秋深きイシリアンの朝は美しかった。
薄れかかった朝もやの切れ間から、赤や黄の葉が鮮やかな色彩を覗かせている。
空気は甘く清涼で、ひんやりと心地よい。
雨が降った後のように、草は濡れている。朝露がまだ乾いていないのだ。
マーク王エオメルは、まだ酒の残っている頭をはっきりさせようと、なんとなく庭へ出てみたところだった。
庭園には小道が縦横に延びている。適当に歩いているうちに、段々花もろくになく、雑草が石畳まで生えているところへ出てしまった。だが草地を歩くことが好きなエオメルは、気にすることなく歩き続ける。
(空が青いなあ、くそ……)
わけもなく心の中で悪態をつくと、エオメルは盛大なため息をついた。
散歩に出かける直前、エオメルはたまたま通りかかった従僕にエオウィンはどうしているかと尋ねた。従僕はまだお目覚めになっておりませんと答える。
聞いた自分が馬鹿だったのだ。
ゴンドールでの結婚の宴は、あくまでも儀式的なものなのだ。こちらでの式が本番で、つまりは昨夜が新婚初夜だったのだ。宴が終わった時間も遅かったことであるのだし、これでエオウィンが早々に起きだしているはずがないのである。
昨日と今日とでは、劇的な変化が起こってしまった。エオウィンはもう、ローハン王の妹というだけの女性ではない。執政ファラミアの妻だ。
これから先は、何かがあっても一番に頼られるのは自分ではない。当たり前のことだ。そうでなくては困る。彼女はこれからイシリアンで生きてゆくのだから。
わかってはいても、やるせない。
彼の大事なものがまた一つ手の平からすり抜けていってしまったようだ。
一年と経たない内に伯父と従兄を亡くし、妹は遠き地へ嫁いだ。彼の側に残るのは一人。ずいぶんと寂しくなってしまった。
「……ですか?」
「そうですね……」
(……ん?)
誰かが近くで話をしている。エオメルは自分が花壇に入り込んでいたことに気がついて、慌てて近くの木立の間に隠れた。手入れのされてない庭だが、だからといって堂々と踏み荒らしてよいということにはなるまい。
早く行ってくれないかと思い、そっと声の主をうかがった。と、エオメルの身体が強張る。
「……」
唯一残った彼の家族にも等しい娘が、若い男と並んで歩いていた。
ローハンの冬はどうですか? とアムロソスが訊ねた。
「そうですね……」
は少し考えてから答えた。おそらくアムロソスは世間話としての時候の挨拶をしているのではなく、ロシリエルが嫁ぐときのことを考えて情報を得ておきたいのだろうと考えた。
「雪はほとんど降りません。白の山脈でせき止められているようなんです。だから、冬のマークはだいたい茶色なの。去年は冥王の影響もあるとは思いますけれど、昼間でも厚い雲が垂れこめているので、ちょっと憂鬱になりますね」
歩きながら庭園に目を向ける。
この辺りはまだ荒れているが、旺盛に茂った草が気持ちよいほどだ。しかし風の音とは違うざわめきが聞こえたように思えたのだが、特に変わった様子も見られない。気のせいかとは視線をアムロソスに戻した。
「なるほど。となると、冬はほとんど外出をしないと……?」
「いいえ。底冷えしますから、寒いからといって家の中でじっとしていても仕方がないんです。馬たちに運動させるついでに、自分たちも一緒に動きます。そうすれば身体も温まりますし、気分もすっきりしますからね」
アムロソスはたびたび相槌を打ちながら、の話を覚えておこうと一生懸命に聞いている。
「マークでは、子供や女性でも馬に乗れるものだと聞いているのですが、本当ですか?」
青年は以前から抱いていた素朴な疑問をぶつけてみた。と、は当然のように頷く。
「ええ。なにしろマークは集落が点在していますし、放牧をして生活している者も多いのですから、馬には乗れなければ不便ですもの」
「まいったなぁ」
本当に困ったように、アムロソスは眉間にしわを寄せた。
「どうかなさいましたか?」
「……ロシリエルは馬に乗れないのですよ。これは本腰を入れて練習をさせなければなりませんね」
「え、でも……」
は首を傾げた。
乗馬はこの世界の者ならば誰でもできるのだと思っていた。なにしろそれくらいしか交通手段がないのだ。城壁に囲まれた町で一生暮すというのであればできなくてもおかしくはないが、しかしロシリエルは遠いドル・アムロスからここイシリアンまで来ている。乗れないわけがない。
だがアムロソスは、の疑問に気がついたようで、悲しげに小さく首を振った。
「妹はどうやら馬が怖いようなんですよ。自分よりも大きな生き物だからじゃないかと思うんですが。だからここへも陸路は輿に乗って、アンドゥインからは船を使いました」
「ああ、なるほど……」
そしてその船には魚介も山ほど載っていたに違いない。
「何度か覚えさせようとしたのですが、どうしてもしり込みをしてしまって。いままで遠出をすることがなかったものですから、無理にやらせることもないと思っていたのですがね……」
その言葉では目の前がぱっと開けたように感じた。熱っぽく期待をこめて、アムロソスを仰ぎ見る。
「あの、アムロソス様」
「は、はい」
濃い茶色の目でじっとみつめられて、アムロソスはたじろいだ。引き込まれてしまいそうな大きな瞳は、異国的な容貌と相まって不思議な存在感を与えている。
「わたし、ちょっと考えたんですけど、ここに滞在している間、乗馬の練習をエオメル王にさせてみませんか? もちろんわたしも付き添います。じゃないと陛下のことですから、厳しくしすぎるかもしれないもの」
「え、ええ?」
「そうすればロシリエル姫も陛下も、それぞれの人となりなどもわかるようになるでしょう? わたし、できれば陛下のお妃には陛下のことを好きな方になってほしいと思っているんです。家柄が合うとか、そういうことだけではなく」
「…………」
力説する少女をアムロソスは真顔で見下ろした。熱が入ったせいでの頬は薔薇色に染まっている。
「つまり、エオメル王と相愛になった娘でなければ嫌だと?」
「アムロスを軽んじているわけではありません。王家や公家の娘が、いつでも好きな人と一緒になれるわけではないことくらい、想像がつきますもの。でも、父親の命令だからという理由で住み慣れない土地に行くよりも、自分で行きたいと思った方がはるかに精神衛生に良いはずだわ」
「精神衛生、ね」
アムロソスは苦笑しながら繰り返した。
「あなたはまるでエオメル王よりも妃となる娘のほうを心配していらっしゃるようだ」
「ゴンドールとマークでは環境も習慣もずいぶんと違うと思いますから……。遠くからいらした姫君を不安にさせるのは本位ではないんです。ただでさえ陛下は女性に対して細やかな心遣いができる方ではありませんので……。生意気なことを申し上げましたが、ぜひともご考慮いただきたいのです。ただ、これはわたしの要望であって、マーク廷臣の一致した意見というわけではないのですが」
娘の話を苦笑交じりで聞いていたアムロソスだったが、徐々に表情が改まっていった。そしての言葉を吟味するように、遠くを見つめる。少しの間を置いて父親譲りの海色の目をに向けると、柔らかな微笑を浮かべた。
「その案、父に申し上げましょう。妹の幸せは私にとっても大事なことです。ロシリエルにとっては乗馬の練習もできますし、エオメル王との交流も深められる。いい事づくめです」
「ありがとうございます」
まだ兄一人だけだが承認を得られて、は肩の荷が下りたように感じた。
「どうせなら、少しロマンティックな状況を作り出してみましょうか。乗馬の練習だけでは色気がありませんからね」
「と、言いますと?」
策略めいたものを感じ、は思わず問い返す。アムロソスはにやりと笑って片目をつぶった。しかし海の国の公子はさわやかさが先にたつため、悪辣な印象は少しも伺えない。得な容貌をしているとは思った。
「私たち兄妹とあなた方とで遠乗りに行きましょう。我が従兄弟たる新婚夫婦が来るかはわかりませんが、彼らも誘って。妹は一人で馬には乗れないわけですから……」
は言葉を引き取って嬉しげに答えた。
「陛下と相乗りさせるわけですね。一番乗馬が上手だからと言って」
「そんな感じですね」
「やだ、楽しそう。ところでこのこと、ロシリエル様には話しますか?」
は目を輝かせた。彼女も年頃の娘である。誰かと誰かがくっつくということに、興味がないわけがない。
「妹は結構上がり症ですから、事前に知らせてしまえば緊張のあまり粗相をしかねません。エオメル王に気に入っていただくのが先決ですから、普段どおりに振舞わせるためにも内緒にしておこうかと思います。とはいえ、最終的には父が判断することですが。エオメル王には……?」
「陛下には、どのみち申し込みがあったことを伝えなければなりませんから、隠す必要はないと思います。そうすればいくら鈍感な陛下でも、ロシリエル様のことを意識しないわけにはいかなくなりますもの」
「エオメル王はそんなに、その……」
アムロソスは言葉を濁す。皆まで言われずともにはわかった。
「不器用、なんですよね、結局……」
と、ため息をついた。
胸が、痛かった。
その衝撃の大きさには自分でも戸惑ってしまうほどだ。レゴラスの時とは比べ物にならない。
エオメルは頭を強く振ると、力いっぱい幹に拳を叩きつけた。くぐもった音とともに、枝ごと揺れる。
(アムロソス殿、か……)
は一度エオメルの立てた音に振り向いたが、彼は出てゆくことができなかった。
並んで歩いていた二人は自然な様子で、気持ちの通じ合った恋人同士のように見えたのだ。
自分が出て行っては、邪魔になる。エオメルは咄嗟にそう思った。
たちは音の出所を探るようなことはせず、そのまま歩を進め、角を曲がって見えなくなった。それからどこへ向かったのか、エオメルは知らない。
(マークのことを聞いていたな……)
どんどん遠ざかっていったのであまりよく聞こえなかったのだが、その次は馬のことに話題が移っていたように思う。アムロソスはに興味があるのだろうか。
衝撃から回復するには時間がかかった。
気付いたら太陽は中天に差し掛かっている。一体何時間呆けていたのだろうと、エオメルは自嘲した。そして気合をいれるために両頬を叩いた。
彼女の真意を確かめねばならない。
そしてもしも本当にがアムロソスを望んでいるのならば、話を進めてやるのが王としての義務だ。
エオメルは強く頭を振ると、覚悟を決めて歩き出した。
「エオメル王、どちらまでお出かけになられていたのですか」
部屋へ戻ると侍従が気を揉んだように駆け寄ってくる。
「散歩をしていただけだ。どうした、何かあったのか?」
のことで頭がいっぱいだったエオメルだが、侍従のただならない様子にひとまず脇へ置いた。
「半刻ほど前にイムラヒル大公からこちらへお寄りになったのです。内々で大事なお話があるとのことでございました」
「イムラヒル大公が?」
エオメルはぎくりとした。
きっととアムロソスのことだろう。素早いことだ。しかしこれほどまでに早いのであれば、向こうは乗り気になっているのだろう。
その予想はようやく奮い立たせたエオメルの意気を挫くのに充分なものだった。
「陛下……。エオメル様?」
急に肩を落として消沈する王に、侍従は戸惑う。
「いや、なんでもない……。それで、大公はどうなされたのだ?」
「陛下がいつお戻りになるかわからないと申し上げましたら、都合の良い時間をあとで教えてほしいとおっしゃいました。とても大事な話なので、陛下に合わせると」
「そうか」
大事な話。
大公の子息の縁組ならば、確かに大事なことだろう。
「今夜も宴があるから……そうだな、四時ごろにしよう。そう伝えてくれ。もし話が長引きそうであれば明日にしてほしいと」
「ではそのようにお伝えします」
「ああ……」
侍従は一礼をして下がると、部屋にはエオメル一人だけになった。
窓からは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
のどかだった。
彼の心情はそれとは真逆であったが。
とにかくこれで心の準備をする時間は取れた。大公には悪いが、彼が訪ねてきたときに部屋にいなくて良かった。この状態ではとてもではないが、平常のように話などできそうにない。
しかしあまり待たせるのも失礼だと、四時に会う約束をしてしまったが、本当にその時までにいつもどおりに振舞えるようになっているだろうか……。そのことだけが心配だった。
刻々と時間は過ぎてゆく。
イムラヒルとの話がどれほどかかるか見当がつかなかったので、先に宴用の衣装に着替えた。袖口のボタンを嵌めたところで、大公が到着したと告げられる。
「お待ちしておりましたイムラヒル殿。先ほどは不在をいたしまして申しわけありません」
笑みが強張っていないかと内心で冷や冷やしながら、エオメルはイムラヒルを出迎えた。
「いえ、こちらこそ急にお尋ねして申し訳ない。少々焦っておったようです」
大公もすでに着替えをすませている。恰幅のよい身体に深い藍色の上着を身につけていた。
挨拶をすませると、エオメルは椅子を勧めた。腰掛ける間のわずかな時間が、妙に重苦しく思える。なにか適当な話題でも、とエオメルは頭をひねったが何も思い浮かばない。
「して、イムラヒル殿。内々の話とはなんでしょうか」
沈黙していたのはわずかな間だったが、すぐに耐えられなくなった。こういうのは自分の得意とするものではない。エオメルは単刀直入に切り出した。
「さすがは質実剛健たるマークの王ですな。それではこちらも言葉を飾るのはやめましょう」
イムラヒルはまっすぐにエオメルをみつめる。
「婚儀を申し込みたいのです」
ああ、やはりそうなのか。エオメルの気持ちは一気に深いところまで落ちていった。
覚悟はしていたとはいえ、実際にイムラヒルの口から聞かされると、改めてが遠ざかっていくように思える。
「我が娘、ロシリエルをエオメル殿、あなたの妃にもらっていただきたい」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ロシリエル?
ロシリエルとはロシリエル姫のことか? 大公の娘の? 彼女なら女なのだから、と結婚できるわけがないのだが……。
いや、大公はさっき、私の妃にと言ったか?
あれ?
「申し訳ない、イムラヒル殿、その……もう一度おっしゃっていただけないでしょうか」
「我が娘ロシリエルを貴公の妃として娶っていただけませぬかと申したのです」
エオメルの動揺にも表情を変えず、噛んで含めるようにイムラヒルは繰り返した。
「ロシリエル姫を、私の妃に、ですか……?」
「いかがでしょうかな」
まったくの方向違いからの攻撃を受けて呆然とするエオメルに、イムラヒルはずいと詰め寄った。
我に返ったエオメルは、ようやく頭を切り替え始める。
大公女を自分の妻にというのだ、受けるにしろ断るにしろ、失礼なことはできない。
しかし話には聞いていたが、本当に自分相手に娘を嫁がせたい父親がいたということに驚いた。それもゴンドール執政家に連なる大公家の公女を。自分が王になっていなければ、考えられない組み合わせであるに違いない。
しかし、イムラヒルの用とは自分に対してなのだ。にではなかったのだ。
すっかり気分が浮上したエオメルは、打って変わって明るく答えた。
「ロシリエル殿は大変お美しい姫君です。しかしお話の性質上、私の一存では決められません。なによりも私は姫とは一言も言葉を交わしていないのですから……」
「ええ、私もそのことは気になっていたのですよ。ですからすぐにでも返答を頂きたいとは申しませぬ。イシリアンに滞在している間、娘を見ていただいた上でお答えいただきたいのです」
「そういうことでしたら」
ということは、おそらくロシリエルと一対一で見合いなどしなければならないのだろう。
あんな華奢で可憐な少女相手に一体何を話せばいいのかさっぱりわからない。自分は戦争と政治と馬の話くらいしかできないのだ。
さっそくエオメルは気が重くなった。
「それで、娘は内気なたちでして、急にエオメル殿とお話をしろといっても恥ずかしがってしまうと思うのですよ。ですから最初はあれの兄たちと一緒に遠乗りでもいかがでしょうか。ファラミアやエオウィン姫も誘おうと思うのです。それからマークからは・レオフォスト姫を連れてきていただければ、あの子も安心するでしょう。年が近いようで、話が弾んでいましたからな」
昨夜の宴会の様子を思い出してエオメルは頷いた。
それに、それだけの人数がいるのであれば、会話が続かなくて気まずくなるということもあるまい。
「わかりました。では、詳しい日程は後ほど決めるということで、よろしいでしょうか」
「ええ。こちらこそよろしくお願い申し上げる」
エオメルが手を差し出し、イムラヒルは力強く握った。
「ところで大公、この件についてロシリエル殿はご存知なのですか?」
「まだ話していませんが、明日にでも伝えるつもりです。自覚のないままでは困りますからな」
「そうですか……」
それから事務的な話をいくつかして、イムラヒルは辞去していった。
一人になると、エオメルは椅子に深く腰掛けてぼんやりと物思いにふけった。
(ロシリエル姫か……)
自分の妻になるかもしれない女性。
しかし思いがけなかったせいかもしれないが、まったくピンとこなかった。
彼女はエオメルの中では、ファラミアを通じて遠戚の一人となった姫という位置づけである。彼女の兄たちともども、折を見て対面するつもりではあったが、まさかこのようなことになろうとは。
とはいえ、相手はドル・アムロスの公女。よほどの問題がなければ、彼女を選ばざるをえないだろう。自分はマークの国王で、世継を設けるのは急務なのだから。
だが、自分にロシリエルを愛せるのだろうか。
ようやくエオメルは、長年独身を貫いてきたセオドレドの気持ちがわかったような気がした。
王の責務は重い。その肩代わりは誰にもできないのだ。悩み疲れて眠れぬ夜も、派閥に分かれて紛糾する議会もすでに経験した。廷臣に慕われていてさえもこうなのだ。つくづく国王というものは、やっかいな立場である。
それでも自分の隣に、利害など関係なく味方になってくれる者、側にいてくれる者がいてくれれば、どれだけ救われることだろう。そんな相手が自分に見つけられるものだろうか。むろん、ロシリエルがそうなってくれれば、話は早いのだが。
ふいにの顔が脳裏に浮かぶ。
顔が熱くなり自分が赤面していると感じた。エオメルは誰もいないにも関わらず、辺りを見回してしまう。
(は、駄目だ)
両手で顔を覆って、エオメルは自分に言い聞かせた。
彼女はエオメルを愛していない。
何度も思い知らされたではないか。
がエオメルの側にいるのは、彼女なりに義理と義務とを感じているからに過ぎない。自分が妃を連れてくれば、少しも躊躇することなくエドラスから去ってしまうだろう。
しかしその後はどうするのだろう。
レゴラスと共にイシリアンへ行くのか。
アムロソスと共にミナス・ティリスへ行くのか。
なんであれ、自分とは関係がなくなってしまう。
彼女を幸せにするのは自分でありたかった。だがそれに拘っているのはエオメルだけ。もういい加減、思い切らなくてはならない。
(そうだ、いつまでも過去に縋っていてはいけない……)
セオドレドは大切だが、彼を盾にするのはやめよう。結局それも、エオメルの自己満足にすぎないのだ。本当にの幸福を考えるのならば、手放すことに迷ってはいけない。
「……うぅ」
心臓がひどく痛んだ。鋭い切っ先で突き刺されたようだった。
あまりの激しさに、エオメルは胸元を強く握りしめる。額には汗が滲んだ。
それでもエオメルは黙って耐えた。
これもまた、自分の弱さに対する戒めだと言い聞かせて。
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