「ここには何も咲いていないのね」
アイゼン浅瀬を出発したたちは、日が暮れる頃に角笛城へ到着した。
中に入る前にシンベルミネを植えてしまおうと、は松明を借りて塚を照らす。しかし浅瀬の小島とは逆に、こちらの塚には一本の花も咲いていなかった。
「シンベルミネは王家のお墓にしか咲かない……なんてことはないわよね」
夜と夕暮れの混じった空の下で、は途方に暮れたように呟く。隣に並んでいたエオメルはそれを躊躇なく否定した。
「そんなことはないぞ。お前は見たことがないかもしれないが、エドラスの共同墓地にもシンベルミネは咲く。それに、つい先刻見たばかりではないか。浅瀬の小島にもシンベルミネは咲いていたぞ」
「そうよね……」
中の小島にあるセオドレドと勇士たちの塚には、それぞれ白い小さな花がすでに花開いていたのだ。エオル王家の墓にしか咲かない花だというのなら、勇士たちの塚に咲くはずはない。
「どうしてこっちには一本も咲いていないのかしら……?」
出迎えに出たものの、王も少女も中へ入ろうとしないのでついてきていた西の谷の領主が思わしげに首を振った。
「日当たりが悪いせいかもしれませんな」
「日当たり、ですか?」
は振り返り、義父を仰ぐ。
「そう。ここは両側が崖に挟まれた地形ですからな。昼間に多少日が差すくらいで、あとはずっと薄暗い」
「それから、土のせいもあるでしょうね」
今度は領主夫人ヒュイドがおっとりと付け加えた。
「土?」
エオメルが怪訝そうに眉を寄せた。
「はい。ここは砦でございますから、常日頃から騎士たちが鍛錬をおこなっております。それが長く続いている間にすっかり踏み固められてしまいましたの。元から雑草もほとんど生えていませんわ」
「ああ、そういえばアルドブルグでもそうなっていたな」
エオメルは王になる前は東マークを受け持っていた。そのため西の谷周辺には数えるほどしか訪れたことはない。だが生家であったアルドブルグもここと同様にマークの防衛の要だった。騎士たちの訓練に対する熱心さは西に負けるものではない。
「シンベルミネが根付くのは、こちらの方が難しそうだ。どうする、やめるか?」
「そういうわけにもいかないでしょう」
試すように訊ねるエオメルに、は即答した。
義母に預けていた袋を受け取り、苗とスコップを取り出す。エオメルが無言のままスコップをとった。
塚の縁に穴を開ける。も黙って苗から麻布を外してくぼみに置いた。
ちゃんと育ちますようにと願いをもって、そっと土をかける。赤茶色の大きな塚に、小さな緑の茎はいかにも頼りない風情だった。
エオメルとは並んで黙祷を捧げた。背後に立つ領主夫妻も同様にしているのだろう。張り詰めた空気が彼らを包んでいた。
「……あれからもうじき一年が経つのですな。彼らを気にかけてくださって、ありがとうございます、陛下」
そなたもな、と義父はに微笑みかける。はどう返してよいのかわからず、曖昧な笑みを浮かべた。
エオメルは当時のことを思い出しているのか、目を細めてエルケンブランドを見つめた。
「一年前、この地での戦いは激しいものだった。生き残れたのが不思議なほどだ。あの奇跡のようなそなたの出現には今でも驚いている」
エルケンブランドは頭を振った。
「奇跡というのならば、我が国が今でも無事存続していることこそが奇跡でしょう。たとえあの暗い夜を越えたとしても、冥王が消滅していなければ、こうして穏やかな気持ちで春を待ち望むこともできませんでしたからな」
エオメルは然りと頷く。
「本当に、フロド殿とサムワイズ殿にはどれだけ感謝を捧げても足りぬほどだ……」
「まったくです」
男二人は話しながらゆっくりと歩き出した。
とヒュイドも彼らについて城の中へと入っていった。
二日ぶりに寝台で眠れるというのに、はなかなか寝付けなかった。明日はまたエドラスへ向けて出発するので、ここでしっかり体力の回復を図らないときつくなる。
野営自体はいい加減慣れたが、朝の冷え込みや刺すような風の冷たさには辟易していた。しっかり毛布とマントに包まっていても、遮るもののない草原では思うように暖まれない。火を焚いてもその恩恵は正面にしか届かず、身体の半分は冷たいままなのだ。なので、自然と眠りは浅く、少しの物音でも目覚めてしまう。帰りもきっと同じなのだから、ここで眠っておかなければ。
なのに、
(信じられない。なんでエオメルの顔ばっかり浮かぶのよ……)
目を閉じると、濃い金髪の青年の顔が次々と現れるのだ。屈託ない笑顔は昼間のもの。それに、真摯な顔も昼間の時のものだ。強い印象が残ったのは事実だが、こうまで簡単に振り回されている自分が情けない。今日はセオドレドの、亡き婚約者を偲びに来たのではないか。
(それもこれもエオメルがいけないのよ!)
は枕を拳で叩いた。ぼふんと頼りない音をたててそれはの拳を包む。
(信じられない。いやだ……なんでドキドキしちゃうのよ)
苛立ちと焦燥で身が焦げるようだ。強い動悸が止まらず、徐々に不安になってくる。にじんだ涙を寝巻きの袖で乱暴に拭うと、ひりっと目じりが痛んだ。
ふと、自分の右手首に視線を落とす。昼間、強く握られたこともあって、赤く跡が残っていた。そっとそこに指を這わせると、再び強く心臓が騒ぎ出した。
(違う、違う。エオメルが好きなんじゃない。あんな顔するから……!)
激しくを求めてきたエオメルの表情を思い出し、顔が熱くなる。浅瀬から角笛城までの道のりではなんともなかったのが嘘のようだ。
(私が好きなのは、セオドレドだもの……)
そのことでエオメルが苦しんだことも昼間の告白で理解した。その上でもって、彼はに選択を迫っている。
セオドレドが好きだという答えでは納得しないだろう。本気で考えろというのは、過去にすがるなということだ。
(それだって、ずいぶん勝手な言い分だと思うけどね)
ふっとため息をつくと、今度は枕をかかえて顎を乗せた。
自分が冷静さを失っていることへの焦りがあった。誰かに話を聞いてもらいたい。そして慰めてもらいたかった。結論は頑張って自分で出すにしても、それくらいは。
(エオウィンがいてくれたらな……)
遠くイシリアンへ嫁いだ金髪の姫を思い出す。だがもう彼女に甘えることはできないのだ。
「……よし」
は寝巻きの上にショールをかけた。このような時間に訪ねるのは気が引けたが、このままでは一睡もできないだろう。
室内用の軽い靴をつっかけ、は部屋を出た。
「あの、失礼します」
もう寝てしまったかと思ったが、ノックをするとすぐに返事が帰ってきた。部屋の主は手燭をかかげて出てくる。の姿を認めると、少し驚いたように目を見張った。
中に入るよう促され、彼女は暖炉の火を強くするように侍女に命じた。同様、寝巻きにショール姿のヒュイドは、話をしたいというに多く訊ねることはなく椅子を勧める。
「それで、どうしたの? わたくしに相談したいことがあるのでしょう」
「お分かりになるのですか?」
「こんな時間ですものね、よほど深刻なのだろうと思ったのよ」
ふふっとヒュイドは微笑んだ。は気恥ずかしくなって顔を赤くする。
「実は……」
は思い切って義母にすべて打ち明けた。エオメルに求婚されたこと、セオドレドが忘れられないこと、にも関わらず強く拒めないでいること。そして、どうやらこの求婚を心底から嫌だと思っていないこと……。
「……もう、自分が信じられないんです。こんなに早く気が変わるなんて。わたし、自分では気付いていなかったけれど、ものすごく気が多いか浮気性なのかもしれません」
話が進むにつれ、ヒュイドは真剣な顔から驚いた顔へ、そして最後には面白そうに笑みを浮かべる。
「笑い事ではありません、ヒュイド様」
半泣きのが抗議をすると、ヒュイドはごめんなさいと肩をすくめる。
「だけど驚きました。どれだけ込み入ったことかと思ったものですから……」
「充分込み入っていると思いますけど……」
義母の態度が不満で、は唇を尖らせる。ヒュイドは軽く咳払いをすると、居住まいを正した。
「エオメル王のお妃問題については、エルケンブランドの殿からも聞いていました。以前からエドラスではあなたを押す声がだいぶ大きいとか」
「それは……」
口を開きかけたを、ヒュイドは制す。
「家柄は充分。養女とはいえ、あなたはわたくしと殿の娘なのですからね。それに資質も問題ないでしょう。もうすでにあなたは女王として民を導いたことがあるのですから」
は俯いた。理詰めで考えればその通りだが、それを受け入れられないからこそ相談しにきているのに。
「最大の問題は、陛下にその気があるかどうかなのだけど、これも解決しました。となれば、わたくしにできることはただ一つ、さっさと陛下のところへ行ってお返事をしてきなさいとあなたのお尻を叩くことだけです」
「ヒュイド様……!」
は聞いていられなくなり、席を立った。ヒュイドは美しい笑みを浮かべたまま、を見上げる。
「――でも、それでは納得ができないのでしょう?」
「は……い」
虚を突かれて、どんな反応をすればよいかわからなくなった。は困惑してヒュイドを見つめる。夫人は座るようにと手で示した。
なんとなく言うとおりにしてしまい、はストンと腰掛ける。
「あの……」
「大切な方を亡くすのは辛いことね。だからといって、悲しみに殉じることが美しいことだとは言えないわ。わたくしたちは日々生きるための努力をしなければならない。それは時として死ぬよりも大変なことよ」
「はい……」
「辛さ、悲しみ……それらを超えて、己の役割を全うする道を選ぶかどうか。あなたに委ねられているのは、そういうことだと思うの。愛情だけの問題だけではなくてね」
は目を上げた。ヒュイドはいつもの通り優しげな顔立ちに気品のある笑みを浮かべているが、何事にも動じない強い意志が目の奥に見え隠れしている。多くの騎士を抱える西の谷の領主夫人だけあって、たおやかなだけの女性ではないのだ。
「わたしは王妃になるべきなのですか?」
そう望まれているとしか思えず、は問うた。
「わたくしの答えはもう言いました」
ヒュイドは簡潔に答える。は落胆する思いで肩を落とした。
「だからといって、あなたが絶対に嫌だというのをわたくしたちが強要することはできませんね。決めるのはあなたなのよ」
は唇を噛んだ俯いた。ヒュイドは膝の上でほっそりした指を組み合わせる。
「それから、これは忠告です。もしも王妃にならないのであれば、エドラスに住むのはお止めなさい。西の谷へ戻るのですよ」
この発言には息を飲んだ。エドラスでの仕事は、今のにとって生きがいともいえた。それを取り上げられるということは、すべての支えを奪われるに等しい。しかしヒュイドはそんなの様子にも構わずに懇々と諭す。
「想いに応えてもらえるわけでもないのに、その相手が近くにいてはエオメル王も思い切ることができないでしょう。とにかくあの方には世継をもうけていただかないといけないのですもの。いつまでも独身でいて良い方ではないわ。それはわかりますね」
「はい……」
エオメルの結婚についての期待は、黄金館に住まう身であるだけにどれだけ大きいか知っている。彼が最後のエオルの男なのだ。万が一血統が途絶えることでもあれば、マークは大混乱に陥るだろう。
「でも、わたし、エオメル様のことは好きですけど……特別大好きになれるかどうかはわかりません」
は一番のひっかかりを口に出した。真剣な愛情を向けてくる相手に、同じように愛情を返せないのでは結婚しても上手くやっていく自信がない。しかしヒュイドはあっけらかんと笑った。
「あら、わたくしだってそうでしたわ」
「え?」
「わたくしとエルケンブランドの殿はお見合いをして知り合いましたのよ。殿のことは立派な方だとは思ったけれど、特別愛したというわけではありませんでした」
は驚いて思わず尋ねた。
「どなたか、他に好きな方がいらっしゃったのですか」
「そういうわけではないわ。わたくしは奥手で、その時は初恋もまだだったんですもの」
でも、とヒュイドは笑みを柔らかくする。
「結婚してから変わりましたね。あの方の妻になれて良かったと、今では心の底から思っています」
照れもなく惚気る夫人に、の方が赤くなってしまった。
「人の心は移ろいやすくて、大切なことすら忘れてしまう無慈悲な一面もあるわ。だけど、変化も忘却も、それ自体は良くも悪くもないことだと、わたくしは思うの。大切なのは、人間に備わったその力をどこで発揮するかでしょう」
ヒュイドはただ優しい眼差しでを見つめていた。はゆっくりと息を吐く。
先ほどまでは結婚を押し付けられそうになっているという反発や落胆しか覚えなかったが、影を潜めてしまった。心なしか、重苦しい気持ちも楽になっているようだ。この苦境から逃れようと躍起になっていたのに、そう必死にならなくても良いような気にもなってきている。
(でも、これでいいのかしら……?)
己の楽観ぶりが信じられず、は心の中で首を傾げた。
結局のところ、がまんじりともしないでいるうちに夜が明けてしまった。寝不足と考えすぎで頭痛がする。
風に当たれば少しは気分も良くなるかと思い、城の外へ出た。まだ薄暗かったが、住人たちはすでに活動を始めていた。
朝の挨拶を交わしながら、は一人でぼんやりできる場所を探す。しばらくして、城壁に上がるのが良さそうだと思った。そこはまだ合戦の跡が残っており、一部が崩れたままになっているのだ。そのため、人気がほとんどない。
階段を上がってゆくと、峡谷の先に朝日が差し込んでいるのが見えた。しかし険しい斜面に遮られてまだこちらには届いていない。日の出など、マークで暮らすようになってからは見慣れてしまったのだが、今日の陽光はやけに目にしみる。
(寝不足のせいかもしれないけれどね……)
朝日に向かって苦笑すると、は再び思考の渦に落ち込んだ。何度考えても結論はでない。エオメルとの結婚は悪くないかもしれないという思いがある一方、愛してもいないのにそんなことをしてもよいのかと責める心もあるのだ。
(返事……いつでも良いって言っていたけれど、限度があるだろうし)
ふう、と何度目かもわからなくなったため息をついた。結論が出るまではエドラスに帰るのはやめようかという考えが、ぼんやりと浮かんだ。
「姫様」
ふいに呼ばれては我に返った。
「なあに?」
声の主を振り返ると、若い青年が立っている。とはいえ、騎士ではなさそうだった。なぜなら腕も胴もこどもっぽい華奢さを残しており、服装も毛織の衣服だけで、具足も鎧もつけていないのだ。
だが、見覚えのある顔だ。
「えっと、あなた……」
思い出そうとして眉を寄せるに、青年はにこりと笑う。
「お忘れですか? 僕はハレス、近衛隊長ハマの息子です」
「ああ、ハレス! すっかり大きくなっていたからわからなかったわ」
は手を打ち合わせて叫ぶ。最後に会った時にはまだと同じくらいの背丈しかなかったのに、少年は一年の間にすっかり成長していたのだ。もう顔をあげないといけないくらい背が伸びていたし、声も低くなっている。
「この一年で三インチも背が伸びたんです。すぐ服が小さくなって大変だって、母がぼやいています」
ほら、とハレスは腕を伸ばす。そうするとつんつるてんなのがわかった。
思わず笑ってしまったに、ハレスも笑う。それから慌てて真面目な顔つきになった。
「すみません、考え事をしている最中に声をかけてしまって……」
「ううん、いいの。わたしに何か用があったんでしょう?」
「あ、はい……」
ハレスはぴしっと背を伸ばした。緊張しているのか、口元が強く結ばれている。そしてしゃちほこばった敬礼をした。訳がわからず、は目を白黒させる。
「ハレス……?」
「仲間に聞いて……。エオメル王と姫様がこちらへいらっしゃったのは、合戦の死者を弔うためだと」
「ええ、そうだけど……」
は首を傾げる。
「僕、嬉しかったんです。そのためにお二人が来てくださったことが。もちろん、あの合戦で亡くなったのは父一人ではないのはわかっていますけど、父のことも気にかけてくれたのだと思えて……」
「ハマ殿はセオデン王もエオメル様も信頼していた方ですもの。忘れるはずがないわ」
角笛城の塚は、浅瀬同様二つあった。一つは合戦で亡くなったロヒアリムのためのもの。もう一つはハマ個人のもの。その事実だけで、どれほど彼が先代の国王に評価されているかわかるというものだった。にとっても馴染みのある人物だっただけに、真っ先に思い出せた。
一方、大きな塚で眠りについている人々については、名前も知らない人々も多いだけに、すまなさすら覚える。
気分がまた暗くなりそうになったので、は話題を変えた。
「そういえば、ハレスはエドラスに住んでいたのでしょう。帰る予定はないの?」
彼は近衛隊長の息子だ。それなのに角笛城にいたのは、グリマの増長で危険を感じたハマがここに避難させたからだ。そのグリマはもうおらず、戦争も終わったので留まる理由はなくなったはず。
そう思って聞くと、ハレスは首を振った。
「ここには親戚がいるんです。エドラスには母が残っていましたが、父が亡くなって頼れる人がいなくなってしまって……。だから、母もこっちにきて、今は一緒に暮らしています」
「そうだったの」
一年前の戦いは、人にも物にも多くの傷跡を残した。その一端を垣間見たことでは気が引き締める思いがする。彼らのために、自分にできることはないだろうか。
しかし、ハレスは少しもへこたれた様子もなく続けた。
「大変だったけど、悪いことばかりではありません。もうじき、エルケンブランド卿が僕を見習い騎士に取り立ててくださることになっているんです」
「ハレスも騎士になるのね」
ハレスは騎士になるにはまだ子供っぽさが残っているので、意外な思いがした。しかし、不思議ではないかもしれないと思いなおす。彼の父は優れた騎士だったのだから。
ハレスは晴れやかに笑った。
「もちろんです。騎士の子ですから。僕の夢は父と同じく近衛隊に所属することです。そしてエオメル王やマークのために戦いたい。そのためには誰にも認められるような、立派な騎士にならないと」
少年は目を輝かせて将来を語る。そのたくましさに、は己を振り返った。確かに、自分は過去に囚われすぎているのかもしれない。
ひとしきり話をすると、ハレスは去っていった。その後姿を見送ってから、は城壁にもたれかかる。
天を仰ぐと、切り立った峡谷の間に青い空が見えた。
「いい天気……」
風を切って馬を駆けさせるには絶好の状態だろう。今日からまたエドラスに向かうのだ。雨も雪も降らないのはありがたい。
はそっと目を閉じた。
視界は暗くなったが、そのかわり朝の喧騒がじっくりと聞き取れた。甲高い子供の声、大きな声で話をしている大人たち、それに負けずに混じってくるのは、馬のいななきに鳥の囀りだ。
冷たい冷気を含んだ空気に、煙の匂いが混じる。朝餉の支度をするために、竈に火が入れられているのだ。
(変わらないな…・・・)
二年前、マークに現れた自分はセオドレドによってここへ連れてこられた。訳がわからなくて帰りたくて、寝付けなかった次の日、ヒュイドに案内されてこの城壁にあがった。
そこから眺める風景には傷こそ増えたが、人びとの生活は変わっていない。
だが、変わったものもある。
月日は少年を青年に変え、自分は恋の喜びと喪失を知った。
変わるものと変わらないもの。
その両方を間近で見てみたい。この国の人びとに混じって、この国の人びとと共に。
そんな想いがあふれてきた。
かつん、と小石が壁にぶつかったような音がして、は目を開けた。
誰かが来たのかと視線を巡らすと、ばつが悪そうに腕を組んでいるエオメルが立っていた。
「すまん、邪魔をしたか」
「エオメル様」
「お前の様子がおかしいと言われてな……なんだかふらふらしていると。大丈夫か?」
なんともないように振舞ったつもりだが、自分に向けられている視線は思っている以上に多いらしい。気にした誰かがエオメルに教えたのだろう。そしてエオメルは自分を探しに来てくれた。
それだけのことなのに、なぜだか無性におかしく思えて、は小さく笑う。
「昨夜、ヒュイド様と色々お話をして、寝るのが遅くなってしまったんです。だから、まあ、寝不足ではありますが、体調は悪くありません」
「うむ、そうか……」
エオメルは何気ない様子で頷いた。しかし納得したというより、その続きを知りたいという雰囲気が窺える。
可愛い人だ。
何気なくそう感じた自分に驚きつつも納得してしまった。
きっと、これが結論なのだと。
「それで、考えたのですけど……」
その一言で傍目にもわかりやすいほど、エオメルは緊張したようだった。いつもどおりに振舞おうと務めているらしいが、明らかに顔が強張っている。
は息を吸って、告げた。
「わたし、あなたと結婚したいです」
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