一日目 祈る


(……明るいな)
 地下から地上へ出た私は、これまでのことが夢なのだと感じた。
 昨夜、一昨日とほとんど眠っていない。こういうときは身体が疲れていても頭が冴えてしまって、寝ようにも眠れなくなるものだ。
 だが、意識がはっきりしていたと自分では思っていても、本当は気付かないうちに眠ってしまったか、寝ぼけていたかしていたということは充分考えられる。
 だとしたら……多分そうだと思いたいのだが、あの出来事は本当にあったことではないのだ。
 しかし――。
 ポケットを探ると、ベルナールに渡すための買い物メモが出てくる。間違いなく自分が書いた字だ。
 そこには時期を一ヶ月間違えたかのような、大量のリンネル類に女性物のガウンなど、およそ私がするとも思えない注文が書かれていた。


 昨夜というか今朝早くというか、つまりまだ夜が明けないうちに我が家に同居人が増えることになった。
 男のような、といってもズボンを履いているだけだが、全体的に変わった格好をした東洋人の娘だ。
 オペラ座中にほどこした、私の罠を掻い潜ってたどり着いたわけではない。気付いたら我が家の居間にいたのだ。
 これをどう理解したらよいか説明がつけられる者がいるというならば、ぜひとも伺いたいものだ。
 ハデスだって、浚ってもいないペルセフォネーを己が館で見出したなら、困惑するだけだろう。
 背後を振り返ると、我が家へと続く階段は、まるで黄泉への入り口のようだった。冬の弱弱しい光はただ明るいだけで、奥まで照らしたりはしない。一月の空は無情だ。夏に比べてあまりにも力のない太陽は、化け物の目を覚ますことはできても、迷妄を吹き払うことまではできないのだ。
 私はもう、自分が狂ってしまったのか正気でいるのかもわからない。
(このまま帰ろうか)
 ふと、そんな考えが頭をよぎった。
 このような買い物は、あまりにも馬鹿げている。
 だがあの娘が本当に存在するのならば、何も注文しないとなると、夕方になっても何も届かないということになり、結果として彼女に不自由な思いをさせてしまうことになる。
 しかし、彼女が私の頭が作りあげた存在ならば、買い物など頼むだけ無駄だ。
 だが、再びメモに視線を落とすと、インクの間から彼女の笑顔がにじんできて、私を苛む。
 幻であっても、あの笑顔はよいものだった。緊張の抜けきれていない、だが紛れもなく私に向けられた、嘲笑ではない笑み。
 彼女が本当にいるのなら、またあれを観られる。
 彼女はいるのだ。
 いるのだと思う。
 ……頼むから、いてほしい。


 私は覚悟を決めてメモを郵便箱に入れようとした。
 買い忘れがないか、もう一度確かめる。と、ふいにどこからか香ばしいパンの匂いが漂ってきた。
 誰かがパン屋から帰る途中なのだろう。
 改めてメモを読み返すと、肝心なものを忘れていたことに気付いた。
 私はペンを探して身体のあちこちを探ったが、どうやら忘れてしまったようだ。仕方がないので手袋を外し、左の親指に歯を当てる。にじんできた血で追加の注文を書いた。
『食料を今までの二倍、届けるように』





☆  ☆    ☆  ☆






一日目 イタズラ疑惑


 早まったという気はしていなくもない。
 常識的に考えて、なぜわたしが百三十年前のパリにいなくてはならないのだろうか。
 確かに、エリックさんの話や、彼が捨てずにいた新聞雑誌には、今が一八七八年だということが記されていた。だけど冷静になってみると、それらの一切は前もって用意しておこうと思えば用意できるものではないか。
 わたしはまだこの家の外に広がっているだろう世界を観ていない。パリだということだって、エリックさんがそう言っているだけだ。これが大掛かりなイタズラか、犯罪ではないと、どうして言い切れるのだろう。
 とはいえ、日本では一般人を巻き込むタイプのイタズラ番組など現在はやっていないはずだし、犯罪だとしても妙すぎる。
 ここはしばらく様子を見るかと、客間の点検を終えたエリックさんと一緒に居間に戻った。
「思った以上に大掛かりになりそうだ。今日中に終わるかどうか……」
 捲くっていた袖を直しながらエリックさんが言った。
 これまで全然使っていなかった客間をわたしの部屋にすると彼は決めてくれたのだけど、ずっと使っていなかったせいで、色々手入れをしなければならないことがあるようだ。
「わかりました。掃除道具はどこですか?」
 自分の部屋になるのだから、掃除や片付けくらい、自分でやらないと。
「全部物置に放り込んでいるが……。まずどこから手をつけようか」
 その物言い、エリックさんも一緒にやるということだろうか。聞くと、彼は当然のように頷いた。
「まさか一人でさせるわけにもいかないだろう?」
 いい人だなぁ。怪しい格好をしている人だと初対面の時には思ったけれど、心の中で謝っておこう。
 ごめんなさい。
 とはいえ、その言葉に甘えるには気が引けた。なぜなら柱時計を見ると、時刻は五時近く。早い家ならそろそろ夕食の用意をする頃だ。
 わたしは自分の感覚ではご飯を食べてから二時間も過ぎていないし、起きてから半日だって経っていないのだから、今夜一晩頑張れば結構片付くのではと思っていた。それで掃除は自分でやるということを彼に伝えるが、彼はふと笑みを浮かべ、心配無用だと答えた。
 その理由を聞かされたわたしは、愕然となってへたりこむ。
「まだ午前中だからね。外は日も昇っていないだろう」
 午後だと思い込んでいたが、午前五時だったのだ。
「……重ね重ね、申しわけありません」
 誰かの家を訪問するにしろ、非常識な時間帯である。初対面なら尚更だ。
「気にすることはない。ここでは昼も夜も関係ないのだから。むしろ、私が起きていた時に来てくれて良かったよ」
 普通ならば嫌味だと思うだろうが、エリックさんは至極真面目な口調で返してきた。こういうところに住んでいる人だからか、やっぱりちょっと……いや、かなり変わっている。
「いつも、夜更かししているんですか?」
「いつもではないが、あまり睡眠には興味がないのでね。気の向いたときに適当に取っているのだよ」
 睡眠というものは、興味があるから取るものではないと思うのだが……。
 とにかく、午前中だということで、わたしは安心して大掃除を始めることにした。
 手始めに家具をすべて移動させる。壁紙を張りなおすということで、居間やら廊下やらにすべて搬出した。ベッドや箪笥を運ぶために、扉を外さなければならなかったのだが、そのあたりはすべてエリックさんがしてくれた。
 ……戦力にならない居候でごめんなさい。
 それから天井の蜘蛛の巣を払い、水道の蛇口を全開にして赤サビを落とす。水を流すついでに、洗面台やお風呂も磨いた。
 そこまでの作業がだいたい二時間くらい。時刻は朝の七時になる。エリックさんは朝食を取り、わたしも軽くご相伴に預かった。
 食べ終わると、彼は生活するにあたってどんなものが必要なのかと聞いてきた。でも必要なものって……なんだろう。
 住むところはここ、食べるものはエリックさんが適当に決めるのだろうし、あとは着るもの……?
 でも、今が本当に十九世紀なら、着るもの=ドレスだ。ああいうのは見るにはいけれど、自分で着るものではないと思う。
 細々したものなら、エリックさんと共有するものもあるだろうし、まずここにどういうものがあるかわからないと答えようがないな。
 などと考え込んでいる間に、彼は自分でさっさと話を進めていた。
「着替えはどうするかね。これから注文するにしても、十日はかかると見積もらねばならんのだが、その間は……」
「あ、着替えはとりあえず、いりません」
 言うと、エリックさんは不可解そうな顔になる。
「着替えをしないつもりかね?」
「でも、着替えって、ドレスなんでしょう?」
「ああ」
「コルセット、するんですよね」
「もちろんそうだよ。……もしかして、君はコルセットを」
「したことありませんし、したいとも思いません。身体を締め付ける服って、駄目なんです、わたし」
 その割にはコルセットに詳しそうだと揶揄され、わたしは二十一世紀に存在するメディアの説明を試みた。わたしの説明が上手いせいだとは思わないが、エリックさんは納得してくれた。だって、この人、技術的なことだと「一を聞いて十を知る」を地で行くような感じなんだもの。もしかしたら彼はわたしが思っている以上に、すごい人なのかもしれない。
 怪しい風貌をした、犯罪者もどきってだけじゃないのかもしれない。
(本当に、どういう人なんだろう……)
 聞くなと言われたから聞かないけれど、エリックさんに対する興味は否が応でも掻き立てられていった。
 その好奇心は大きく、いつ自分の時代に帰れるのかという疑問が薄らいでゆくほどに膨れていったのだった。










二日目 血走る


 彼女がいたのは、やはり夢ではなかった。
 一晩経っても消えたりしない。
 とはいえ、彼女はまだ新しい屋敷に――あるいは、世界にか――慣れていないようで、一言発するにも緊張している雰囲気が感じられた。
 それは私も同じだった。
 うら若き同居人を怖がらせないように、不安にさせないように、精一杯気を張っていたのだから。
 私の身をあらゆる危険から守ってくれるこの屋敷で、これほど緊張を強いられるとは思ってもみなかった。これではここに篭っている意味がなくなってしまう。
 しかし……それでも、家で待っている者がいるというのはこういうことなのか、と思うことは多々あった。
 彼女は、昨日私が外へ出ようとしたときに、「いってらっしゃい」と言ったのだ。帰ったときには「お帰りなさい」と。
 こんなものは普通の人びとにとって、当たり前の挨拶なのだろう。
 しかし、私にとっては……。
 これからは毎日こうして日々を過ごしてゆけるのだと思うと、不思議と暖かな気持ちになった。
 なにがあっても絶対に、彼女を手放したりはしない。あの娘はもう私のものだ。


 それにしても昨日は大変だった。
 客間を彼女の部屋にしようとしたのだが、よくよく見るとずっと閉め切っていたため、大掛かりな手入れが必要だとわかったのだ。
 風呂や洗面台に繋がっている水道管は、内側が錆付いたようでしばらく水を出しっぱなしにしなければならなかった。そのくらいならまだたいした手間はかからないが、新たに買い換えたりしなければならないことのなんと多いこと!
 壁紙は湿気で隅の方にカビが生えていたし、椅子のクッションや寝台のマットレスも似たようなものだった。
 居候になる心苦しさからか、彼女は掃除は自分でやると言ったが、一端家具を客間から全て出さなければならない都合上、まさか本当に彼女にさせるわけにもいかない。結局、昨日は一日中大掃除をしていたのだ。
 始めは奇異に思っていたズボン姿も、このときは如何なく効果を発揮した。くるくると働く姿は、まるでリスのよう。特に壁紙剥がしが気に入ったようで、刷毛を湯につけて糊を柔らかくしてはびりびりと破っていた。あまりに楽しそうだったのでそれは彼女に任せて、私は艶を失った家具を磨いたり、蝶番に油を差して回ったりした。
 だが夜になって大きな問題が浮上した。彼女の寝る場所がないのだ。
 客間はまだ散らかっているし、マットレスも湿っていたのでとても寝られる状況ではなかったのだ。
 こんなことならもう少し考えて行動するべきだった。しかし悔やんだところでどうしようもない。
 他には私の寝台と、オルガン脇の寝椅子くらいしかないが、私の部屋もかなり散らかっているので女性を入れるのはためらわれる。かといって、居間では無防備な姿の彼女と遭遇しかねない。
 迷っているうちに彼女が自分は気にしないからと寝椅子を選んだ。私は、せめて彼女が怖い思いをしないようにと、ナイトガウンに着替えに客間へ行ったあと、自室へ引きこもった。だが妙に興奮してしまい、昨夜もほとんど眠れなかったのだ。これで三日程徹夜していることになる。
 朝食の後、簡単に片付けをして、今日の買い物は私自身が品物を選ぶことにした。ベルナールに馬車の用意をするよう命じている。
 時期が時期なので、コートの襟を立てて帽子を深くかぶれば、私の容貌もさほど人目を引かない。とはいえ、ベルナールが私を見た瞬間、棒立ちになったのはそれなりに疲労が顔にも出ていたのだと思う。
 家具屋では、明るい色の壁紙、マットレスと羽根布団、枕を購入した。始めは買う予定ではなかったが、小さなテーブルと絨毯も。それに、もしかしたらこういうものが好きなのではないかと思い、中にドライフラワーが入っているグラス・シェイドも買い求めた。
 店に入ったときには気味悪そうな顔で私を出迎えた店員も、最後にはこれも如何ですかと商品を勧めてくるようになった。全く、金という奴はつくづく世渡りには欠かせない相棒だ。





  ☆  ★  ☆  ☆






二日目 静かな世界


 昨日、今日とエリックさんたくさんの買い物をしてきた。
 昨日は使用人に買いにいかせたというし、今日は自分で選ぶのだと言って、日中は出かけて行った。
 使用人なんてものにまったく縁のない一般家庭育ちのわたしは、そこでまた彼が只者ではないのだと再確認する。
 本当に、どういう出自の人なのだろう。
 あの仮面と風貌から、地上を追われた被害者とも思っていたのだけど、案外好き好んで地下暮らしをしているのかもしれない。
 お金持ちには変人が多いっていうからね。
 それはともかく、二日目にしてエリックさんが外出してしまったので、わたしはいきなり一人でお留守番をすることになってしまった。
 まだ家具は戻せないし、大掛かりな掃除は終わったし、と手持ち無沙汰になったわたしは、彼が帰ってくるまでの間をどうすごせばよいのか悩むハメになった。
 埃が結構でたので、廊下や居間にも飛んでいっただろう。だからそちらの掃除でも、と思っていたのだが、彼に留守中、勝手にものをいじるなと言われたので、それもできなかった。
 なので、物置にあった古雑誌や茶色くなりかけた新聞を読んで見ることにした。これらは掃除の時にも使ったので、日付が飛び飛びになってしまったのだが、前後のつながりはわからなくもない。
 まだ盛大なイタズラに巻き込まれているという疑惑がないわけではないのだけど、いくらなんでもそのためにこんなものまで用意するとは思えなかった。
 やはりわたしは十九世紀のパリにいるのだろう。
 新聞を読むのに飽きてくると、丁度お昼になっていた。エリックさんが作っておいた昼食を食べる。
 そのあとはアイシャと遊ぼうとしたのだけど、彼女はまだわたしのことを警戒しまくっており、わたしの手が届く範囲には決して近付いてこなかった。
 なので、また退屈しのぎに新聞を読む。
 帰ってきたエリックさんは、そんなに新聞が読みたいのならと、定期購読をすることになった。ただでさえ出費をさせてしまったのに、さらにお金を出させるのは心苦しかったけれど、気にするなというので厚意に甘えることにした。できれば面白い記事が載っているものを、というリクエストをしたのは調子に乗りすぎただろうか?


 二日目の夜がきた。
 まだ客間が使えないからと、今日も居間の寝椅子を使わせてもらう。
 お風呂のついでに寝巻きに着替えようと、ナイトガウンを持って客間へ行く。戻ったときには、もうエリックさんの姿はない。
 睡眠には興味がないという彼のことだから、眠いから自室に戻った、というわけではないのだろう。居間でやりたいこととか、色々あるだろうにと思うと、気が咎める。
 が、それも今日までの辛抱。明日からは客間を使えるということだから。
 それよりも、問題は……。
(静か過ぎて、耳が痛い)
 ということだった。
 ここにないのは、太陽だけではない。音もだ。
 唯一聞こえるものといえば、柱時計が時を刻む音だけ。静かな世界がこれほど怖いものだとは思わなかった。
 昨夜は寝ようと思っても、神経が昂ぶってあまり眠れなかったほど。
 静かさが気になって意識が冴える。そしてこの広い空間にいるのが自分ひとりなのだと思った途端、心臓が激しく打ち始めた。
 息をするのも苦しくなり、嘔吐感にも似たものが襲ってくる。本当に、心臓を吐き出せたならどれだけ楽だっただろうか思ったほどだ。
 だがこのまま突っ立っていても仕方がないと、毛布をめくる。密やかな衣触れが空気を振るわせたが、すぐ四方に散った。戻ってくる、静寂……。
 わたしは毛布を頭から被り、身体を丸めた。自分の息遣いと心臓の動いている気配だけが唯一の慰めだ。
 エリックさんは、毎日こんな夜を過ごして平気なの……?
 それとも、慣れてしまっただけ?
 わたしも、いつか慣れるのだろうか。
 慣れるとしても、きっと当分先のことだろう。
 この家には窓がない。
 だから、早く朝になればいいのに、と望むことはできない。
 光など、一筋も入ってこないのだから。
 代わりに願うのは、時計の針が早く動くようにということと、エリックさんが早く顔を出してくれるようにということ……。










三日目 刺激的

 彼女が来て二度目の夜が明けた。
 部屋を出る前に強く扉を叩く。
「はい」
 すぐに返答がきたので、彼女がもう起きていることがわかった。安心して居間へ出た途端、私は凍りついた。
 昨日、買出しから帰ってきたあと、早速客間に壁紙を貼ったのだが、糊が乾ききらず、空気がじっとりとしていたので、またあの部屋を使うことができなかったのだ。
 それで、彼女は昨夜も居間の寝椅子を使ったのだが……まだ着替えていなかったのだ。
 さっき起きたばかりというように、寝椅子に腰掛けて、白いレースとフリルのついたナイトガウンをゆったりと纏ったまま、寝乱れた髪を手櫛で梳いていた。
 私に気付くと「おはようございます」とぺこりと頭を下げた。声はやや掠れている。本当に起きたばかりだったのだろう。
 信じられない思いで呆然と突っ立っていると、不思議に思ったのか、彼女は首を傾げて立ち上がる。
「あの……?」
 スリッパを履き、こちらへ近寄ってきた。歩くたびにゆらゆらとガウンが揺れる。覆っている布地は、こちらの方が余程多いのに、昼間の服装よりもずっと無防備に見えた。
 彼女は先の言葉を続けなかった。何を言えばよいのかわからないのかもしれない。
 私はというと、目の前の血と肉と熱を持った存在にただ心を奪われていた。
「えーと、昨日はお疲れ様でした。あの、良かったら朝食の仕度は、わたしがやりますけど」
 気まずい沈黙に耐え切れなくなったのか、早口になって彼女が言った。
「あ、いや……それは私がやろう」
 ようやく我に返った私は、不躾に寝起きの女性を見つめ続けていたことに気付いて、視線をそらした。
 だが無理もない。こんな格好をして私の前に出てくるなど、思ってもみなかったのだ。私は自分を必死で弁護していた。
「君は着替えて身支度を整えてくるんだ、いいね」
 内心の焦りをなんとか隠し、できるだけ優しく声をかけると、彼女はあからさまにホッとしたように息を吐いた。
「はい、エリックさん」
 照れ笑いのようなものを浮かべて、髪をかきあげる。それで、気付いた。
「ブラシが必要みたいだな」
「え? ああ、ブラシですか。そうですね、お願いしようかと思っていました」
 最初、彼女は何を言われたのか解らないというように目をぱちぱちとさせたが、合点がいくとこっくりと頷いた。
「ほしいものがあったら遠慮なく言ってくれ。なにしろ私は年寄りだからね。若い娘にとってどんなものが必要なのか、わからないのだよ」
 おどけたように言うと、ちらりと彼女が笑う。
「ありがとうございます。でもまだここでの生活に慣れるのに精一杯で、自分でもよくわからないみたいなんです」
「そう。そういうものなのかもしれないな。ところで、君はいつも髪をおろしているのかね?」
 女性は眠る時以外、髪はまとめるか編んでおくのがこの時代の作法だった。しかし彼女は一度もそんなことをしたことがない。短いわけではない。充分、結えるだけの長さはあるのだ。それが気になっていた。
「気が向いたときには結んだり編んだりしますけど……」
 彼女は途端に落ち着きをなくした。咎められたと思っているのかもしれない。
 しかし、気にはなっているが、咎めるつもりは毛頭なかった。
「じゃあ、その『気が向いたとき』のために、リボンとピンも用意しておこうか」
「でも、そんなの悪いです。昨日だって色々買っていただいたのに……」
「遠慮はなしだと言ったはずだよ。ところで、化粧台に鏡はついているけれど、手鏡もいるかい?」
「手鏡、ですか? まあ、あればあった方がいいと……って、無理やり買うものを増やさなくっていいんですよ!?」
 もう、と膨れる彼女に、私は喉の奥で笑いながら、初日から繰り返した問答をもう一度持ちかけてみた。
「ドレスは?」
「気絶したくないので、いいです」
 これにはきっぱりと拒絶してきた。小説だか動く写真だかで得た知識だか知らないが、彼女の中にはこの時代に対する妙な思い込みがある。もっとも、オペラ座に観劇に来るご婦人たちの中で、コルセットの締めすぎで気絶する者が出るのは毎回のことなので、否定できないのが面白いところか。
 まあ、いらないというのなら無理強いすることはなかろう。彼女だって女なのだから、いずれは新しいドレスを欲しいと言い出すに決まっている。こと、衣装にかける女の情熱は凄まじい。オペラ座の女たちを見ているだけでもよくわかる。
 さて、朝食をとったら、彼女の部屋の片づけを済ませてしまおう。今日一日で大体終わると思うが……。





☆  ☆  ★    ☆






三日目 凝視の原因


 やはり昨日に引き続いて、あまりよく眠れなかった。
 目覚めては時計を確認して、うとうとする。何度それを繰り返しただろう。はっきり言って、眠った気がしない。寝る前よりも疲れたようにも思える。
 そして七時になる少し前、いつもわたしが起きていた時間になった。こんな暗闇でも身体が朝だと感知したのかと思うと、訳もなく笑えてくる。
 身体がだるい。気分がすっきりしない。
 だけど時間も時間だし、そろそろ起きようかとうだうだしていると、エリックさんの部屋から数回、強く扉を叩く音がした。
「はい」
 気の持ちよう、とはよく言ったものだと思う。
 彼が起きている、ここに来ると思うと、さっきまでの鬱々した気分が薄らいでしまった。
 すっかり安心したわたしは、頭を深く枕に預け、そのまま伸びをする。
 そして勢いよく毛布をはいで、身体を起こした。
 これですこしは気分も晴れた。
 顔をあげると、エリックさんがこちらを見ながら立っていた。いつも通り、白いシャツに黒いズボン、その上にガウンを羽織っている。黒い髪はオールバックにしているが、なんというか、妙にその……ヅラっぽい。いえ、いいんだけどね、別に。お世話になっているのだから、あえて突っ込むまい。
「おはようございます」
 挨拶はできるだけ愛想よく。人間関係の基本だものね。
 ところが、エリックさんは返事をしないどころか、ぴくりとも動かなかった。今朝は機嫌が悪いのだろうか。もしかして低血圧だとか?
「あの……」
 どう、声をかけたらよいのだろう。とりあえず座ったままなのもなんなので、近くに行ってみた。
 息をしていないんじゃないかと思うほど、本当に動かない。瞬きすらもしていなかった。
 この人、大丈夫だろうか。揺さぶったりしてみた方がいいのだろうか?
「えーと、昨日はお疲れ様でした。あの、良かったら朝食の仕度は、わたしがやりますけど」
 これでダメなら本当に揺さぶるしかないだろうと思いながら、当たり障りのなさそうな話題をふってみる。
 彼はびくりと震えたかと思うと、目をそらした。
「あ、いや……それは私がやろう」
 それからまた沈黙した。
 一体この居たたまれない間をどうしたらよいのだろう。もう、逃げ出してしまいたい。これまでにも何度か彼は、返答するまでに間が開いたことはあるけれど、ここまで挙動不審だったことはなかったのに。
 エリックさんもエリックさんで、葛藤していたみたいだ。声だけは優しいが、どこかわざとらしい。
「君は着替えて身支度を整えてくるんだ、いいね」
 そう言った彼に、わたしは
「はい、エリックさん」
 と答える。それ以外どうしようもないもの。
 客間の洗面台を使うために、居間を後にする。ランプを脇に置き、鏡をのぞいた。
 そこでわたしはようやく彼の異変の原因を悟った。
 顔、むくんでる。
 昨夜、熟睡できなかったせいだ……。
 家族でも親戚でもない女がこんな顔で平気で接してきたら、そりゃ男の人は失望するだろう。
 穴があったら入りたいとはこのことだ。
 わたしは自分の間抜けぶりにすっかり落ち込みながら、石鹸を手に取った。

 早急にマッサージしないと!










四日目 ない、ない、ない


 今日はもう着替えていた……。
 居間で彼女の姿を認めたとき、私は思わず安堵の息をもらした。
 昨夜からようやく彼女は彼女の部屋となった客間で寝起きするようになった。そこは見違えるほど綺麗になり、彼女という存在を得て生気を帯びたほどだった。
 住人がいるといないとで、これほど様相を変えるとは……。改めて、人の存在というものの大きさを思い知る。
 バゲットにカフェオレと昨夜の残りのスープという簡単な朝食をとる。しかし誰かと向かい合って食事をするということに、未だ慣れなかった。食事の最中というのは、妙に間がもたないのだ。
 昨日までは良かった。彼女に何が必要か、どんな手順で模様替えをしようかと打ち合わせる必要があったので、必然的に会話の糸口ができていたのだから。しかし、もうそれも尽きた。これから一体どうすれば……。
「換気扇は……」
「え?」
 しまった、いきなりすぎたか。彼女はきょとんとしてこちらを見返している。
「換気扇がどうかしましたか?」
 聞き返された以上、答えないわけにもいかない。
「まだ糊は完全に乾いたわけではないだろうし、ずっと閉め切っていたから壁が湿気を含んでしまっているのだ。だから一週間くらいは換気扇は止めないほうがいい。音が気になるかもしれないが」
「そうですね、ええ、ちょっと気になってはいました」
 彼女はカフェオレを口に含んで、一息つく。
「でも眠れなくなるほどではありませんから、大丈夫ですよ」
「そうか……」
 ここで会話が途絶えた。
 何か、何か話題はないか?
 ……あまり言いたくはなかったが、やはりこれしかないか?
「余計な世話かもしれないが、もし良かったらフランス語の訓練を受けてみないか?」
「訓練って、あの、わたしのフランス語、聞き取り辛かったですか?」
「いや、上手だよ。外国人にしてはね」
 正直に答えると、彼女は傍目にもわかりやすいほど肩を落として、表情を曇らせた。
 彼女の場合、発音に日本訛りがあるというだけではなくて、二十一世紀訛りとでもいうべき変化がついているので、時折彼女が口にしたことを吟味しなくてはならなかったのだ。
「……つまり、そういうレベルだってことですね。……わかりました、受けます。あなたが教えてくださるんですよね?」
「まあ、ここには他に住人はいないからね。だが、無理にとは言わないよ。こちらの生活に慣れるだけでも大変だろうしね」
「いえ、でも聴き取り辛いのであれば、直さないと。やってやれないことじゃないんですから」
 ぐっと彼女はスプーンを握った。蝋燭の光を受けて、黒い目がキラキラしている。
 言葉が、詰まった。
 私に向き合っても嫌な顔をしない。私と言葉を交わしても目をそらさない。……私が近付いても――こんなに近くにいても、逃げ出したりしない。悲鳴をあげない。震えない。
 これが本当に現実なのか?
 何度も繰り返した疑問が、また浮かび上がる。私はカフェオレを一気に飲み干すと、腕を伸ばした。
「っ!」
 彼女が身体を強張らせて息を詰めた。
 私の手は彼女の額にかかる髪に触れる直前で止まった。
「……すまん」
 大きく見開いた目に、彼女が私を恐れていないわけではないということを悟った。
(当然だな……)
 己が浅はかさに自己嫌悪していると、「危ないと思いますよ」と消え入りそうな声で彼女が言った。
「……」
 危ないというのは、私の行動だろう。これで一気に警戒されてしまったのだ。
「蝋燭、袖に当たりそうになっていました。テーブルの上に腕を伸ばすのは、危ないと思いますけど……」
 もごもごとした口ぶりだったが、彼女は確かにそう言ったはずだ。
 蝋燭……。そっちか。
「あ、ああ。気をつけよう」
「はい……」
 彼女は俯いてパンをちぎり始めた。私と会話をするのが嫌になったのか、特に気にしているわけではないのか、さっぱりわからない。
 いくらなんでも、私の行動の意味が理解できないはずはないと思うのだが……。





☆  ☆  ★  ☆  






四日目 スペインの雨は主に広野に降る


 わたしのフランス語は聞き取り辛かったらしい。
 ネイティブに比べれば下手だろうとは思っていたけれど、これまで指摘されなかったので自分のレベルがわからなかったのだ。
 が、それでエリックさんが返答するまでに妙な沈黙をしていた原因がわかった。わたしのフランス語を翻訳するのに頭がフル稼働していたというところだろう。
 いや、落ち込むまい。早めに指摘してくれて良かったと思おう。忙しい、というか自分の好きなように時間を使っていただろうエリックさんが、わざわざわたしのために時間を割いてくれるというのだから。
 朝食の片付けが終わったあと、エリックさんはわたしを図書室に連れて行ってくれた。
 居間にはわたしの部屋となった客間と、エリックさんの寝室に続く扉の他に、いくつかの扉があるのだ。勝手に中を覗くのもはばかられたので、どういう部屋があるのか知らなかったが、そのうちの一つが図書室だった。
 一歩中へ踏み入れた途端、わたしは息を飲んだ。
 革で装丁された本が一面に並んでいる。
「すごい……」
 ただたくさん並んでいるだけならば、ここまで驚いたりはしない。問題は棚の高さと大きさだ。窓のない家という特長を利用して、扉以外はすべて本棚になっている。天井までみっしりだ。
 それだけ大きいと長身のエリックさんでも一番高い棚には手が届かないはずだ。しかしそこはよくしたもので、可動式のはしごがある。
 こういう風景って、映画で見たことがあるなぁ。そう、たしか……。
「ヒギンズ教授の図書室みたい」
「誰だね、その英国人は」
 英国人などと一言も言っていないのだが、名前でわかるのだろう。エリックさんが最もな問いを発してきた。
「イギリスの言語学者です。知り合いとかじゃなくて、『動く写真』に出てきた登場人物で、花売り娘のイライザが上流階級の英語を話せるように訓練をする人なんです」
 『動く写真』とは映画のことだ。この時代はまだ映画は発明されていないけれど、写真はあるし、スライド映写機みたいなものもあるそうなので、なんとなくイメージがつかめるらしい。
 それで納得したようで、エリックさん頷いた。
「なるほど、英語もできるのだね、君は」
「英語はわたしの時代だと国際共通語みたいになっているんですよ。学校でも習いますから、フランス語よりは身近ですし」
「フランス語は学校では習わない?」
 えーっと……。
「高校以上の学校なら選択によって習うこともあるでしょうけど……」
「君はそういう学校に行っていたのか?」
 違う、と頭を振ると、
「では、どこで習った?」
「ほぼ独学ですよ」
 テレビのフランス語講座とか映画とかで学んだのだ。趣味の領域だから、教室に通うとかはしていない。それゆえフランス人の知人は、エリックさんが始めてなのだ。
 独学ということが気になるのかしらないが、彼は首をかしげたり顎に手を当てたりしていたが、ややあって「まあ、始めようか」と言って一冊の本を取り出した。
 タイトルは『寓話』。いたって、シンプルである。
「短いものから始めた方がいいだろうしね。じゃ、最初の話から読んでみたまえ」
「はあ……」
 注意点もなにもないままいきなり指名されたので、戸惑いつつも言われたページを開く。
「……」
 短い話だった。ゆえに、読む前に前半が目に入ってしまう。
「あの、これ、フランスの話ですか?」
 すごく聞き覚えがあるんですが。
「作者はフランス人だが、フランスの話だけではないよ」
 あ、やっぱり『アリとキリギリス』なんだ。キリギリスがセミになってるけど。
「イソップ童話ですよね?」
「これはね」
 エリックさんはあっさりと肯定する。
「まさかフランスに来て、イソップ童話を読むことになるとは……」
「お気に召さないかい?」
「いえ、そんなことは……」
「まあいいから、とにかく読んでみなさい。発音がおかしいところはやりなおさせるから、そのつもりで」
「はあい」

 それでどうなったかというと、一回通して読むだけの間で、三十回以上の駄目出しが出た。それを十回は繰り返したものだがら「アリとセミ」はすっかり覚えてしまったほど。
 「スペインの雨は主に広野に降る」という言葉を繰り返し言わされたイライザも真っ青だ。
 彼は結構なヒギンズ教授である。









五日目 気が散る


 この数日は、ここ数年なかったほど目まぐるしかった。
 私は新たに加わったこの興味深い人物にすっかり心を奪われ、作曲はおろか、オペラ座を巡回しに行くことすら中止したほどだった。
 だが、もう一段落ついたので、元の生活に戻ろうと思い立った。
 午前中は彼女にフランス語の稽古をつけることにし、午後から夜にかけては各々好きなように過ごすように取り決めた。
 私はいつも早起きをするわけではないが、まあその時には授業をしてから寝ればよいだろう。
 五日振りにオルガンの前に座る。
 書きかけの楽譜は彼女が私の前に現れたときのまま広げてあり、少し埃をかぶっていた。
 適当に表面を払い、最初から頭の中で音をなぞる。
 『ドン・ファンの勝利』の第二幕、不安と幻想を呼び覚ますような響きを強調した場面だった。
(これはやめておくか)
 私は楽譜を脇へ置いた。
 今はもっと別のものを作りたい。たとえば、彼女が来てから感じた様々な思い――興奮、緊張、愉悦、感嘆……それに、歓喜を表現したい。
 あるいは、彼女をモティーフにした曲を作るのも良い。柔らかく、捕らえ所がないが、前向きで中心にはしっかりした強さがあるようなものを。
 あるいは……女性が喜びそうな曲を書いてみても良い。静かで優しい曲などどうだろう。そういうものを考えたことは一度もないのだが、自分の力に挑戦するという意味も含めて、やってみる意義はあろう。
 私は新しい五線譜を用意し、腕を組んでどれから手をつけるかじっくり考えを巡らせていた。その時――。
 コトン。
 それほど大きな音ではなかったと思う。だが、私の思考を中断させるには充分で、反射的に音の出所を振り返った。
「どうかしました?」
 彼女と目が合った。
「いや……なんでもないよ」
 思わず上ずった声で答えるも、彼女は少し不安そうな顔になる。
 音の原因は他愛もないことだった。革で装丁されている本の背の部分がテーブルに当たっただけである。
 彼女は私の図書室を一目見るなりすっかり魅了され、読んでもよいかと訊ねてきたのだ。私は、集めるには集めたものの、繰り返し読むのはほんの一部であり、ほとんどは一読して放っておいたので特に拘ることなく了承した。
 本だって棚に置かれっぱなしより、誰かに読んでもらうほうが嬉しいだろう。
 彼女が広げていたのはその中の一冊だった。
「面白いかい?」
 何も言わないのも変だろうと、当たり障りのなさそうなことを聞いてみる。
 しかし彼女は、
「まだ前書きを読んだだけなので、そこまではわかりませんけど……」
 と、困ったような笑みを浮かべた。
「そうか……」
 私は、自分がとんでもなく間抜けに思えて、すっかりうろたえてしまった。会話を続ける気力もなく、顔を合わせていることも苦痛になってきて、彼女から視線をそらした。
 五線譜に興味をそそられているふりをして、ペンを握る。しかし、背中に彼女の視線を感じて集中するどころではなかった。
 しばらくして本を読み始めたのか、ぱらりとページを繰るかすかな音が聞こえてきた。緊張が解けた安堵で大きく息を吐きそうになる。
 だが、再び作曲を始めたものの、結局一小節もすすまなかった。
 まったく集中ができなかったのだ。
 別に彼女は騒がしくしているわけではない。むしろ私に気を使ってか、ずいぶんひっそりと過ごしていたのだ。
 それでも彼女が身じろぎをしたり、足を組んだりする衣擦れの音や、時折立ち上がって歩く音、咳や動作の折に漏れる呟きなどに、目と耳が勝手にそちらを向いてしまうのだ。
 じろじろ見るのはみっともないという意地もあり、辛うじて何度も振り向くことは免れている。しかしかすかな音で今彼女が何をしているのかと勝手に頭が想像してしまうのだけはどうしようもなかった。
 音がする。
 気配がある。
 人がいるというのは、こういうことなのだ。
 我が家は自分でわかっていた以上に静かだったのだと思い当たる。
 きしっ……。
 また小さな音が鳴った。
 多分、読書に疲れたかして、ソファにもたれたのだろう。
 そっと振り返ると、予想通りの格好をした彼女を見出した。
 これではいけない。彼女のことばかり気にかけていたら、何もできなくなってしまう。
 そう理性が叫ぶものの、心も身体もまったく言うことを聞いてくれそうになかった。
(慣れ、の問題だろうか)
 慣れれば、このようなことはなくなるのだろうか?
 これまでの人生からではまったく導きだすことの出来ない問いに、私は目の前が薄暗くなるように感じた。
(早まったかもしれないな……)
 同居生活五日目。
 後悔しているのは、私の方かもしれない。

☆    ★  ☆  ☆







五日目 危険な関係


 エリックさんとの生活も五日目になり、ようやく少し落ち着いたかなと自分でも思うようになってきた。
 今日もみっちりフランス語の訓練をし、へとへとになったところで昼食をとる。
 午後は自由時間だ。
 好きなように過ごしていいと言われたので、図書室を漁らせてもらった。わたしでも読めそうな本を探す。
 が、それは簡単にはいかなかった。なぜなら本の並びが、ただ買った順に置いているのではないかと思うほどバラバラだったのだ。
 図鑑のとなりに歴史書、その隣に詩集、その隣はイタリア語かラテン語題名の本、という具合に不規則なのだ。
 ようやく作者も題名も知っているものを見つける。「レ・ミゼラブル」だ。あらすじは知っているけどちゃんと読んだことはないので、これに決める。
 本を抱えて居間に移った。
 エリックさんはオルガンに向かって座り、楽譜を読んでいるようだった。そうするとこちらからは背中しか見えず、一段高く作っていることもあって、さながら音楽の祭壇に鎮座しているようだった。わずかに見える口元はしわが刻まれるほどきつく閉じられている。
 わたしがここへ来たとき、彼は作曲中なのだと言っていた。
 そのときも、こんな感じだったのだろう。
 厳しく、冷ややかな雰囲気。彼とアイシャと音楽で成り立っていた世界。
 どうしてわたしがここに来てしまったのだろう。
(邪魔なんて、したくなかったんだけどな……)
 ここへ来たのは、わたしの意志じゃない。だけどエリックさんの意思でもない。
 それなのに、保護する理由など何一つないわたしに、こんなに親切にしてくれて……。
 この事実の前には、彼が変人だろうが犯罪者だろうが関係ないとさえ思えた。
 ずっとエリックさんの背中を見ていても仕方がないので、本を開く。
 前書きを読んだところで、本を置いた。大きくて厚いのだけど、綴じ込みのしおり紐などはついていないので、代わりになるものを用意しておいた方がいいかと思ったのだ。
 ふと顔をあげると、エリックさんと目があった。
「どうかしました?」
 あまりにもじっとこちらを見ているので、顔に何かついているのかと思ったほどだ。彼はなんでもないと答えたが、その声が変に震えているので、不安になる。
 気を散らせてしまったのだろうか。
 しかしその視線には咎めているような色はない。だが、何かを振り切るかのように顔をそらしつつも、こちらの様子を気にしているのが感じられた。
 その態度に、昨日のできごとがまざまざと思いだされた。
 それは朝食でのこと。
 初対面の興奮状態が過ぎ去ったためか、どことなくぎこちない空気の中、わたしたちは食事をしていた。
 ただ、それだけだったはずなのに、彼は急に目をギラつかせてこっちに向かって手を伸ばしてきたのだ。
 間にテーブルがなければ、首を絞められていたのではないかという勢いで。
 命の危険を感じたわたしは、逃げようと頭では思ったものの、身体がすくんで立ち上がることもできなかった。
 手は、わたしに触れる直前で止まり、彼は激情をこらえるように顔をしかめながら、ゆっくりと下していった。
 怖かったけれど、まさかそれを口に出すわけにはいかない。なにしろここでの全権は彼が握っているのだから。
 それで、蝋燭の話をして誤魔化したりしたのだが、あれは心臓に悪かった。腕を伸ばす勢いが強いせいで炎が揺れ、燃え移るのではないかと思ったのは本当だけど。
 いや、大家がなんとなく怖いというだけではない。
 食事の後片付けをしにエリックさんが席を外し、冷静にものを考える状態になって、ようやく思い当たったのだ。
 彼は、わたしを絞めようとしていたのではなく、抱き寄せようとしていたのではないかと。
 なんだって食事中に、それもテーブルが間にある状態でそんなことをしようと思ったのかはわからないが、明らかに彼の様子は尋常じゃなかった。
 それに、そう、彼は初めて会った時にも、わたしがここに残るための見返りを、家事手伝いではなく、夜伽だと誤解した。
 それはなし、という流れにはなったものの、そういうことを思いついた以上、女に興味がない人種というわけでも、男として枯れているというわけでもあるまい。わたしが彼の欲望をそそるかどうかはひとまず置いたとしてもだ。
(もし、そうだとしたら……)
 わたしはどうしたらよいのだろう。
 黙って身を任すべきなのか? 衣食住、すべて世話をしてもらっている以上、要求されたら突っぱねきれるものではない。
 というか、世間的にはわたしのような状態の女を『囲いもの』というのではなかろうか。
 しかし、親切な人だとは思うにせよ、彼のことは特別好きだというわけではないし……。そういう相手と、行為に及べるほど割り切れるものなのだろうか。
 よしんば、拒絶しようが悲鳴をあげようが、彼の言うことが本当なら、ここは建物の所有者にも知られていない地下室で、助けなんてどこからもこないことになる。
(早まったかな……?)
 飛んで火にいる夏の虫、袋の鼠、ということわざが頭のなかをぐるぐる回った。





 それからさらに五日が過ぎた。
 彼は……なにも変わらなかった。
 昼は鬼のヒギンズ、午後は趣味に生きる変わり者。夜はたまに正装してどこかへ出てゆくこともある。
 たまにもの問たげな眼差しをよこすことはあるけれど、それはわたしも同じ。
 どこまでなら相手の内側に踏み込んでいいのかと、間合いを計っているのだ。
 こうなると、こう結論を出さざるをえない。
 彼は、女に興味がないわけではないけれど、年齢不詳(に見えるらしい)の東洋人女には手出しする気はない、と。
 つまり、わたしの心配事は、ただの自意識過剰な杞憂だったということなのだ。
 「覚悟はしました」なんて、言わなくて良かったわ。
 とんだ恥をかくところだったもの。






ヒント
50話は5つに別れて隠しています。
「なぜ5つか」を考えればすぐわかるかも…?
もっとわかりやすいヒントは別のところに隠してあります。

☆  ☆  ★  ☆  ☆



今回は変則的な作りになっています。
日常シリーズ通算50作記念ということで、49作目と50作目を同時公開(?)しています。
エリック視点の話が49作目で、ヒロイン視点が50作目です。
そのヒロイン視点話はこのページ内に隠してあります。
Tabや反転、その他色々やってみてください。
難しくないとは思いますが、イジワルな隠し方をしているとは思います(笑)


補足
・一日目のところ、『時期を一ヶ月間違えたかのような、大量のリンネル類に』というのは、二月になると白物(リンネルなどの白生地を使ったワイシャツ、ブラウス、シーツ、タオル、クロス類など)のセールがあるからです。てことで、今は一月。

・『寓話』…『ラ・フォンテーヌの寓話』とも。1668年に書かれた主に動物を主人公にした寓話集。そのなかにイソップ物語を翻案したものが含まれています。
ちなみに「アリとセミ」はオチがかなり皮肉が効いている。
アリ「暑いとこにはなにをしていたの?」
セミ「夜も昼も、歌っていました」
アリ「あらそう、それじゃ今度は踊ったら?」 ―了―
…フランスのアリって、キツイね。





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あ…!






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闇夜のカラス…






























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