緑の濃い草原に、馬たちがいた。
 思い思いに草をはみ、駆けている。
 人を乗せているものはほとんどいない。訓練や行軍がない限りは、のんびりしたものだ。
 その中にあって、並んで馬を疾駆させている者たちがいる。
 長い髪を翻しているこの二人は、片方が金髪、もう一人は濃い茶色だった。
 馬はそれとは逆で、金髪の娘は黒鹿毛に、濃い茶色の髪の娘は月毛に乗っていた。
「ああ、いい気持ち!」
 馬の足を緩めると、エオウィンは顎をあげて目を細めた。
 遮るもののない草原を渡る風が、彼女の白い頬をなで、豊かな髪を揺らす。
「この位の時間が一番いいわね。昼間だとまだ暑くて……」
 ブレードをゆっくりと歩かせながらは滲んだ汗を拭った。
 季節はそろそろ夏の終わりであるが、まだ日も長く、日中は暑い。朝食前のひと乗りをと出てきた二人だったが、すでに天には黄色い太陽が照り輝いていた。動くたびに真っ黒な影が緑の原に映し出される。だが草原を満たす香は徐々に水気を少なくしており、もうじき実りの秋が来ることを感じさせる。
「本当にね。だけどこれくらいでへこたれていてはきっとイシリアンではやっていけないでしょうね。あちらはここよりもずっと南にあるのだもの」
 愛する人のところへ行くというのに、エオウィンの声には寂しげなものが混じっていた。
 は案じるように眉を寄せ、問うように彼女を見やる。エオウィンは小さく笑った。
「後悔はしていないわ。わたくしはファラミア様と共に生きることを心から望んでいるのですもの。だけどマークを離れることになるなんて、少しも考えていなかったから……。知らない土地で暮らすのは、やっぱり少し不安ね」
 手を伸ばして馬の鬣をなでる。
「こうして毎日のように馬に乗ることもできなくなるでしょうね」
 エオウィンの輿入れは十一月と決まった。収穫の時期が過ぎ、本格的な冬を迎えるその前に、彼女はゴンドールへと向かう。あの国でも乗馬をたしなむ婦人はいないわけではないのだが、エオウィンほど達者に乗りこなす者もいなければ、頻繁に出かける者もいないだろう。なにより兄のエオメルが毎日のように釘を刺しにくるのだ。執政妃となるならば、しとやかでなければ、と。
「その気持ちはわかると思うわ」
 が言うと、エオウィンはさっと表情を曇らせる。
「ごめんなさい、わたくし……」
 婚約者をなくした娘に無神経なことを言ってしまったと、エオウィンは後悔した。
「気にしないで、エオウィン。いつも通りに接してちょうだい。本当にね、どうにかならないかなって思うのよ。皆してあなたの結婚話で盛り上がっていても、わたしが来るとぴたっと止めてしまって。わたしだって一緒に喜びたいのに、輪の中にいれてくれないのだもの。未亡人崩れは仲間に入れたくないのね」
 いたずらめかしてよよと泣きまねをすると、エオウィンは慌てふためいた。
「そんなことはないわ。ただ、あなたを傷つけてしまうのではないかと思っているだけなのだから。セオドレドさえ健在ならと、どうしても考えずにはいられないのですもの」
 あまりに申しわけなさそうにしているので、は少しやりすぎたかと思った。
「ごめんなさい、ちょっと言い過ぎた。でも、わたしもあなたを祝福しているのよ?」
「ええ。わかっているわ」
「結婚式にも出席するわよ。マーク以外の国を見られる機会ないんて、そうそうないもの。逃すなんてもったいないわ」
 念を押すように言うに、エオウィンはくすぐったそうに笑う。
「もちろんよ。ぜひ来て頂戴な。あなたがいるからわたくしは安心して嫁げるのだもの。伯父上もセオドレドもいなくなって、わたくしまでいなくなってしまったら、館はどれほど静かになってしまうことか」
「そうね……。それにこんな風に気楽におしゃべりすることもできなくなるのよね」
 言いながらはどんどん悲しくなってきた。
「やっぱり、陛下の気持ちもわかるわ。もう少し近いところにお嫁に行けばって思ってしまうもの」
……」
 うな垂れた自分を見てエオウィンが表情を曇らせたことに気付き、ははっと顔を上げた。
「だからといって、ファラミア様が嫌だというわけではないのよ」
「ええ。素敵な方でしょう?」
 先ほどのちょっとした意地悪の仕返しに、エオウィンが澄まして答える。は思わず噴出してしまった。
「ね、
「なあに?」
 柔らかな空気が二人の間を流れる。
「前にも話したけれど、わたくし、あなたがマーク王妃になるのもありだと思っているのよ」
「ちょっと、エオウィン!」
 まだその話をするつもりなのかと、は呆れ顔になった。
 エオウィンはそんな少女の表情に気が付いていないとでもいうように淡々と話を続ける。
「兄上はセオドレドと比べれば色々と劣るところはあるわ。がさつだし、無骨だし、女性の心の機微なんてさっぱりわからない。優雅さも解さないし、軍の采配を振るうとはいえ、基本的には猪武者だし。つまり血の気が多くて周りが見えなくなりやすいのよ。情に厚いのは悪くないかもしれないけれど、度が外れているような気もいたしますし……」
「エ、エオウィン……。陛下が聞いたら泣いちゃうんじゃないかしら」
 エオメルが哀れに思えて、はエオウィンを諌めた。
「あら、本当のことですもの。でも妹のわたくしが言うのもなんですけれど、そういった点を差し引いても、エオメルは結構いい漢だと思いません?」
 はどう答えたものか迷った。
「それともやはりレゴラス殿の方がよいのかしら?」
 エオウィンは真意を探るように真っ直ぐにみつめてきた。
「レゴラスは……」
 脳裏に明るい金髪の青年が浮かぶ。相棒となったドワーフと一緒に、帰る道すがら旅をするのだと行っていた彼は、まだどこかをふらふら歩いているのだろうか。
「現実的ではないでしょう。話をするにはとても楽しい方ではあるけど」
「そうね」
 やはりレゴラスを思い出していたらしいエオウィンが、複雑な表情で同意した。
「だけど本気のレゴラス殿と本気ではない兄上ならやはりレゴラス殿の方が有利だと思うわ。ああ、わたくしどうしましょう。あなたがご近所に来たらとても嬉しいけれど、兄上が負けるのは悔しいのですもの」
「ねえ、エオウィン。わたしにはその二つしか選択がないの……?」
 真顔でいう白の姫君に、はがっくりと肩を落とした。


 一汗かいて館に戻ると、朝食の時間になっていた。
 着替えて食卓につくと、先に席についていたエオメルがぼんやりした顔で肘をついていた。
「おはようございます、兄上。どうなさいましたの?」
「――ああ。いや、ちょっと眠れなかったのでな……」
 力なくエオメルは答える。
「何か、心配事が?」
 常にない兄の様子に妹姫は眉を寄せる。生真面目であるが、根は単純な彼がここまで憔悴しているのは初めてだったのだ。
「そうじゃない、ただ、今日の閣議に関してまとめていたら、いつの間にか朝になっていてな……」
「つまり、徹夜なさっていたのですね」
 エオウィンは拍子抜けする。
「こういう仕事は慣れていなかったからなぁ……」
 エオメルは大きなため息をついた。
「だけど今日の閣議の内容はすでに決めていたはずでしょう。どうして徹夜をする必要があったのです?」
 エオウィンの隣に座っていたは首を傾げた。
 彼女は数日前にエオメルに意見を求められていたのだ。その内容というと、マークの軍編成を刷新するというものだった。王になって半年ほどのエオメルにとって、最も大きな改革案になる。
「そうなんだが、これで本当に良いのか、もっと良いやり方があるのではないかと思えてきてなぁ。ああでもないこうでもないと考えているうちに、すっかりわけがわからなくなってしまったのだ」
 は気の毒そうにエオメルを見やる。
「それほど悩まなくても大丈夫ですよ。なんのために話し合いをするのだと思っているんです。おかしなところがあれば指摘してくれますよ。それとも、臣下に間違いを指摘されるのは我慢なりませんか?」
「そんなことはないが……」
 試すような物言いに、エオメルは憮然となった。
「だが王の身では過ちを犯すわけにはゆかぬ。伯父上のようにとはいかずとも、皆を落胆させたくはないのだ」
 は苦笑した。エオウィンはああ言ったが、彼は自らに課せられた使命を真剣に向き合っているのだ。肩に力が入りすぎているが。
「はじめから完璧な王などおりませんよ。それに、陛下は陛下で、セオデン王とは違います。諸侯も陛下のことはお小さい頃から知っている方ばかりでしょう。何が得意で何が不得意かくらい、とっくに見抜いていらっしゃるでしょう。背伸びをするよりも、確実にこなせることをなさった方がよろしいのではありませんか?」
「む……」
 これは虚仮にされているのだろうかとエオメルは渋面になる。
「茶化しているのではありません。仕事熱心なのはいいけれど、無理を続けて身体を壊されたらそのほうが困るもの。あれこれ背負いこんで大変だろうとは思うけれど、あなたの重荷は少しも分けることができない類のものではないはず。もっと周りを頼ってみては?」
 穏やかな微笑を浮かべて諭す少女に、年若い王は表情を和らげた。
「そうかもしれんな……。少し、意固地になっていたかもしれん」
 あっという間に行き詰っていた新王を和らげたを、エオウィンは楽しげに見やる。それから機嫌よく兄に笑いかけた。
「兄上、食事が済みましたら、少し休んだ方がよろしいですわ。そのご様子では進むものも進まなくなってしまいますよ」
「わかった、わかった」
 女性二人に詰め寄られて、エオメルは観念するように両手をあげた。
 そして午後になり、招集をかけられた諸侯や廷臣たちが広間に集まる。
 一眠りしてすっきりしたエオメルは、玉座に座り彼らに向き合った。
「……ということで、今後は国王直属軍及び、西マーク、東マークの三軍に分かれる。名称の変化だけのように思えるだろうが、これまでのような優先順位はなくなるのだ。西は東に対して優位に立つわけではなく、逆もまた然りである。これにより、緊急時の対応をより迅速なものにできると思っている。それと、兵たちが切磋琢磨し互いに技量を高めることを期待している。異論のある者はいるか?」
 見渡すが反論の声は無い。
「では次に、西マーク軍団長と東マーク軍団長の選定を行う。わたしはエルケンブランドを西マーク軍団長に、エルフヘルムを東マーク軍団長に据えたいと思う。両名とも、不服はないか?」
 途端に広間はざわめきだした。
「失礼ながら陛下。エルケンブランド卿は軍団の長を務めるにはいささか老齢すぎませんでしょうか」
 諸侯の一人が発言をしたのを機に、議論が白熱しだす。
「ならば誰がふさわしいと?」
「ご子息ならばまだ……」
「いや、彼はまだ若すぎるではないか」
「しかし、先だっての合戦の功績を考えると……」
「グリムボルド殿がご存命であれば……」
 しばらく耳を済ませていたエオメルだったが、まとまりがつかないようなので止めにかかった。足を音高く踏み鳴らすと、水を打ったように静まり返る。
「エルケンブランド。そなたの考えは?」
 西の谷の領主は諸侯たちの間から前に進み出、国王の前で一礼した。
 その背は年に似合わぬほどまっすぐに伸び、いまだ衰えるところがないと暗に示している。
「わたくしの年齢を気にしている者もおるようですが、まだ若い者には負けてはおりませぬ。それにわたくしは穏やかな死など望んでおりませぬ。戦場で名誉と共に父祖の地へ赴きたい。殿のご指名、ありがたく拝命いたします」
 広間に響き渡るほど威厳のある声で老領主が答えると、それ以上反論するものは出てこなかった。エオメルは一つ頷いて力強い笑みを浮かべる。
「では、よろしく頼む。エルフヘルム、そなたはどうだ?」
 エルフヘルムも前へ進み出ると、厳しい顔をますます引き締めて礼をした。
「聞くまでもないことです、殿。このエルフヘルム、誠心誠意勤めまする」
「では、これで決定だ」
 エオメルは満足して両手を組んだ。
 新たに創設された西マークと東マークの軍団長たちが、もとの位置に戻るのを見計らって次の議題に入る。
「さて、それでは次の問題について諸君らの意見を聞きたく思う」
 王は立ち上がり、階段をゆっくりと降りた。
「記憶に新しいところだが、我らには長い間頭を痛めていた問題があった。蛇の舌グリマがセオデン先王を誑かし、王は健やかな判断力を失ってしまわれた。後に解決したとはいえ、このようなことは今後もあるかもしれぬ。私はそれを防げるようにしたい」
 エオメルの発言に、諸侯から無言のざわめきが起こった。ぴりぴりした緊張感が広間に充満する。
「諸君らの中から裏切り者が出ることを疑っているのではない。他者の介入によらずとも、老齢や重い怪我で王の務めを果たすことができなくなることはあるだろう。これまでは国王は死をもってしか次代に位を譲り渡すことができなかったが、私はそれを改めたく思う。どのような形であれ、統治者が統治できぬ空白時期を作るの危険だ」
 エルフヘルムが発言の許可を求めてきた。
「それは世継とは別ということなのですかな、殿」
 エオメルは頷く。
「世継がいればそれで構わぬと思うが、いつでも必ず充分な年齢に達した世継がいるとは限るまい。私に関して言えば、これからの二十年間は世継ができてもその者は年若すぎて王の務めを果たすことはできぬだろう。私も簡単に死ぬつもりはないが、こればかりは我が意ではどうにもならん。私が欲しているのは、どのような状況になろうとも……つまり国王が戦で国を留守にしていようと、病や老齢で指揮を執ることができなくとも、裏切り者に傀儡にされようと、民を導き守れる者がいるという仕組みなのだ。そのための人材は王家の者に限ることはあるまい」
「殿のおっしゃることは尤もです。ですが、そうなりますと、その国王代理、とでも申しますか、その選定はともかくとして、実際に交代するには国王の承認だけでは足りますまい」
 エルフヘルムはエオメルの言わんとしていることを飲み込もうと、考えながら訊ねる。新王は朗らかに笑んだ。
「むろん、そうなるだろうな。なにしろ国王がまともな判断をできない可能性もあるのだから。だから交代に際しては、国王よりも議会の意志が尊重されることになるだろう」
 広間は一斉にどよめいた。なにしろ国主の交代に王以外の判断が入ることはなかったのだ。王の権力が一部とはいえ、割り割かれたことになる。このようなことは前代未聞だった。
 エオメルは反響の大きさに驚く。
「あまり大げさにとらないでほしい。結局のところ、これはこれまで戦時に行っていた国王代理を明文化するということなのだから」
「しかし、これをいま決めるとなりますと、王家の者以外の国王代理が誕生してしまいますが……」
 困惑を隠しきれずにエルケンブランドが訊ねる。
「不安か?」
 新王は父より年上の軍団長を真っ直ぐにみつめ返した。
「必要な案であることは承知いたしましたが、人選だけは慎重にいたしませぬと、国が崩壊する可能性もありますかと」
 指摘されてエオメルは頭をかいた。
「まあ、そうだが。しかし決めていなかった数ヶ月前も、やはり崩壊しかかったではないか」
 苦い表情をする王に、エルケンブランドは恐縮する。
「他に反対はないか? ならば誰を選ぶかを決めたい。まだ我らはゴンドールの要請で東に全軍で向かうこともあるだろう。だから軍団長の二人は候補にはいれられん。それ以外で誰がいいだろうか?」
 呼びかけるが、誰も答えない。近くにいる者とひそひそと話すか、顔色を伺っているだけだ。だが無理もないかとエオメルは思った。ことは、国王に準じる権力を持つことになるかもしれない人物を王家以外の人間から選ぶということだ。グリマの専横が記憶に新しいだけに、誰もが二の足を踏むのだ。下手をすればあの男の印象でもって糾弾される可能性がある。
(エオウィンがいてくれたらなぁ……)
 妹姫が宮廷にいてくれれば、誰も異論はなかっただろう。まずはエオウィンが代理の任につき、結婚したあとはその夫がなればよいのだ。そうすればエオメルの世継が成長するまでは充分だろうと思えるのだ。だが癪なことに、彼女はイシリアンに嫁に行くのだ。
「殿、その代理国王は女性ではいけませんかな?」
 エルフヘルムが訊ねる。厳つい顔に難しい表情を浮かべているので、赤子ならば泣き出してしまいそうである。
「女性……? 目ぼしい男がいなければ致し方ないとは思うが、しかしエオウィンは無理だぞ」
 自分の心が読まれたのかと思ったが、そうではないようだ。エルフヘルムは頭を振る。
「エオウィン姫ではございませぬ。・レオフォスト姫はどうかと思ったのでございます。短い間とはいえ、かの姫には実績がございますし、エドラスのみならず民の信頼も集めてきています」
 エオメルは一瞬言葉がみつからなかった。
 東マーク軍団長の発言に、またもやざわめきが大きくなる。
……? それは……思い切った案だな。しかし代理の務めは国内に留まるだけとは限るまい。有事には兵を率いて指揮を取れる者でなければ……。彼女ではそれは無理だろう」
「一度やらせてみては? 我らが知らぬだけで案外盾持つ乙女たる技量を持ち合わせているのかもしれませんぞ」
「本気か!?」
 真顔で返す軍団長に新王は目を剥いた。
「まあ、あの細腕ではさすがに剣を振り回すこともできぬと思いますが」
 人の悪い笑みを浮かべるエルフヘルムに、エオメルは大きく息をついた。
「脅かさないでくれ。しかしエルフヘルム。そなたは従兄上が彼女を妻にと望んだ時に頑強に反対していたと聞くが、ずいぶんと買うようになったのだな」
 揶揄するように言われて、エルフヘルムは苦笑いを浮かべた。
「しかたがありませぬ。数々の実績を見せられては反対をしようにもできませぬからな」
「陛下、よろしいでしょうか」
 軍団長の発言ににわかに勢いづいた廷臣が前へ進みでる。
「レオフォスト姫を国王代理にという案にはわたくしも賛成できかねますが、あの方を妃とされるのはいかがでしょう。なればお世継の問題も早々に解消いたしましょうし、今のあの方でしたら大きな反対も起きないと思われるのですが」
「なん……」
 真面目にいっているのはわかるが、そのことだけは持ち出してほしくなかった。エオメルは天を仰ぎたくなるのを懸命にこらえる。
 他の者たちも我先にと発言しだす。
「わたくしも賛成いたします。もとよりあの方は王妃陛下となられる予定だったではありませんか」
「そうでございますとも。それに、このまま手をこまねいていればあのエルフの若君にかっさらわれてしまいますぞ!」
「左様ですとも。我らはすでにエルフに対して悪感情を持ってはおりませぬが、それとこれとは話は別でございます。あれほどの方を手放すのは愚行というものでございますぞ、殿!」
「落ち着け! 今は私の妃の話ではなく、国王代理の問題を話しているのではないか!」
 エオメルが叫ぶも、
「これも大事な問題でございます!」
 と一斉に言い切られてしまうのだった。


「……疲れたな」
 途中から予定外の方向へ進んだ会議を何とかまとめると、エオメルは私室へ戻った。じきに夕餉の時間になるので、それまで一休みをする。食後は寝るまでの間、書類を片付けなければならない。今日は一枚も処理していないので、また溜まっているのだろう。忙しいのは苦ではないが、王位についてからずいぶん馬に乗る機会が減っているような気がする。いや、気ばかりではなく、実際に減っているのだ。これはロヒアリムとしてはゆゆしき事態である。
(……優秀な官僚をもっと増やせないだろうか)
 先の戦では、マークでは貴重な文官も多数死亡した。通常の任務に加えて、いまは被害報告や今後の建て直しにかかる費用の見積もり、それに傷痍兵や退役軍人への年金支給に関わる事務など、多岐に渡る業務をこなせるものが必要だった。しかしマークではそもそも文字を書けるものも読めるものも少ない。そのため、ようやく文章を書けるようになったばかりのにも手伝ってもらっている状態だった。それでも彼女は計算が速いので重宝しているのだが。
(しかし女は国政に関与せんのが本来だからな。いつまでもの手をわずらわせるわけにもいかん。それに、このままでは廷臣たちが実力行使で彼女を私の妃にしてくるかもしれん……)
 レゴラスに言い切った手前、それもありかと薄っすらと思うようになっていた。だがまだ機が熟していないように思える。せめてセオドレドの喪が明け、悲しみよりも懐かしさが勝るようになるまでは、話を進めないほうがいいだろう。
 その時扉を叩く音がした。エオメルは誰何すると、女官の一人であることが知れる。
「失礼いたします、陛下。実は、セオドレド様の部屋を片付けていたのですが……」
「ああ、そういえば。何かあったのか?」
 これまでセオドレドの私室は最後に出て行った状態のままにしていたのだが、いつまでも悲しみを引きずってはいられないと整理されることになった。エオル王家の宝として保管するものは宝物庫へ運び、痛みの少ない衣類は仕立て直してエオメルが着ることになっている。彼女はそれを行っている女官の一人なのだ。
「セオドレド様の長櫃から見慣れない衣服が出てまいったのです。大きさから若君のものではないように思えますし、絹製の変わった仕立てのもので、とても貴重なもののようですから、どのようにしたらよろしいかと……」
「変わった衣服……?」
 女官はにわかに声を潜めた。
「わたくしが思いますに、あれはレオフォスト姫のものではないかと……。それを若君がお持ちでいらっしゃるのは、ご本人には言えぬわけでもあるのではないかと思いまして」
 エオメルはさっと顔色を変えて立ち上がった。
「すぐに行く」
 女官は頭を下げ、王を先導しようとしたが、それより早く部屋を飛び出した。
 セオドレドの部屋へ行くと、忙しく立ち働いていた女官たちが三人いた。険しい顔の王が飛び込んでくると、彼女たちは慌ててスカートをつまんで礼をする。
「長櫃にあった服というのはどこだ?」
 勢い込んで訊ねると、一人の女官が寝台の上にある包みを指し示した。
 寝台に片膝をのせ、包みをそっと広げる。中には折りたたまれた白いシャツのようなものが現れた。だがそれはシャツにしてはずいぶん丈が長い。のものだとすると、くるぶしまで覆うことになりそうだった。その下には半分透けた素材でできた同じような形のものだ。ただし、こちらはせいぜい膝丈である。さらに下からは鮮やかな赤い衣が現れた。どうやらそれはスカートのようである。
 三つとも寝台の上に並べてみる。
 素材はともかくとして、形はマークの衣服とは似ても似つかなかった。
の衣服……か?」
 自信なげにエオメルはつぶやく。確かに、考えてみれば彼女は異世界から来たというのだから、その時に着ていたものだという可能性が高いだろう。エオメルが初めて会った時にはすでにマークの衣服を身につけていたので自分の記憶になくても当然である。
「しかし、どうしてセオドレドが……? そなたたち、何か他に見慣れぬものなどはなかったか?」
 振り返り、王の様子を窺っていた女官たちに声をかける。しかし、「ございませぬ」という返答しか得られなかった。
(セオドレドはこれをどうしようとしていたのだろう。に渡す気だったのだろうか。渡したくなかったのだろうか……。いや、そもそもこれがのものであるかどうかもわからんのだが)
 だがセオドレド亡き今、彼の真意はもうわからない。
「とりあえず、これがのものかどうかは本人に確認すればわかるだろう。もしかして彼女がセオドレドに持っていてくれと頼んだのかもしれないしな。誰か、を呼んできてくれ」
 命じると、一番若そうな女官が一礼して部屋を出て行った。
 さほど待たないうちに軽い足音がして、がそっと入ってくる。亡き婚約者の部屋に入るにはまだ抵抗があるようだった。
 エオメルは己の無神経さに気がつき、顔をしかめる。
「わたしをお呼びだとか。どうかなさいましたか……陛」
 はエオメルの後ろにあるものに気付いて動きを止める。
「どうして、これがあるの?」
 驚愕の表情を浮かべる少女に、エオメルはやはり、と思った。
「お前のものか?」
「ええ。この国に来た時に着ていたものです。だけど、どうして……? これはヒュイド様が保管していらっしゃるのだとばかり思っていたのに」
「お前が頼んだのではないのか?」
「いいえ……」
 ゆっくりと寝台に近付くと、震える手では衣服を手に取った。
 しばらくじっと見つめていたが、目の端に涙が浮かびだし、瞬きと共に頬を伝った。それを合図にするかのように、少女は衣服を抱きしめる。
「……ナセ」
 透明な滴は後から後から溢れ、白い衣に染みてゆく。エオメルはようやく、セオドレドはこれを見せたくなかったのだと察した。だが後悔してももう遅かった。
 静かな部屋に少女が嗚咽する声が響く。エオメルは無言で合図をし、女官たちに外に出るように命じた。
「ナセというのはなんだ?」
 落ち着くのを待ってエオメルは訊ねる。だが聞くまでもなくそれがにとって大切なもののことだと察していた。
「家族……みたいなひとかな。わたしの世界の神様の一人だけど。人間が好きで、わたしの家系をずっと見守っているの」
 はエオメルを見上げる。涙の後が赤く残っているがもう泣いてはいなかった。
 エオメルは驚いたが、すぐに納得した。そのような存在がすぐ近くにいるのだとしたら、彼女が魔法を使えるのもわかるような気がする。
「わたし、魔女のわりにはあんまり力を使っていないでしょう? 使わないのではなくて使えないのだけど。それというのもわたしの力はナセに与えられている部分もあるからなの。ナセがいないわたしは、魔女としても巫女としても不完全なのよ」
「……そうか」
 どう言葉をかけてよいかわからず、エオメルは目を伏せた。
「迎えに来てくれるはずなのよ。……いつまで待てばいいのかしら」
 囁くような呟きに、エオメルは暗い気持ちになる。故郷に連なる品は彼女の郷愁を掻き立ててしまったのだ。
「帰りたいか?」
 は頷いた。
「ここは好きよ。だけど、やっぱりわたしの世界とは違うもの。先がまったくわからなくて、時々すごく怖くなるの」
「セオドレドといたときも、怖かったのか?」
 目を開けると、が悲しげな眼差しでエオメルをみつめていた。
「いいえ。でも、別のことが怖かった。戦いに行くあの人が、いつか帰ってこなかったらどうしようって……」
 瞠目するエオメルに、は泣き笑いの表情を浮かべた。
「本当に、なっちゃったね……」



あとがきは反転で↓
国王直属軍は春日の捏造組織です。(軍団を西マーク、東マークに分けたの終わらざりし物語に書いてある通りです。)
また、国王代理はこの話の都合上、名称を変えただけで副王というものと同じだと思ってください。



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