巫女装束。
 最後にこれを着たのは、マークに来た日のことだった。
 思えばなんて遠くまで来てしまったのだろう。
 異世界に飛ばされて、国の中枢にかかわり、世継の君と恋をして、婚約し……そして死に別れた。
 あまりにも目まぐるしくて、故郷のことを懐かしがる暇などなかったほどだ。
 いや……わざと考えないようにしていたのかもしれないのだが。
 だけど、もうそれもできない。
 セオドレドを失った以上、マークに留まりたいという理由はなくなってしまった。
 そこへ故郷につながる唯一のものが現れた。
 願うことは一つ。
 家へ帰りたい。
 天女の羽衣のように、身に纏えば帰れるのだとすれば、どれほど良かっただろう。


 しかし物事はの想いとは反対の方へ進んでいるようだった。
 昨日の閣議の詳細を聞かされて、少女は眩暈がしそうになる。自分が本当にエオメルの妃候補にあがったというのだ。
 しかも、かつてを敵視していたエルフヘルムも賛成したという。一体なにがどうなってそうなったのか、少女には理解不能だった。
 問題の時間、彼女は自分の部屋で数字と格闘していたのだ。官僚や一定以上の地位を持った騎士でなければ閣議へ参加できないと慣例で定められているため、出席できなかったからだ。
 それでも何を話し合うのかは事前に聞かせられていたし、それが可決されるであろうことは予測できたため、気にもしていなかった。後で報告を聞けばいいと、軽く思っていたのである。
 結局それが失敗だった。
 大広間には厨房や別棟へと続く通路があり、参加はできずとも話を聞くことが可能だったのだ。そこには下官や侍女などの野次馬が相当数いたのである。正式な参加者たちもはばかるべき問題という認識をしていなかったため、一晩のうちに都中に話が広まってしまったようなのだ。
「なんで……こんなことに……」
 館を出て一回りし、エオウィンの部屋に寄ったは青い顔で呟いた。
 白の姫君は婚礼用のドレスを縫う手を休めて苦笑する。
「候補にあげたい、という話が出ただけよ。こういうことは何度もあったわ。だいたいがセオドレド兄様のお妃問題だったけれどね。事態が進行しなければそのうち立ち消えになるわ。放っておけばよいのに、わざわざ噂を聞きに行くなんて……。怖いもの見たさというものかしらね」
「本当に消えるのかしら。館の中にはさすがにいなかったけど、都の人の中ではすでに正式決定していると思ってる人もいるのだけど」
 噂の尾びれはの想像以上に大きくなっていた。
 しかしエオウィンは深刻に受け取らない。
「だから、それもよくあることなのよ。噂話というものは民にとっては娯楽なの。気にすることはないわ。だからといって、あなたが振り回されては駄目よ」
 そして珍しく動揺している少女をたしなめる。
「でも、不謹慎だと思わないの? 彼が亡くなってようやく半年が経っただけなのよ」
 は心もとなそうにうな垂れた。
「不謹慎というほどでもないでしょう。セオドレドから心変わりしてエオメルに走ったというなら話は別ですけど。それに、ものは考えようよ。『あのこと』が暴露されなかったのですものね」
「あのことって?」
 いたずらめかして片目をつぶるエオウィンに、は首を傾げた。
 姫君の周囲には、以前自分が経験したように、嫁入り道具となる新しい衣装を縫う侍女たちが控えている。慎ましく顔を伏せ、刺繍やレース編みに集中しているような様子ではあるが、耳をそばだてている気配が窺えた。
 エオウィンはそれには答えず、軽やかに笑う。
「でも、それも当然ですわね。だって『あのこと』はわたくしたちしか知らないことですもの。もしもこのことが周囲に知れたら、おそらく、あなたは逃げられなくなってよ」
「……」
 ほのめかされてようやく気付いた。
 セオデンが生前にエオメルの妃にを迎えればどうかと話していたのである。先王の遺言とも取れるその内容は、知られれば確かに逃げ場はなくなるだろう。エオメルやが拒んだとしても、押し切られてしまう可能性は高い。
「エオウィン!」
 は蒼白になって立ち上がると、ドレスの裾が乱れるのも構わずに駆け寄り、姫君の両肩に手をおいた。針を持っていたエオウィンは危ないと顔をしかめる。しかしはそんなことに構っていられなかった。
「お願いだから、絶対、絶対、そのことは言わないでね!」
 勢いに任せてがくがくと揺さぶる。姫君は目を回しそうになりながら何度も「わかった」と答えた。
 ほっとしたのもつかの間、言質を取る相手はもう一人いることを思い出した。もうじき隣国へお嫁に行く彼女とは違い、うっかり口をすべらせてしまいかねない人物。
 当事者でもあるエオメルだ。
 先日は話さなかったようだが、そもそも彼があのことについて黙秘しておかなければならないと思っているのか、は確かめていない。
「わたし、エオメル様にも口止めしてくる!」
 少女はろくに挨拶もせずにエオウィンの部屋を出ていった。姫君はおっとりと首をかしげる。
「この時間にエオメルが一人でいるとはとても思えないのだけど……。どうする気なのかしら」
 時刻はようやく午前中の仕事に取り掛かり始める頃合だ。王の執務室は執務補佐官が常時詰めている。それに取次ぎや指示を受けて出入りする者も多い。
 そんな中に飛び込んで行っては自ら噂を広めるようなものではないだろうか。普段の彼女ならばそのような愚行は起こさないだろうが、今は頭に血が昇っているようである。
「わたくしはそれでもいいのだけど、やっぱり本人たちの気持ちが大切よね」
 エオウィンは侍女たちににっこりと笑いかけた。すっかり聞き入っていた彼女たちは姫君の不意打ちに顔を赤らめる。
 話の前後から『あのこと』を推察した者もいよう。だが触れ回るなと態度で表したのだ。
 エオウィンは何事もなかったかのように再び針を手に持つ。
 外の喧騒も届かないそこには、静かな時間が流れていた。


 ずんずんと王の執務室にむかうと、は手荒くノックをした。誰何の声がかかるのももどかしく、彼女は勢いよく扉を開ける。
 と、そこでたたらを踏んだ。
「お前か。どうしたんだ、険しい顔をして」
「……忘れていたわ」
 部屋の中央には執務机に向かっているエオメル。その彼の周辺には官僚たちが数人、それぞれ忙しく働いていた。その彼らの視線が一斉にに向かう。
「急ぎの用事か?」
 王は気遣うように訊ねる。
「急ぎではあるのだけど……」
 は言葉を濁した。口止めはできるだけ早い方が良い。だがエオメル以外の者がいるところでできることではないのだ。
「ごめんなさい、出直してきます」
 くるりと踵を返すと、呼び止められた。
「ちょっと待て。せっかく来たのだから土産を持っていけ」
 振り返るとエオメルは中腰になって手招きをしていた。
「お土産、ね……」
 肩をすくめるも、は大人しく戻っていく。エオメルは机に積んであった書類の束を掴んだ。
「今度はなに?」
 両手に抱えながら訊ねる。いつの間にやら計算を要する書類を任されるのが当たり前になってしまったのだ。自室にはまだ未処理分が残っている。
「アイゼンガルドの進軍で破壊された集落の復興に関する見積もりだ。個人宅の再建までは普通は面倒を見ないものなのだが、さすがに被害地域が多くてな。領主が助けてやるにしても限度がある。それで国庫を開けることにした。冬になるまでに寒さをしのげるだけのものを作らないと、凍死者が出てしまうからな」
「わかりました。いつまで仕上げればいいですか?」
「そうだな……」
 エオメルは少し考える。
「この間頼んだ遠征費用の最終決算はどこまで進んだ?」
「そうですね、午後の間頑張れば今日中に終わると思います」
 王は口笛を吹く。目には楽しげな色が浮かんでいた。
「相変わらず早いな。だったら来週末までに頼む」
「わかりました」
「いつもすまんな。できるだけ早く代わりの者を探そうとしているのだが」
「いいのよ。どこでも手が足りていないのですもの」
 困ったように頬をかくエオメルには笑いかける。実際、没頭できることがあるのは彼女にとってもありがたいことだったのだ。
「それで」
 咳払いをするとエオメルは真剣な表情で訊ねた。
「私に用があったんだろう? 時間を作るが、どれくらいかかるんだ」
 一瞬ここへ来た目的を忘れていたは我に返った。そして周囲に余計な目や耳があることを思い出してげんなりとなる。それもそうだろう、昨日の今日なのだから。
 慎ましく聞き耳を立てているだけだった女性陣と比べて、こちらの男性陣はあからさまに自分たちを観察している。長い間エオメルと二人きりになるのはあらぬ誤解を受けることだとは悟った。
「すぐに終わりますから、決算分を持ってくるときに少しお時間をいただければ」
「ああ、わかった」
「では、失礼いたします」
 今度は礼儀正しく一礼をして執務室を出た。そのまま扉によりかかり、一人ごちる。
「やっぱり……空気が変わっちゃった……?」
 どうにもまずい気がする。とにかく、誰にも聞かれないようにエオメルにしっかりといい含めなければならない。だがその前に書類を片付けようと、少女は歩き出した。


 夕食後、一時間ほど経ってようやく最後の一枚が終わり、は伸びをした。この時間ならエオメルはまだ執務室にいる。最近の彼は遅くまで部屋にこもって仕事をしているのだ。
 それというのも、エオウィンの結婚式に出席するため、今のうちに裁けるだけの仕事を終わらせようとしているからである。だが平時の仕事だけでもそれなりにあるのに、戦後半年しか経っていない今は、それこそ山のようにするべきことがあるのだ。
 出発の日まで頑張っても、すべては終わらないだろうとはエオメル含め、側近くにいるものならば誰もが思っていることなのだが、文句をいっても始まらない。執務室には連日のように深夜まで明かりが灯されていた。
「失礼します」
 夜なので慎ましく扉を叩くと、はするりと中に入った。部屋には昼間と同じように机に向かうエオメルと、補佐官が残っている。
か……。そういえば約束があったな」
 顔をあげたエオメルは憔悴しているように見えた。蝋燭の明かりが下から照らしているので、余計にそう感じるのかもしれないが。
「あ、お仕事を続けてください。わたしは今日中だったらいつでも良いの。陛下が一区切りついたらその時に話しをしましょう」
「ああ…」
 エオメルは覇気のない様子で頷くと、目と目の間を指で押さえて大きく息をはいた。そうとう疲労がたまっているのだろう。
「せっかくですから、確認お願いできますか」
 は補佐官に書類を渡した。
 補佐官が受け取り、書類をめくっている間、は雑然となった机の周りを整理して回った。
 ぐちゃぐちゃに積んでいる書類を整え、尖らせるために削ったペン先のくずを拾う――ペンは鵞鳥の羽なのだ――。まとめて綴じるものには穴をあけて紐を通した。
 そうこうしている間に幾人かの官僚が入ってくる。低い声で何事か話してはまた出て行った。
 それからどれくらい時間が経っただろう。はなぜか来年度の予算案について閣僚たちに意見を求められていた。補佐官を含めて四人で額をつきあわせるように議論をする。とはいえ、夜中であるので自然と声は潜められていた。そこへ唐突に鈍い打撃音がした。たちはなにごとかと音のした方をぱっと振り向く。
「う〜……」
 そこには痛そうに顔を抑えて呻くエオメルの姿があった。どうやら居眠りをしてしまい、うっかり顔面を強打してしまったらしい。
「エオメル王、大丈夫ですか?」
 補佐官は慌てて王のところへ駆け寄る。
「もう深夜ですものね。今日は終わりにしましょうか」
 が言うと、官僚たちも同意した。てきぱきと片づけをし始める。いい加減、自分たちも疲れてきているのだ。
「あ、おい。私はまだ大丈夫だ。もう少し……」
 止めようとしたエオメルにはきっぱりと頭を振る。
「寝ぼけた頭では、終われるものも終わりませんよ。それよりしっかり休んで、明日また頑張ればいいんです。妙な意地を張らないでください」
「む……」
 エオメルは渋い顔になった。だが眠いのは確かなのでそれ以上言い張るのはやめた。
「わかった。今日の執務は終了する。皆、ご苦労だった、下がってよいぞ」
 立ち上がって出ていこうとするエオメルに、は追いすがる。
「待って、わたしとの約束がまだよ。それは忘れちゃ困るわ」
「あ、ああ。そうだったな。……で?」
「誰にも聞かれたくないの」
 は声を潜める。エオメルは頷くと、机に寄りかかった。他の者が出てゆくのを待つ間、凝った首をまわす。すると小さく骨が鳴る音がした。
 こめかみを揉もうとして両手で顔を覆うと、さっきぶつけたところがひりりとする。
「痛……」
「エオメル様?」
「ああ、なんでもない」
 片手を振って答える。最後の一人が出て行った執務室は、急に静かになった。
「さっきぶつけたところ、痛むんですか?」
「まあな」
 自分でも少々みっともなかったと、エオメルはそっぽを向く。
「どこをぶつけたんです? おでこ?」
「ああ、それと鼻の頭」
「少し、屈んでくださいますか?」
「え……?」
「念のため、具合を見てみますから。こぶができているくらいならまだ可愛いものですけど、面白い具合に腫れてでもいたら、さすがに威厳に関わるでしょう?」
 笑いをこらえながらが言うと、エオメルは憮然としたように唇をとがらせた。
「お前なあ」
 ぶつぶつ言いつつも、エオメルは素直に背をかがめた。は燭台を取り上げて、王の顔を照らす。揺らめく炎に長いまつげが影を作った。
「……ぷ」
「なんだ……?」
 少女はとっさに噴出しかかったのを堪えた。だがさすがにエオメルは不信を覚えたようで、怪訝そうに眉を寄せる。
「ちょ、ちょっと待ってね」
 は部屋の片隅にある水桶にハンカチをひたした。軽く絞ってから戻るが、まだ笑いの発作はおさまっていない。
「最後に扱っていた書類、明日もう一度見直したほうがいいわ。書き直さなければいけないかもしれないから。さ、もう一度かがんでください」
 片手を肩におき、力をこめてエオメルの額をこする。王はようやく己が身に起こったことに気づいたようだ。
「ついてるのか?」
 ハンカチが目に入りそうになったので、とっさに片目をつぶる。
 インクは完全に乾くまで時間がかかるのだ。さっき顔をぶつけた拍子に写ってしまったのだろう。
「ええ、ばっちりと。気付いてよかったわ。朝まで放っておいたら取り難くなっていたでしょうから」
 くすくす笑いながら、は他にもついていないかと蝋燭をかざす。
 しばらくされるがままにされていたエオメルだが、沈黙に飽きたのか、話を始めた。
「で、誰にも聞きたくないという話というのは何なのだ?」
 は目を伏せる。改めて問われるとくすぐったい感じがした。
「単純なことなのだけど……。以前わたしとエオウィンに話してくれたことがあったでしょう。セオデン王がわたしをあなたの妃にしてしまえとおっしゃったと」
「ああ」
 一拍置いてエオメルは答えた。
「他言無用にしてほしいの。絶対に他の人にはしゃべらないで。お願い」
 はエオメルを覗き込む。男の目の中には必死の表情を浮かべた自分が映っていた。
「気持ちはわかるが……」
「約束してくれないの?」
 不安になって思わず聞き返した。エオメルは小さく頭を振る。
「そうとは言っていない。だが、そうしたところで今の流れを押し止められるかどうかはわからんぞ」
「まさか、皆本気になっているの?」
 は手を止める。
「どうなんだろうなぁ……」
 エオメルは嘆息した。
「セオドレドのときは、それでも沈静化したんだ。だが私の場合とは事情が違うだろう? 後がないんだ。エオル王家の男は、もう私しかいないからな。それで焦っている連中がいるのは確かで、閣議で話題になったのを幸いと押し付けてくる可能性はある。まあ、そうは言っても私が承諾しなければ実現することはないが……」
「わたしに無断で承諾しないでくださいよ? ……と、これで全部吹き終わったと思うけど」
 もう一度明かりをかざして確認すると、はエオメルから離れた。王は礼を言って背筋を伸ばす。
 そういえば、とは腰に手を当てて王を見上げた。
「あなたに好きな人がいれば解決する問題なのよね。いままで聞いたことなかったけれど、そのへんはどうなっているんです? あぁ、興味本位で聞いているのではないのよ。あなたの結婚問題は、わたしにとっても他人事ではないんだもの。だってわたし、エオウィンに頼まれているのだから」
「そんな相手がいるならとうに連れてきてるぞ」
 間髪いれずに答えられて、は肩を落とした。
「そう、そうですよね……」
「だが、なあ……」
「陛下?」
 男の声に深刻なものが混じっているようで、は心配になった。
 見上げるもエオメルは思いつめたように考え込み、じっと前を見据えている。張り詰めた空気が流れた。それを振り払うように、王はの腕をつかむ。
、いいか、もしもの話だ。もしも私がお前を妃にと望んだら、受け入れてくれるか? 私を愛してくれなくてもいい。ただマークの、民のためだと思ってくれ。国の母として立つ覚悟がお前にはできるか?」
 は自分が思ったほど衝撃を受けていないことに驚いていた。だがそれも当然かもしれない。目の前の男の妹に、何度も言われていたことなのだから。
 息を整えると、毅然と顔を上げる。結論はもう出ているのだ。
「無理です。わたしにはできません」
 エオメルは苦痛を覚えたように顔をゆがめた。
 彼は自分を愛しているわけではない。王の義務感から発したのだ。それでもはっきりと拒絶されるとは思っていなかったのだろう。傷ついた男の表情には後ろめたさを感じる。だが譲れないのだ。
「あなたが嫌いなわけではないんです。王妃になるのは……大変だとは思うけれど、絶対にできないというほどのことでもありません。一度は覚悟を決めたことですもの。でも、駄目なの。だってマークの王は結局武人だから……」
 エオメルは怪訝そうになった。の腕をつかんでいる力が緩くなる。
「戦いに出て行った人の無事を祈る日々には疲れ果てました。戻ってこなかったらどうしようかと怯えて、それが現実になってしまった時のあの辛さ、あの空虚さ……。わたしは二度と味わいたくありません」
 目の裏が熱くなる。ここで泣くのは卑怯だと思いながらも止められなかった。
 セオドレドを失ってもう半年? いいや、まだ半年、なのだ。
 日常の雑事に気を紛らわせていても、ふと一人になったとき言い知れない寂しさが襲う。
 そういう時には自分の中の傷は少しも癒えていないことを痛感した。
「そう、か……」
 エオメルは寂しげに目を伏せた。
「エオウィンの代わりに宮廷を仕切るのも、官僚の穴埋めをするのも別にいいの。だけど結婚だけはだめ。あなたでなくても、他の誰ともする気はないの。それに……」
 は自嘲するような笑みを浮かべた。
「臆病だってわかっているけれど、次に好きになる人ができるとしたら、戦士以外がいいって思ってる。いつになるかわからないけどね」
 王は観念したようにため息をついた。を掴んでいた手を放す。
「お前の気持ちはよくわかった。ああ、そんなに心配そうな顔をするな。伯父上との話は誰にも言わん。私とて意に沿わぬ結婚をするつもりはないからな」
「そう。そうしていただければ……」
 安堵したは涙をぬぐった。これでこの件は終わり。少なくとも、自分にできることはなくなったのだ。
「では部屋へ戻るか。すっかり遅くなってしまったな」
「ええ」
 区切りがついたというように、エオメルは朗らかな声で促した。二人そろって執務室を出る。途中まで一緒に歩き、それぞれの部屋へ向かうところでおやすみを言い合って分かれた。


 一人になったエオメルは、額に手を当てた。
 机にぶつかったのと、ハンカチでこすられたのとで少し熱を持っている。
「まったく、あんな無防備に近付いてきて……」
 娘の指の感触を思い出すと、ぞくりとするものが背中を駆け上がった。
 ほっそりとしたそれは濡れたせいで冷たい。肩に置かれた手も小さかった。
 インクがついていた自分の顔はよほど面白かったのだろう。笑いをこらえている表情はあどけないものだった。
 だが。
「夜のせいだ」
 指の動きのひとつひとつに、眼差しに、翻弄されている自分がいた。
 吐息がかかるほどの距離しか離れておらず、思わず握った腕は柔らかい。
 華奢な身体はエオメルが気まぐれに腕をまわせばあっけなく捕らわれてしまうだろう。
「危なかった……」
 誘惑をされていると感じた。
 だがそんなことはありえない。は自分を愛していないのだ。
 あれは夜の魔力がみせた幻だ。
 エオメルは強く頭を振る。
 自分の中に残るやましい思いを振り払うように、何度も、何度も。
「従兄上、申しわけありません」





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