結婚をすれば、生活は一変するのだと思っていた。
たとえそこに恋愛感情が存在しないものであっても、昨日まで他人だった二人が家族になるというこの出来事に対して、年若い娘が過大な評価を与えていたとしても、一体誰が責められよう。
しかし、結婚はに劇的な変化などもたらしてはくれなかった。
『今日』は『昨日』の続きでしかなく、季節に応じた単調な生活が延々と続くだけ。『明日』というのも、結局『今日』の繰り返しでしかないのだ。
肩に冷気を感じて、は目を開いた。薄暗い。まだ夜明け前のようだ。
「ん……もう……」
毛布がはだけて肩がむき出しになっていることに気付き、首のところまで引き上げようとした。しかし重石が邪魔で上手く引っ張ることができない。
寝ぼけた頭でぐいぐいと引っ張り続けると、頭のすぐ上から声が降ってきた。
「どうした……?」
昼間よりもかすれて呂律が回っていないのは、同様意識がはっきりしていないからだろう。
夫であるマーク王は薄っすらと目を開けて尋ねてきた。
「あなた、毛布を独り占めしないで……」
が言うとくぐもった声でスマンと言い、彼は身体全体で覆うようにを抱きすくめた。ちゃんとものを見ていないような仕草での頭を抱えているので、まるで自分がぬいぐるみにでもなってしまったような感じがする。
しかし男の体温が徐々に自分に移るにつれて、眠気が再びを襲う。娘はそれからさほども経たないうちに、安らかな眠りへと旅立っていった。
これが数少ない変化のうちの一つ。
眠るための場所が変わったこと。そして、隣に『夫』という体温を持った存在がいつもいるということ。
忙しくない日の朝は、日の出と共に起きる。
身支度を整えると二人そろって厩舎に行き、それぞれ愛馬の世話をする。天気が良ければひと走りをすることもあった。
その後は朝食。しばし休憩をして執務。昼食を挟んで、再び執務だ。
は相変わらず、官僚の一人として書類に追われていた。その上王妃として宮廷を取り仕切らなければならない。結婚して一ヶ月。気の休まる時は少しもなかった。
(新婚旅行もないんだものね、この世界って……)
遠くに住んでいる親戚に結婚の報告を兼ねて会いに行くということはあるということだが、日々の生活からしばらくの間離れるための新婚旅行というものは、マークはおろかゴンドールでも行われていないということだ。
旅というのは基本的に命がけになるこの世界にとっては、子孫を繁栄させるための若夫婦を物見遊山に出すなどという考えは存在していない。子を成す前に死んでしまうかもしれないのだから。
(わかってはいたけれど、これじゃ本当に結婚前と何も変わらないじゃない)
王妃というものは、王が快適に過ごせるために心を配るのが最も重要な役目だという。衣服や部屋を整え、歌や楽器で和ませ、戦いと頭脳労働で疲れた身体を愛し慰める。
しかし、文官が滅法足りないマークでは、そんなことを言っていられる状況ではなかった。
が王妃の役割のみに専念すれば、その分だけ決裁しなければならない事項が積み重なってしまうのだ。エオメルは頭を使うことは苦手だとぼやきながらも、生真面目に王としての役割をこなしていたが、それで不得手が得手に変わるわけではない。また優秀な文官というものも、一朝一夕の間に育つものではないのだ。
エオメルの世話はそのほとんどをユルゼ率いる女官たちと、エオメル付きの侍従とが請け負っていたが、そのことをエオメル自身が気にしている様子はなかった。
それでも妻の役割をあまりこなせていないという罪悪感を持ったは、ある時エオメルに不満はないかと聞いたことがあったのだが、彼の答えは単純明快だった。もともと館にいることより外で過ごすことを好んでいたので、部屋が少々乱雑になっていようが気にならないし、いちいち世話を焼かれるのも好きではないのだと笑ったのだ。それよりも、自分の仕事を手伝ってもらえるほうがありがたいと。
そうしては結婚前と変わらず、様々な方面からの仕事を毎日のように持ち込まれているのだが、それでも変化したことがある。
「妃殿下、少しこの書類を見ていただきたいのですが……」
「妃殿下、そろそろチーズを作り足したほうがよろしいかと存じますが……」
「妃殿下、国境警備の定期報告の使者が参ったのですが、通してもよろしいでしょうか? 陛下は只今別件で手が離せない状況でして……」
「妃殿下、新しい陛下のお衣装でございますが、刺繍の図案を幾つかご用意いたしましたので選んでくださいませ」
「妃殿下、陛下からの伝言でございます。『申しわけないが、この書類を夕方まで仕上げてほしい』と」
こんな風に、敬称が「姫」から「妃殿下」になったことだ。
そして昼が過ぎ、再び夜が訪れる。
就眠前の儀式は、世継のいない王と王妃にとってはほとんど義務に等しいものだった。さすがに初夜のような苦痛はないが、熱心に付き合いたいと思うほどの魅力をは感じることができなかったからだ。
集中しだすと周りが見えなくなるのはエオメルの長所であり短所なのだが、夫である男は、閨の中でもその能力を存分に発揮する。基礎体力に差がありすぎて、終わる頃にはは疲労困憊になってしまうのだ。翌日のことを考えてくれと何度か頼み込んだが、なかなか改善されない。いや、エオメルはその都度気をつけると言うのだが――実際にが息も絶え絶えになっているので、理解していないわけではないのだ――我を忘れて没頭してしまうのだから、どうしようもないのだそうだ。
それでもが逃げ出さないでいるのは、周囲から寄せられる期待のせいでも、王妃としての責任感からでもなかった。
事が済んだ後、エオメルはの髪に戯れるように、首筋から背中にかけて愛撫をしてくる。それは眠るまでのひと時の暇つぶしのようで、手つきには艶めいたものはなかった。
爪を立てないように指の腹で上下に動かしていくリズムは、単調だが優しい。とろとろとまどろんでいると、たとえようもないほどの安堵感が全身に広がってくる。
この時間を、は好いていた。
愛情は心から始まるものだと思っていたが、そうとばかりは言えないと思い始めるようになった。触れ合った肌と肌、交わす熱と熱、共に過ごした時間が増えれば増えるほど、エオメルを想う自分がいることに気付く。夫であり王である彼を愛せることを、単純に嬉しく思った。自分たちの仲が良いことを、民も臣も喜んでくれている。これで良いのだとは自分に言い聞かせる。
その一方で、セオドレドを思い出す時間が減ったことに、胸が痛んだ。
あれほど愛した人なのに、過去の存在として遠くなってゆくのが悲しかった。だが、自分は死ぬまで生き続けなければならない。いつまでも、過去にすがっているわけにはいかないのだ。
日々は忙しく、穏やかに過ぎていった。
そんな中、黄金館は多数の客人を迎えていつになく賑やかになっている。
その客人の一人である美しい金髪の青年は、椅子の背もたれに腕を乗せ、ふてくされたような表情で叫んだ。
「こんな展開って、あり!?」
そのまま頭を重ねた腕に預けると、わざとらしい泣き声をあげた。真っ直ぐな髪がさらさらと肩から滑り落ちる。逆向きに座っているため、椅子の背もたれ側に体重がかかり、前方の足が浮いていた。
「レゴラス、行儀が悪いよ」
「ひどいよギムリ、親友が衝撃を受けているっていうのに。慰めてくれたっていいじゃないか!」
レゴラスは落ち着いた様子で忠告をするドワーフに食って掛かる。
ギムリは小さく頭を振り、後ろ手で手を組んだ。
「あんたは何事にも大げさすぎるんだよ。失恋したんだから辛いのはわかるけれどね、そういう姿を本人たちの前で見せるんじゃないよ。彼らだって、何もあんたを傷つけたくて結婚したわけじゃないんだから」
「でも、でも……」
泣き真似をしていたら本当に悲しくなってきたらしい。長旅をした後だというのに、少しも汚れていない頬につう、と涙が滑っていった。
「レゴラス殿……」
エルフとドワーフのやりとりを少し離れたところで眺めていたエオメルだったが、エルフの公子がだんだん気の毒になり、思わず声をかけた。
途端、澄んだ青い瞳がエオメルを見据える。唇はへの字型になっており、まるで癇癪を起こした子供のようだった。それでも類稀なほど美しいのは、さすがエルフというところか。
「一年だよ。最後にに会ってからまだ一年しか経ってないのに……」
音楽的な響きを持つ声が、凄みを増している。恨みのこもったその迫力に、エオメルは一歩後ずさった。
「私、頑張ったんですからね。次にと会えるのはイシリアンへの移住の時になるだろうって。勝手に森を抜け出すと、父上が追っ手をかけるから、こっそり出かけるなんてできなかったんです。だから、だから……」
ギムリはぽりぽりと頬をかきながら、どうすることもできないと諦めたように目を閉じた。
「移住の件を手早くまとめて許可をとって、移住者を募って、荷物をまとめて! 途中まではギムリと一緒に行きたかったからエレボールとも連絡を取り合ったりして大変だったんですからね。そうして、これ以上ないというくらい早く来たのに、どうしてもう結婚してるのさ!」
「いや、それは日程の都合などがありましてな……」
「言い訳なんて聞きたくないよ!」
エオメルが説明しようとするもレゴラスは言葉を遮り、己の耳をふさぐ。エオメルは途方にくれて、ギムリに目で助けを求めた。
黄金館を訪れた客人たちは、一年前のセオデンの葬儀の折に招いた者たちと勝るとも劣らないほど珍しい顔ぶれだった。
一組はドワーフの貴族たち。燦光洞に移住をするためにギムリの一族たちが遠くエレボールからやってきたのだ。
旅人たちは皆、南北街道を南下してきたため、エドラスより先に西の谷を通りかかる。そのため、ドワーフたちはすでにギムリが言葉を尽くしてその美しさを伝えたであろう洞窟の中へもう入居しているのだ。黄金館へは代表者が数人だけ、挨拶をしに訪れているのである。
二組目はイシリアンへ赴く途中のエルフたちだった。闇の森から緑葉の森へと名を変えた、北方に広がる深い森に住むエルフたちが、公子レゴラスの先導でイシリアンを清めに行く。エドラスへは休憩のために立ち寄っているのであり、英気を養ったあと、彼らは再び旅路へ着くのだ。
そして三人目は。
「いい加減にせんか、レゴラス。お前さんのその姿、父王が見たらさぞかしお嘆きになるだろうよ。ここは度量の広いところを見せるためにも、マーク王と王妃に祝福をしたらどうかね」
白いひげの魔法使いは、パイプをくゆらせながらそう言った。
「そんな気分にはなれませんよ、ミスランディア」
レゴラスはふてくされたまま答える。やれやれ、とガンダルフは息を吐いた。
「おお……」
エオメルは感嘆の声をあげる。
魔法使いの口から吐き出された煙はたてがみをなびかせた馬の形になった。その煙はしばし形を保ちながら前進し、徐々に薄れて消えていった。
「お見事です。これも魔法ですか?」
「いいや、ちょっとした技に過ぎぬ。ホビットにはこういう余興が受けるのじゃよ」
「何、なごんでるのさ」
エオメルとガンダルフがパイプ談義を始めると、レゴラスは半眼になって二人をねめつけた。この調子でねちねちやられてはたまったものではないと、エオメルはいい加減うんざりしていた。
「ごめんなさいね、レゴラス。あなたのこと、忘れていたわけじゃないのだけど……」
そこへ軽い足音と共にが広間に姿を現した。後ろには杯や皿にのった料理を載せた盆を持った女官たちが続いてくる。
の登場により、刺々しい広間の空気が一気に和らいだ。レゴラスは弾かれたように立ち上がる。乾いていない頬を拭い、ばつが悪そうに顔を染赤らめた。
「ずいぶんたくさん叫んでいたみたいね。喉が渇いたでしょう。さあ、どうぞ。この麦酒、わたしも仕込むのを手伝ったのよ」
はにっこり笑うと、杯を一つ取り、レゴラスに差し出した。
「あ……うん、ありがとう」
「連絡を取りたいとは思っていたのよ。だけど、緑葉の森って広くて、あなた方エルフたちがどこに住んでいるか、わからなかったの」
すまなそうには微笑む。
「確かに慣れないひとはすぐ迷うようなところだけど……」
エオメルに対するほど強く出られないようで、レゴラスはぼそぼそ呟きながら杯を受け取った。しかしすぐに表情を明るくして、朗らかな調子になる。
「でも、川沿いに行けば解りやすいと思うよ。は空から地上を眺めることもできるんだものね。あの鷲を使えばいいんだ。私の一族が住んでいるのは、エレド・ミスリンから流れる森の川の傍にあるんだよ」
「いまそれを言ってもしょうがないんじゃないかい、レゴラス。あんたはこれからイシリアンで暮らすんだろう?」
もっともな突っ込みをギムリがしたのだが、レゴラスは屈託なく答えた。
「私は根っこが生えたようにずっとイシリアンにいるつもりはないよ。中つ国には私の知らないものや風景がたくさんあるって、わかったのだもの」
言いながら麦酒を口に含む。
「アラゴルンに頼まれたこともやらなくちゃいけないしね。それにギムリ、君とたくさん旅もしたいな。近くを通りかかったときには、父王の館へ寄ることもあるだろう。だから別に教えるのが無駄だとは思わないよ。はいつでも、私に連絡をしてくれてよいのだからね」
「やれやれ」
ギムリは肩をすくめた。ドワーフは年月を経た岩のような厳しい顔立ちをしているが、浮かぶ表情は優しいものだった。
「これ、おいしいね」
麦酒を飲み干したレゴラスは、おかわりを求めた。
「ありがとうございます。昨年の大麦はたいそう出来が良かったのですよ。それでも今年の方がもっと素晴らしい。末代まで語り草になるような麦酒ができあがると思います」
レゴラスが機嫌を直したようなので、エオメルが答えた。これでようやくまともな会話ができそうである。
ギムリも杯を傾けながら話に加わった。
「それは楽しみですな。しかし我々も麦酒作りには自信があります。お近づきの印に、ぜひとも味わっていただきたいものですな」
「ほほう、ドワーフ印の麦酒というわけですな。それは興味深い」
大の麦酒好きであるエオメルは、さっそくその話に食いついた。
は夫と客人たちのやりとりを聞きながら、空になった杯を新たに満たしてゆく。魔法使いがおかわりを求めてきたので、水差しを抱えて側に行った。
「ガンダルフ殿は来年の今頃にはどちらにおいでになっているのでしょうね。わかっていれば麦酒をお送りしますのに。夫の言うことではありませんが、きっと素晴らしい麦酒ができあがると思いますの」
ひとところに留まらない魔法使いに、はいたずらめかして言った。ガンダルフが今回レゴラスたちとともにローハンを訪れたのはどこという目的があってのことではないという。
大きな戦いが終わったのだ。長い年月を放浪の中で過ごした老賢人も、安息の地を見出してよい頃だろう。
ガンダルフは長い眉に半ば埋まった目を細めて低く笑った。
「わしは放浪することを定められておるのだ。来年のわしは、きっとこれまでにないほど遠くへいっておることじゃろうよ」
「ガンダルフ殿……」
まるで別れを告げているような物言いであることが気になって、は急に寂しくなった。
「おかわりを頂戴」
ガンダルフにいまの言葉の意味を教えてもらおうと口を開きかけたが、レゴラスの声に遮られる。は軽く礼をしてガンダルフから離れると、レゴラスの近くへ行った。
「いつになくピッチが早いね」
「え? だって、本当においしいし」
珍しいものでも見るように、ギムリは目を丸くする。それに対してレゴラスはしれっと返した。
「あんたは葡萄酒党だと思っていたのだけど……」
「別にこだわっているわけではないよ。うちでは葡萄酒を飲む機会が多いから、そっちの方が慣れているということはあると思うけど。あ、でも……」
「でも?」
「麦酒だと酔うには時間がかかるね。私、まだ全然素面だよ」
「そりゃ、あんたのとこの葡萄酒は馬鹿みたいに強いものばかりだからだろう」
レゴラスの友ということで、森エルフの宴会に引っ張り込まれたことのあるギムリは、げんなりしながら肩を落とした。
夜も更けてきたので、エオメルはに先に休むように告げた。
エルフはともかく、ドワーフ達もまだ眠っていないので彼女は驚いていたが、身体を労わるのも務めだと言い聞かせ、その場を去らせた。
エオメルはパイプをくゆらせているガンダルフの傍へ歩み寄ると、居住まいを正して訊ねる。
「ぜひ、お聞かせいただきたいことがあります。私には忠告をしてくださる方が必要なのです」
改まった調子に、レゴラスとギムリも真顔になる。ガンダルフはわずかに顔を傾けて話すよう促した。
「実は先日、が懐妊したらしいと告げられまして……」
「ええっ!」
話し始めた途端、レゴラスが素っ頓狂な声をあげた。
「レゴラス、静かにしなよ」
「何落ち着いてるのさギムリ! 懐妊といったら子供ができたってことだよ!?」
「わかってるとも。おめでたいことじゃないか。あんたにとってはそうじゃないだろうけどね」
「ひどいー。結婚してたってだけでもショックだったのに、子供まで…! 人の子の行動は早すぎるよ。これじゃあ私の計画がみんなパァじゃないか!」
「何、しようとしてたんだね」
不吉すぎるその言葉に、冷や汗をかきながらもギムリは訊ねる。
「出発する時に、一緒にも連れ出そうと思ってたんだよ。が結婚したのは、どうせ周りの期待に押し流されたからだろうしね。そんな結婚は辛いだけだもの。私は彼女の味方だから、助けようかと」
「レゴラス、それは誘拐というんだよ」
悪びれずに答える親友に、何やら悲しくなってきたらしいドワーフは、重い重いため息をついた。
「レゴラス殿、そのようなことをしたら、マークと森エルフの間で戦争が起こるのだということを肝に銘じてくださいますように」
エオメルはあまりといえばあんまりなレゴラスの計画に頬をひきつらせた。
「しないよ。身重の女性を連れまわすわけにはいかないもの」
「そういう問題では……」
なら、子供を生んで身軽になったら浚いに来るのかと、エオメルは頭が痛くなった。
「レゴラス、おぬしはしばらく黙っておれ。ちいとも話が進まぬ」
ガンダルフが杖を振った。殴られるかと思ったらしく、レゴラスはびくっとする。それを見てギムリが小さく噴出した。
「で、なんの話じゃったかの」
「あ、はい……」
出鼻をくじかれたエオメルはようやく気を取り直すと、ガンダルフに向き直る。
「懐妊が確実かどうかは、まだわかりません。ただ、月のものがここ二月の間、来ていないというだけの話なのですが……」
「ふむ?」
「それはひとまず脇に置きますが、結婚してから、何度となく同じ状況の夢を見るのです」
「夢?」
ガンダルフの眉がぴくりと動いた。
「ええ、夢は未来を告げることがあると聞きます。その夢の内容が、穏やかならざるものに思えるので、その夢解きをしていただきたいのです。そして、もしも未然に防げるのであれば、その方法を教えていただきたい」
「に聞けばいいじゃないか。彼女だって魔法使いなんだし」
レゴラスがぼそっと呟く。魔法使いに睨まれて、彼は口に手を当てた。
「その夢の内容とは?」
「風景はいつも同じなのです。いえ、風景といえるようなものではないかと思いますが。つまり、真っ白なんです。濃い霧が立ち込めているかのように。ただ、霧とは違って、冷たくはないのですが……」
ようやく長い間心に秘めていた悩みを話せるというのに、エオメルは気が重くなる一方であった。口に出すことで、不安を呼び起こす夢が現実になってしまうかもしれないという恐れがどうしても拭えないのだ。
「なるほど、それで?」
「最初のうちは、その白い風景の中、どこからともなく声が聞こえてきました。ただ、とても遠くから問いかけられているようで、何と言っているのか聞き取れませんでした。それに、あまりにこの夢を頻繁に見るので、数日後には夢の中でこれは夢だと気付くようになったほどで……」
レゴラスは椅子に座りなおしてエオメルを見やった。興味を引かれたらしい。
「二ヶ月くらい経った頃でしょうか、その声がなんと言っているのかがようやくわかったのです。『妃と王子と、どちらを選ぶ?』と」
「不吉な感じがするね」
ギムリが低い声で呟いた。エオメルはドワーフに視線を送って、
「そうなのです。一度だけならば、ただの夢と割り切ることもできたでしょうが、あまりにも頻繁なものですから、ただの夢とは思えないのです。私はこういうことは詳しくないのですが、声が何を言っているかわかった時期というのが、計算上ではが懐妊したのではないかという時期と重なるということもありまして……」
「は確かに妊娠していて、お腹の子は王子だということ? それを誰かが狙っているって言いたいんだね」
レゴラスはずばりと言ってのけた。
「いや、どちらを選ぶと問うておるのじゃから、狙われておるなら妃殿下もじゃろう」
ますます不安になることをガンダルフが口にしたので、エオメルは苦悩する。自分でも何度となく考えたことではあるが、他人の口から聞かされると不安はいや増していった。
「どっちにしても、ろくな夢ではないよ。だって、それではあんまり、あんまり……」
レゴラスは途中で口を閉ざした。さすがの彼も言葉にしてはいけないと思ったらしい。白い肌が青ざめているようだった。
「難産になるかもしれない、と私は思いました。母親か子供か、どちらかしか助けられない。そのことを予告しているのかと」
エオメルは言いながら目を閉じた。
お産の際に死ぬ女は珍しくない。難産でなくとも、出血が止まらずに死ぬこともあるということだ。セオドレドの母エルフヒルドもその一人。この不吉な符合はエオメルを不安に陥れた。彼は自分の下へかつての婚約者であった娘を呼び寄せようとしているのではないかと。セオドレドらしくないやり方だという思いはあるが、死者を相手に問いただすこともできず、内容が内容であるだけに、に告げることもできなかった。
ただの夢だとガンダルフに請合ってもらえればどれほど安心するか。老賢人が訪れるという知らせを受けたエオメルは、その日を切実な気持ちで待っていたのだ。
「夢はそれで終わりかね?」
「いいえ、続きがあります。声がはっきりした頃からだと思うのですが、誰かが白い霧の向こうから近付いてきているようなのです。視界が悪いので距離感がつかめないのですが、人影のようなものが見えるのです」
「声はその者が発しておるのか?」
「よくわかりません。声は洞窟の中で叫んだときのように、あちこちからするのです。人影の方向からだけするわけでは……」
「声は他にも何か言うておらんのか?」
エオメルは力なく頭を振る。
「声はいつも同じことしか言いません」
「ふうむ……」
ガンダルフは長い髭に手を当てながら呻いた。
「その声って、聞き覚えはある?」
レゴラスが口を挟んだが、魔法使いもドワーフも何も言わなかった。
「わかりません。聞き覚えがあるような気もしますし、ないようにも思えます。ですが、あまりあてにはできません。なにしろその声は男のようでもあるし、女のようでもあるのですから」
「それじゃあさっぱり参考にならないよ」
「そうだねぇ」
途方に暮れたようにエルフとドワーフは言った。
「エオメル王」
魔法使いに呼ばれて、エオメルは畏まる。
「その夢がただの夢とはわしにも思えぬが、これはわしにはどうすることもできない問題じゃ。どちらかを選べというからには、選ばれなかった方が危険な目に合う可能性は高い。それが出産がらみのことであってもそうでなくてもな」
「出産がらみではない、というのは?」
「お前さんの奥方は、どこの生まれだったかね?」
疑問に疑問で返され、エオメルは沈黙した。そのこともまったく考えなかったわけではない。しかしの故郷のものが本当に彼女を探しだしたなどと、信じられなかった。
彼女がマークで暮らすようになって約二年半が経つ。大いなる力を持つという存在が、これほどの期間の間、見つけ出せなかったということがありえるのだろうか。探していたのなら、とうに迎えは来ていたのではないか。そうでなければ、その探し手の力をもってしても見つけ出せないほど、の故郷とマークは遠く離れているのではないのか。
「ところで王よ、夢の問いに返事をしたことはありますかな?」
静かだが威厳のある魔法使いの声で、エオメルは我に返る。
「いえ……。そういえば、夢の中では声を出すことはおろか、動いてみようという思いつきは起きませんでした」
「ならば今回そのことに気付いたことによって、動けるようになるやもしれんな。しかし動き回っても、声は出すな。いや、出しても良いが、問いには答えぬ方が良い」
「私もそう思う。その夢は気味が悪すぎるよ」
ガンダルフが言うとレゴラスも同意する。
「それから、その夢はにも言っておいた方がよいじゃろう」
「に、ですか……? しかし……」
「不吉に思う気持ちはわかるが、しかしこれはこそが当事者であろう。夢を見たのがお前さんであってもな。それに、故郷のもの絡みだとしたら、彼女の方が詳しいじゃろう」
「出産絡みだとしたら、いらぬ不安を与えるだけになります」
エオメルは思わず言い返した。彼女にこのことを言ってはいけない。ガンダルフの忠告にも関わらず、エオメルは強くそう感じていた。
「ならば尚のこと。命をかけるのは女であって、男はこういうとき、役に立たんもんじゃろう。本当に危険なことになるのであれば、検討することも考える必要がある」
「……堕ろせと!?」
気色ばんでエオメルは魔法使いに詰め寄った。しかし憤怒の形相の男に詰め寄られてもガンダルフは表情を変えない。
「妃の命を優先するのであればな。わしにはこれ以上は何も言えぬ。どうするかはお前さんたちが決めることじゃ」
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