「このごろ大人しいわよね〜」
「なにが?」
全体でのレッスンが終わり、開演までの休憩時間のこと。
メグがぼそっと呟いた。
片肘をついて焼き菓子を齧っている姿は少々お行儀が悪いが、可愛らしいあどけなさがある。
「ファントムよ、ファントム!このところ、派手な動きが全然ないじゃない」
「え……そう?……そうね」
メグはうろんげに目を細めたが、気を取り直したようにカフェオレを飲んだ。
「大きな嫌がらせはあんまりやらなくなったわね。今日だって群舞のサラの髪ピンを隠しただけだし、おとといは衣装係のオリヴィエの帽子をぺちゃんこにしちゃっただけだもん」
……髪ピンがなくなったのも、帽子がぺちゃんこになったのも、断じてエリックのせいではない。
彼は嫌がらせをするにしても、そこまで子供じみたことはしないのだ。
オペラ座で起こった不都合はすべてファントムに被されてしまう。
今ではわたしもそのことはよーくわかるようになったのだが……ここで『ファントム』の弁護をするわけにもいかない。
「おかげでラ・カルロッタは上機嫌!よ。おかげであの人の横暴さったら、前よりひどくなったと思わない?」
メグは肩をすくめた。
「たまにはぎゃっふーんって目に逢えばいいんだわ。本当のところをいうとあたし、ファントムがカルロッタに嫌がらせするの、見ててすっきりしてたのよね〜。あの人ったら、自分ばっかり目立ちたがってバレリーナを吹っ飛ばすように舞台を動き回るんだもん」
エリックと夜のブローニュを散策してから二ヶ月が経っている。
その間も『音楽の天使』とのレッスンは毎日行われていた。
ただし場所は変わった。
わたしの楽屋ではなく、エリックの住処でだ。
彼からそのことを提案された時に、わたしは代わりにオペラ座に「事故」を起こすのはやめて欲しいとお願いしたのだ。
今のところ彼はその約束を果たしてくれている。
移動の時間をとるために以前より一時間早起きするようになったため、公演が終わった後はくたくたになるのだが仕方がない。
「でも機嫌がいいのはカルロッタとファントムを怖がってた人たちだけで、支配人は相変わらず不機嫌よ。なにしろファントムはしっかり給料を持ってってるって、ママが言ってたもん」
「やっぱり、そうなの?」
わたしはカフェオレボウルにそっと手を添えた。
ファントムの脅迫についてはわたしたちのような下っ端のコーラスガールやバレリーナには知らされることはない。
そのため、オペラ座の関係者の中で一番彼に近いわたしであっても、詳細は知らないのだ。
一年で二万フランもあればじゅうぶんブルジョワとして通用するのに、エリックはそれを毎月要求している。
彼の身につけているものや身の回りの品がどれだけ高価であっても月に二万フランもかかるとは思えない。
やりすぎだとは思っているがこの件に関してだけはわたしも強く言えなかった。
「らしいわよ。支配人室への嫌がらせがすごくって、それなら給料を受け取りにきたところを捕まえるなり聖水を浴びせるなりしてやろうって、待ち構えていたのに、なーんにもおこらない。なのにお金をいれてる封筒を確かめると、決まって中身がなくなっているんですって!」
支配人たちには気の毒だが、相手が悪いとしか言いようがない。
エリックは大きな仕掛けを作るだけじゃなく、奇術も得意なのだ。
「やっぱり、ファントムはいるのね」
そう、彼はいるのだ。
わたしの心の中に。
オペラ座の地下に。
「多分ね。このままずっと大人しくしているのかなぁ」
ちょっとつまんないわね、とメグは無邪気に笑った。
