エルフとドワーフの集団がマークを訪れる数日前のこと。マーク王妃・レオフォストの部屋では、王妃と女官長が切羽詰った様子で言い争っていた。
「妃殿下、もういい加減になさいまし。これ以上粘ってどうするのです」
「そ、そんなこと言って、もし違ったらどうするの」
 女官長ユルゼはいつになく強気な様子で決断を迫った。一方は自信なさそうに眉尻を下げている。
「違う、などということはございません! このユルゼ、レオフォスト様の月のものがいつか、きちんと把握しておりますもの」
「そんなこと大きい声で言わないで! 外に聞こえたらどうするの」
 王妃は顔を真っ赤にして女官長の口を塞ぎにかかった。まさか王妃を振り払うわけにもゆかず、ユルゼは諦観の表情を浮かべて目を閉じた。
 は頭を抱えたい思いで女官長を眺めた。執務に入る前、彼女に大事な話があるのでぜひとも時間を作ってほしいと頼まれたのは、このことだったのか。
 いつになく決然とした表情だったので、本当に大事な話なのだと思ったのだが……。
(世継問題なら確かに大事なことなんだけどね)
 マークの王は結婚して四ヵ月が経った。そしてその王妃たるは、今月先月と妊娠していない証である血潮が流れていない。女官長がやきもきするのも当然だった。
 しかし本人は半信半疑でいるのだ。一つは、自分がもともと月のものが狂いがちな性質であるということ、そしてもう一つは、なんの自覚症状もないということだ。
 つわりというものが起きるまでは、まだ早いかもしれない。しかし本当に妊娠しているのならば何か体調に変化があっても良いのではないだろうか。しかし、そのようなものはまったくないのだ。
 落ち着きを取り戻したが手を放すと、ユルゼは努めて声を低くして言い諭した。
「わたくしの声はいつもと同じです。これくらいで廊下まで聞こえてしまうほど、妃殿下のお部屋の壁は薄くはございません。聞こえたというものがあったとしたら、その者はわざわざ聞き耳を立てていたということでしょう」
 そしてユルゼは、そのような不届きものは牢屋にでも入れてしまえばよいのですと澄まして続けた。
 は肩を落としてため息をつく。
「ユルゼにかかったら、こんなこと、何でもないことのように思えてきたわ」
「当然のことですもの。恥ずかしがる必要などどこにもございません」
 年若い女主人のぼやきに、ユルゼはふと微笑を浮かべる。初々しい頑なさに微笑ましいものを感じたのだ。
「とにかく、月のものが二ヶ月も来ておりませんのよ。確認はしてみるべきです」
 老女官の迫力に、は後ずさった。
「先月は、わたくしも様子見とした方がよろしいかと判断いたしました。月のものというのは原因がよくわからないまま、狂うことがありますもの。ですが二月続けて狂いが起こるなど、わたくしの経験からすれば考えられません」
「うう……」
 はますます後ずさる。ユルゼは一定の距離を保ってと向かい合っていた。
「ご結婚されている方ならば尚更です。さあレオフォスト様、産婆を呼ぶご許可をお出しくださいませ!」
「でも産婆を呼んだら妊娠したと思われちゃうじゃない。これで違ったとなると、ぬか喜びさせることになるわ」
「わたくしの感じたところでは、十中八九、間違いございませんから、そのような心配はするだけ無駄というものです」
 ばっさりと女官長は王妃の泣き言を切り捨てる。
「でも万が一……!」
「王妃陛下」
 しぶとく抵抗するに、ユルゼの目が据わった。もう女官として言い諭すのではなく、の倍以上生きてきた女として諫言するつもりだった。
「わたくしは子を産んだことがございますし、子を授かった女というものもたくさん見てきております。それでもわたくしは専門家ではございません――」
 ずい、と一歩近寄る。
「これまでの流れが流れ、仕方のないこととはいえ、王妃陛下は多忙を極めております。とはいえ、このままお子ができたのかどうかあやふやなまま、各方面から際限なく頼まれる仕事を引き受け続け、結果、赤子になにかあったらどういたしますの? だいたい、妃殿下の一番のお役目は……」
「子供を生むこと。特に王子、でしょ?」
 降参というように、両手を小さくあげては続けた。勢いをそがれたユルゼは鼻白んだが、すぐに平静を取り戻した。
「おわかりになっているのなら、どうしてこうも頑固に産婆を拒むのです」
「だって……」
 俯いた王妃は、叱られて居心地が悪い思いをしている幼子のようにスカートをいじる。
「妃殿下?」
「例え間違いでも、陛下にならまだだったと言えばそれで済むことだわ。でも産婆が来たことで子供ができたのだと皆が誤解したらどうするの。噂はあっという間に広がるんだってことは、もう嫌というほどわかっているんですからね。ただでさえ期待が大きいというのに、これ以上はごめんだわ」
 拗ねたように言う王妃に、ユルゼは怒ればよいのか慰めたらよいのか、よくわからないような表情になった。エオメルの結婚問題でマーク中が揺れていた頃のことを思い出し、嘆息をする。
 が王と結婚する気になったのは、僥倖だったのだ。噂が本当になったのだから。だがこの結果は、噂が生み出した訳ではない。一言ももらしたことはなかったが、その気にならなかった以前は、エオメルとの結婚の噂は、相当に圧力を与えていたのだと思い至る。
「無用な心配かと存じますが……。たとえ産婆が館を訪れたとしても、妃殿下ご懐妊の報が正式に出されなければ、信じるに値しない話だと思うことでしょう。特に女たちは妃殿下の味方ですよ。妊娠したと思ったが違ったということなどよくあることだと思うはずですもの。よしんば、噂が一人歩きしたとしても、妃殿下のお腹を見れば一目瞭然です。何を言われようと、気になさる必要はございません」
「それは、そうだけど……」
 はそっと腹部に手を当てた。
 自分でもわかっているのだ。この抵抗には意味などないということを。
 多分、子供はできたのだろう。エオメルは夫の務めを律儀にこなしているのだ。ならばどちらかに問題がない限り、そのうち子供はできるというものだ。早くできればそれだけ世継をと望む夫や国民の期待から解放される。
 しかし、確認をするのが怖いのだ。
 万が一違ったら?
 きっとエオメルも皆も自分に失望するだろう。彼らのそのような顔は見たくなかった。
 しかし、とは顔をあげた。
「いずれはっきりさせなければならないことなのよね。……いいわユルゼ、産婆を呼んで頂戴。だけど、あまり人目につかないように、ね」


 エドラス一の腕前の持ち主という産婆は、三十を超えたくらいの大柄な女だった。なかなかの美人で、強い巻き毛をひっつめにし、簡素な上着にスカートをまとい、前掛けをつけている。
 王妃の部屋に入った途端、彼女は「ああ」とため息をついた。女は「母さんが言っていた通りの部屋だ」と呟いた。
 この産婆の母親も産婆で、セオドレド出産の際に手伝いに呼ばれたというのだ。
 ひとしきり感激にひたると、女はてきぱきとを診断した。どれほどのことをされるのかと心配していただったが、あっさりしたもので拍子抜けしてしまった。
 熱を測り、脈を取って、腹に手を当てただけだ。
 それからにっこり笑って、次の月経予定日に血が出なければ間違いなく妊娠していると告げたのである。
 産婆を送り出した後、は複雑な表情で女官長を見やった。ユルゼは「ですから、心配することなどないと申し上げましたのに」と、半ば気の毒そうな顔になる。
 産婆が来たことはその日のうちにエオメルの耳にも入っていたようで、夕食後に二人だけになった折に彼の方から訪ねてきたのだった。
 昼間のことをが教えると、彼は嬉しそうな顔になる。と、ぶるぶると頭を振って表情を引き締めた。
「まだ確実だというわけではないのだからな……。先走るのはよそう」
 しかしそう言ったあと彼は、しばらくの間、王妃としての務め以外はやらなくてもよいと命じたのだった。


 そして麗しいエルフの一隊と新たな隣人となったドワーフの貴族たちが訪れ、しばらくの滞在の後に去っていった頃、は自分でも誤魔化しようのない変調に襲われるようになった。
 ものが食べられないというところまではいかないが、むかむかしてあまり食事をしたいとは思えなくなった。集中力も減じて、ちょっとしたことでも頭がぼうっとなってしまう。どこかが痛いということや、熱っぽいということはないのだが、それでもの変化は傍目からもわかるようで、が動くたびに誰もが気遣わしげな様子になるのだ。
 そして再び産婆が呼ばれた。月経予定日を過ぎてもやはり印は流れなかったのだ。
 産婆は再び触診をすると、にっこりと笑って「おめでとうございます」と言った。
 そうとなれば触れを出してもらわなければと、ユルゼはエオメルに知らせを届けに行く。執務に忙しい時間帯のはずなのに、彼は数分も経たずに廊下を全力疾走してきたのだった。
 エオメルはの部屋に入るや否や、力を入れすぎだと侍女に咎められるまで、妻を抱きしめた。我に返った彼は、産婆に心配そうに問う。
「それで、これからどうすればよいのだ。には子が生まれるまで働かせない方がよいのか?」
「落ち着いてくださいませ、王」
 産婆は苦笑しながらエオメルに答えた。
「王妃様は悪阻が出始めているようですから、体調が悪いときには無理をさせないのが肝心です。でも、その時期が過ぎてからなら王妃様が望めば、宮廷の仕事はしても大丈夫でしょう」
「そうなのか?」
「ええ。動きすぎると流産の危険が大きくなりますが、動き過ぎないと今度は難産の危険が出てくるんです。乗馬はやめておいたほうがよいと思いますけど、それ以外は普通に生活して構いませんわ」
「その、動きすぎと動きすぎないというものの区切りはどうつけたらいいんだ?」
「あの、エオメル……」
 熱心に産婆に教えを請う夫に、はおずおずと声をかける。
「なんだ?」
「そのあたりの注意点はもう教えてもらったから……」
「む……、そうか。ならばその注意に従って気をつけて日々を送ってくれよ。男であれ女であれ、腹の子はマークの希望となるのだから……」
 言いながら、エオメルは真顔になった。真剣な表情で産婆を見やる。
「腹の子が男なのか女なのかは、いつ頃わかるものなのだ?」
 問われた産婆は目を大きく見開いた。
「嫌ですよ、王様ったら。お世継がほしいのはわかりますが、こればっかりは生まれてみないことにはわかりませんよ。神様の領域というものですもの」
 朗らかに笑いながら、彼女は手を左右に振る。
「女の子でも、王妃様に似ればとても可愛らしい姫様にお育ちになるでしょうし、エオル王家の血が濃く出ればお美しくなるでしょう。少しも残念がる必要はありませんよ。王妃様はお若いのですから、子供くらい、これから三人でも四人でも、産んでくださいます」
「いや、そういうことではなくてだな……」
 エオメルは産婆の明け透けさにたじたじとなった。
 一方 は彼女の「三人でも四人でも」の言葉に、複雑な顔になる。できることならエオメルの望みどおり最初は男の子を産みたいとは思っているが、こればかりは自分で決定できるわけではない。もしも女の子だったら、やはり再挑戦をせざるを得ないだろう。女の子もぜひともほしいが――髪を結ったり可愛いドレスを着せるたりするのならば、やはり女の子の方がだんぜん楽しそうだからだ――そうなると両性がそろうまで死ぬほど痛いと聞いている出産に、何度も挑戦してみる気になれるのだろうか。なにしろ同性が続く可能性だってあるのだから、二回で済むとは限るまい。
「お話中失礼いたします、陛下。あの、本日の夕餉はどうしたしましょうか? 妃殿下ご懐妊の宴など開くのでしたら、もう用意をさせませんと」
 エオメルに遅れてようやくユルゼが戻ってきた。肩が小刻みに上下しているのは、途中途中で何度も呼び止められたからだろう。それでも落ち着いた様子を崩していないのは、さすがというしかなかった。
「そうだな、宴はやらねばなるまい。しかし正式なものはの様子が安定してからにしよう。今日は館のものに振る舞い酒をしてやってくれ。それから、早馬を出して各地に知らせを届けなければ」
「エルフヘルム卿が、いつでも出立できるようにとすでに人員を揃えておいでですわ」
「では、すぐに言伝を伝えよう」
 エオメルが国王の顔に戻ったため、産婆はこれ以上長居は無用と去っていった。帰り際、毎月様子を見に来るが、何かあったらすぐ呼んでくれと言い残して。
 最初の興奮が去ったエオメルは、膝をついて椅子に腰掛けていると視線を合わせた。ごつごつとした手で両頬を包みむ。
、よくやってくれた」
「まだ生まれてもいないのに、気が早いのね」
 互いの顔が近い。夫婦なのだから今更この程度の距離など見慣れたと言ってもよいのだが、この場にはまだユルゼがいる。さすがに気恥ずかしくなり、は頬を染めて俯いた。
「いや、こういうことはきちんとするべきなんだ」
 妙に真面目腐ってエオメルは言い返した。そして祈るように目を閉じ、額を付き合わせた。
「男でも女でもどちらでも構わん。お前が無事であり、子が健やかであれば」
「エオメル……?」
 その様子が常と違っているように思えて、は不安を覚えた。神妙というのではない、憂いを帯びているような気がしたのだ。世継になるかもしれない子供が出来たというのに、どうして憂える必要などあるのだろう。
「何か気にかかることが?」
 エオメルは目を開けた。そして何かを言おうと口を開きかけ、すぐに閉じた。それから被りを振る。
「いや、何でもない。お前は何も心配するな」




 夏が終わり、秋も過ぎる頃、エオメルはいつになく不自由な身体を持て余していた。
 数日の間、動き回るのを制限されたせいで、常になく苛ついている。
「まったく、情けないことだ。この私としたことが、馬から落ちるなどと……」
 ふてくされながら肘掛に肘をつき、エオメルはため息をつく。
 自分でも信じ難いことに、馬から下りる際に鐙に足が引っかかり、身体を支える間もなく肩から地面に落ちてしまったのだ。そして左足首を捻挫し、肩から背中かけて大きなあざができてしまった。馬に乗るようになって二十年以上経つが、ここまで派手に落馬したことは、乗馬のいろはを習った幼少時以来のことである。それも演習中のことで、大勢の騎士たちが見ている前でのことだった。王の面目が丸つぶれとはこのことである。
「わたしも驚きましたわ。マークの騎士は、たとえ半分寝ていても馬を駆けさせることができると聞いておりますもの。乗るのも降りるのも、似たようなものかと」
 王妃は困ったものだと苦笑いしながら、腫れに対して効果のある葉を煎じたものを渡した。
 エオメルは茶碗を仰いで、苦そうに口をもごもごさせる。そしてまた「情けないことだ…」と呟く。彼は同じぼやきをもう二十回以上繰り返しているのだ。気の毒とは思いつつも、はさすがに聞き飽きてしまった。なにか別のことに注意を向けなければと思い切って口を開いた。
「でも、ただの不注意が原因というわけではないのでしょう?」
「……どういう意味だ」
 表情を改め、静かに問う王妃にエオメルはひやりとした。
「あなたは隠し事ができない性質ですもの。全部顔に出てしまうのよ。ここのところずっと、何かを悩んでいらっしゃるようね」
「……」
「気付いているのはわたしだけではないわ。廷臣たちの多くもそう。だけど何を悩んでいるのかわからないから、皆不安を覚えているようだわ」
 エオメルはゆっくりと歩きながら話す王妃を何気なく目で追い、最後に視線を腹部に留めた。の腹はドレスの上からもうっすらとわかるほど膨らみ始めている。産婆によれば、子が生まれるのは新年の頃になるだろうということだ。
「益体もないことなのだ。皆に言うほどのものではない」
 は悲しげな眼差しでエオメルをみつめた。両手を身体の前で合わせたので、腹部が強調される。
「この国の王はあなたですもの。他の者には肩代わりのできない悩み事がおってもおかしくはないでしょう。どれほど辛くても口にしてはいけないことがあることだって……。だけど、ねえあなた。わたしはあなたの妃だわ。悩みを肩代わりすることができなくても、共有することはできる」
 すっと歩み寄ると彼女はエオメルの左手を――右手は不用意に動かすと痛みが走るのだ――取った。
「わたしにも打ち明けられないことなの? わたしでは、あなたの支えになれない?」
「違う、そういうことでは……!」
 エオメルは反射的に腕を伸ばしてを抱きしめた。瞬間、肩から背中にかけて鋭い痛みが走ったが、それ以上に妃に悲しい思いをさせているということが堪らなかったのだ。
 しかし、どうして口にすることができるだろう。
 悩みの原因が自身にあるのだということを。
 婚儀の夜から始まった夢は、今日までの間、途切れることなく続いている。霧の向こうの人影は本当に僅かずつではあるが、エオメルに近付いているのだ。
 夢の中で動くということを意識しながら寝るようになったせいか、そのうちエオメルは霧の中を自由に歩きまわれるようになったのだが、どこまで行っても風景は変わらなかった。ただ真っ白なのである。
 人影に向かって走っても、同様だった。懸命に足を動かしても、人影に近付いた気がしないのだ。
 夢を見ている間は、恐ろしいとも気味が悪いとも感じない。しかし目が覚めるとその不吉な内容に、どうしても悪い方へ物事を考えてしまう。そのうちエオメルは、夢を見ずにすむように、寝る前に大量の酒を飲んだり、ぎりぎりまで眠るのを遅くしたりするようになった。
 夢さえ見なければこれ以上振り回されることもあるまい。
 そう考えてのことだったが、そのつけは通常の執務に出てくるようになった。深酒が過ぎれば頭がはっきりしなくなり、睡眠不足が重なれば集中力を欠いてしまうのだ。身体を動かせば少しはすっきりするが、根本的なことが解決されていないため、疲労は日々積み重なってゆく一方だった。
 落馬事故はそんな中、起こったのだ。
「身重のお前に、心配をかけて本当に済まないと思っている」
 妻の頭をかき抱きながら、エオメルは呟いた。は小さく頭を振った。
「そんなことはいいんです。ただ、あなたの力になれないのが悲しいの」
 いじらしい台詞に、エオメルは胸が熱くなった。
 妃をどこへもやりたくはない。
 だが、一体どこの誰が自分からを――もしかしたら腹の子を――奪い去ろうとしているのだろうか。
 この世の者か、それともこの世の外の者か――。
(――ガンダルフは、夢の内容をに伝えよとおっしゃった……)
 伝えるべきなのだろうか。何度目かもわからない自問をエオメルは行った。
 その時にはわからずとも、かの魔法使いが言ったこと、行ったことは後に必ず実を結ぶ。ここで自分が彼の忠告を無視したら、夢の問い以上に悪いことが起きるのではないか。しかし……。
「エオメル?」
 が泣きそうな顔でエオメルの顔を覗きこんだ。彼は妻の滑らかな頬に手を添える。その時、ふとした思いが浮かんだ。
(どうしてあの夢を見ているのが私なのだ?)
 夢の内容はに関することだ。
 声の主は、どうしてのことを自分に決定させようとするのだろう。
 自分がの夫、そして子の父親であるということを鑑みても、それだけでは理由にはならないように思えた。
 もしや――。
 もしや、も同じ夢を見ているのではないか? 自分か腹の子か、どちらかを選べと。
……!」
その思い付きが強烈だったため、エオメルの声は掠れがちになった。
 様子の一変した夫に、はたじろぐ。
、お前、夢を見ていないか? 霧の中から問われる夢を……」
「……え?」
 彼女は不思議そうに瞬きをするだけだった。


 エオメルが話すのをじっと聞いていたは、どんどん表情を曇らせていった。
「ということなのだが、心当たりがあるか?」
 話し終わり、審判を仰ぐ気持ちで妻に尋ねる。
「その夢の中の声を聞いてみない限り、はっきりしたことはいえないけれど、ナセの行動だとしてもおかしくはないとは思う」
 ナセ、と呼ぶの声音に、エオメルはどきりとした。の故郷の話など、自分は一度も詳しく聞いたことはない。セオドレドとはしたかとは思うが、自分にとってはを探しているであろう故郷の者はさほど重要ではなかったのだ。それよりも亡き従兄の婚約者に横恋慕をするようなことをしてしまい、セオドレドはどう思うだろうかと、そんなことばかり考えていたのだ。
「その、ナセの君はこんな回りくどいことを好んでするようなお方なのか?」
 は頬に手を当て、首を傾げる。
「まわりくどいというよりも、何かの試験をしているような気がする。といっても、その夢が本当にナセが見せているのかどうか……」
「同じでなくとも、似たような夢をお前は見ていないのか?」
 は頷いた。
「ええ。だからこそ訳がわからないのよ。ナセがわたしを見つけたのなら、どうしてそのわたしを飛び越してあなたに接触を仕掛けているのか」
「そうだな」
 確かに、それはおかしい。
 では、この夢はの故郷の者ではなく、この世界の誰かが見せているのだろうか。ならば、その夢の意味は、やはり……。
、身体の具合は本当に大丈夫なのか?」
「どうしたの、急に」
 急に切羽詰ったエオメルには戸惑い、不思議そうに瞬きをした。
「どこか普段と違うとか、痛みがあるとかはないか?」
「普段と違うって、それは違うわ、妊娠しているのですもの。いつもと同じというわけにはいかないわよ。最近身体が重くなってきたし……」
「そういうことではなくて……!」
「落ち着いて、エオメル。そんなことを聞かれても、わたしにはわからないのよ。子供ができたのなんて初めてなんだから、比べようがないんだもの」
「それは、そうだが……」
 エオメルはもどかしいものを感じて唇を噛み、俯いた。は柔らかい手をエオメルの腕にそっと置く。
「だけど、何を危惧しているかはなんとなくわかったわ。出産は時には命がけになるというもの、わたしか、この子か……」
 片方の手をは腹に当てる。
「そのようなことはさせん!」
 エオメルはの腕を掴み、引き寄せた。
「お前はどこへも行かせぬ、行かせぬ、行かせぬ!」
 吠える王に、王妃はすがるように腕を回す。悲痛な沈黙が、二人を押し包んでいった。





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