「こんにちは、様。お加減はいかが?」
「アルウェン様」
 淡く光を放っているような肌にこぼれるような微笑を浮かべ、至極当然のように彼女はの病室へ入ってきた。
 雪のように真っ白な手には盆を持ち、茶道具が一式乗せられている。
「今日はわたくし、シードケーキを焼いてみましたの。一緒にいただきましょうね」
 が返事をするよりも早く、アルウェンは侍女を呼んだ。
 途端、わらわらとそろいの制服を着た女性たちが丸い小さなテーブルと、椅子を二脚運び入れ始める。テーブルには、四隅に草花の刺繍が施されたクロスをかけ、椅子にはクッションが置かれた。
 アルウェンがテーブルに茶器を置くと、別の侍女がケーキを載せた皿を置き、別の者がナプキンや取り皿を並べた。
 が療病院へ入院して五日目、この病室での王妃とのお茶会は四回目を迎えた。つまり、最初の検査日をのぞいて毎日行われているのだ。初日には広いとはいえない病室に戸惑っていた様子の侍女たちも、すっかり慣れてしまったらしく、アルウェンの登場から五分もかからず全ての用意が整ってしまう。
(とても病室とは思えないわね)
 病室はすっかり様変わりをしていた。床には絨毯が敷かれ、壁には床まで届く壁掛けと、バラの実と蔦とでできたリースがかかっている。病室には簡易テーブルを兼ねた小さな引き出しが備え付けられていたのだが、それは二日目にはどこかへ持っていかれてしまった。
 代わりに重厚な木材でできた戸棚が据え付けられ、寝台のカバーなども光沢のある絹製のものに代えられてしまった。これらは王の館に用意してあったの部屋から持ってきているものだという。
「さ、様、こちらへ」
「ありがとう」
 侍女が両脇に控え、が立ち上がるのを支えてくれた。ここまでされるほど重症ではないのだが、といつも思う。差し出された室内履きも、手の込んだ刺繍が全体に施されていた。
 いくら同盟国の王から頼まれたとはいえ、ここまでされると他の入院患者たちの手前、気が咎めてしまう。とはいえ自分の立場がマーク王に近いものだとわかっているだけに、拒むのもはばかられた。国交問題というのは、思っていた以上に繊細で難しいものなのかもしれない。
 背中を支えるようにクッションをあてられ、ゆっくりと椅子に腰掛けている間に、アルウェンはコゼーを外して王妃自ら茶を注いでいた。
 この頃になると侍女の姿は茶会の手伝いをする二人ほどに減っている。残りはまたテーブルを片付けるときに戻ってくるのだ。それらのものをずっと置きっぱなしにできるほど病室が広くないためなので、いっそ王の館に移ってしまおうかと考え始めている。
様はクリームとお砂糖は一匙ずつでしたわね」
 朗らかな声でアルウェンはクリーム壷を手にした。
「ええ。あ、自分でやります」
「いいの、いいの。わたくしがやりたいんですもの」
 鼻歌でも歌いだしそうなほど楽しげに、アルウェンは茶碗にクリームと砂糖を加えた。
 彼女とは入院するようになるまで親しく言葉を交わしたことはない。初めて会った時は圧倒的な美しさと優雅な物腰が印象に残っただけなのだが、意外に世話好きで人懐こい性格をしているようだった。エルフ全般がそうなのか、アルウェン個人の性質か判断できるほど、エルフの知り合いがいるわけではない。だが、レゴラスやアルウェンの親族を考えれば、エルフが人間を嫌っているというロヒアリムたちの言はやはり間違っていたのだと感じた。交流がないからこそ生まれる、誤解というものだ。
「今日は何をなさっていたの?」
 茶碗を手渡しながらアルウェンが聞いてきた。寝てばかりいるのは退屈だとぼやいたのが聞かれてしまったらしく、それならばとアラゴルンが動かずともできること――講義をしてくれる人物――を探してくれたのだ。
「建物を管理している方が見えて、設備に関するお話を色々聞かせていただきました」
「建物の管理?」
 アルウェンはきょとんと小首をかしげる。
「ええ。入院病棟と診察するところ、それに薬を調合するところと保管するところはそれぞれちゃんと区切らないといけないということとか…。でも、考えれば考えるほど難しくて」
 は思い出し頭痛がするような気がして、額を押さえた。
「どんなところが難しいの?」
「建物を建てるだけの敷地がないと思うんです。エドラスは丘に家が密集していますから」
 かつて訪れた地を思い出しているのか、ややあってアルウェンが頷いた。
「そうかもしれないわね。どこか、あまり使わない建物を壊したりできないのかしら?」
「ところどころはあると思うんです。子供がいなくて住人が絶えた家とかなら。でも、散在していますから、もしも既存の建物を壊すなら、大掛かりな区画整理が必要になるはずで……まさか、こんな大事になるなんて、思ってもみませんでした」
 最後には頬を膨らませたを、アルウェンはまあまあと宥めた。だがは涙目になってきっぱりと首を振る。
「まだ問題はあるんです。これまでマークでは文官や高位貴族以上の人以外、文字を使っていなかったのですけど、療病院に勤務する人にも覚えてもらわなければならないと思うんです。マークの人たちは記憶力がとても良いんですけど、言葉だけでやるには限界があると思うので。症状の違う患者を複数受け持った時、全然違う治療や薬を与えたりしたら危険でしょう?」
 確かに、と頷いたアルウェンだが、どこか納得していないようだった。
「それが問題なの? 教えれば良いことだと思うのだけど」
「大人になってから文字を覚えるって、想像以上に大変ですよ。そもそも、教えられる能力を持つ人材が少ないんですもの。わたしだって、まだ教えるより教えられる方ですし」
「そうだったの? だけどあなたが何かを書いているところを、わたくし見たことがあるわ」
「それは……」
 は身体をひねって背後の戸棚に手を伸ばそうとした。だが行動を起こす直前になって、そのような動作をしてはいけないということを思い出す。侍女に声をかけて、引き出しから紙の束を持ってきてもらった。
「これはわたしの故郷の文字です。マークの文字ではないんですよ」
「あら、まあ」
 紙束を受け取ったアルウェンは、めくりながら声をあげた。は軽く腕を組みながら言い訳めいたことを話す。
「まったく書けないというわけではないんですけど、読むのも書くのもまだ自信がなくて……。それに、書いたはいいけど、後で読み返せないなんてことになったら目も当てられませんから」
「面白いわねぇ。絵と記号が組み合わさっているみたい。それに、随分種類も多いのね。わたくしには全く読めないのだけれど、同じ文字が出てきていないみたい」
 少しも話を聞いていなかったようで、アルウェンは好奇心に弾んだ声でに笑いかけた。
 一瞬拍子抜けをしたが、まあいいかと思い直すと、故郷の文字の説明を簡単に行う。ひとしきり話し終えると、アルウェンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ね、いいことを思いついたわ」
「どんなことですか、アルウェン様?」
「あのね、わたくしがあなたに文字を教えるの」
「でも、マークの言葉はエルフの文字とは違うと思うんですけど…」
「それは、ひとまず脇に置いておきましょう」
「置いちゃうんですか?」
 それでいいのかと混乱するを、アルウェンはじっと見つめた。こうしてみると、外見の若さとは違う重厚なものが眼差しに見え隠れしている。深く澄んでいるのに、全てを見通しているようだった。
「あなたは、情報伝達を確実なものとするために文字を必要としているのでしょう? それならばマークの文字に拘る必要はないと思うわ。文字が種族に与える影響は大きいものだということはわたくしも知っています。強制的に変更させたりしたら、場合によっては内紛だって起こりかねないもの」
 そういうことを知っているということは、エルフにも内紛だの民族闘争というものがあったのだろうか。浮世離れした美しい人たちだというくらいにしか彼らのことを知らないにとっては、似つかわしくないように思えた。そんな心の声を気付かれたのか、アルウェンは悲しげな顔で微笑んだ。
「エルフも、同族同士で争った過去があるの。こういうことは、人間だけがしていたわけではないわ」
「あ……すみません」
 きっとわかりやすく顔に出ていたのだろうと、は赤面した。だが、アルウェンはゆっくりと頭を振る。
「謝らなくていいの。人の子の責任ではないのですもの」
 言葉の端々から、王妃の様子から、その亀裂は相当深かったことが感じ取れる。
「お茶、新しいものを入れましょうね」
 アルウェンの静かな声が病室に響いた。


「で?君が文字を教えるということで決着がついたのかな」
 その日の夜。アルウェンは執務を終えた王の部屋へと赴いた。
 昼間のやり取りを妃に聞かされていたアラゴルンは、興味深そうに眉をあげる。
「ここにいる間はローハンの文字を覚えるのは無理でしょうから、シンダリンを教えようかと思っていますの。さまも覚えるだけは覚えてみるとはおっしゃってくださったわ。だけど、療病院の診断書をそれで記すかは、様が決定してよいのかわからないので保留ということにされてしまいましたの」
「まあ、そうだろうなぁ」
 アラゴルンは苦笑した。アルウェンはにっこりする。
「わたくし、一度誰かに教えるということをしてみたかったの。お父様がビルボ殿に古のエルフの王たちのことなどを話していらっしゃるのが羨ましかったのよ。わたくしはエルフとしては若い方で、何をするにも教えられる側だったのですもの」
「新しいことに挑戦するのは良いことだと思うよ。それに二人が仲良くなってくれるのも、王としては歓迎すべきことだからね」
「賛成してくださって嬉しいわ。わたくしは人の子の世界に暮らしているのですから、この世界のお友達を作ろうと思っていましたの。それにゴンドールの王妃として、未来のローハン王妃とは特に仲良くなりたいと思っていますわ。なんといっても同盟国ですものね」
 聞いたアラゴルンは慌てたように腰を浮かす。
「アルウェン、まさかと思うが、そのことを殿には言っていないだろうね」
 エオメルがを妻にと望んでいることは、執政でありマーク王の義弟でもあるファラミアにも言っていないことだった。アルウェンは気分を損ねたようにバラの蕾のような唇を尖らせる。
「当然です。機密事項だとおっしゃったのはエステルでしょう。わたくし、そんなに口は軽くありませんわ」
 つんと横を向いた妃に、アラゴルンは参ったと苦笑いした。
「すまない、疑ったわけではないんだ。だが、女性たちの間では話というのは光ほど早く広まるものだというからね」
「光ほどは早くありませんわ。せいぜい、風くらいです」
 結局広まるんじゃないか言いそうになったアラゴルンは、なんとか危険な突っ込みを飲み込んだ。彼女はいつも微笑んでいるので、冗談なのか本気なのかよくわからない。
「もちろん、冗談ですわよ」
 心の中を見透かされて、アラゴルンは再び苦笑した。アルウェンは星のような眼差しを夫に向ける。
「わたくしは女ですから、エオメル王よりも様の味方なの。愛しい方を亡くした辛さが新しい恋で帳消しになるだなんて思えないけれど、もしもエオメル王があの方に愛を告げることで少しでも悲しみの淵から這い上がることができるのなら、それで良いと思っていますわ」
 アラゴルンも神妙に答えた。
「私は男だから、恋しい女性に愛を告げられない辛さは、わかっているつもりだ。だからエオメル殿にはしっかり頑張ってもらいたいと思っているよ」
 ゴンドールの国王夫妻は、微笑を浮かべて見つめあった。不器用なマーク王と傷心の少女の未来に、幸いがあることを祈りながら。





 マークは冬の様相をどんどん強めていった。
 風は冷たくなり、朝には霜が大地を白っぽくした。雪はさほど降らないが、時折みぞれ交じりの雨が降ると、人も獣も家や物陰に隠れて、平原からは命が消えたようになった。
 帰国して一ヶ月が経った頃、エオメルは穏やかながらも退屈な日々を過ごしていた。
 日課の執務が減ることはない。夏の間、すっかり遠のいていた乗馬も毎日できるようになった。鍛錬も欠かせない。それでも時間が余ってしまい、手持ち無沙汰で暖炉の前に座っていることが多くなった。はぜる炎をぼんやりと眺めながら、遅々として進まない時に苛立ちさえ覚える。
(昔は、冬の期間でも退屈することなどなかったのだがな……)
 なぜ退屈することがなかったか、思い返す。
(そうだ、皆が…家族がいたからだ)
 幼い頃は生家のアルドブルグで父母や妹と過ごした。炉辺には身内同様の男たちや館に仕える女たちも集まり、少しも静かになることなどなかった。年の近い少年とは取っ組み合いをしたし、騒ぎがすぎて拳骨を喰らったこともあった。熱気とまどろみの中、年寄りが聞かせてくれる昔話に伝説に耳を傾け、いつしか眠りに落ちる。単純だが、幸せな時代だった。
 両親が死ぬと、状況は少しだけ変わった。
 エドラスで暮らすようになったが、周囲の大人の顔ぶれが変化したくらいで、冬の過ごし方はどこでも同じなのだと思ったのを覚えている。その頃のエオメルは、もう衝動のままに駆け回るだけの子供ではなく、一人前の騎士に憧れるようになっていた。そのため、喧嘩よりも訓練を受けたがり、よく棒っきれを振り回していた。そしてエオウィンもその真似をしていたものだ。ただし、彼女の場合は幼すぎて力の加減も状況もよく飲み込めていなかったようで、力いっぱいエオメルを叩きにかかったのだが。そのため彼は何度も痛い思いをしたものだ。
 そして、そんな二人の面倒をよく見てくれたのがセオドレドだった。彼は時間の許す限り、ずっとエオメルたちと遊んでくれたのだ。おそらく、二親を亡くした子供に、悲しむ時間を与えないためだろう。
(本当に、優しい人だった……)
 自分も年を取ったのだとエオメルは思う。子供の頃を思い出すだけで泣きたくなるほど胸が締め付けられとは。
 それから時が経ち、声がだんだん低くなる頃には、大人に混じって騎士としての訓練を受けるようになっていた。冬の夜長の時期になると、さすがに身体の鍛錬をする時間は減るが、代わりに歌を学ぶ。古から伝わるものを聞き覚えたり、新しく作る方法などを教わった。マークでは文字を使うものが限られるため、古い知識はこうやって代々伝えれている。ただしエオメルは地理や戦術、英雄の話はともかくとして、それ以外にはあまり興味を持てなかったため、覚えきれなかったのだが。
 そしてエオメルが成人して数年後、異例の若さで軍団長に任命されたのだ。東マーク軍団の本拠地でもあったため、彼は十数年ぶりにアルドブルグに居を移すことになる。だが、それから指輪戦争終結に至るまでの数年間の冬の記憶があまりなかったことに気付いた。
 なぜだろうとよくよく思い返し、彼は盛大に舌打ちをした。
(あいつのせいだ……)
 原因はグリマだった。蛇の舌と呼ばれていた相談役がエドラス宮廷にのさばり、心が休む時がなかったのだ。加えて国内を徘徊するオークが飛躍的に増えたので、戦いに赴いていることが多かった。結果として、アルドブルグで過ごす時間は短くなったのである。
 そして今年は……。
 今年の冬は、自分の傍らには誰もいなかった。
 死亡、嫁入り、療養。理由はどうあれ、エオメルの愛した人びとはこの国のどこにもいない。館には大勢の人間が暮らしており、彼らのことも好いているとはいえ、王と家臣という間柄ではどうあっても埋めることができない溝があるのだ。
 心に穴が開くとはこういうことなのか、とエオメルは思った。こんな空虚で、寒々しいものが。活力がすべて吸い出されてしまうことが。
 炎が舞い、影が躍る。金と赤の揺らめきの間に、エオメルはここにはいない人の姿を思った。
 数日後、やることもないので早々に寝ようと部屋へ向かっていると、の部屋から明かりが漏れていた。ユルゼが大掃除をすると言っていたが、まだ終わっていないのだろう。
 エオメルは注意を向けるだけのノックを一度し、顔だけ出した。
「熱心なのはよいが、残りは明日にしないか?」
 王の突然の出現に、侍女たちは慌てた。エオメルも意外な光景に息を飲む。そこには一度も見たこともない美しい衣装が何枚も広げられていた。
「それは?」
 かすれた声で訊ねる王に、ユルゼは答えた。
「エルケンブランド卿から届けられていたものです。セオドレド様と婚約をした際に……」
「ああ……」
 それなら自分が見たことがなくても無理はない。華やかな衣装は、喪に服していた彼女には着ることができない代物だったのだろう。
「なぜ、今になって広げているんだ?」
 家政のことに詳しくないエオメルだが、衣類の交換は春と秋に行っていることくらいは知っていた。虫干しをし、痛んだところを修繕するために、女たちが忙しくしているところは何度も見たことがある。
 ユルゼは後ろめたそうに衣装を振り返った。
「手入れをして、陛下の隣の部屋に運ぼうと思いましたの。……出過ぎた振る舞いでしたでしょうか」
 エオメルは咄嗟に答えを返すことができなかった。自分の隣の部屋といえば、王妃の部屋なのだ。セオデン妃エルフヒルドが亡くなって以来、数十年も使われていない。
「ユルゼ、結婚の話は、決定したわけではない」
 なんとか堅い声で言い返すも、ユルゼはにっこりと笑った。そうすると深いしわに埋もれて、目が細くなる。
「わかっております。ですが、ここに置いていても姫様は袖を通そうとはなさらないでしょう。それに……」
 ユルゼはエオメルを見上げた。その眼差しは母親のように自信に満ちている。
「頑張ってくださるのでしょう、陛下? 女官一同、期待しております」
「…………」
 これで彼女に振られた場合のユルゼたちの落胆を思うと、エオメルは今から頭も胃も痛くなりそうだった。には会いたいが、答えを聞くのが怖い。
 適当に言いつくろって、その場を後にしたエオメルは、誰にも見えないところで重い重いため息をつくのだった。
 さらに数日後、エオメルは意外な相手から謁見の申し込みを受けた。セオドレドが贔屓にしていた装飾細工職人である。エオメルが最後に会ったのは、従兄が生前のために注文していた指輪を届けに来た時のことだった。
「久しいな。どうかしたのか?」
 内密でとの請願を受けたので、彼は職人を自室に招いた。
「はあ……実は、その……」
 職人は困惑しきって、そわそわしていた。
「実はですね、最近高価な注文をなさる方が増えたのでございます」
 それのどこに問題があるのだろうかとエオメルは本気で悩んだ。忙しくて仕方がないということだろうか。しかし、仕事を請けるかどうかは職人の裁量であって、エオメルが関与すべきことではない。
「良いことではないのか、それは。我が国がそれだけ復興しつつあるということだろう?」
「それとは少々違っているのでございます」
「どういうことだ?」
「つまり……どれもこれも、エオメル王やレオフォスト姫への贈り物として、注文を頂いているんでございます。結婚の贈り物として」
「……」
 ここへきてエオメルは、自分が大失態を犯したのだと悟った。家臣たちには口止めをするべきだったのだ。効果があるかは別としても。
 職人は忙しなく上着の裾をいじりながら続けた。
「で、不躾な質問なのですが、それは事実なのでございましょうか? わたくしもエドラスに住んでおりますので、噂だけは聞いております。ですが、噂だけですので、事実なのかどうかわからんのです」
 冷や汗を流しながら職人はエオメルをちらりと見やる。
「これで間違いだったということになりましたら、わたくしは大損してしまいます。いや、破産です。すでに高価な材料などを注文してしまいましたから……」
「あー……それは、今から取り消すことはできんのか?」
 自身も冷や汗を流しながらエオメルは聞いた。
「つまり、それは事実ではないということでございますか?」
 青ざめた顔で職人は聞き返した。
「いや、事実ではないというか、つまり、私は彼女を妃に迎えたいと思っているが、まだ答えをもらっていないのだ。もらっていないというか、告げてもいないのだが……」
「はあ、それはまた……」
 何と返せばよいかわからないようで、職人は頭を振った。
 さすがに少し情けない思いに駆られ、エオメルは咳払いをする。
「とまあ、そういうわけで、その注文は場合によっては無用となりうる。対策としては、別の者に譲るということだがどうだろう? そなたの細工ならば引き取り手の一人や二人は現れると思うのだが」
「それは無理というものでございます。どの細工にも王家の紋を入れるよう、注文をいただいておりますので。それに、そのうちの幾つかには例の姫様の紋もございます」
 どこから知られたのだとエオメルは呆れた。
が紋を持っていることは、秘密なのではなかったのか?」
 嫌味を込めていうが、職人はいいえ、と答えた。
「セオドレド様は特にお隠しにはなっておりませんでしたよ。それは、姫様には知られないようにはしておりましたが……。ユルゼ様やエルケンブランド卿などに、図案を見せて意見を伺うなどなさっておられました」
「そうだったのか……」
 また一つ、セオドレドの行動を知って、エオメルは胸が痛んだ。彼は指輪ができるのをどれだけ心待ちにしていただろう。自分の彼女への想いなど、セオドレドには叶わないと思えた。
「まあとにかく」
 気持ちが沈むのを悟られないように、エオメルは威儀を正した。
「そなたのためにも、これ以上の注文は受けるな。すでに受けてしまったものについては仕方がない、責任を持って作製しろ。それで、私の気持ちがに受け入れられなかった場合には、致し方ないので引き取れるものは引き取ろう。私にできるのはこれくらいだ。どうだ?」
「充分でございます、エオメル王」
 職人はほっとしたように肩を落とした。
 何度も頭を下げながら彼がいなくなると、エオメルはどっと疲れたように椅子の背にもたれた。
(参った……)
 この調子では、が帰ってくる頃にはマーク全土が彼女との結婚が決定したということにでもなっているだろう。この風潮に逆らってまでエオメルを拒むのは難しくなるはずだ。自分にとっては好都合とはいえ、彼女の気持ちを思うと単純には喜べなかった。
(すまん、……)
 遠くミナス・ティリスにいるであろう娘に、エオメルは心の底から謝った。





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