「わたし、あなたと結婚したいです」
 はにこやかにそう告げた。
「……いま、何と?」
 エオメルは思わず聞き返す。
 聞こえなかったわけではない。ただ、信じられなかっただけなのだ。こんなに早く自分の求めていた答えが返ってくるはずがない。きっと自分は何かを聞き間違えたのだと。
 確信にも似た思いで再び少女の答えを待っていると、彼女は困ったように小首を傾げて、ゆっくりと口を動かした。
「わたし、あなたの妻になりたいのです。もう、気が変わってしまったのでしょうか?」
 妻になりたい。間違いなくそう言っている。
「変わってなどいない! だが……本当にいいのか?」
 昨日から今日の間に何が起こったのか。嬉しいやら薄気味悪いやらでエオメルは混乱した。
 はいたずらっぽく肩をすくめ、エオメルを見上げる。
「実は、結婚を決めたのはエオメル様を愛しているからだというわけではないんです」
「は……」
 あまりといえばあまりな攻撃に、エオメルは思わず間の抜けた顔になってしまった。
「あ、ごめんなさい。こんな言い方では駄目ですね。つまり……わたしは今でもセオドレドが一番好きなんです。エオメル様のことも好きなんですけど、好きの種類が違うんです」
「……なるほどな」
 なんとなくわかる気はする。自分にとってもは最初から愛情の対象だったわけではないのだ。
 続きを促すと、はつっかえながらもエオメルに心境の変化を話して聞かせる。
 二年の間にマークから離れがたく思うようになったということ。
 マークのために何かをしたいということ。
 それにはエオメルと結婚するのが一番良いだろうということ。
 そして最後に彼女は、この国で生きてゆきたいのだと言った。
 は自分の生き方を決めたのだ。それを喜んでいいはずなのに、エオメルはわざとひねくれた答えを返した。
「つまり、私への愛情ゆえにではなく、王妃の地位が欲しいからということか? 王に次いで采配を振るう権利が欲しいからだと?」
 嫌味を込めて見やれば、は赤くなってエオメルを睨みつけてきた。
「そうです。幻滅しましたか?」
 しかしその眼差しには一点の迷いもない。
「エオメル様は、以前おっしゃいましたね。自分を愛していなくても良い。国の母として立つ覚悟があるかと。あの時のわたしは自分のことしか考えていなかったと、今ならば思えます。女の身で、マークに深く関わろうと思ったら、こうするしかないんです。領主の娘でも、一介の騎士の妻でも駄目だわ。それでは力が足りない」
 はスカートをぎゅっと握りしめた。
「マークが好きだわ。わたしはわたしのやり方で、この国を守りたいの。そのためなら結婚するくらい、なんてことはないわ。今だってわたしは、あなたの良い相談役になれているでしょう?」
 ふと、挑戦的な眼差しが弱まった。伏せた睫毛が影をつくり、稚い顔立ちに色香を添える。
「王妃になれば、わたしはあなたのものです。その先で愛情が増すかどうかはエオメル様次第、このような交換条件付では、お嫌ですか?」
 エオメルは息を吐いて肩を落とした。
 は唇を真一文字に結んでエオメルを見上げている。冷たい風にさらされて青白くなっていた頬が緊張で震えていた。
「条件付か。それを聞いて安心した」
「……え?」
 は驚いたように目を見開いた。エオメルは肩を揺らして笑う。
「一体、一晩の間にどんな変化がおまえに起こったのかと思ったよ。さては義父母殿に言い諭されたか、自棄になったのかとな。だが、そうではないと知って安心した。それと……」
「それと?」
 途中で口を閉ざしたエオメルを、不思議そうには見つめた。エオメルは何でもないとはぐらかす。
(セオドレドよりも私の方が好きになった、などと言われなくて良かった。そうではないことくらい、自分でもわかっている……)
 一抹の寂しさを覚えたものの、が偽りを述べずに自分の思うところを語ってくれたことで、返って気が楽になった。なるほど、『今は』セオドレドに負けているかもしれない。しかし、それはいつか逆転するかもしれないことなのだ。
「私次第、か……。お前の条件、ここで私が飲めば、その時点で私たちは婚約したことになるのだが、撤回するなら今のうちだぞ?」
「撤回はしません」
 断固としては答える。
 その潔さに、エオメルは目を細めた。
「妙な話だが、お前の結論を嬉しいと思うよ。私よりもマークを愛しているということにな。普通の妻なら夫や家族を最優先にすれば良いだろう。しかし、王も王妃もそうとばかりはしていられないこともある。それでもあえて、王妃になろうというのだろう? そういう覚悟ができている娘の方が、私としてもありがたい」
「……いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、わたしの条件って、すごく生意気でしょう?」
「いいんじゃないか? もともと私は長期戦になると思っていたんだ。セオドレドに簡単に勝てるとは思っていない。なら、先に結婚して、そのうちお前の気が変わって、私を一番に愛するようになるのを待つというのもありだろう。今だって嫌われているわけではないのだからな。私としては、王妃の務めもそうだが、私の妻としての勤めをきちんとしてくれさえすればそれで構わない」
「そうなんですか……」
 今更のように、少女は赤くなった。どうやら『妻の務め』の意味は理解しているらしい。
(まあ、当然かな……)
 すでにセオドレドによって開花させられているのだろうなぁと思いながらも、エオメルは沈黙を守った。ここで逆上した少女に引っぱたかれるのも面白くなかったからだ。
「では、私たちは来る婚礼の日に向けて婚約をするということで、良いな」
「は、はい……」
 先ほどまでの勢いはどこへやら。もじもじと俯きながら、は頷いた。
「不束者ですが、末永くよろしくお願いいたします」
 俯きながらも、少女は深々と頭を下げた。
「別にお前は不束者ではないと思うが?」
 エオメルは真面目に返すと、顔を上げたが苦笑混じりで答える。
「いえ、わたしが実際に不束者かどうかはともかくとして、結婚が決まったときや結婚をする時に女のほうからこう言うのが習慣といいますか、お約束といいますか……とにかくこう言うことになっているんです」
「ああ、お前の故国の風習なのか。で、その時男は何と答えを返すんだ?」
 は呆気に取られたようにぱちくりと瞬きをする。
「え? ……あれ、どう言うのだったかしら。全然覚えが……」
「知らないのか?」
 問うと、少女は情けなさそうな顔になった。
「多分、型はないのだと思います。男の人は結婚した後どうしたいか、みたいな目標とか決意を言えば良いのではないかと」
「セオドレドは何と?」
 従兄もに何か誓いをしたのだと思ったのだが、当てが外れた。
「話の流れがまったく違ったので、言っていません」
「そうか、それなら……」
 しばらく考えたあと、エオメルはの肩を抱き寄せた。
「二人で頑張っていこう。喜びも悲しみも、すべて分かち合うのだ。運命が我らを引き離しにくる、その時まで」
 びくりと身を震わせて、少女はエオメルの胸元にすがった。震える声で「はい」と答えがかえる。胸が一杯になったエオメルは、娘を強くかき抱いた。
「婚約者に口付けをしても……?」
 勢いに流されるまま、エオメルは動き出していた。答えが返ってくる前に、のおとがいに手をかけ、上を向かせる。
「え……、ちょっと待……!」
 少女が叫ぶのもそのままに、エオメルは覆いかぶさった。柔らかな唇を割り、中へと侵入してゆく。
 温かく、湿った口内。腕の中に感じるしなやかな身体。
(ああ、私のものだ……!)
 飢えていた心が満たされてゆく。幸福が全身を包み込む。
 ――運命が我らを引き離しにくる、その時まで。
 ついさっき、自分はそう誓った。だが簡単に運命になど従うつもりはない。 を迎えに来るという故郷の者には帰ってもらうつもりだ。彼女自身、ここにいたいと願っているのだ、どうしてそれができないことがあるだろう。
(そうだ、たとえ彼女の故郷の者と戦うことになろうとも、 は渡さん……!)
 新たに己に誓ったエオメルは、いい加減息が苦しくなってきたので顔をあげた。すると、 が力なく倒れこんできたので、支えてやる。ふと、周りが騒がしくなっていたことに気がついた。野次めいた叫び声やら甲高い口笛やら、それに、鍋を叩いているようなやかましい音もしている。
「エオメル様の馬鹿……。ここ、外なのに……」
 エオメルにすがりついたまま、恨みがましくは呟いた。
 何事だろうと城壁の下に目をやると、誰もがこちらを見上げながら騒いでいたのだった。
「見られていたのだな」
「のん気なこと言わないでください。恥ずかしいったら……」
 ようやく息が整ったらしく、少女は身体を起こしながらエオメルを睨んできた。
「参ったな」
 エオメルは頭を掻いた。
「時と場所を考えてくださいね、もう」
「そうじゃなくってなぁ」
「なんです?」
 はまだわずかに頬を赤くしたまま首を傾げた。
「義弟殿と同じことをやってしまったなぁ、と思ってな」
「……」




 この日、エドラスは朝から賑わっていた。
 数日前からマークの全域より来訪者が訪れており、宿屋や親戚、友人の家に泊まれなかった者たちが、門の外で野営をしていたほどだった。
 通りは清められ、装いを凝らした人びとが通りに溢れている。娘たちは早咲きのスミレを髪に飾ってヒバリのように笑いさざめき、いつも忙しく働いているおかみさんや旦那さんたちも、今日ばかりは仕事の手を休めて家の前に出ていた。一張羅を着せられた子供たちは友達と駆け回り、あっというまに泥だらけにしては母親に怒られている。その間を、甲冑を着た騎士が大きな荷を担いで通り抜けていった。
 三〇二〇年三月二十五日。
 この日は一年前に冥王が滅びた祝いの日であり、またエレスサール王によって新年と定められた日であり、そしてマーク王エオメルの結婚式の日でもあった。


「お美しゅうございます。姫様」
「やはり新しく仕立てて正解でしたね。真っ白な衣装が良く映えること」
 王妃の部屋では大勢の侍女が行き交い、花嫁の支度の真っ最中だった。
 指示を出すユルゼと、花嫁の母であるヒュイドがドレスを身につけたを何度も眺め、細かな部分を直してゆく。
 ドレスを着終わると、念入りに梳かされた髪を結ってゆく。結い上げた髪には冠をつけ、首にも腕にも耳にも金と宝石でできた飾りをつけさせられた。めかしこむのはこれが初めてではないが、ここまで飾りたてたことはない。あまりの重さにひっくり返ってしまいそうだった。
「少し、顔色が悪いようですね」
 後れ毛を直しながら、ユルゼが呟く。
「頬紅を少しと……紅も差しましょうか。晴れているとはいえ、外はまだ寒いですからね」
 ヒュイドはゆったりと微笑んで、化粧道具を持ってこさせる。
「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわよ」
 ユルゼが励ますようににっこり笑った。ヒュイドも紅筆を握りながら同意する。
「ええ、皆、あなた方を祝いに来ているだけなのですから、いつもの通りに微笑んでいればよいの。そうすれば、皆も喜んでくれるわ」
「いえ……」
 答えようとした途端、ヒュイドに咎められた。口紅を塗っている最中だったので、はみ出てしまったのだ。
 しばらくすると、ようやく満足がいくように化粧を施せたようで、ヒュイドはから離れる。
「それで、何のお話をしていたのでしたっけ」
「緊張、しているわけではないんです。ただ、ちょっと疲れていて……」
 そういうと、二人の婦人はそろって「まあぁ!」と叫んだ。
「無理もないわ。ずいぶん急ぎのお話でしたもの」
 訳知り顔でヒュイドは頷く。
「王家の、それも国王が結婚するとなれば、本来ならば準備期間はもっと必要ですからね。幸い、といってはなんですけれど、あなたの持参金は前に用意したものがありましたから、どうにかなりましたけれど」
 身分のある女性が嫁ぐ際には、宝石やドレス、織物や馬など、価値のあるものをたくさん持ってゆくのが慣わしだった。のそれはセオドレドと婚約した時にすでにエドラスに届けられていたのだ。さすがにそのままエオメルに嫁ぐというのも具合が悪いということで、新たに宝石や織物をいくつか加え、婚礼用のドレスは新しく仕立てることにしたのだ。
 その用意もさることながら、数日前から始まった結婚式の支度に忙殺され、はここのところあまり眠れないでいたのだ。
(料理の準備に招待客の確認、広間の掃除や飾りつけ、お祝いを届けに来た方への応答……。ほとんどが指示するだけでわたしが動かなくちゃいけないというわけではないけれど、積もり積もれば身体が保たないわよ)
 その合間に今までどおり、エオメルの仕事の補佐をしつつ、療病院の設立案を練っていた。忙しすぎて、結婚をするのだという感慨などまったくない。昨夜は念入りに風呂に入れられて身体中を真っ赤になるまでこすられた後、髪の水気を拭われている間に前後不覚に陥ってしまったほどだ。一体いつ自分が寝台に入ったのか、覚えていない。気がついたら朝になっていたのだ。
「それでも一ヶ月ほど猶予があっただけ良かったですわ。ゴンドールからのお祝いの使者様がいらっしゃることができたのですもの」
「ええ、本当に」
 の気持ちなど知らぬ気に、婦人たちは笑いさざめいた。城壁での口付けの後、エルケンブランドに婚約の報告をしたエオメルは、そのままゴンドール及びマーク各地へと報告の使者を走らせたのだ。
 使者たちはよほど張り切ったのか、その速さはペレンノール野の合戦に赴いた時にも勝るとも劣らぬもので、ミナス・ティリスへ向かった者でも十日ほどで戻ってきたものだった。その数日後にはイシリアンへ送った使者も戻ってきた。
 アラゴルンも執政家の若夫婦たちも、エオメルとの結婚を喜び、また出席できないことを残念がっていた。その日はゴンドールでも新年を祝う記念式典が行われるため、さすがにマークへ来るわけにはいかないからだ。代わりにそれぞれ慶賀の使者を送ってきたのだが、話が急すぎて祝いの品までは双方用意しきれなかったらしい。後日改めて贈ると言ってきたのだった。
「さあ、そろそろ時間ですわ。広間へ参りましょう」
 ユルゼが高らかに宣言した。片づけをしていた侍女たちは一斉に手を止めて礼をする。
「そうね、行きましょうか。……さ」
 ユルゼはを促すと、先に立って部屋を出て行った。その後に続くと、長い裳裾を引いたドレスがずっしりと背後から付いてくる感覚が襲う。
(大丈夫かな、わたし……)
 心の中でこっそりと、はため息をついたのだった。


 広間にはマークの重鎮たちとゴンドールからの使者たちが勢ぞろいしていた。すでに支度を終えていた国王もそこにおり、祝いを述べに来た者たちの対応をしている。
・レオフォスト姫がおいでになりました」
 エルフヘルムが告げると、広間は静まり返った。は大勢の視線が自分に集まるのを感じて武者震いをしそうになる。
 宴に参加するのは初めてではないが、ここまで注目を浴びたことはなかった。絶やさないようにと言われていた笑みがひきつりそうになり、はこっそり唾を飲み込む。
 重いスカートを持ち上げ、転ばないように玉座に近付くと、持ち場に戻ってきていたエオメルがしかつめらしい顔つきで手を差し出した。
 エオメルの手を取り、ゆっくりと正面に向き直る。三々五々に散っていた人びとが、テーブルに沿って綺麗に並んでいた。
 エオメルが目配せをすると、控えていた給仕たちがビールを配りだす。全員に行き渡り、最後には美しい彫刻が施されている杯がエオメルとの前に差し出された。
 受け取ったエオメルは、杯を高々とかざす。
「一年前の今日、世界は光を取り戻した。その勲については多く語る必要はあるまい。まずは我らの感謝を、勇敢なる小さい人たちへ捧げよう」
 王の呼びかけで、広間は高々と突き上げられた腕と杯で一杯になった。エオメルは間髪を入れず、声を張り上げる。
「新たな年が廻り来たことを祝って」
 興奮した誰かが、雄叫びとともにさらに腕を突き上げていた。
「マークにますますの栄があらんことを願って」
 人びとの間には徐々に熱が起こり、足踏みをしだす者も現れた。
「我らが同盟国、ゴンドールにも一層の栄があらんことを!」
 興奮は、最高潮に達した。そこをすかさずエオメルは制止する。
「盛り上がるのはまだ早いぞ。これで最後だ。今日この日をもって我が妃として、エルケンブランドの娘・レオフォストを迎え入れる。異論のある者はいるか!?」
 一斉に、『否』の声があがった。それを皮切りに、あちらこちらで乾杯が交わされる。すでに近くにいる者たちと肩を組んで、歌いだす者もいたほどだ。
 は慣例に従って杯の中身を飲み干した。しかし皆と違ってエオメルと自分が飲んでいるのはビールではない。蜂蜜酒だ。ユルゼによると、子供ができるまで毎日飲むことになるのだという。
「行くぞ」
 が飲み終えるのを待ってエオメルの手が腰に回ってくる。これから外へ出て、民たちに祝福してまわるのだ。
「はい」
 ここからが本番だ、とは気を引き締めた。


 マークでの結婚式というものは、の故郷のそれよりも儀式ばっているものではなかった。せいぜい身内や近所の者たちを呼び集めて花嫁を紹介し、それから宴会をするくらいのものだ。国王の結婚であっても変わりはなく、規模が大きくなる程度だった。
 死が二人を別つまでと誓いの言葉を言うこともなく、指輪の交換もない。セオドレドと婚約したときには、故郷恋しさにせめて指輪の交換をしたいと言ったものだが、さすがにもうそんな気は失せていた。
 今日、の指を飾っている指輪は持参金として用意されていた装飾品の中の一つで、セオドレドから贈られた指輪ではない。最初の持ち主であるモルウェンはエオメルにとっても祖母に当たるとはいえ、さすがにその指輪をつけるのは筋が違うと思ったためだった。いつものように鎖に通して首にかけてもいない。それは宝石箱の中で静かに眠っている。夫の身内から送られる宝石としては、エオメルの母セオドウィンが父エオムンドに贈られたのだという耳飾りをつけていた。
 エオメルと が連れ立って歩くと、後ろから重臣たちが付き従ってきた。外へ足を踏み出すと、待ち構えていた民たちが腕を振り回して歓声をあげる。一度扉の前で立ち止まり、二人は手を振った。エオメルとの名が連呼され、万歳の声があがる。
 ゆっくりと階段を降りてゆくと、国王夫妻の幸福にあやかろうと祝福を望む人々が二人を取り囲んだ。事前に控えていた近衛兵がエオメルとの脇を固めていたので、つぶされるようなことはなかったが、さっぱり先へと進めなくなったのには参ってしまった。
 民たちは満面の笑みを浮かべておめでとうございますと祝いの言葉を述べ、同時に膝を軽く曲げた。それは祝福をしてほしいという合図なので、その合図がなされた場合には額に軽く手を触れるのだ。もっとも、祝福を欲しがらなかった者はこれまで一人もでてきていない。
(ということは……)
 は麓をちらりと見やった。どこに目をやっても、人、人、人で一杯である。
 全員に祝福しきれるだろうか。気が遠くなりそうになりながらもは笑顔を浮かべ続けた。
 しかし彼女の心配は杞憂に終わった。
 小一時間もすると周囲を取り囲む人の数も減り、大分歩きやすくなった。この頃になると民たちにも充分にビールが回ってきているようで、陽気な歌声も聞こえてきている。
 このビールは黄金館からのふるまいで、通りのそこここに樽が積み重ねられているのだ。さすがに住人全員分の杯までは用意しきれなかったので、各人が自分のものを持ち寄ることになっているのだが。
 もう少しすれば館から、今度は料理が届くことになっている。焼肉や腸詰、各種のチーズ、たくさんのパン、それに果物などを用意しているのだ。昨年の作物の出来は、質の良さと量とを兼ね備えていたので、は密かに満足していた。男たちがいなかった間にも、家畜や畑の世話をしていたことは無駄にならなかったということに他ならないからだ。
「ひめさまぁ」
「おめでとうごじゃいます」
 ようやく丘を半分ほど下ったところで、幼い姉妹が駆け寄ってきた。手には小さな花束を握りしめているのだが、時間が経ちすぎたのか、ぐったりしている。
「おはな、つんできたの」
「ひめさまにあげる」
 姉妹たちは爪先立って花束を差し出してきた。その必死な面持ちが可愛らしくて、は心からの笑みを浮かべる。後ろから追いかけてきた母親が、姫様ではなくて王妃様だと娘たちに注意をしていたのも笑いを誘った。
「ありがとう。とても嬉しいわ」
 膝を折って受け取った花束は、しっかり握りしめられていたせいで茎が温かくなっていた。額に触れる代わりに口付けをすると、姉妹たちは余程驚いたのか、頬を染めてぽうっとした。
 笑いながら手を振り姉妹たちと別れる。立ち上がるとエオメルと視線が合った。穏やかな眼差しで見つめられていることに気付き、思わず目を伏せる。この男性が自分の夫なのだ。婚約期間の短さと連日の忙しさでまったく覚えなかった実感を、はようやく覚えたのだった。




あとがきは反転で↓

タイトル脇の日付が『第三紀3019年2月下旬〜3020年3月25日』となっているのですが、作中でも書いてあるように指輪が火の山に投げ捨てられてサウロンが滅びた3月25日がこの世界での新年となっているため、このような表記になりました。
日本だと新年は一月一日だから、パッと見、一年以上が経過しているように見えますね…。



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