早朝からイシリアンの領主館はにぎやかだった。
宴も済み、突発的な事件の後片付けも終わったので、帰郷の途につこうとする人びとが大勢いたのである。道のりが遠いローハン勢は昼前に、ドル・アムロス勢も午後には出発するということだ。朝一番に様子を見に部屋へと訪れてきたエオウィンがそう教えてくれた。
「一気にいなくなってしまうのよ。今夜からずいぶん静かになりそう」
「本当ですね。今までずっと家族みたいに過ごしていたのだもの、寂しくなるかも」
何気ないの感想に、エオウィンは静かな笑みを浮かべる。
「そうね。それにイシリアンのこの館は、わたくしの育った黄金館より人の数が少ないのよ。背後にそびえる山も、丘から見下ろせる草原もなくて……。何もかもが違う」
「マークが懐かしくなりましたか?」
ホームシックになったのかと、は心配する。エオウィンは困ったように眉を寄せた。
「少し。だけどイシリアンが嫌だというわけではないわ。それとこれとは別よ」
「……その気持ち、わかるような気がします」
そしてエオウィンとは互いに押し黙った。二人とも、あふれ出た寂寞感に捕らわれてしまったのだ。名残惜しげにエオウィンが立ち上がり、部屋を辞そうとした。と、思い出したようにに注意を促す。
「そうだわ。あなたはまだ安静にしていなければいけないのだから、外までお見送りに出るのはやめておいてね。その代わり、ご挨拶したい方がいたら、ここに呼ぶようにしてあげるから」
は思わず叫んだ。
「そんなぁ。皆さんが勢ぞろいするのを楽しみにしていたのに。お見送りをしに行ってはいけないの?」
「いけないということはないけれど、わたくしたちも慌しくなるし、目が行き届かなくなると思うのよ」
「わたしなら平気よ。ゆっくり歩けば背中もそれほど痛まなくなってきたし……。とにかく、こんな日にお部屋に篭りっぱなしでいるなんて嫌よ」
「、お願い。わたくしを安心させるためだと思って。あなたにまた何かあったら、わたくしは亡きセオドレドにもエオメルにも、合わせる顔がないわ」
エオウィンが両手を握って懇願してきたので、はそれ以上強いことを言えなかった。肩を落とすほど消沈したが、承諾する。
そして別れの挨拶をしたい人びとを伝えた。とはいえその数は多くない。エオメルとドル・アムロスの四兄妹たちだけである。
エオメルは時を置かずに現れた。すでに盛装し、いつでも出発できる出で立ちである。磨きこまれた鎧を鳴らしながら彼はの前に立った。
エオメルは今後のこと、つまりまずは傷が癒えるまでは無茶はしないことと、その後はミナス・ティリスの療病院で研修をするということを確認した。
「研修期間は三ヶ月もあれば充分ではないかと思うのだが……」
濃い金色のひげのある顎をなでながら、最後にそう付け加える。は黙って頷いた。どうやらエオメルの計算では、療養に一ヶ月、研修に三ヶ月をとり、四月頃には帰国するとなっているらしい。
春が来れば、自分はこの世界に来て丸二年となる。ふいにそんなことを思い出し、は言葉に詰まった。
「わかりました、お言いつけ通りにいたします」
訳もなく泣き出したい気持ちになったのを堪え、何とか答えただったが、乱れた心にエオメルは気付いたらしい。案じるような顔で大丈夫かと問いかけてきた。籠手に覆われた腕を伸ばしてくる。
「大丈夫です。ちょっと、しんみりしてしまっただけよ」
エオメルの手が止まった。その手はどこにも触れることなく、下ろされる。
「そうか……」
ほんの一時だけ目が空中を彷徨ったが、最後には名残惜しそうな色を浮かべた。
「ではな、しばらくお別れだ」
「はい。道中、お気をつけて」
別れの言葉は簡潔だった。しばしの間、視線が絡む。もの問いた気なエオメルの眼差しに、は目を伏せた。
未練を断ち切るようにエオメルは無言で立ち去った。一人になるとは緊張が抜けて椅子にもたれる。そしてまた傷がじくりと痛んで顔をしかめた。
「……もう」
ため息をついたが、それがいつになっても痛みの引かない傷のせいなのか、エオメルとの別れが辛かったせいなのか、わからなかった。ただ、最後に自分を力づけるために、頭でも肩でもいいから、触れてくれればよかったのにと思い、そんなことを考えた自分にびっくりした。
エオメルとは反対にドル・アムロスの兄弟たちとの別れはにぎやかなものになった。三人ともを気遣い、元気づけようと言葉をかける。見合いのことは一言も発しなかったのは、マークの民である自分によけいな圧迫を与えないためだろうと考えた。
「結局、この冬はゴンドールで越すことになりそうですね」
と長兄のエルフィアが言うと、
「その方が良いですよ。ここはローハンより南にありますからね。きっと過ごしやすいことでしょう」
次兄のエルヒリオンが続ける。
「ええ、私もそう思います。寒さが厳しいと傷にも障りますから……」
医者めいた物言いで三男が結論付けた。
「そういうことになりそうですわ。でも、ずっとイシリアンにいるのではなくて、しばらくしたらミナス・ティリスに行くんです。アムロソス様、わたし、一足お先に研修を受けに行くんですよ」
「決定したのですか?」
驚いたようにアムロソスは目を見開く。
「はい。もっとも医師でも看護師でもなく、管理職にならなければいけなくなったのですけどね」
苦笑交じりでが答えると、アムロソスも笑った。
「なるほど、そうきましたか。エオメル王もお人が悪い。発案者に面倒なところを押し付けにきましたね」
「そんな感じです。だけど、かえってこの方が良かったのかもしれません。無為に過ごすことは性に合わないものですから。お役目をいただいて、安心したくらいです」
なるほど、とアムロソスは頷く。
「ではミナス・ティリスで再びお目にかかれそうですね。私は新年の祝いをアムロスで過ごしてから赴く予定ですが……」
「あら、残念ですこと。わたしは新年のお祝いが終わったあたりで帰国になりそうですわ。一応、三ヶ月の予定なんです」
「では入れ違いになりそうですね。残念だ」
アムロソスは肩をすくめた。
ふと、ここで間が空いた。それまで黙って話を聞いていたロシリエルが数歩前へ進み出る。
「様」
「ロシリエル様、お加減はいかがですか?」
ロシリエルは目をそっと伏せながらあえかな笑みを浮かべる。彼女のことは気になっていたが、晴れやかとまではいかないようだ。
「大丈夫ですわ、わたくし。そんなにお気をつかわないでください」
「そう……ですか?」
「ええ。それよりも、昨日は不愉快な思いをさせてごめんなさい。一日も早く様の傷が癒えるように、お祈りいたします」
「不愉快だなんて、とんでもない。ありがとうございます、ロシリエル様」
手を差し出すと、ロシリエルは一瞬戸惑ったように瞬きをしたが、両手で握り返してきた。
「いつか……ドル・アムロスへお越しくださいね。わたくしが幼いころから慣れ親しんだ青い海原をぜひお見せしたいわ」
まっすぐこちらを見つめる彼女の眼差しは、美しく澄んでいた。物腰は柔らかいながらも、公女の気品が漂っている。
こういうことは周りが口出しするべきではないと思いながらも、やっぱり彼女を振ったエオメルは大馬鹿だとしか思えない。は複雑な思いを抱えながら、彼女の招待を受けた。ただしマークへ招待するのは今は控えることにする。マークへ来たらどうしてもエオメルと会わざるを得ない。ロシリエルの心の傷はまだ癒えていないのは一目瞭然だ。返答に困ることは言わない方が良いだろう、そう考えて。
「ロシリエル様……。ええ、ぜひ」
そしてアムロスの人びとも故国へと帰っていった。
イシリアンから出発して二日後の日暮れ前に、エオメルたちはミナス・ティリスへと到着した。物見からの報告を受けていたのだろう、アラゴルンは王の館の前まで出て、草原の若き王を出迎えに出ていた。第七階層へあがるための門の前で馬を降りたエオメルは、早足で同盟国の王に歩み寄る。
両手が届くほどの距離になった途端、どちらからともなく腕を伸ばして男たちは肩を抱き合った。
「ああ、エオメル殿、とんだ災難が起きたという報告は受けていますよ。殿の様子はいかがか?」
「お気遣いありがとうございます、アラゴルン殿。一時はどうなることかと思っておりましたが、命に別状はありませぬ。もうすでに安静にしているのにも飽きたようで、歩き回りたがって大変なほどですよ」
憂慮の表情を浮かべたアラゴルンを安心させようと、エオメルは務めて明るい表情で答えた。
「そうか…それならば良かった。しかし、貴公らの素早い対応には感謝している。本来ならば残存勢力の排除には王軍を派遣するものなのだが、それより先にあなた方が叩いてくださったのだから」
「礼を言われるようなことではありません。イシリアンはこれから我が妹が暮すところ。結婚祝いに危険を一つ排除したようなものです」
胸を張ってエオメルが言うと、アラゴルンはくっくっと肩を揺さぶって笑い出した。
「なんとローハンの若武者は勇ましいことよ。敵との戦いを祝いと申されるか!」
つられてエオメルも笑い出す。しかし火花のような視線が交わると、二人は厳しい顔になった。
「詳しい話をうかがいたい。早速だが、よろしいだろうか?」
「もちろんです、アラゴルン殿」
エオメルは旅埃を落とすのもそこそこに、アラゴルンの執務室へと向かった。そしてゴンドールの王は机上に地図を広げる。
エオメルは敵との遭遇地点、その人数、本来彼らが住んでいたという場所などを説明していった。先日の戦いの報告はすでになされている。それでも現地で指揮官をしていたエオメルでなければ気づけなかったことは多々あった。アラゴルンはそれらの話を参考に、今後の平定地域を決めてゆくのだ。
議論が一段落済むと、徐々に世間話に移っていった。そのうち美しきエルフの王妃アルウェンが夕食の用意ができたと呼びにやってくる。彼女もの負傷を聞かされていたようで、悔やみの言葉を述べた。口を開くたびに宝石が飛び出てこないのが不思議なほど美しい声で紡がれるそれは、一人帰郷しなければならなくなったエオメルの心にじんわりと沁みこんでいった。
夕食を挟んで二人の王は場所を変えてくつろぐことにした。気の置けない仲だ、給仕は不要だと侍従は遠ざける。
「酔ってしまう前にお話ししなくては。お願いがあるのです、アラゴルン殿」
杯を弄びながらエオメルは切り出した。
「伺おう。真面目な話のようですな」
「マークに療病院を作りたいと思います。そのための研修生を受け入れてほしいのです」
「ほう?」
酒を注いでいたアラゴルンは興味深そうに動きを止めた。続きを話すように促す。
「我が国では病人は家で治すのが専らでした。怪我人も同様です。もっとも怪我人は家庭よりも戦場で発生する割合が多いので、治療はその場で、療養は家で、という感じなのですが」
「怪我は一刻を争うものが多いですからな」
「ええ。それで今まで特別不自由だと思ったことはないのです。しかしペレンノール野の合戦で我が国の者も貴国の療病院に世話になり、医療を集中させることの利点にも気付きました」
エオメルは苦笑いをする。表情の意味がわからず、アラゴルンはいぶかしそうに問う。
「エオメル殿?」
「そう感じたのは、私だけではなかったようなのです。我らが暗黒の勢力と戦うために国を空けていた間、残った女子供、老人たちの間にも病人が出まして……」
若き王は頭を掻き毟る。
「ずいぶんと人手が足りなかったそうです。元気な幼子の世話をする者もままならならなかったそうでしたから。それでもが機転を利かせて黄金館に子供らを集め、館の女たちが仕事の合間に交代で面倒を見てくれたそうなのです」
「時期が時期でしたからな。季節の変わり目には病にかかるものが増える。体力のない子供や老人ならば尚更だ」
アラゴルンは暗い表情になった。エオメルは、もう過ぎたことだからと同盟国の王を慰める。
「それだけではないのです。アラゴルン殿はあの場に居合わせたのですから、先王セオデンが誑かしに遭っていたことはご存知でしょう」
毒の空気と毒の言葉に侵されていたセオデン。毒の空気は取り除けても、蛇のささやく毒の言葉は、エオメルたちには最後まで排除することができなかった。
「ああ。偶発的な理由も重なって、より重症になっていたと」
エオメルは頭を振った。
「本当に偶然だったのかどうか、私には今もってわかりませんが……。とはいえ奸臣を王から遠ざけられなかったのは我らの力不足ゆえ。しかし毒の空気を発す壁紙に気付けなかったのは、我らが無知だったせいです。あの壁紙が貼られたとき、もしも詳しい知識を持ったものが存在したら、すべての物事は違った方へ進んでいたのではないかと思うと、それだけは本当に悔やまれてならない」
深い同情のこもった声でアラゴルンは言った。
「あまりご自身を責めてはいけない。セオデン殿に起こった出来事は、我が国の者でも対応できたかどうかわからないのだから。原因に気付いた殿の知識には感服する。本当に、どのような世界で育てばあのような娘ができるのだろう」
「たまに話を聞くのですが、まったくの別世界だとしか思えません。ローハンでの生活は彼女にはずいぶん不便なのだろうと思いますが、一生懸命溶けこもうとしているのがいじらしいほどで」
だからこそ、己にできることならば何でも叶えてやりたくなる。エオメルは自分が意外に深く彼女に惹かれているのだと気付いて、一人顔を赤らめた。
「……もしや、療病院のことも?」
暗がりでも気付いたのか、アラゴルンは意味深な笑みを浮かべる。年若い王は年長者のからかいに耐え切れず、思わずどもった。
「え、い、いえ……まあ、確かに彼女に言われたのが決心したきっかけになったと言えばなったのですが。とはいえ、私も前々から療病院設立に対して意欲はあったのですよ。ただ、まずは国を立て直すこと、今年の冬を無事乗り切ることを主眼においていたため、先延ばしにしていたと言いますか……」
アラゴルンは肩を震わせて笑いをこらえた。
「私に弁解をする必要はありませんよ。忌憚のない意見を言ってくれる相手がいるのは、王にとって重要なことです」
「は、はあ……」
言っていることは真面目だが、からかう調子が混ざっているため、エオメルはいたたまれない気持ちになった。アラゴルンは人としての器も、過ごしてきた年月も、一人の女性を愛し続けてきた年数も、ずっと上の相手だ。腹が立つよりも先に、敵わないという思いが強い。アラゴルンは喉の奥で笑いながら話を元に戻した。
「少し意地悪が過ぎましたかな? それで、療病院での研修は何人ほどになるだろうか。希望する期間などはもう決まっておりますかな?」
「まずは運営方法を学ばせたいと思っています。規模に対する必要な人員や物資の量も覚えさせなければ。が運営責任者になります。彼女はイシリアンに残っていますので、動けるようになり次第、こちらに受け入れてほしいのです」
そしてエオメルはちょっと考えるように目を上に向けた。
「期間は、早ければ二週間後くらいからでしょうか。遅くても一月頃でしょう。そして三ヶ月ほど学ばせていただければ必要なことは充分知ることができるのではないかと思っていますが……」
ふんふんと頷きながらアラゴルンは答えた。
「詳しいことは私も院長に聞かなければ答えられないが、医術や調薬を学ぶわけではないのであれば、それでも充分だとは思う」
同意を得られてエオメルは力づけられた。
「それからが帰国した後、今度は医師や薬師、看護師となる者たちを派遣したく思います。全員ではなくて一部だけですが、それでも結構な人数になるかと」
「それは詳しいことがわかりしだい、検討することにしよう」
「はい」
それで決定となった。アラゴルンは滞在するのために居心地の良い部屋を用意しようと請け負った。
ようやく全ての肩の荷が降りて、エオメルはぐいっと杯を煽る。もうあとは本当に帰国するだけだ。慣れ親しんだ黄金館に想いを馳せるも、そこに住むのは自分だけだということに思い当たり、一気に暗鬱たる思いに駆られた。
エオウィンは嫁に行ってしまい、一緒に戻るはずだったもしばらく戻ってこないのだ。
「エオメル殿、どうかしましたか?」
晴れ晴れとした顔になったかと思うと、急に暗くなったエオメルに、アラゴルンは驚く。
隠し事のできない性質であるエオメルは、寂しさに囚われた旨を年かさの王に話した。アラゴルンは複雑な表情になってしばらく逡巡していたが、やがて口を開いた。
「実は、ドル・アムロスの大公から貴殿に公女を娶わせたいという希望を聞かされていたのだが……あー、やっぱり、それは流れてしまったのだろうか?」
アラゴルンにまで知られていたのかとエオメルはひっそりと肩を落とした。失敗に終わった話なのだから尚更だった。
「ええ、その……見合いはしました。ですが成立しなかったのです」
「こういったことには立ち入るべきではないとは思うが……なにが原因で?」
気まずそうにアラゴルンは訊ねる。答えるのは気がすすまなかったが、どの道自分が結婚すれば、その娘は王妃としてゴンドールとも付き合ってゆくことになるのだと思い直した。彼に対して隠し事は、するだけ無駄だ。
エオメルはイシリアンでの出来事や、自分に起きた変化などをできるだけ淡々と話した。聞き終わったアラゴルンは、額を押さえて呻いた。
「それは……ずいぶんと大変でしたな。見合いは見合い、必ずしも成立するとは限らないのだから、これでアムロスがへそを曲げるということはないとは思うのだが、別れ際の彼らの反応はどのようでしたかな?」
自国の重臣と同盟国の王に挟まれた格好になったアラゴルンは苦悩しているようだった。
「ご心配なく、大公とも公女とも平穏無事に……」
そう答えるとアラゴルンは安心したようだった。
しかしそれがすべてではなかった。イムラヒルともロシリエルとも、別れの挨拶は穏やかに済んだのだが、兄たちとはそうはいかなかったのだ。各自の臣下たちの手前、大立ち回りなどはしなかったが、彼らが自分に対して不満を持っていることは感じ取れた。三対一では卑怯だとでも思ったのか、エオメルに直接会いに来たのは、長兄のエルフィアのみ。そして彼は不満を直接エオメルにぶつけてきたのだ。
「妹を悲しませた貴公を殴ってやりたいのだが、そうすることでも妹はまた悲しむ。だから殴りはしないが、私たちもどれだけ残念に思っているかは覚えていてほしい」
心底悔しそうなエルフィアに、エオメルは真剣に応えたいと思った。
「そのお気持ちは充分理解できます。妹がよその男に取られるのは正直、面白くない。しかし断られるとそれも不満の種になるものでしょう。一体彼女の何が気に入らないのか、と」
エオメルは自身と重ね合わせて言った。
ファラミアは義弟として申し分ない男ではあるが、だからといって大事な家族と引き離されることまで喜べるわけではない。それにこの二人は相愛となったが、もしもファラミアがエオウィンの気持ちを無碍に扱ったとしたら、自分はエオウィン以上に怒り狂っただろうことが容易に想像できた。
エオメルが率直に同調してきたので、エルフィアはいささか面食らったようだった。
「まあ……そういうことです。ご理解なさっているのでしたら、これ以上私がどうこう言うつもりはありません」
と、引き下がろうとしていたので、エオメルは制止した。
「いや、エルフィア殿。貴殿のお腹立ちはもっともです。とはいえ、私も一国の王たれば、家臣に対して示しのつかない真似をすることはできない。ですから、顔は勘弁してほしいのですが、それ以外でしたら構いません。一発殴っておかれてはいかがか? 勝手な言い分だということはわかっているが、そうなされば幾分かはお気持ちも静まるでしょう」
これにはエルフィアも呆気にとられたのか、ぽかんとした顔になったかと思うと、腹を抱えて笑い出した。エオメルとしては笑わせるつもりも気をそらせるつもりも微塵もなかったので、この反応には面食らう。
エルフィアは散々笑い倒した後、人気のないことを確認して、拳をエオメルの腹にめりこませたのだった。しかしそれは少しも殺気が篭っていないもので、彼の怒りが解けたのだと感じたものだった。
この出来事はエオウィンにもにも言っていない。アラゴルンに知らせるつもりもなかった。エルフィアも弟たちには言うだろうが、父親には言わないだろう。これは兄同士のけじめであって、立場も身分も関係ないことだからだ。
「それではローハンの王妃は殿と考えてよろしいのだろうか?」
アラゴルンに問われてエオメルは我に返る。エオメルは慎重を期して一度考えてから答えた。
「それはまだわかりません。そうなれば良いとは思っていますが、どうなるか……。従兄が亡くなって日も浅い。強引なことは余りしたくはないのです」
「そういうことなら別のことに気を向けるのは良いことなのかもしれないな。心の整理にもなるだろうし。もしかしてそこまで考えて研修を受けるようにしたのかね?」
エオメルは小さく首を振る。
「私は無骨な男ですから、女の気持ちはよくわかりません。ですが最近の彼女は無理してはしゃいでいるように感じたものですから……。セオドレドとの思い出が深く残っているエドラスから少し離れるのもいいかもしれない、とは思いました」
アラゴルンは長い足を組んでその上に両手を置いた。
「そうか。しかし彼女を得ようというのならばあまり悠長なことは言っていられないようだよ」
「それは、どういう意味ですか?」
不信に思ってエオメルは眉を顰める。
「実は数日前に風の便りが届いてね。レゴラスとギムリの移住する許可がそれぞれの長から出たそうなのだよ。春を待って出発し、ゴンドールには夏頃に到着するらしい」
「本当ですか、それは!」
思いがけない知らせにエオメルは瞠目した。エルフとドワーフの集団が移住するとなれば、間違いなくエドラスに寄るだろう。特にドワーフは角笛城にある燦光洞に住まうのだから。
「では、レゴラス殿が……」
「ああ、レゴラスがな……」
エオメルが息を飲むと、アラゴルンは困ったように明後日の方を見やった。
頑固で意地っ張りながらも朴訥な人柄であるギムリにエオメルは好感を持っている。しかしその相棒のレゴラスは行動も言動も突飛すぎてついてゆけない。さらに彼はエオメルに先んじてに求婚している。彼が現れたらひと騒動が持ち上がることは想像に難くない。
(せっかくもう一人の恋敵になりそうなアムロソスと不用意に再会しないように研修日程を考えたというのに、これでは意味がないではないか!)
心の中で絶叫しているエオメルに、アラゴルンは気の毒そうな表情を向けた。
「なんというか……エオメル殿もよくご存知だろうが、レゴラスはとにかく押しが強くてな……。それに彼としてもその、求婚の返事は聞きたいだろうし……」
「……そうですね」
「エドラスがずいぶんにぎやかになってしまうだろうが、勘弁してやってくれ。とにかく、悪気だけはないやつなんだ」
「……肝に命じておきます」
恋の策略は自分には向いていそうにない。
つくづくと実感したエオメルは、一気に疲れを感じてうな垂れたのだった。
あとがきは反転で
本編の中に変な時間の流れがあったと感じた方はいたのではないでしょうか?
現在が11月なのに、療養と研修が終わってヒロインが帰国するのが新年の祝いが終わったあたりだ、というところ。
これは追補編に載っているのですが、王様になったアラゴルンは新年の日付をこれまでの日から変えたため、ああなったんです。
これまで新年のはじまりが1月1日だとすると、新しい新年の始まりの日は3月25日(サウロンが滅びた日)となったのです。
とはいえ、基本的に変わったのはそれだけ。1月からではなく3月から一年が始まるようになっただけです。
変じゃん、と思うのは現代日本語で暦を書いているからであって、例えば昔は一月を睦月、二月を如月と呼んでいたように、数字ではない月の呼び方をする地域、時代はよくあることです。英語なんかもそうだしね。
ゴンドールの暦も、数字ではないのです。だから新年の日が変わるだけで、日常生活にはあんまり影響はなかったのでしょう。
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