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俺には睡眠は必要がない。だから眠らないと見られない夢を見ることなんてない。だからあの変な噴水は公園にあるのだろう。
実のところ、俺が倒れていたのは寝ていただけ説を聞いたあとも、半分以上信じられないでいた。だから小次郎さんの散歩をしに久しぶりに公園に行った時も、あの噴水はあるのだろうと思ったのだ。けれど公園中をくまなく回っても、やはりジョーさんが推理したように、円筒形の噴水なんてなかった。もちろん椅子とテーブルのセットだってない。年明け後の公園は去年と同じままだった。途中で会った飼い主仲間のひとたちにも聞いてみたけれど、この公園には前からあった噴水しかなくて、今のところ新しく建設される予定もないという。だからどれだけ納得がいかなくてもやはりあれは夢だったのだろう。そういうことなら、もしまた眠ることがあれば俺は夢を見るのだろうか。そしてその内容はまた公園なのだろうか、それとも別なもの?
楽しみのような、少し不安なような思いを抱えながら、夜もパソコンに戻らない生活を始めてから五日が経った。
仮眠なしの二日間の徹夜でも結構きついよ、とマスターが言っていたけれど、五日が経過していても、やはり俺が自覚する限りにおいてはだが、何も変わった感じはしなかった。けれどこれはこれで確かにきつい。眠いとか疲れたとかではなくて、時間が有り余って仕方がないからだ。
マスターは音量に気をつけてくれればゲームをしてもいいよとは言ってくれたけれど、マスターと対戦するわけでもないのなら俺はゲームをする気にはなれない。ネットサーフィンも英語の勉強も、昼間だけで十分時間が取れている。もちろん、夜の間も英語を勉強し続けたら俺の英語能力は飛躍的に伸びるだろうけれど、昼間もやっていることを思うと夜はなかなか、集中できなかった。
それ以前に、リビングでは小次郎さんが寝ているのだ。電気をつけたら起こしてしまう。そうでなくても、俺一人のために夜中ずっと電気をつけるなんて、電気代がもったいないではないか。
だから時々思いついた雑用をこなす以外は、明かりを消したリビングで、俺はひたすらぼーっと時間が過ぎるのを待っていたのだった。
(夜通し遊ぶっていう人は何をして遊んでいるんだろう……)
暇すぎてうんざりしている俺はどうでも良いことをよく考えてしまう。
お酒を飲んだりするというのは知っている。けれどそれだけで朝まで時間がつぶせるものだろうか。それ以外にもあるのだろうか。謎だ。
時計を見上げると、もうすぐ夜中の二時を指すところだった。やっと次の時間が来たので、ぼうっとしていた頭がクリアになってくる。
電波時計の長針と秒針が真上に重なるのを待って、俺はゲームを開始した。
足音がしないように歩いて、マスターの寝室のドアを開ける。頭だけ突っ込んで中をのぞきこむと、マスターが熟睡しているかどうかを寝息を聞いて確認した。マスターは電気を全部消して寝るので目が慣れるまで少しかかる。それからそっと中に入った。
このゲームは実のところ、二日目から行っている。初日があまりにも暇だったため、何かしないではいられなくなったのだ。
区切りの良い時間にマスターの寝室に入って、十分間だけ滞在する。もちろんマスターが起きたらゲームオーバーだ。この十分で何をするのかは決まっていない。前回は音をたてずにスキップしながらベッドの脇をいったりきたりしてみた。他にも適当に踊ってみたりとか。
我ながら馬鹿みたいだとは思うが、元々このゲームに意味なんてないので、こんなものでいいと思う。とりあえず、マスターと同じ部屋にいられるので、俺は満足だ。
今度は何をしようかと、部屋を見渡す。今までは音を立てないで行動するだけだったから、今度はもうちょっと冒険してみようか。
俺はベッドの足下側の端にゆっくりと腰を下ろした。マットが沈むと、マスターが身じろぐ気配がする。
ドキドキしながら見つめるも、特に寝返りを打つことなくマスターは眠り続けた。ほっと息を吐き、緊張が解けたことでわけもなく笑えてきた。
このゲームの最終形態としては、音を出すことだろう。もちろん、マスターが起きない範囲でだ。十日目の夜にすることだけはもう決めている。小さい声で歌ってみることだ。十日も続けられない可能性もあるけれど、それはそれ。
俺はぶらぶらと足を前後に揺らした。その反動でマットがきしきしと揺れる。音も危険だが震動も危険だ。あまり揺らさないようにしようとは思いつつも、これを今回の冒険にしようと決めた俺は、揺らしては止め、揺らしては止めを繰り返した。
規定の十分が経過したので、俺はまた音に気をつけつつ寝室のドアを開け、退散した。今回はなかなかスリリングだった。マスターが寝返りを打つこと一回、寝言みたいなうなり声みたいなものをあげること一回。うなり声みたいなものを上げたときには、腕で顔をこするような動作もしたから目が覚めかけているんじゃないかと思って本当に緊張した。一応、目が慣れれば部屋の様子はわかるようになるとはいえ、電気はついていないから、もしもマスターが目が覚めてもすぐにはバレまい。じっとしていたらまた眠ってしまうだろう、という計算はあった。……トイレに起き出したらアウトだろうけど。
けれど今回も俺は勝った。マスターは起きなかったのだ。
心地よい達成感に浸りながら、次の三時まで何をしようか考える。ゲームをするようになってからは、開始五分前と終了後五分後もドキドキ感が続くので、時間つぶしも大分楽になった。夜中も起きている生活は折り返しに来ているので、この分ならばなんとかやり過ごせそう。だけど、その後はどうなるんだろう。
ジョーさんが次の何かを提案してくれるのだろうか。それとも俺が考えたことを実行してもいいのだろうか。ジョーさんが自分のことなんだから少しは自分で考えろというので頭をひねって考えたのだけど、これを実行しようとするとマスターに嫌がられる可能性が高い。だからジョーさんにも後押しをしてほしいんだけど……。
それというのも、今回の実験が終わったら、俺は人間と同じ生活をしばらくしてみようかと考えたのだ。朝起きて、食事をし、日中は活動をして夜には眠るという、いわゆる規則正しい生活というのを実行してみるのだ。ジョーさんは俺が倒れたのは、眠気というものがどういうものかわからないから限界まで我慢してしまったのだ、と言っていた。それから以前聞きかじったことだけど、寝ないといけないのに眠れない時でも、布団に入って目をつぶっていればそれだけでもある程度の疲労回復にはなるのだという。もちろんこれは実体化ボーカロイド向けの知識ではないけれど、毎日同じ生活をしていれば、そのうち俺も毎日睡眠を取れるようになるかもしれない。身体が睡眠に慣れるかもしれない。ならその方がいいじゃないか。だってそれならもう、夜の間、一人で退屈しなくてすむ。
そしてその生活に必要なものは寝具だ。いくら頑丈な俺だって、身体のどこかに体重がかかり続けたらそこが痛くなってくる。だから毎晩床に寝るというのは避けたい。ソファもあるけれど、身体が伸ばせないし狭いので、できればこれも避けたいのだ。
となると俺の分の布団を一式買わなければならない。
幸い、俺が当てた懸賞品で使わないものを処分したことで得たお金があるので安い布団セットなら買えそうなのだ。問題はそれを敷く場所だ。
マスターが学校に行っている間にこれらに関する問題を色々考えて、まずは布団を敷く場所は必要だとあっちこっち計ってみた。その結果、もしもリビングに敷くのであれば、ソファとテーブルはキッチン側か窓の方に移動させなければいけないことがわかった。毎日のことと思うと、それはちょっと大変かと思う。それからリビングには布団を収納するスペースはないし、畳んであっても出しっぱなしはちょっと気になる。
ということでマスターの寝室を計ってみたら、今度は布団そのものを敷くスペースがなかった。だからもし俺の分の寝具を買うのであれば、思い切ってダブルベッドを用意できればとても良いと思うのだ。それなら置けるから。セミダブルだともう少し部屋を広く使えるけど、俺とマスター二人ではそれも狭いだろう。
もちろんその分、費用は跳ね上がる。俺が貯めた分では全然足りない。それにマスターは嫌がるだろう。ちょっとどころではなく、とても。
でもそうなったらどれだけ幸せか。
俺はジョーさんの実家にいたときに、何度もお願いして以前俺とマスターが二人で生活しているにしてはおかしい点がないか確認してもらった時に判明した、かなりおかしい点があるというその内容を聞き出したのだ。
それは二人いるのになんでシングルベッド一台しかないのかということなのだそうだ。二人で使うにしても狭すぎるだろう、と。
確かにそれはおかしいと、指摘されて初めて気づいた。
さらにジョーさんは解説してくれて、クローゼットの中に布団があるかもしれないと思いつくくらいはするだろうけれど、同棲状態なのにわざわざ布団とベッドに分かれるのも妙な話だと。特に俺がマスターに遠慮ない好意を示しているのが丸わかりだからなおさらおかしな感じがすると。
そうだよね。人間が二人暮らしているのなら、二人が使えるだけの寝具は必要だ。でも俺はずっと夜はパソコンに戻っていたので、そんなものは必要ではなかったのだ。
だけど今後、それを使う必要があるかもしれないなら、日々の掃除のしやすさとか生活空間を必要以上に狭くしないようにとか色々考えると、やはりベッドが一番だと思うのだ。だから選択肢にはリビングに布団を敷いて、朝になったらマスターの寝室の片隅に置いておくということは考えていない。マスターだったら、それが一番いいと言いそうな気はするけれど。
けれども簡単に新しいベッドを買いましょうとも言えない。お金の問題だけじゃない。それこそ今までの関係が崩れてしまいかねないのだ。犬仲間の人たちに勘違いされたのをそのままにしているという状態ではなく、本当の恋人になってくださいと迫るようなものなのだ。
それは俺としては全く問題ないのだけれど、マスターはきっと、多分、おそらく受け入れてはくれないだろう。俺はそういう対象ではないのだ。マスターからしたら俺は小次郎さんより頭の悪い、手のかかる犬なのだそうだから。
俺が意思表示をしたことでマスターが俺を今以上に負担に思うようになったら、この生活も終わってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたい。だってそんなことになったら、約束した笑ってのお別れなんて、とてもできそうにないから。
だから俺としてはマスターの方から俺がもっと近づいてもいいと思うようになってほしいのだ。そのためのあの日の宣言なんだ。
……とはいえ、道のりが遠いのはわかりきっていることなので、先が不安ではある。