季節は移ろい、十二月になった。
窓から外を眺めると常緑樹の間に顔を覗かせるのは、赤や黄色に色づいた広葉樹たち。
風もないのに葉が一枚、また一枚と落ちてゆく。
昼間の陽光も熱を失ったようで、ただただ明るい光に包まれている思いがする。
静かだった。
穏やかだった。
それだけに、焦りが生まれた。
「わたし、そろそろミナス・ティリスに行こうかと思っているの」
何気ない口調でが言うと、エオウィンは美しい形の眉をきゅっとしかめた。
「……イシリアンの生活は、もう嫌になった?」
「そんなんじゃないわ。エオメル様がおっしゃっていたじゃない。患者として入院してみるのもありだって」
「それは、そうだけど……」
「切り傷はくっついたでしょう? あとは肋骨の骨折が治るのを待つだけ。それなら本当に入院してみようかなって思って。ミナス・ティリスなら二日くらいで着くでしょう?」
エオウィンはため息をつきながら金色に輝く頭を小さく振った。
「三日よ」
「二日でしょう?」
はきょとんとして首を傾げた。
「それは普段と同じ体力があればの話よ。今のあなたでは三日はかかるわ。馬で行こうと輿を使おうと、ね」
エオウィンの表情は晴れない。心配をさせているのだと察して、は急ぐ理由を話した。
聞き終わったエオウィンは目を閉じると、再び頭を振る。
「そういうことなら、止められないわね。だけど、出発するのはもう少し待って。これからあなたがミナス・ティリスへ行くという知らせを送るから」
「わかったわ」
大人しく引き下がると、エオウィンは安心したように小さく息を吐く。
「困らせてしまって、ごめんなさい」
が謝ると、エオウィンは苦笑交じりの笑みを浮かべた。
「いいえ、気持ちはわかるもの。わたくしだって、その日はきっと心穏やかではいられないでしょうし……」
ふと思いついたように、エオウィンは顔をしかめた。
「もしかしてわたくし、無神経だったかしら?」
「エオウィンが? どうして?」
なぜそのようなことを言い出したのかまったくわからず、は聞き返す。
「だって、あなたはセオドレドを失ったのに、わたくしは結婚してしまったから。あなたの気に障ってしまったのじゃないかと思ったの……その、色々と」
片手を頬に当てて、エオウィンは言った。よく見るとその頬はわずかに赤らんでいる。
イシリアンの若夫婦は、新婚特有の甘酸っぱいやりとりをしないわけではなかったが、ファラミアの年齢もあってか、どちらかといえば落ち着いた様子であった。そのためは時折微笑ましく思う以外、とくに気になったことはないのだが……。
(多分、他の人がいないところではそれなりなんだろうな)
そう思い当たって、は思わず笑みを浮かべた。エオウィンはますます赤くなる。
「ごめんなさい、笑ったりして。でも、それが理由ではないわ。もしもそうなら、ミナス・ティリスへ行くだなんて、言うはずがないじゃない。あちらにいらっしゃる国王陛下も、ご結婚したばかりなんですもの」
「そ、そういえばそうでしたわね。いやだわ、わたくしったら……」
エオウィンは何度も頷くも、動揺が抜けきらないようで、目が泳いでいた。よほど自分の考えていた内容が恥ずかしかったのだろう。聞いてみたい気は少しあったが、自分も女なので同じ立場に立たされたら居たたまれない思いをするだろうことは想像がついた。なので、は特に気にしていない風を装う。
「それじゃあ、ファラミア様が視察から帰っていらっしゃったら、すぐにでも使者を送るようお願いしますわね」
話をそらそうと、エオウィンもわざとらしいほど明るい口調で言った。
「ありがとうエオウィン。だけど、わたしの方からも理由を説明した方が良くない? あなたみたいに、変に気を回されても困るし……」
「それじゃあ、お夕食の頃にでも」
女二人の話はこれでまとまった。
夕方、ファラミアが戻り、温かい湯気の立つ料理が並んだテーブルで昼間の出来事を伝えると、彼は神妙な顔で俯いた。
「ああ、私もパルス・ガレンへ行けたら……! しかし、かの地は遠い……」
ファラミアの了承はあっさり得られた。しかし彼はすっかり悲しみに囚われてしまったようで、その日の夕食は大変気まずいものとなってしまった。
はこのイシリアンの領主を見てもボロミアのことを思い出さなかったことに、忸怩たる思いを覚えた。セオドレドとボロミア。この二人が死亡した日はほとんど同じだというのに。
北上するにつれて、草木は冬の様相を帯び、だんだんと茶枯れていった。夜の時間も長くなり、自然と行軍は行きよりも遅くなる。
十二月もだいぶ過ぎた頃に、エオメルはマークへ帰還した。エドラスでは国王を出迎えに出てきた人々が沿道に並ぶ。しかし歓呼の声は、騎士の列が彼らの前を通り過ぎるにつれて鈍っていった。そして徐々に戸惑いが広がる。
背後から起こる不穏な雰囲気を感じて、エオメルはひとり唇を歪めた。がいないことに、もう皆が気付いてきている。
という少女は小柄な体格だ。女たちの間にいても隠れてしまうほどその身は小さい。しかし、存在感まで小さいわけではない。男たちが国を空けていた間に、彼女はマークの高位の女性として、民の間にもすっかり定着したのだ。
その彼女がいないということを非難されている。人々はエオメルが置いてきたか、が戻りたがらなかったのだと考えていることだろう。そしてどちらにしても責任はエオメルに被せられるのだ。
面倒なことになったと、彼はこっそりため息をついた。
「お帰りなさいませ、殿」
留守を任せていたエルフヘルムとエルケンブランドがエオメルを迎えた。彼らの背後には目立たないように女官長のユルゼが控えている。
「ああ、いま戻った。留守中、何かあったか?」
「冬越しのための請願が何件か届いております。また、オーク、東夷などの敵の残党が目撃されたとの知らせが。被害はいまのところ、ございませんが」
「わかった。あとで詳しく聞こう」
エオメルは話しながら館へ踏み入る。寒空の下、馬を駆けさせてきたので、身体の芯は暑くとも肌は冷え切っていたのだ。暖炉で暖められた空気に包まれ、エオメルは思わず目を細めた。開放的な南の館とは違い、黄金館は窓も扉も小さく、匂いが篭りやすい。その一種独特な匂いがエオメルの鼻に届くと、離れていた間に忘れたと思っていた感覚が瞬く間に戻ってきた。
感慨深い気持ちでエオメルが自室へ向かっていると、背後から初老の勇士たちが疑念に満ちた声で尋ねてくる。
「殿、帰参の面子の中に、我が養娘の姿が見当たらないようですが、あの子はどうしたのですか?」
「うっかり忘れてきた、などとは申しませぬでしょうな?」
誤魔化しはするなという、無言の圧力がそこにはあった。エオメルはやはり聞かれたかと、苦笑いしながら振り返る。
「彼女は今年の冬をゴンドールで過ごす。必ず戻ってくるから心配するな」
驚きの声をあげたのは、ユルゼだった。彼女はスカートを翻してエオメルの側へと駆け寄ってきた。
「一体どうしてそのようなことになったのです? 姫様が望まれたことなのですか?」
「皆にはあとで知らせるが……簡単に口に出してよいことではない。まずは私の部屋で話そう」
エオメルの返答はユルゼを不安に突き落としてしまったようで、彼女は真っ青になった。それでエオメルは兜に手を当てて――本当は頭を掻こうとしたのだが、兜を被っていたのでできなかったのだ――落ち着かせるような口調で付け加えた。
「悪い話ではない……あ、いや、悪い話もあるか。しかし、心配するな」
ユルゼどころか勇士たちも、訳がわからないという顔になった。それを見たエオメルは、己の説明下手さに眩暈がする思いだった。
とりあえず部屋に入ると、介添えを受けながら着替えをした。武具は侍従に渡して手入れをするように命じる。
その間、ユルゼが王の部屋に食卓を用意し、軽いものを摘めるようにしていた。
着替えを済ませたエオメルは、喉をビールで湿らせながらイシリアンでの出来事を話して聞かせる。が射られた件に差し掛かると、ユルゼのみならず、初老の騎士たちも青くなった。
「本当に、あの子はもう元気なのですな?」
養父たるエルケンブランドは念を押してきた。エオメルは苦笑交じりに頷く。
「なかなか落ち着かない怪我人で、侍女たちが頭を抱えたくらいに元気だぞ」
エルケンブランドは思わず目を細めた。だが不謹慎だと思ったのか、咳払いをして誤魔化す。
「では、わたくしからも後ほどイシリアン公へお礼をいたしませぬと」
「そうしてくれ。滞在中にゴンドールの諸地方との貿易提携を結んできた。もちろん、イシリアンともな。その時に礼状か使節をつければ良いだろう」
承知したとエルケンブランドは頷く。わずかな沈黙の間を縫って、ユルゼが口を開いた。
「エオメル王、差し出がましいことをお聞きいたします無礼をお許しください」
「どうした、ユルゼ」
エオメルにとっても母代わりであったユルゼがいつになく硬い表情をしているので、いぶかしく思った。彼女はためらいながらも、決然と年若き王に向き合う。
「先ほどからのお話を聞き及びますに、殿はドル・アムロスの公女となにがしか将来をお約束するようなことをなさったのでしょうか? わたくしどもの女主人が決まったのだと解してよろしいのですか?」
エオメルは驚きのあまりビールに咽た。ロシリエルと見合いしたということは、破談になったこともあって省いていたからだ。
「ど、どうしてわかった?」
王の挙動不審ぶりに、女官長はさすがに呆れた顔になる。
「殿はお身内の以外の女性とは、ほとんどお近づきになったことがないではありませんか」
エオメルは憮然となるも、老雄二人は納得したように頷きあった。
「確かに。ロシリエル様は殿の義理の弟君となられたファラミア公のお従妹様とはいえ、乗馬を教えるほど急激に親しくなるほどの間柄とは思えませぬな」
「エルフヘルム……」
「ドル・アムロス大公家ならばエオル王家と縁があってもおかしくはないですからな」
「エルケンブランド……」
容赦のない年寄り連に、エオメルは恨みがましい目つきで睨みつける。しかし、さすがは年の功というべきか、彼らはそろって受け流した。
「それで、式はいつ頃に?」
にこやかともいえる表情でユルゼが訊ねた。
「っ違う!」
エオメルは思わず立ち上がる。あまりの勢いに、ユルゼは怪訝そうに眉をひそめた。
「違うというのはどういうことでございましょう」
「だから、ロシリエル殿とは結婚しないんだ。見合いはしたが、破談した」
すると女官長は面食らったように小さく口を開けたまま固まり、両脇に並ぶ勇士たちはひっそりと肩を落としていた。
「……よほどお気に召さない方だったのでしょうか」
彼らの反応に、留守をしていた者たちがエオメルがイシリアンで見合いの一つもしてくるのだと信じて疑わなかったことが伝わってくる。そして話をまとめてくるということも。
つまり、エオメルは思い切り彼らの期待を裏切ってしまったことになるのだ。エオメル自身にはどうすることができないことであるが。
「そうではない。美しく優美で穏やかな、素晴らしい姫君だったよ。だがなぁ……」
エオメルは頭を振った。妙に気まずく思えて、エオメルは頬をさすりながら自分の一挙一動を見守る人々から目をそらす。
しかし気合をいれるように鋭く息を吸い込むと、彼は西の谷の領主に視線を定めた。
「エルケンブランド。私はそなたの養娘を貰い受けたく思う。本人にはまだ伝えていないが、養父のそなたの意見は?」
これにはさすがに百戦錬磨の勇将も虚をつかれたようだ。数度瞬きをしてから考え込むようにわずかに俯く。
「親としてならば、依存など何もありませぬ。娘が殿や民に受け入れられ、王妃の地位につけるということに反対する者がいるとも思えませぬからな」
彼は薄く笑った。しかし次には頬をひきしめて厳しいともいえる表情になる。
「しかしあの子は実の娘ではありません。わたくし自身、あの子のことをセオドレド殿下からの預かり者だと思っておりました。つまり、わたくしの自由になる子供ではないと……」
「で、結論は?」
さっぱり要点にたどり着かないので、エオメルは遮った。
「つまり、本人次第です」
王の意を汲んだエルケンブランドの返答は、清清しいほど簡潔だった。これにはエオメルも苦笑する。
「わかった。つまり、私が口説き落とせればよいのだな」
国王帰還の知らせを受けて、外出していた廷臣や有力な騎士たちも続々と館へと戻ってきた。一休みを兼ねて彼らが集まるのを待っていたエオメルは、そろそろ頃合かと大広間へと向かう。
声高に談笑していた男たちは、王のお出ましに静まり返った。館に勤める女たちはこの間、大広間へは入れないので、廊下からこちらを眺めている。いつもと同じ光景だった。
エオメルは玉座に腰掛けると、手を組んで対面する人びとを見渡した。
「皆、長い間留守にしていてすまなかった。特別難しい問題は起こらなかったようで、安心した。いくつか小さな問題もあったようだが、適任者がそれぞれ解決に尽力してくれたようだ、感謝する」
まずここまでは型通りの挨拶と言えた。エオメルは一端言葉を切って次の話題に移る。
「さて、イシリアン及びミナス・ティリスから、特に知らせねばならないことが幾つかある。まずは我が妹、エオウィンの婚儀は無事に執り行われたということ。彼女は私が滞在している間もイシリアン公妃として立派に振舞っていた。ファラミア公の親戚筋とも良好な関係を築き始めている。我が国にとっても朗報といえるだろう。あとは後嗣を生むだけだが、こればかりはすぐにというのは無理だな」
敬愛するエオル王家の姫のこととあって、厳つい顔の多い騎士たちも相好を崩していた。それに最後の台詞では小さく笑い出した者も多い。
「次は……すでに皆気付いているだろうが、・レオフォストは我らと共に帰還してはいない。彼女はイシリアンで敵の残党に毒矢を射られた」
途端、怒号のような叫び声が上がる。留守を預かっていた者たちも、すでに帰還した友人たちなどから話を聞いていたのだろう。こういう話は瞬く間に広まるものなのだ。それでも王からの正式な知らせがあるまでは、噂の域を出ないと思われるのだ。
エオメルは声を張り上げた。
「彼女は無事だ。しかしマークまでの道のりは長い。怪我を押して帰るのはいくらなんでも無謀というもの、よって、傷が癒えるまではイシリアンで預かっていただくことになった。残党もイシリアン公や婚儀の宴のために集っていた方々と共にすでに平定している。我が軍からは一人の死者も負傷者もでなかった」
家臣たちは、の容態を心配する者、残党退治には自分も参加したかったと残念がる者など、様々だった。
エオメルは次に各地の領主たちとの間で決めた交易について披露した。こちらから送るもの、向こうから届くものなど事務的な内容の話だが、目新しい産物の数々に目を輝かせて聞き入る者は多い。
その次には療病院設立案だ。だが運営責任者にを据えるということ、ゴンドールへの研修生の派遣など、すでに国王同士で取り決めた数々には、急ぎすぎではないかという声もあがる。
「では、療病院は不要だろうか」
皮肉ではなく、純粋な疑問としてエオメルは訊ねた。難色を示した人びとはそれを聞いて口ごもる。
「そのようなことは、決して……」
「ええ。必要なことは充分承知しております。しかし時期尚早ではないかと……」
「療病院を設立するには、莫大な金がかかります。我が国が復興するにはまだ時間がかかりますのに」
エオメルの結論は単純なものだった。
「それは私も思った。しかし、今から考え始めても完成するのはおそらく数年は先になるだろう。その頃には復興も一段落ついていると目算している。戦の傷跡が無くなるのを待ってから取り掛かるのは遅すぎるではないか? 我らはこれまで、剣と槍の力で民を守ってきた。これからは癒しの力も取り込みたい。病や怪我で倒れる者を減らせば、その分国力も増すというものだろう。違うか?」
これで全員が納得したわけではないだろう。見渡す顔にも困惑の様子が強い者も見受けられる。しかし、目立って反論しようとする者は現れなかった。念のため、エオメルは彼らを宥めるための一言を付け加える。
「まあ、そんなに大げさに捉える必要はないだろう。私とてこれが大事業だということは承知している。しかし建物の建設などの大掛かりなことは、財政状況などをよく考えて行うつもりだ。そうでなければ国が傾きかねないからな」
それで一応は収まったようだ。だが、エオメルは内心でもう少し揉めても良かったのにと思っていた。王という立場上、最後の話題を口にしないわけにはいかない。しかし、彼としても大勢の家臣の前で話すのに躊躇することはあるのだ。
「それから、諸君らの中にも並々ならぬ関心を持っている者もいるだろうが……私の妃の件だ」
それだけで面白いほどざわめきが消えた。王妃候補が定まったのかと興味深そうに皆が一斉にエオメルに注目したのだ。
「色々考えたのだが、・レオフォストを我が妃として迎え入れたく思う。本人にはまだ伝えていない。なぜなら、彼女の心にはセオドレドがいて、私の入れる余地がないと思えたからだ。それに、彼女はしばらくイシリアンから動けない。この状態で申し入れたら、最悪の場合、ゴンドールから帰ってこなくなりそうなのでな」
あり得る、という声が方々からあがった。
「セオドレドは私にとっても最愛の従兄だった。彼女の嘆きは理解できる。だが、どこかで区切りをつけなくては。死者は戻ってこない。どれほど強く願ってもだ。生き残った我々は、先へと進まなければ……」
亡き先王の息子を偲んで、しんみりとした空気が流れた。エオメルは徐に口を開く。
「そしてこれから先、には私を見てもらう。だが、選定に強制があってはいらぬ不幸を生み出すだけだ。だから、皆には手出し口出しは無用に願う」
広間に集った人々は、力強く断言したエオメルの本気を感じ取った。まして王の言葉が法と同等の力を持つマークでは、王妃の問題は決定したようなものだった。後はもう、時間の問題である。
釘を刺されたことと、当事者の一人がこの場にいないため、祝辞を述べる者はさすがにいなかったが、一気に場の雰囲気が明るくなった。この話もきっと早晩マーク中に広まることだろう。
人びとの期待を受け、エオメルは朗らかに笑った。だが、心の片隅がちくりと痛む。
(彼が本来得るべき立場につき、彼の愛した女性を迎える……)
セオドレドのものを全て自分が奪ったのだという罪悪感に襲われた。策を弄して蹴落としたわけではない。誰かが国を治めなければならないのだ。エオメルは最後のエオルの男、だからこれは義務なのだ。そう言い聞かせても無駄だった。
を妻とするからには、一生この葛藤を抱えなければならないのだと、エオメルは気付いてしまったのだから。
がイシリアンを離れたのは、エオメルたちが帰国してから四日後のことだった。まだ馬に乗ってはいけないと、ミナス・ティリスまでは輿に乗せられたのだが、乗り心地はあまり良いとはいえなかったため、余計に疲労してしまった。
自分で身体の均衡を保たなくて済むので楽といえば楽なのだが、揺れることには変わりなく、その振動も常とは違ったため、途中で酔ってしまったのだ。ミナス・ティリスへ到着した際、出迎えに来たアラゴルンやアルウェンが、彼女の顔色の悪さを怪我が治りきっていないのに無理をしたからだと誤解したのだが、それを否定する元気もない有り様だった。
当然、到着してすぐ療病院に入院することになる。ある意味では目的の一つが叶ったといえるだろう。
その日はゆっくり休み、翌日、院長自らがの怪我の診察にやってきた。院長は黒っぽい髪に白いものが混じり始めた男性で、穏やかで辛抱強そうな容貌をしていた。
(い、痛い…)
院長はをうつ伏せにすると、患部の周辺を丹念に調べ始めた。時折涙がにじむほどの痛みを覚える。こんなに痛んだのは怪我を負った初日以降なかったはずだ。
それでも努めて気にしないようにし、院長の指の動きや、呟くような言葉すらも覚えていようと耳と気配をそばだてる。エオメルやアラゴルンの考えはともかく、自分の中ではすでに研修は始まっていると考えているからだ。
そもそも健康体だったは、入院するような怪我も病気も今までしたことがなかった。医者、それも院長という立場の相手との面識があったはずもない。それにゴンドール中で療病院があるのは、現在のところここミナス・ティリスだけだということだ。つまり、院長はにとって唯一の師になりうる人物なのだ。
診察後はきつめに包帯を巻かれ、看護師だという女性たちに手伝ってもらい、ゆったりとした部屋着に着替えさせられた。すべて終わると、どっと疲れが押し寄せてくる。
痛み止めの効能のある薬草茶を渡されてゆっくり飲んでいると、扉代わりの厚い布をまくって、王妃が顔を出した。一瞬にして殺風景な病室が煌びやかな居室になったように感じる。
「診察はもう終わったの?」
「これは、アルウェン様!」
突然の王妃の登場に、院長も驚いたようだった。アルウェンはが部屋着を着ているのを見ると、一度顔を引っ込めた。再び顔を出すと、今度は中へと入ってくる。後ろからはアラゴルンがついてきた。
「エレスサール王。いくら国王陛下といえど、院長の許可なく女性の病室に入るのはあまり褒められたことではございませんよ」
院長に窘められ、アラゴルンはすまぬ、と頭を掻いた。
「殿を責めないで。わたくしが様子を見てきますからと言ったのですもの。それに様はローハンからお預かりした大切な方、一緒に診察結果を聞きたいと思ったの」
美しい声と笑顔で王妃が取り成す。院長は、仕方ありませんな、ともごもご呟いた。
「それで、結果は?」
王妃の笑顔が頑固な院長にも通じたことに感嘆しながら、アラゴルンは先を促す。
「そうでございますな……。鏃を引き抜く際に出来た裂傷は問題ありません。特に化膿もしておりませんので、様子を見つつ抜糸をしましょう。ただ、さすがに完治しても跡は残ってしまうのですが……」
「若い娘にとっては気の毒な話だ」
同情するようにアラゴルンが言う。しかしは気楽なものだった。
「構いませんわ。そういうものだろうと思っていましたし、それに服の下に隠れますから。自分で見えるわけでもありませんしね」
「だけど聞いた話ではずいぶん大きな傷だというではないの。まったく関わりがないわけでもないのだし、傷物になった責任をエオメル王にとっていただいたらどう?」
アルウェンが本気とも冗談ともつかない口調で言う。
「まさか、こんなことで」
助けてくれたエオメルに、感謝こそすれ責任を被せるつもりはない。は軽く受け流したのだが、アルウェンが可愛らしく唇を尖らせたところを見ると、彼女としては本気だったようだ。
「その話は後にしよう。続けてくれ院長」
アラゴルンが先を促す。院長は咳払いをして再び話し始めた。
「肋骨の骨折については、問題ありです。応急処置の段階からか、移動時に揺れ過ぎたせいか定かではありませんが、ずれておりました。あのままの状態で骨が癒着してしまえば、完治後も慢性的な痛みが起きてしまいます」
特に何事もないだろうと思い込んでいただけに、は驚きを禁じえなかった。アラゴルンも渋面を作っている。
「それは、どうしたんだ?」
「少々手荒でしたが、正しい位置に骨を押し込みました」
院長の答えに、それで診察の間、痛かったのかとは納得した。
「包帯を強めに巻いて固定しましたが、胴体というのは手足のように完全に動かないようにすることはできないのです。もしも最初の処置から手を加えるようなことがなければ、もう二週間ほどで普段どおりの生活に戻っても良かったのですが、残念ながら、一月は安静にしていなければなりません」
「一ヶ月も…」
は呆然とした。セオドレドの命日にはマークへ帰りたい。そうなると研修期間は二ヶ月あるかどうかだ。
「ずっと寝ていなければならないの?」
確認するようにアルウェンが訊ねる。
「ずっとではありませんが、最初の十日はそうしていただきませんと、いつまで経っても良くはなりません」
「まあ……。せっかく、様とあれもしよう、これもしようと考えていましたのに、当分お預けですわね」
アルウェンは頬に手を当てて、残念そうにため息をついた。
院長は最後に付け加える。
「ですが、姫君の症状は安静にしてさえいらっしゃれば、急変するということは通常ありえません。陛下があなたの部屋を王の館に用意していらっしゃるとのこと。もしそちらへ移ることを希望するのでしたら、そうなさっても構いませんよ」
しかしは頭を振った。
「いえ、できればこちらに入院したく思います。そうでないと、またズレるのではないかと、心配で……」
治療期間の延長。それはイシリアンで散々動き回ろうとしたつけであると確信していた。こうなったのも自業自得だし、後々の後遺症を回避できそうなので文句などいえないのだが、これではなんのためにミナス・ティリスまで来たのかわからない……とは物悲しい思いにかられていた。
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