ座の見回りには連れて行ってもらえない。またお留守番かあ。
「夕方に出かけるのって、オペラを見に?」
「いや、実験に必要なものがあるので、その注文をしにな。少々特殊なものだから、直接部品を作れる職人の家に行くのだ。住宅が密集しているところだ、昼間では目立ってしまうのでね」
「ふうん」
 こういう外出にも、連れて行ってはもらえない。
 うう、久しぶりだったのに。
 エリックと一緒に食事するのもまともに会話するのも、久しぶりだったのに……!
 このところ、作曲だ実験だ脅迫だ(?)と、忙しくてあんまり構ってもらえない。
 彼はサラリーマンみたく、定時に出勤したり帰宅したりするわけじゃないから、時間があるときは本当に四六時中くっついていられることもあるけど、同じ家に住んでいるというのに、会えないときには本当に会えないのだ。もう少し待てば一段落ついて、また一緒に過ごせるはず。
 わかってはいるけど。
 この現状は、ものすごく、不満だ。
?」
「ん、なあに?」
 タルティーヌのかけらをコーヒーで流し込んでわたしは答えた。
「やはり何かあるのではないかね? そんなにふくれ面をして」
「え、ふくれ面になってる!?」
 わたしは思わず自分の頬を抑えた。いけないいけない。そんな顔、見せるつもりはなかったのに!
 エリックはチラッと笑みを浮かべて立ち上がった。
 見ると、向こうの皿はすでにカラになっている。もう食事は終えてしまったようだ。
「さあ、お嬢さん。不機嫌な理由を教えていただけないかね?」
 テーブルに片手を置き、もう片方の手は椅子の背にかけ、エリックが身をかがめてわたしを覗き込んでくる。
「不機嫌って……」
「そうだろう? いつもよりそっけないじゃないか。笑ってくれもしない」
「そ、そう……?」
 心持ち後ろに背をそらすと、エリックはさらに詰め寄ってくる。
「何かあったのか? それとも……私が何かしてしまったのだろうか」
 俯き加減になった拍子に、仮面の目の部分の切り込みが影になり、髑髏の眼窩のように見えた。仮面に覆われていない左の目は悲しげなものを滲ませている。
「本当になんでもないの。ただちょっと退屈が過ぎたんだろうなあって、あはは……」
 気にさせないようにことさら明るい調子で言ったものの、エリックは複雑な表情になった。
「あ、ああ。すまない。ずっとお前を放ってしまったからな」
「エリックのせいじゃないって。それに、結構やる気も戻ってきたし、これからでも散歩してこようかなって……」
 だがエリックは考え込む様子を見せたので、その気まずい沈黙に耐え切れず、時間稼ぎにとコーヒーカップに手を伸ばした。
 そのまま口をつけようとして――。
は寂しかったのね
 わたしは思わずのけぞった。
 コーヒーカップがしゃべったのだ! しかも高めの女の人の声!!
 いやしかし待て、常識的に考えて、コーヒーカップがしゃべるはずがない。
 こんなことが可能なのは……。
「エリック! もう、びっくりするじゃない!」
 勢いよく立ち上がると、エリックは後ろに下がった。
「どうかしたのかね?」
「何ってコーヒーカップよ、あなたがやったんでしょ!」
「私は何もしていないが?」
 エリックは場違いなほど生真面目な表情で肩をすくめる。
「あなたの腹話術でしょう? 誤魔化そうとしても――」
 詰め寄ろうと椅子の背もたれに手をかける。と、
エリックはひどい男だ。恋人を放って、自分だけの世界に閉じこもっている
 椅子が、しゃべった……。
 今度はエリックの声よりずっと低い男の人の声。
「……」
 思わずエリックを凝視する。
 何が驚くって、エリックはわたしの前にいるのに、声はちゃんと椅子のある横からしてることだ。
「腹話術なんでしょう? ねえ……」
 手を、テーブルの上についた。
 すると今度はテーブルクロスの裾がひらひらと動き出し、
「わたしは片方だけが綺麗! なぜって、エリックはここで食事を取らなかったから! わたしを使ったのはだけだから!」
 中年の女性のような声。
 ていうか、動いてるよ、裾。いつの間にタネを仕込んだんだ、この人は。
 きっと糸かなにかで引っ張っているのだと思ってテーブルクロスを探ってみたのだが、それらしいものは見当たらない。
「おっかしいなぁ。絶対仕掛けがあると……」
 思ったのに、と言おうとした時、今度は胸元を飾っていたリボンがしゃべりだした。
「さあ、言ってごらん。エリックに。『もっと構って』って!」
 エリックの声で。


「やあぁぁっ!!」
 わたしは思わず食堂から逃げ出した。
 なんてゆうか、いきなり裸に剥かれて触られたような気分だ。
 恥ずかしい。恥ずかしすぎる……!

 居間の中央まで一気に走り、座り込んだ。
 いや、座ったのではないな。精神的ショックが大きすぎて立っていられないのだ。
 走った距離はさほどないのに、胸はばくばくするし喉はからから、息は上がって全身からは嫌な汗が出てきた。
 どうしちゃったんだ、エリックは。
 だが落ち着く間もなく今度は足元から声が……。

 今度は絨毯ですか。

 さすがに絨毯は大きすぎたのか、声は一部からしか聞こえないように感じる。
 なので絨毯を敷いていないところまで避難すると、声はピタリと止んだ。
 遊んでるでしょう、エリック……。
 と、ここでようやく気がついた。
 エリックはわたしと(というか、わたしで、かな)遊んでいるのだ。
 退屈と言ったせいだろうな、これは……。
 食堂に通じるドアを振り返ると、エリックが扉の枠によりかかってこちらを見つめていた。
 口元にはしてやったりという笑みが浮かんでいる。
 ふ、ふふ。
 遊んでくれるというのなら、とことんやってもらいましょう。
(さっきからしゃべっているのって、どれもわたしの手が触ってたものばかりよね……)
 最初はコーヒーカップ、次が椅子の背もたれ、その次がテーブルクロス、そして座り込んだ拍子に両手をついた絨毯。
 それならば、とわたしはさりげなく暖炉の前に移動した。
 暖炉のマントルピースには、雑多なものが置かれているのだ。
 わたしはおもむろに置時計を取り上げた。
 すると、飾りとしてついている小鳥がさえずり始める。
 鳴き真似もできたんだ、と思いつつ、それを置くとピタリと止まる。
 二つ一度に触ったらどうなるのだろうかと、水彩の風景画が入っている小さな額と白磁の壺を掴んでみると、今度は五人くらいが一斉にしゃべりだした。
 ……どちらにも小さくだが、人物が描かれているのだ。
 くっそう、と思いつつ、暖炉から離れようとしたが、薪がほとんど灰になりかけているのに気付いて新しいものを入れようと一本掴んだ。

 なにかするだろうなぁと思っていたが、期待に違わず、薪は燃え盛るほどに自分の身が灰になる哀愁をコミカルに歌いだした。
(ネズミーアニメみたいになってるよ、エリック……)


 そこからはもう、お互い意地になったとしか思えない。
 わたしはとにかく手当たり次第に色々触り、エリックは声音を変えてそれをしゃべらせる。
 なんとなく、一度触ったものにまた触れたら負けのような気がしたので、重複しないことだけ気をつけて、あっちこっちと手を伸ばす。
 もちろん、エリックが負けになるのは、わたしが触れたものをしゃべらせる事ができなかった時だ。
 壁はオペラ座が重くて頭が痛いと叫ぶし、花瓶はもっと花を生けてと涙声。
 ランプは我こそがここの太陽なりと豪語し、戸棚は整理整頓と連呼する。
 高い声、低い声、太い声、細い声。
 子供のような舌足らずなものから、驚くほどの早口に、小さな囁きと耳を覆うほどの大声。
 それらが次々に重なっては消えてゆく。
 それは調和、不調和を問わず奇妙な美しい調べのように室内を満たしていった。


 夢中になって駆け回っているうちに、普段は近寄らないエリックの聖域入り込んでしまった。
 彼が大事にしているオルガンの鍵盤をポンと鳴らしてみる。
 と、勝手にオルガンが曲を奏で始めたではないか。
「えええっ!?」
 驚いた拍子に飛びすさる。
 エリックってば、オルガンにも仕掛けをしていたの?
 まさか、電子オルガン、てことはないわよね……?
 じいっと眺めていると演奏が止まり、「たまにはレッスンでもいかがかな?」とわざとらしすぎる厳しい声で誘いかけてきた。

「……ぷっ」
 もう駄目だ、降参!
 さっきから堪えていた笑いが抑えきれなくなり、わたしは力尽きるまで笑い倒した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「あぁ、笑いすぎて頬っぺたとお腹が痛い〜」
 マッサージをするようにわたしは両方の頬をさすった。
 こんなに笑ったのは久しぶりだ。
 まだ息があがっている。おまけに涙まで出てきた。
 いつの間にかそばまで来ていたエリックも、肩を揺らして笑っている。
「もう終わりかな?」
「うん。もう降参。参った。だけど本当にすごかったわ、エリック」
「喜んでいただき、光栄至極」
 彼は幕が降りた後の役者のような恭しい礼をした。
 うん、そうだ。これは不意打ちで仕掛けられたショーなのだ。
 わたしはこの素晴らしい出し物に、惜しみなく拍手を送った。
「では、盛大な拍手への礼に、もう少しだけ」
 エリックはつかつかと近寄ってくると、わたしの両手を自分の頬に当てさせて。
「私と、夜の散歩をしていただけないだろうか?」

「私と、夜の散歩をしていただけないだろうか?」

 声音は変えていないのだが、左右別々から聞こえてきたのだ。
「え、ええ?」
 驚いて口を半開きにしたままのわたしに、エリックが手を重ねたまま、わたしの頬に当てた。
 一瞬、視線が絡まる。
 ああ、そういうことか。
 わたしはにっこりと笑った。

『もちろん、喜んで』
 わたしの喉からは、わたしとわたしの声真似をしたエリックの声が同時に飛び出したのだった。





たまにはこんな日があってもいいじゃないかと。


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