「良かった……」
 大きく息を吐いたかと思うと、セオドレドはその場にしゃがみこんだ。
「セオドレド様?」
「あ、従兄上?」
 何が良かったのだろうかと訝しがりながら、もしゃがみこむ。エオメルも自分と同じようにわけがわからなそうな顔になっていた。
 座り込んだセオドレドは両手で顔を覆っている。肩が震えているのは泣いているのか、それとも……。
 ふいにセオドレドは笑いだした。
 快活に、軽快に、心の底からの喜びをもって。
「エオメル、エオメル!」
 彼は笑いながら従弟を手招きした。エオメルは従兄の豹変にどうにかなってしまったのかと、わずかに顔を強張らせていたが、素直に近づいていった。
「良かった、良かった。よくやった!」
「うわっ」
 座り込んだままのセオドレドは、エオメルを乱暴に抱き寄せると、あたりかまわずばしばしと音が鳴るほど叩きまくる。
「あ、従兄上、一体……!」
 目を白黒させてエオメルは叫ぶ。
「セオドレド様、落ち着いてください」
  も慌てて二人の間に割って入ろうとした。するとセオドレドは片方の手を伸ばしてくる。エオメルと は、そろって彼に首に腕を回された格好になった。密着の度合いが半端ではなく、身動きが取れない。
「本当に良かった。お前がの名誉がどうとか言い出したから、王子を選ぶのではないかと思っていたんだ」
 感極まったのか、泣き笑いのようになっているセオドレドに、 もエオメルも困惑して互いに顔を見合わせた。
「ええ、でも、そこまで喜ばれるとは……」
 エオメルは複雑な表情で兄を見上げる。 も頷いた。これで王子が生まれる可能性は消えてしまったのだ。夫であり王であるエオメルを精一杯支える意思に変わりはないが、先のことを考えると頭が痛まないではいられない。
「違う、そうじゃないんだ。王子は生まれる……ああ、言えるようになったのか。本当に遠隔操作かなにかされていたみたいだな、私は」
 セオドレドは感心したように口を動かす。思うことを思うままに言えるようになったことが殊更嬉しいらしく、彼は腕に込める力をさらに強めた。
「従兄上、加減をしてください。が死んでしまいます!」
「おお、すまん」
 ようやく腕を放したセオドレドだったが、弟に叱られたことなど少しも堪えていない様子でにこにこしている。は呼吸を整えると、彼が言ったことについて訊ねてみた。
「それで、結局どういうことなんです? 王子は生まれるのですか、生まれないのですか? どれが本当のことなの? もうわたしにはさっぱりわかりません」
「そうです、セオドレド。あれほどどちらかを選べと迫ってきたのに。私は断腸の思いで決断したのですよ。なのに……」
「ああ、わかってる。ちゃんと話すから落ち着いてくれ」
 抗議する二人をセオドレドは宥めたが、
「落ち着いていなかったのはセオドレド様の方ですよ」
 という一言に苦笑いをした。
 座り込んだままというのも何だからと、三人は椅子に腰掛けなおす。足を組んだセオドレドが楽しげに膝の上に両手を組んだ。
「まあ、早い話が、さっきまでの件は、彼の意向としてはこうだった、ということなんだ」
「ナセの?」
「ああ。だが、それを完全に実行に移すことはできなかった。――ヴァラールが反対したのだそうだ」
 さらりと言うセオドレドとは反対に、エオメルは顎が外れそうなほどあんぐりを口をあけた。とんでもない名前が出てきたせいで、頭が真っ白になるほど驚いたのだ。
「気持ちはわかるが、勝手な真似は許さない、現マーク王は異世界のヴァラに呪われるほどのことをしてはいない。また、仮に彼の主張を認めるとしても、マーク王及び先代世継――私のことだよ――の指輪戦争での功を考えれば、エオルの家の子の負債は打ち消されるべきであろう、とな。それで、ヴァラールと彼との間で話し合いが持たれ、すべてが決定されたあと、彼は私に協力しなさいと言ってきたんだ。ちなみに、ヴァラールと彼の話し合いには私はまったく関与していないので、具体的には何があったかは知らないよ」
 にっとセオドレドは唇をあげた。
「ヴァラールは彼がこの世界において無闇に力を振るうことを許さなかった。だががこの世界に定着することで起る事柄の後始末をするという提案は受け入れた。そして彼との家族が被る悲しみの埋め合わせとして、彼が私やエオメルに対して行おうとしていた事を一定の条件をつけて実行してよいとしたんだ」
「条件……?」
 胡散臭そうにエオメルは言い返した。
「ああ。エオメルに関しては、呪いの緩和、といったところかな。どちらにも抜け道が用意されていたんだ」
 ずいっと身を乗り出してセオドレドは聞いた。
「お前、マークの歴代の王で、世継を授かったのが一番遅かったのは誰か、わかるか?」
 それが抜け道と何の関係があるのだろうかとは思った。しかし二人が話している最中なので、口を挟むことは控えておいた。
 エオメルは困惑しながら頬をかいた。
「歴代で、ですか? 考えたことがありませんので、すぐにはわかりかねます。ただ、私たちの祖父であるセンゲル王は、結婚が遅かったと聞いてますので、その分世継が生まれたのも遅かったのだろうとは思いますが」
「ああ、その世継というのは父のことだが、センゲル王四十三歳のときの子だな」
「それとこれと、どんな関係が?」
「簡単に言えば、さすがにマークに世継が生まれないのはひどすぎるから、一定期間だけ生まれないようにするというのならば良いというのがヴァラール側の譲歩だということだ。で、その一定期間というのをいつまでにするかという話し合いがさらになされて、結果、マーク歴代国王の中で、最も遅く世継が生まれた年というのを基準にしようということになったんだそうだ」
「……意味がよくわかりませんが」
 そう聞いたのはだった。
「つまりな、一番遅く世継が生まれた王の年をエオメルが越えたら、この呪いは解けるということだ。そなたたちの頑張りしだいだが、その後なら王子は生まれる。もちろん、姫が生まれる可能性だってあるがな」
「最も遅いというのは誰です? あ、いや、何歳なのでしょうか?」
 居住まいを正してエオメルは訊ねる。セオドレドはにやりと笑った。
「センゲル王だ。私たちの祖父だよ。つまり、四十三歳以降なら、王子は生まれるんだ」
 は思わず指を折って、それが何年後なのか数えた。現在エオメルは二十九歳、自分は二十二歳だった。
「十四年後……」
 その頃自分は三十六歳だ。子供を生むのは無理だというほどの年ではないが、それにしても先の話だった。王子は生まれるというのだから喜んでいいはずなのだが、拭いようのないがっかり感がを襲った。
「センゲル王の最後の子がエオメルたちの母であるセオドウィン様で、彼女が生まれたのが王五十八の時だ。王妃はそのとき四十一だった。ということだからまずも大丈夫だろう。あとは、その年になる前にエオメルがうっかり死んだりしなければいいんだからな。気を抜くなよエオメル」
 慰めになっているのかどうかが微妙な励ましをセオドレドは送る。
「ええ、その……頑張ります」
 顔を赤くしてエオメルは答えた。
「ところで、王子を選んだ場合の抜け道というのはどういったものなんですか、セオドレド様?」
「うん? ああ、それは……」
 答え辛そうにセオドレドは目を上げる。
「いいじゃないかそんなこと。選ばなかったのだから」
「でも、気になります」
「知ったらきっともっと気になるよ。だから教えたくないな」
「そんなぁ!」
「もしエオメルが王子を選んでいたとしても、王妃を選んだ時の抜け道は多分私は教えないだろうからね。違う方を選んでいれば良かったのではないかと、延々悩むことになる。だから、言わない」
 彼は唇に指を当て、眉を上げた。確信的な沈黙は、これ以上ごねても無駄だとにわからせるには充分だった。
「じゃあこの件はもう終わり、ということでよろしいでしょうか、セオドレド」
 憑き物が落ちたようにエオメルはすっきりした顔で聞いた。
「ああ。残った時間は好きに過ごして良いと言われてる。せっかくだしそうさせてもらおう」
「では」
 ぱっと表情を明るくしたエオメルに、は制止をかける。
「ちょっと待って、その前にこのこと、エルケンブランド卿とエルフヘルム卿には言わなくていいの? それから、他の人たちには? わたしとしてはあんまり大っぴらに広めて欲しくないなって思うから、さすがに民たち全てに向けて発表するのはしないでほしいのだけど……」
「そういえばそうだ。あの二人には途中で退席してもらったから、今頃死ぬほどやきもきしているだろうな」
 セオドレドが頷く。エオメルも言った。
「呼んできましょう。それから、ユルゼにも知っておいてもらった方が良いと思うが……。他はどうするかな。十四年も男子が生まれないとなると、話しておいた方が が余計な重圧をかけられないで済みそうではありますし」
 王の言葉を受けてが立ち上がる。
「その辺はお二人の決定に任せます。軍団長とユルゼはわたしが呼んで来るわ。それまで二人で話していてください」
 セオドレドは余人に話は聞かせたくないと、執務室に入る前に、廊下全体から人払いを命じていたのだ。そのため、いつもなら部屋の中に控えている侍従や、呼び止めることができる通行人の一人もいなかった。
「いいから、お前は座っておけ。腹が重たいのだろう。あまりうろちょろすると……」
 心配顔でエオメルが止めた。それをは笑顔で返す。
「うろちょろなんてひどーい。じゃあね、行ってきます」
 そしてそれ以上止める間も与えずにさっさと出て行ってしまった。エオメルは挙げかけた手を戻すと、憮然として座りなおした。
「まったく……。少しはじっとしていればいいものを……」
「もうあとは出てくるのを待つだけなんだから、そうカリカリしなくてもいいだろう」
「そうかもしれませんが、見ているこちらが冷や汗をかいてしまうのですよ。心臓に悪い」
「お前、意外に親馬鹿になりそうだな」
 肩を揺すって笑うセオドレドに、エオメルは唇を尖らせた。だが気負いのないやりとりに、ふと昔に戻ったような懐かしさを感じた。こうしていると、セオドレドが死んでいるなどと信じられないほどだ。このまま彼に留まってもらいたい。だが、それを望むのは、ただ彼を困らせるだけなのだろう。
 笑いを引っ込めたセオドレドは、神妙な顔になると、上着の内ポケットに手を入れた。
「どういうタイミングで渡そうかと思っていたが……」
「セオドレド?」
「手を出せ、エオメル」
「は?」
「手を開いて、手の平を上に向けるんだ」
 不思議に思いながらもセオドレドの言われたとおりにすると、彼はエオメルの手の平にひやりとする小さいものを乗せた。
「お前に返す。私が持っていても仕方がないからな」
 その品が何かを理解したエオメルは、あっと叫んで目を見開いた。
 指輪だった。
 セオドレドがまだ生きていた頃、結婚式の時につけるために注文したというそれだ。が持つ代々の王妃が受け継いできた指輪と対になるように造られたもの。だがそれはセオドレドが生きているうちに渡されることはなかった。
 エオメルはそんな彼の無念を思い、セオドレドの塚に埋めたのだった。
「どうして、これを……」
 エオメルの頭に、妙な図が浮かんだ。それはセオドレドの塚をセオドレド本人が掘り返すというものだった。たちの悪い冗談のようで、エオメルは背中に薄ら寒いものを感じる。
 セオドレドはそんなエオメルの思考を見抜いたかのように、茶々を入れた。
「別に、私が掘り返したわけじゃないぞ? 地上に降りるにあたって、何か希望があるのなら、きける範囲で叶えてやろうと言われたのでな」
 エオメルは驚きながらまじまじと指輪を検分した。手入れをしていないだけでくすむのに、この指輪は土の下にずっとあったとは思えないほど綺麗なままだった。それどころか、中央の緑の石は彼が埋める前よりももっと美しく輝いているような気がする。
 そういうと、セオドレドは思い当たるふしがあるようにああ、と頷いた。
「地上から指輪を拾ってくれたのは彼なんだ。そして清めるときに力を使ったので、そうなってしまったみたいだ。彼は布で指輪を磨くなんてちまちましたことはしないようでね。だけど、別にそれだけだ。エルフの三つの指輪や、失われたあの忌まわしいもののような、特別な力はないということだ」
 話を聞きながらエオメルは手で指輪の周辺の光を遮ってみた。やはり、気のせいではなかったのだ。指輪は光を反射して輝いていたわけではなかった。緑の石それ自体が光を放っているのだ。夜空の小さな星のように、けっして強い輝きではないが、気持ちを和ませるような優しさがあった。
(これを『彼』からの祝福だと考えるのは、さすがに能天気すぎるだろうか……?)
 だが、エオメルはあえて訊ねなかった。どちらでも良いように思えたのだ。そしてエオメルは別のことを従兄に聞いた。
「本当に、これを私が持っていて良いのですか?」
 自分は、セオドレドにこそ持っていて欲しかった。だからこそ誰にも知られないようにこっそりと埋めたのだ。
「持っていてくれ。お前が自分で言ったんじゃないか。これは王の指輪なのだと」
「……聞いていらっしゃったのですか?」
 セオドレドの塚の前で、自分がそんなことを言ったのを覚えている。セオドレドはあの時あそこにいてくれたのか? ただ、エオメルが気付かなかっただけで。
 セオドレドは真っ直ぐにエオメルを見つめていた。だがその目はどこか遠くを見ているようで、獏としている。
「耳で聞いたわけではない。目で見ていたわけじゃない。だけど、どうしてだろうな、知っているんだ。他にも私が死んだ後のことも色々と。同じ日に起きた、違う場所でのことも、その場で立ち会っていたみたいにわかる、いや、わかっているという感じがする。妙なものだな、これが死んだ者の特権なのかな」
「セオドレド……」
 生きている自分には窺い知れることのない深遠を垣間見たような気がした。
(これが生者の立場になれば、まさに父祖に見守られているということに他ならないということではないか?)
 そうであるなら嬉しい、とエオメルは思った。セオドレドだけではない、伯父や両親や盟友……エオメルの大事な人たちが本当に自分たちを見守っているのなら、これに勝る喜びはなかった。父祖を頼っているわけではない。その力にすがっているわけではない。ただ彼らに恥じぬようにしなければという思いが、己を奮い立たせるのだ。
「セオドレド……」
 感動で胸が詰まったエオメルは従兄の手を取り、膝をついた。セオドレドは黙って弟の頭をなでる。
「セオドレド様、大変です!」
 軽い足音がしたかと思うと、息せき切ったが駆け込んできた。
! 走るんじゃないと何度言ったら……」
 エオメルは反射的に注意しかけたが、は血色の良くなった顔を勢いよく左右に振り、
「そんなこと言ってる場合じゃないの、すぐに来て、まずいことになってる。フェラロフが……」
 と叫んだ。
「フェラロフが? どうしたんだ?」
 セオドレドは立ち上がった。の様子はただ事ではない。それに、フェラロフに何かあったりしたらの件とは別に、マークに対する神々の印象が悪くなりそうだった。
 聞き返したセオドレドに、は急に赤くなる。
「えっと……」
「フェラロフがどうしたと聞いているんだ。ああ、埒が明かん。見てくる」
 言い捨てるとセオドレドはあっという間に駆け去っていった。残されたエオメルは、妃の腕を取り、並んで歩き出した。こうしておけばいくら彼女でも、急に走り出したりはしないだろうと考えたのだ。
「何があったんだ?」
 できるだけ穏やかに尋ねるも、はもじもじしたままだった。
「えっとね、フェラロフは厩で少し飼い葉を食べたり水を飲んだりしたあと、すぐに外に出たんですって」
「放牧場に行ったと?」
「ええ。それで、その、ほら、今って春でしょう?」
「ああ」
「春になると、子馬が生まれるじゃない」
「そうだな」
 王家で管理している厩の馬にも、すでに何頭かの子馬は生まれていた。
「それで、子馬とフェラロフにどんな関係があるんだ?」
「子馬じゃなくて、その前の段階で、つまり……」
「つまり?」
「フェラロフが発情してるって、伯楽たちが慌ててるの……」
「……」
 春だからなぁ、という思いがエオメルの頭をかすめる。
「それで、わたしのブレードって、三歳じゃない。ちょっと前に言われていたんだけど、あの子、発情状態に入ってるって……」
「ああ、そのことなら聞いていた。アルドールと交配させてみようかということになっていたんだが」
 エオメルはようやくが言わんとしていることを理解したように思えた。嫌な予感がしてならない。
「まさか……」
「もう、終わったんだって。どうしよう……」
「……」
 彼はあまりのことに絶句した。そして不謹慎ながらも、フェラロフの行動に喝采を送る。
 このようなことは、きっと神々の気を悪くさせてしまうだけのことなのだろう。しかしマークの王、ロヒアリムの長としては、ゆっくりと薄くなっていっているメアラスの血を濃くするまたとない機会を逃したくないというのが本音だった。
「しかし、一度死んだものでも、本能には抗えないものなのだな……」
 春は家畜の多くが出産と交配に差し掛かる時期だ。地上に戻って数時間しか経っていないはずなのに、フェラロフはなんと元気なことだろうと驚きを禁じえなかった。そして気がかりもそのところにあった。
 フェラロフはもう何百年も前に死んだ馬だ。一時的に肉体を得たとはいえ、そんな昔に死んだ者に子孫を残せるものだろうか。
「私としては、フェラロフの子が生まれるのは喜ばしい、とは思うが……」
 ぼそり、とエオメルは呟いた。
「興味深いことだとは、わたしも思いますよ。でも、こんなことになって、大丈夫かしら……」
 心配そうには柳眉を寄せた。
「もし子馬が生まれたら、その子を引き取りにエオル王が戻ってきたりしてな」
「冗談でもそんなこと言わないでください。本当に戻ってきたらどうするんです」
 軽口を叩きながら広間を通り抜け、外へ出る。人垣に飲み込まれないよう、セオドレドの周囲は近衛隊によって守られていた。戻ってきた人を一目見ようと、館の外からも内からも人が集まっている。
 目の上に手をかざしながら伯楽と話をしていたセオドレドは、エオメルの到着に気がつくと、にやりと笑って迎えた。
「何事かと思ったのだが、フェラロフがブレードを気に入ったということみたいだな。連れてきた甲斐があったよ」
 確信犯ともとれるその発言に、エオメルは目を白黒させた。一日のうちにこんなに驚くことはそうはあるまい。
「まさか……セオドレド……こうなることがわかっていて……」
「地上に降りるのに馬なしでは不便だろうと言われてな、好きな馬を連れて行っていいと言われたんだ。ブレゴでも良かったのだが、季節も季節だったからなぁ。地上の可愛いお嬢さんたちが、フェラロフのことを放っておくわけはないと思ったんだ。ブレードが相手になるとまでは予想していなかったがな」
 しゃあしゃあというセオドレドに、エオメルはもう驚く気力をなくした。
「正直に申しますと、フェラロフの子が生まれるかもしれないというのは素晴らしいことだと思います。ですが……怒られませんか?」
「そのような心配は無用だ。私にフェラロフを薦めたのも『彼』なんだからな」
「ナセが?」
 は目をぱちくりする。
「ああ、はっきりとそうおっしゃっていたわけではないが、それとなく匂わされたんだ。せっかくなので、ご好意に甘えさせてもらった」
 エオメルは首を傾げる。
「ベーマが許したというのなら、わかりますが……」
 メアラスはベーマの愛馬ナハールの子孫だと言われているからだ。しかしセオドレドは頭を振った。
「私が会ったのは彼だけだ。ベーマはおろか、その配下の方にだって会ってはいないよ」
「……つまり、全部計算していたわけなんですね。全く、らしいったら。敵わないなあ、もう」
 少し前まで泣いて怒って悲しみに沈んだ王妃は、今度は愛しげにそう呟いた。
 エオメルは複雑な気分で眼下に広がる草原を見渡す。緑が萌えつつあるそこでは、様々な毛色の馬たちが思い思いに過ごしていた。距離があるので、どの馬が火の足か、ブレードか、また自分の知っている馬なのか、見分けはつかない。だが大勢の馬を従えた、一際体格の大きな白馬が悠々と駆けているのだけはわかった。
 伝説の名馬。
 エオルその人しか乗せなかったというメアラス。
 よく考えてみれば、王しか乗せないというメアラスの始祖に、いくら自分が敬愛するセオドレドとはいえ、王子のまま死んだ彼に乗りこなせるわけがないのだ。誰かが、そう、ベーマか彼に匹敵するほど者がフェラロフに言い聞かせでもしない限りは……。
 エオメルは大きく息をついた。
 なるほど、確かに適わない。
 エオメルは手を開いて、握ったままでいた指輪を眺めた。うららかな陽光の元では、指輪が放つ光はかき消されてしまう。そんなところは彼の本質に似ているのではないかと、エオメルは思った。
 美しく、清らかで、優しいのに、わかり辛い。
(まあ、私の勝手な思い込みかもしれないがな)
 ちゃんと会っていない自分には、この考えが正しいのか間違っているのかはわからない。それでも何となくだが、彼に許されたのだと感じた。それで充分だった。
「セオドレド、彼……あの方へ伝言をお願いできますか?」
「ああ」
 草原の方を向いたまま、セオドレドは答える。
「度重なる失礼と暴言にも関わらず、寛大なご処置をありがとうございます。それからこれはのご両親へも伝えてほしいのですが、彼女のことはこれからも大事にしますゆえ、どうかご安心ください、と」
「わたしからも伝えて。ナセと、父さん母さんへ。離れていても、愛している。わたしはマークで幸せになっていますって」
 セオドレドは振り返り、ただ笑って頷いた――。


 山の端に、太陽の一部が隠れた。
 フェラロフは遊び足りなそうな雰囲気を漂わせながらも、セオドレドの呼びかけに応えて戻っていた。
 ゆっくりと外へ出たセオドレドは、名残惜しそうに館を振り返る。彼の顔は急遽行われた宴会ですっかり赤らんでいた。
「エオメル」
「はい」
 徐に呼びかけられ、エオメルは神妙に答えた。

 彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「元気でな。こうして相見えることは当面ないことを祈る」
「……はい」
 エオメルはそう返すのがやっとだった。太陽はもうすぐ沈む。彼が地上にいられる時間はもうじき終わるのだ。わかっていても、行かないでほしかった。自分を抑えていないとそう叫んでしまいそうだった。
 セオドレドはからかうような笑みに変わる。
「それから、あんまり私を原因にして喧嘩をするなよ。お前たちが私のことを好きなのは、よーくわかっているが、私には仲裁できんのだからな」
「……努力します」
 とエオメルは互いに互いを見合うと、声をそろえて答えた。途端、セオドレドはわはは、と笑った。
「じゃあな。…あまり悲しまないでくれ。今度の旅路は、清清しい気分で行きたいんだ」
 彼はフェラロフにまたがると、馬首を巡らす。ゆっくりと向きを変え、フェラロフは歩き出した。
 彼らが見えなくなるまで見送ろうと、エオメルたちは前へと進み出た。
 通りには人が溢れ、別れを惜しむ民たちが集まっている。誰もがセオドレドの帰還を残念に思っていた。
 セオドレドは民たちに応えながら、エドラスの通りを進んでゆく。時折、慣れ親しんだ故郷を目に焼き付けようとするように立ち止まって。
 門を出る頃には太陽は半分以上見えなくなっていた。
 西の空は濃い橙色に染まり、東は深い藍色になっていた。藍の領域がだんだん増えるに従って、夜を告げる星が現れる。
 門を出、歴代の王が眠る塚を通り過ぎたところで、セオドレドは振り返った。
「セオドレド!」
 王と王妃は叫んだ。距離があるので聞こえたわけではないだろうが、彼は腕を高々と上げた。それを合図にしたかのように、フェラロフは走り出す。その足は風の如く草原を駆けていたが、彼らの姿はほどなくして空気に溶け出すかのように、金と銀の軌跡を残して散っていった。



 はそれからほどなくして女の子を産んだ。その日は新年の第一日目イエスタレで、新しい年を祝うために諸侯が大勢集まっていた。そうなると当然、宴は王女誕生を祝うものに切り替えられた。
 喜びの中にいながらも、狙ったかのようなその出産に、エオメルはこれも『彼』が仕組んだものなのかと首を傾げたのだった。
 王女は『宝』を意味するシンクと名づけられ、エドラスの華やぎとなる。
 この王女には二人の妹と二人の弟ができるのだが、生憎、生まれたばかりの彼女にはそれを知る術はないだろう。

 そして王女誕生の次の春にはの愛馬ブレードが立派な子馬を生んだ。その白い子馬は大きくなるとエオメルを乗せるようになった。王旗から抜け出したが如く勇壮な彼らの姿は、マークのみならず、遠き南の戦場でも見られたということだ。



《 完 》



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お別れの言葉(あとがきは反転で)

それでは、途中で中断したことも何度かありますが、ほぼ三年にわたって書き続けた「草原を駆ける風」も終わりとなりました。
…本当に、ほんっとうに、大変でした。
なにが大変かって、一体どんな話になるのか、私自身にもわかっていませんでしたので、一寸先は闇といいますか、なんかそんな感じでした(汗)。
白鳥のときには、まだどういうオチになるかがわかってたのですけどね…。
そして結局77話という、数だけみれば縁起が良さそうな話数で終わりましたね。良かった!本当にほっとしています!!
にしても、例のあのひとが結局名前しか登場しなかったのは(私にとっては)意外でした。
でもローハン夢ならそれが妥当かなという気がしないでもありません。
なんかね、エオメルは例のあのひとのことは全然意識してませんでしたから…(そして最後の最後まで、ヒロイン嬢はあのひとのものじゃなくて、セオドレドのものだと思ってるふしがあるんだよなー)。
だから、最後の山場でエオメルがより大変な思いをするためには、あのひとよりもセオドレドの方が効果的だということになってしまったのですが。

今後のことですが、書いてみたい番外編がありますので、とりあえずそれを書いてしまいます。
それが終わったらお休み期間を取るかもしれませんが、もう一つ書きたい話がありますので、それを書くつもりでおります。
今度のヒロインはエルフ。お相手は闇の森のエルフ王スランドゥイルです。ヒロインはすでに登場済みなのですがね。ほら、白鳥の番外で出たあの方(笑)。
…かなりきっつい性格の姫様になりそうだな。

それでは最後にここまで読んでくださった皆様へ、感謝を込めて。


ありがとー!!

2008/02/29(閏年の閏日だ…)

春日夏月