注:この話は日常その15「誕生日」からその30「修羅場編」の間のどこかで起きたものです。具体的な季節とかは考えてナイ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ふと空気が動いた気配を感じてわたしは目をあげた。
 作業机に向かっていたエリックが音もなく立ち上がり、ガウンの裾を軽く翻して自分の部屋へと向かう。わたしはそれを見るともなく見送ってから、視線を手元に戻した。
 エリックの蔵書を漁ってのいつもの読書。昨日から取りかかっているその本は図鑑のようなものだった。世界の有名建築物の写真が解説付きで多数載っている大判のもの。この時代だからもちろんカラーではないのだが、なんとなく何色なのかわかるのは、わたしの現代知識による補正がかかっているからだろうか。初めて見たものでもそう感じるのは釈然としないけれど。
 ぱらりとページをめくる。と、思わぬものを発見して、一瞬動きが止まってしまった。
 エリックは栞のつもりなのか、本の間に手近なところにあったと思しき紙片を挟むのが癖のようなのだ。ただの白い紙だったり書き損じらしいものだったりと様々だが。
 そのページにも紙片が挟まっていた。いつものわたしならばそのページを読むときだけ取り除いておいて、次のページに進む時に戻していただろう。しかし……。
(これ……栞なのかな……)
 栞というにはあまりにもあんまりなものだったので、わたしは困惑した。
 これを見たのは初めてだったが、正体は一目でわかる。
 千フラン札。つまり現金だったのだ。
 わたしはエリックから散歩の途中でちょっとした買い物をするために幾らかのお小遣いをもらっている。買う物はもっぱらお菓子だ。なにしろエリックは菓子類を買うことがほとんどないので、お菓子が食べたければ自分で調達するしかない。その日の気分で好きなものを選べるのでこれはこれで良いと思っているけれど。
 費用は一度につき一フランかからない程度だ。だからわたしのお小遣いというのは全部一フラン銀貨でもらっている。
 その一フラン銀貨の千倍の価値があるものが無造作に本の間に挟まっているのだ。しかも端の方が中途半端な折れ方をしている。適当な扱いをされているのがよくわかるというものだ。
 わたしはまじまじとお札を眺めた。
(……もしかして、へそくりなのかな)
 本の間や額の裏はへそくりの隠し場所として定番らしいから。
 しかし今はわたしも同居しているとはいえ、エリックは元々一人暮らしをしていたのだ。へそくりをする必要性があるとはあまり思えない。いや、もしもへそくりだとしても彼は記憶力が相当良いようなので、隠し場所をそうそう忘れたりなどしないように思えるのだが。
 だからこそこのお金は栞として使っているのかもしれない、と思ったのだけど……金額が大きすぎるあたりに引っかかりを覚える。それともエリックにとって千フランというのは大したことがない金額なのだろうか……?
(でもこれが栞じゃなくてへそくりなら、こんな風に誰かに見つかった時に盗られる可能性だってあるのに……不用心というか剛胆というか。まあ、エリックの家に泥棒が入ることなんてまずあり得ないから、無駄な心配なのかもしれないけど)
 というところまで考えてわたしははっとした。
 もしかしてわたしはエリックに試されているのではないだろうか、と。
 彼はわたしを好きだと言ってくれているが、エリックは本来とても警戒心の強い人なのだ。好悪の情とは別に、自分の領域内たるこの地下屋敷に住む人間が本当に信用できるかどうか、調べてみようとしているのかもしれない。
 そう、思えばわたしが千フランの挟まっているページにさしかかったときに席を立ったのは偶然なのだろうか。彼が扉の隙間からわたしが紙幣をどうするか、見つめていないだろうか――。
(……その場合、対処法を間違えたらなんだかとてもややこしいことになるような気がする)
 わたしは頭が痛くなったように感じて額を押さえた。いっそのことエリックを部屋から呼び出して確認しようかと、彼の部屋の扉に目を向ける。
 とはいえさすがにエリックがわたしを試そうとしているなんてただの考えすぎだと思いたい。彼が部屋に戻ったのだって、単なる生理現象を解消しにいっただけかもしれないし、気ままに不規則な生活をしているが故に寝にいっただけなのかもしれないではないか。
 とにかく今すぐ事実確認をしなければいけないわけではないのだから、エリックが部屋から出てくるまで待っていようと、わたしは逸る心を落ち着かせようとした。
 何事もなかったかのように振る舞おうと、紙幣が挟まっているページは読み飛ばして次のページをめくる。図鑑のような読み物で助かった。もしも小説だったら展開がわからなくなっていただろう。
 その時エリックが部屋から出てきた。わたしは勢いよく顔をあげてしまい、彼と目が合ってしまう。わたしはよほどぎょっとした顔をしていたのだろう、エリックは足を止めて怪訝そうな声でどうかしたのかと問うてきた。
「ううん、なんでもないの」
 わたしはぶんぶんと頭を振る。
「なんでもないようには見えないが……」
 エリックは不審そうに眉を寄せた。
 わたしは言葉につまり、曖昧な笑みを浮かべる。
 確かに何でもないのだが、自分のものではない高額のお金を見つけてしまったということ、その持ち主が急に出てきたことで、妙な後ろめたさを感じたのだ。
 だが悪いことをしているわけではない。ただこんなものを見つけたのだと言えばいいのだ。
 わたしはエリックを手招きしてから前のページをめくる。
「あのね、エリック、これなんだけど……」
「なんだ?」
 エリックは大股で歩み寄ってくる。そして少し腰をかがめて、上から本をのぞき込んできた。
 わたしは大きく本を広げて見やすいようにする。
「こんなものを見つけたんだけど、これってそのままにしておいた方がいいのかしら?」
「うん?」
 エリックは千フラン札を手に取る。
 それをじっと見つめたかと思うと、ややあって「ああ」と呟いた。
「こんなところに挟まっていたのか」
「え?」
 エリックは紙幣をひらひらと振りながら苦笑する。
「いや、前に千フランをなくしたことがあってね。散々探したんだが見つからなかったんだ。給料として受け取った時にはちゃんと二十枚あったから、支配人殿が数を間違えたというわけではないことはわかっていたんだが」
「そうだったの」
 どうやら事件性はないようなので、わたしは安堵の息をついた。エリックは肩をすくめる。
「間抜けな話さ。あの作業机で色々な支払いのために封筒から金を出して分けていたんだよ。ないと気付いたときも、席を立ったこともあったから私がいない間にアイシャがいたずらしてどこかに紛れ込ませてしまったのだろうと諦めたんだったな。運が良ければどこかからでてくるだろう、とね」
 言いながら彼は基本的に常時ごちゃついている作業机を目で示した。アイシャの仕業かどうかはさておき、その机の上には開きっぱなしにした本が置かれていることもままあったので、なにかの弾みでお札が挟まったまま本が閉じてしまったのだろう。
 ありきたりといえばありきたりだが、なんとなくほのぼのとした感じがして、わたしは笑った。
「見つかって良かったわね」
「ああ。ちょっとした臨時収入が入った気分だな」
 エリックも薄く笑む。
「でも安心したわ。なにしろお札がそのまま挟まっていたんだもの、へそくりなのか、栞代わりにしたのかって迷ってしまったのよ」
 エリックは自分の癖を自覚していたのだろう、軽く頭を振って苦笑した。
「いくら私であっても、千フランを栞にしたりはしないよ」
 わたしもつられて苦笑する。
「そうよね。いくらなんでも……とは思ったんだけど、あなたって結構豪快な使い方をするから、あまりお金に頓着しないのかなって思ったものだから」
 その筆頭がわたしがここに住むために買った品々だろう。並の品でわたしは十分だったのに、エリックが上等のものであることに拘ったものだから、やたらと費用が膨らんでしまったらしいのだ。具体的にどれほどかかったのかは、全然教えてくれないのだが。
 エリックは愉快げに唇の片端をあげる。
「まあ、なくした時にも必死で探したわけではないからな。金銭的に切羽詰っていたわけでもなかったということもあるが。しかし……」
 彼は語尾を濁しつつもわたしの目をのぞき込むように顔をわずかに上げる。仮面の向こうの落ちくぼんだ眼窩がわたしを見据えた。
「私ならばわざわざ持ち主に報告などしないでそっと懐に入れてしまうがね。お前は律儀だな」
 彼が揺さぶりをかけてきていることを察して、わたしは空とぼけた。
「わたしは小心者なのよ。そんなことをしたら後ろめたくてすぐに態度に出てしまうわ。そうしたらあなたはすぐに異変に気づくでしょうから、やるだけ無駄というものね」
 エリックが悪いのではない。彼は厳しい人生を歩まざるを得なかったのだから、他人に対して懐疑的に振る舞ってしまうところがあるのだ。同居している自分に対してもそうであることは寂しいけれど、少なくともわたしに対しては悪意があってしているわけではない、と思っている。だから気にするのはよそう。
 エリックはしばしじっとして何やら考え込んでいるようだった。ややあって口を開く。
「ドレスがいいかな。宝石を買ってもお前はなかなか身につけてくれないから」
「何の話?」
 唐突すぎてついていけない。わたしは首を傾げた。
 エリックは当然のような声音で答える。
「この金の使い道さ。大事に仕舞ったってしょうがない。なにしろこっちはもうなくなったものだと考えていたからな。ならば発見者に礼でもしようかとね」
「それでドレス?」
 お礼にしては高価すぎないかとわたしは目を見開いた。エリックは頷く。
「ドレスに限定するつもりはないよ。何か欲しいものがあったらそれにしよう。何かあるかね?」
 期待するように目に光を宿らせ、彼はわたしの答えを待つ。わたしは困惑して思わず口ごもった。なんだかとてもすごいことを言われたような気がするのだ。
「あの、さっきの口振りだと、お礼の予算上限は千フランのような気がするんだけど」
「もちろんそうさ。まあ、多少なら足が出ても構わないよ。千フランというのは微妙な額だからな。普段着用のドレスを二着作ろうと思ったら少し足りないだろうし、豪華な一着を作ろうと思えば少し余る」
 なんという人だ。千フランを見つけたお礼が千フランだなんて。わたしの散歩時のお小遣いの約三年分じゃないか。いや、毎日歩くわけでもないので、四年分か? それとも五年分かしら。
「たまたま見つけただけだもの、別にお礼なんていいのよ。そんなつもりで知らせたわけじゃないし」
 呆れつつも、エリックのお金なのだからエリックが持っていればいいと言い返すが、今度は特に使い道がないからわたしに還元したいと言い出す。感謝の気持ちだ、と付け加えて。
「感謝って……。せめて一割じゃない、こういうのって」
「一割?」
 エリックは意味がわからないというように問い返してきた。
「うん。ええとね、わたしの時代の日本では拾ったものを警察に届けた場合、一定期間が経過しても持ち主が現れなかった場合は届け出た人がもらえるようになっているのよ。で、持ち主が現れたら、持ち主がお礼をすることもあるんだけど――お礼は義務ではないから必ずというわけではないんだけどね――その相場が取得物の価値の一割分らしいの」
 エリックは信じられないとでもいうように驚愕の表情を浮かべる。
「お前の国の人間は、拾った金をわざわざ届けるのか? 律儀なのは国民性なのか?」
「拾ってそのまま自分のものにする人もいるでしょうよ。わたしだって小銭くらいなら届けないし……。でもさすがにお財布丸ごと、とかだったら届けるな。落とした人が気の毒っていうこともあるけど、その場面を誰かに見られてトラブルに巻き込まれたりしたら面倒だもの」
 エリックは首をかしげる。
「それは正直というのとはちょっと違うようだな」
「そうね、自己保身が優先しているから、あまり自慢にならないとは思うわ」
 わたしは重々しく頷いた。 
 エリックは一割程度ならドレスは無理だなと言うと――なぜこの人はこうもドレスにこだわるのだろうか。もっと着飾ってくれという遠回しな要請ではないかとすら思えてくる。……あれ? 本当にそうだったりして――わたしでも困らないようなお礼の品を後で用意しようと告げた。こんなことでドレスを贈られても困るので、それが回避できたのは助かるのだが、百フラン相当のお礼でもまだまだ高額だ。エリックは気持ちだというし、そういうものを断固として断り続けるというのも失礼になるとは思うが、わたしがエリックの家に住まわせてもらうようになって一年も経ってはいない。身の回りの品は据え付けの家具以外全部新品でそろえてもらったのに、さらに何かをもらうなんて、さすがに気が引けるというものだ。
 そう答えるとエリックは思案するように目を伏せる。やがて彼は目をあげて素っ気なく言った。
「私も一割の謝礼をもらおう。それならば相殺されて、お前も気兼ねなく私からの礼を受け取れるだろう」
「あなたが?」
 その場合、一割の謝礼を渡すのはわたしになるのだろうが、わたしは特になくし物はしていないと、不思議に思って聞き返す。エリックは腕を組んで後ろを向いた。
「お前はある日、ふいにあそこに落ちていたからな。つまりは落としものだ。もちろんお前を金に換算することなどできんし、礼金を払えなどと言う気はないが、気持ちを行動に表すことはできるだろう」
 確かにそういう考え方もできるが、しかし感謝の気持ちを行動にって、具体的にどうすればいいのだろう。できるものならやりたいところだけど……。
 困惑しながら彼を見上げると、なんとなくエリックの身体が強ばっているように感じた。そう、ひどく緊張しているというか……。
 もしかして、とわたしは本を膝からどけて立ち上がる。そっとエリックの腕に手を添え、彼の顔をのぞき込んだ。
「エリック」
 名前を呼ぶと彼はさっとわたしに目を走らせるや、顔を背けた。エリックは自分を守るかのように、組んだ腕をさらに強く自分の身体に押しつける。半面を仮面で覆われたその顔は、ひどくばつが悪そうで、言わなければよかった、と書いているようだった。
 わたしは思い切って口を開く。
「エリック、キスをしていい?」
 エリックとのつきあいはまだ短いが、それでも学んだことがある。それは彼は人との触れ合いを強く求めているということ。だが、それを恐れてもいるということだ。
 エリックは逡巡したのちにこくりと頷いた。わたしは爪先立って彼の顔に唇を寄せる。エリックも身を屈めてそれを受け入れた。



「キス一回で百フランなんて、すっごく高いよね。ねえ、もう一回しましょうか?」
 殊更軽い調子で話すも、火照った頬はきっと誤魔化せていないだろう。
 エリックはわたしの背に手を当てながら、緩やかに頭を振る。彼はやけに感慨深そうな表情を浮かべていた。
「いいや、キスはもういい」
 もうってどういうことだろう。その先をしてくれということか? しかしその先というのは「どこまで」のことなのだろうか。さすがにエリックはわたしに押し倒してもらいたいと思っているわけではないだろうけど……。
 どう行動したらよいのかわからず、わたしは棒立ちになった。困惑と羞恥による冷や汗で身体が暑いやら冷たいやら。自分がいまどんな顔色をしているのか、切実に知りたいところだった。
 エリックは身を屈めて、わたしの肩に額を預ける。
「お前がここにいることが何よりの礼になる。わたしと共にいて幸福だと思ってくれているのなら……」
 エリックは両の腕を回し、抱きしめてくる。わたしを逃がさないとでもいうかのようにその腕の力は強く、だが声はかすかに震えている。
 望まれている。
 求められている。
 彼の思いが伝わってくる。
 わたしは目を閉じてエリックの胸にもたれかかった。
「ええ、エリック。わたし、あなたに出会えて良かったと思うわ」
 時と国を越えた先に出会ったのがなぜ彼だったのか。
 それはわからないけれど、でも。
「愛してる、エリック」



遺失物法によると、拾得者への謝礼はその品物の価格の5〜20%にあたる額だそうです。謝礼は一割、となんとなく思い込んでいたので、2割ももらえることもあるのかーと、なんだかお得情報を知ったような気分になった(笑)
ま、謝礼は義務ではないので、やっぱり必ずもらえるわけではないようですけど…。




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