何が不満かといって、交渉しなければならない相手がこの場にいないことが問題だった。
疑問があっても確かな答えはもらえず、腹立ちをぶつけることもできない。
セオドレドに会えたのは別だ。そのことはただ純粋に嬉しいと思った。
彼の偽者が来るのだと思っていたから尚更だった。
しかしそのために本当に話をしなければならない相手と接触をする機会が失われたのはいかにも悔やまれた
セオドレド相手では、交渉はできない。彼はただの使者なのだから。
話はできない。贈り物も受け付けてはくれない。力に訴えるのも駄目だ――勝てる可能性は甚だ薄いとしてもだ――。
自分に認められたのは、王子が生まれることを優先するか、王妃が――エオメルにとってそれは
だったが――年月が許す限り地上へ留まることを優先するかを選ぶことだけだった。
第三の選択というのもあるが、エオメルはこれだけは選ぶ気がなかった。なぜなら、それこそがの故郷の者の狙いのように思えたからだ。
結局何をどう言おうと、彼はを取り戻したいだけなのだろう。それならそうと言えばよいのだ。自分とて情けを知らないものではない。それならそれで、埋め合わせをするつもりはあったというのに。
いや、とエオメルは思い直した。
(セオドレドの話では、これが彼なりの埋め合わせだということだがな……)
なんと厄介な相手なのだろうとエオメルは天井を睨みあげた。目に映るのはいつもの天井だったが、空のどこからか、彼はこの会見を眺めているのだろう。
(考えれば考えるほど、腹が立ってきたな)
命を惜しむような真似はしたくない。しかし天秤にかけられているのは、自分ではなく妃と子供のものなのだ。
世継は必要だ。だからといって、王妃に死んでくれなどいえるものではない。
かといって妃を選んでも彼女は苦しむだろう。例え事情をすべての民に伝えたとしても、世継の産めない妃に対する民たちの目が厳しくなることくらい、簡単に予想ができるからだ。
(そうなると、堂々巡りになるな)
これを回避するためには、第三の選択を選べばいい。は無事で、新たに向かえた妃も早死にするようなことはなく、世継も授かることになるのだから。ただ、には二度と会えない。もうじき生まれる子の顔だって見れないのだ。姫ではないかとセオドレドは予想していたが、姫だろうが王子だろうが、無事に生まれてくれるならどちらだって構わなかった。
エオメルはセオドレドの両肩を掴んで揺さぶった。
「セオドレド、何か他に情報はありませんか。あなたは彼と直接話をしたのでしょう? この胸くその悪い選択の抜け道がどこかにあるはずだ。それを見つけて奴につきつけ、高慢な鼻をへし折ってやりましょう! 従兄上だってが若死にしたり、マークの世継が生まれないことを望んでいるわけではないのでしょう」
「それはもちろんだ、エオメル。しかしこれ以上のことは……」
激した従弟をなだめ、セオドレドは言葉を濁した。
「何か……なんでもいいんです。気付いたことならば何でも」
苛立ちと焦りで、エオメルの手は震えている。目を窓へ転じた。太陽の様子から、もうじき正午になるのだとわかる。季節が初春なのが非常に残念だった。夏至の頃なら今よりもっと昼間が長いので、その分時間稼ぎをすることができただろうと思われるのだ。
目を伏せながらセオドレドは口を開いた。だが気を変えたとでもいうように、その唇から言葉が漏れることはなかった。彼はエオメルの手を外し、しばらく沈黙をした。
思い切ったようにやおら立ち上がると、セオドレドは執務机に向かう。椅子はないので立ったままだ。
「使わせてもらうぞ」
まだ何も書かれていない羊皮紙を取ると、ペンにインクをつけた。
「セオドレド?」
従兄の行動の意図がわからず、エオメルは眉根を寄せた。何を書こうとしているのかを見ようと自分も立ち上がり、ペン先に注目していたが、手が震えるばかりで何も書かない。紙に触れ合っている部分に、大きなインクの染みが広がるばかりだった。
「セオドレド様、駄目!」
脇で息を飲む気配がしたと思った途端、が恐怖に促されたような叫び声をあげてセオドレドにしがみついた。
弾みで彼の手からペンが転がり落ちる。
「落ち着け、大丈夫だ」
目に涙を浮かべた娘は、だって、だってと何度も繰り返す。先ほどから何度か青ざめていたが、今ではもう雪のように真っ白で、病的なほどだった。
セオドレドは娘の背を優しくさする。堪えていた涙はそれをきっかけに線となって流れた。
「あのひと、あなたに何をしたの!?」
「危害を加えられたわけではない。だから泣かないでくれ。あまり興奮しては腹の子に障るぞ」
言いながら彼はの頬をそっと両手で包んで額に口付けた。その自然に寄り添っている様子は、まるで悲劇的な夫婦のようだった。の夫は自分だ。しかし、セオドレドがいると自分は影のように薄れてしまう。妃の目に映るのも、専らセオドレドの方だ。
「セオドレド殿下、差支えがなければ一体何が起きたのか説明していただけませんか?」
従兄と妻を見つめて突っ立っている国王に代わって、エルケンブランドが訊ねた。
セオドレドは妙な表情で声を出さずに唇を動かす。
「これは言えるようだな」
彼が呟くと、は心配そうにセオドレドを見上げる。
「殿下?」
エルフヘルムは怪訝そうに顔をしかめた。セオドレドはを安心させるように、彼女の肩を抱く。
「いや、実は、もっと色々聞かされているのだが、話せることが限られているのだ。選択の公平性を保つためということだが、全てを知ればエオメルがどちらを選ぶことになるかわかりきっているので、それを防ごうとしているのだと私は思っている」
面目なさそうにセオドレドは唇を噛んだ。
「どうにかして伝えることができればいいとは思うのだがな。口にしようとすれば声がでなくなる。だから筆談ならどうかと試してみたのだが、今度は手が動かなくなった。彼は私の心を読んでいるのだろうか。それとも遠隔操作でもされているのかな」
訊ねるように、彼はに首を傾げて見せた。彼女は涙に濡れた顔を小さく振った。
「わからない……。でも、ナセがセオドレド様に何かの術をかけたのは確かよ。さっき、彼の力がしたわ。都合の悪いことを知られないようにしただけならいいのだけど……。身体はつらくありませんか、セオドレド様」
「それは大丈夫だ。ただ手や喉が動かなくなるだけだからな」
悔しそうに唇を噛んで、はうな垂れる。
「わたし、ナセに会いたい。そしてどうしてここまでひどいことをするのか、問い詰めてやるの」
「滅多なことは言うものではないよ。なら戻っておいで、ということになりかねない。彼は揚げ足取りがとても上手いんだから」
「ええ、それならよく知っているわ」
元婚約者たちは、エオメルのことを放ってすっかり自分たちの世界に行ってしまった。ナセがどのような人物なのかわからないエオメルでは彼らの間に話しに加わることもできず、口を挟むのも邪魔をしているようでできないでいた。
セオドレドは我に返ったように顔をあげた。次に話そうとしていることも禁忌に触れるものなのか、彼は探るような様子で慎重に口を開いた。
「良かった、これは言えるみたいだ。エオメル、何の参考にもならないかもしれないが聞いてくれ。この選択、私がお前の立場だったら、どれを選ぶかはもう決めているんだ。いいか……」
そこでセオドレドは口を開けたまま固まった。はっとしたように彼は手で口を覆う。
「この程度のことも伝えられないのか? くそっ……」
苛立たし気に拳を机に叩きつけた弾みで、インク入れが跳ね上がった。
エオメルは従兄の発言を頭の中で何度も繰り返す。
(セオドレドが私の立場だったら……)
生前の彼なら、間違いなく王妃をとっただろう。いつまでも独身でいることを注意されていた彼は、自分やエオウィンがいるのだから世継のことなど気にするなと退けていたのだから、王子が生まれない程度で王妃の命を短くすることに諾うはずがないのだ。
だが、彼は自分がエオメルの立場だったら、と言った。エオメルには世継がない。また、確実に養子を取れる保証もなかった。それでも王妃を選ぶのだろうか。彼はそこまで王妃を、を留めたいと思うのか?
(思うのかもしれない。なにしろ、セオドレドなのだから)
周囲から寄せられる期待と表裏一体の重圧を押しのけて、彼は孤高を貫いた。その果てにと出会い恋をしたのだから、姫しか生まれないということはさして重要な問題だとは思わないかもしれない。とにかく、姫なら生まれるのだから。
だが、自分にそこまで思い切ることができるのだろうか。
エオメルは頭を振った。
(の方がまだ生まれてもいない息子より大事だと言い切れない私は、やはりセオドレドのようにはなれない……)
妃に目をやると、彼女はハンカチで目を押さえて泣き止もうとしていた。なだらかな肩にはセオドレドの手が乗っており、落ち着かせようとしている。自分の視線に気がついたのか、伏せていた目を上げたと目が合った。さらにそれに気付いたらしいセオドレドが、手招きをしてきた。
「セオドレド……?」
「何をぼうっと突っ立っているんだ。奥方が泣いているのだぞ、夫であるお前が慰めないでどうする」
「いや、しかし……」
は自分に慰めてもらいたいとは思っていないだろう、セオドレドがいるのだから。そう言おうとしたのだが、セオドレドに睨まれて彼は口をつぐんだ。
そして、こんなことをに聞かせるのはさすがにまずいということに思い至った。相手がセオドレドだからこそ冗談にすることもできるが、そうでなければ妃が不貞していると言っているようなものだ。そして、自分がそれを認めているということにもなる。
「すみません、セオドレド」
エオメルは頭を下げた。セオドレドは小さく首を振り、
「私に謝る必要はない」
とに視線を移す。エオメルは従兄から引き渡されるようにの手を取った。
「悪かった。お前をほうっておいて」
涙は止まったものの目の周りはすっかり赤くなっている娘は、気丈にエオメルを見上げてくる。
「いいえ。わたしこそごめんなさい、取り乱してしまって……」
娘はぎゅっと唇を噛んだ。しっかりしようとしているのだろうが、身体の震えが止まらない。小さな手をエオメルは握った。いつもは暖かいのに、やけに冷たく感じた。
これではいけない。選ぶのは自分でも、秤にかけられているのはなのだ。エオメルの一言で彼女の運命が決まってしまう。場合によっては数年経たずに死んでしまうことになるかもしれないのに、怖くないはずはないのだ。
自分が考えるべきは、エオメル自身がどうしたいかではない。どの選択がにとってより良いものとなるかだ。どれを選んでも悲しませることになるだろうが、それでもこれならまだマシだと思えるものを選んでやりたい。
「」
「あの……」
そのことを伝えようと口を開いたところ、少し顔に赤みが戻ったも何かを言いかけた。
「なんだ?」
「なんです?」
またそろった。
「先に言ってくれ」
「お先にどうぞ」
また声がそろってしまったので、エオメルもも困った顔になった。
セオドレドは顔をそむけて肩を揺らす。笑うのを堪えているのだ。
しかしこんな時に不謹慎だ、という気には不思議とならなかった。この出来事が悲壮な雰囲気を和らげてくれたようで、エオメルも顔の強張りがなくなったように感じたのだ。それと同じように、もあえかな笑みを浮かべている。
「お前から先に言ってくれ。どうしたんだ?」
気持ちに余裕が戻ってきたエオメルは、妃を安心させるべく笑みを浮かべて促した。何を言われても騒ぎ立てることだけはしないようにしようと言い聞かせて。
は大きな目をしっかりと見開いてエオメルを見つめた。
「わたしのせいでこんなことになって、本当に申し訳なく思っています」
「いや、お前が謝る必要は……」
ないんだと言おうとして、エオメルは口つぐんだ。が人差し指を伸ばして彼の唇に当てたからだ。黙って聞いてほしいということだろう。
「わたしはあなたに両方あげたかった。良い王妃を選んだと皆に思われることも、立派な王子も両方、ね。だけど、時間切れ以外では、あなたはそのどちらかしか選べない」
何を言おうとしているのだろうと、エオメルはいぶかしんだ。あまり良いことではなさそうな気配がする。
「それなのに、こんなことを言うのは虫のいい願いなのだとわかっているけれど……でも、言わせて。どちらを選んでもいい。だけど三番目だけは選ばないで」
「なぜだ?」
それを選びたいと思っていたわけではない。しかし三番目の選択ならば、少なくとも
には不利益はあまりないはずだった。故郷に戻れば両親がいるのだし、いけ好かないが彼女の家系を守護しているというあいつだっている。父親のいない子を生むことにはなるが、早死にすることも、王子が生めないという気苦労をすることはなくなるはず。
「わたしはあなたと結婚した。そのことをナセが簡単に祝福するとは思っていなかった。だからといってこんな風に放任されるような形になるとも思ってはいなかったけれどね」
言いながら寂しげに苦笑する。
「だけど、あのひとに見捨てられたと思うのは間違いだと思ったの。だって、ナセがここに現れたとしても、やっぱりわたしは帰らないと言うしかないのだもの。わたしはマークで生きていきたいと思った。それならわたしとナセは決裂するしかないわ。ひどいと思う気持ちはまだあるけれど、先にナセにひどいことをしたのはわたしだもの、甘んじて受けます」
審判を待つ者のように、は片膝を曲げてうな垂れた。
「どうかわたしにチャンスをください。長く生きられなくてもいい、苦労することになっても構わない。あなたが選んだことなら、わたしは恨まないわ。ただ、やれることだけを精一杯やりたいんです」
エオメルは妃の肩を抱きながら、反射的にセオドレドを見やった。どうしたらよいのかわからないのだ。も二つの選択の先にあるものを理解している。だが、どちらも茨の道なのだ。エオメルはそのどちらも選びたくない。それなのに選ばなければならない。
すがったセオドレドからの助言はひどく簡単なものだった。
「難しく考えない方がいい。お前にとってより大事だと思うほうを選べばいいんだ」
「それはそうでしょうが」
そうなると迷う余地などない。今のエオメルにとっては厳しい運命を粛然として受け入れようとしている妃の方が、生まれてもいない、つまりはまだ特別愛してもいない息子よりは大事だった。
だが、十年経ったあとも自分は同じことを思えるだろうか。やはり王子を選べばよかったと後悔しないだろうか。
「セオドレド」
「何だ?」
問いかけを口にしようとしたところでエオメルは思いとどまった。あまりには聞かせたくない。
「すまないが、少しセオドレドと二人だけで話したい。席を外してくれ」
軍団長たちはいても構わなかったが、一人だけ遠ざけられたらはかえって不安になるだろう。そう考えて彼は三人ともに退席するよう命じた。エルケンブランドとエルフヘルムは王命にすっくと立ち上がり、去った。しかしは嫌だと首を振った。
「、頼む」
「ここにいます」
「お前のためを思って言っているんだ。余計な心配をかけたくない」
「それなら尚のことよ。自分のことなのに知らないことがあればかえって怖くなるもの。あなたがセオドレド様に何を聞きたいのかはわからないから、何を話されても絶対に平気だとは言えないけれど、でも、知っておきたいの」
頑固に言い募る妃に、エオメルはため息をつく。
力尽くで追い出すのはたやすいが、そうしても無意味だと悟ったのだ。エオメルは仕方なく彼女が留まることを許した。
彼はできる限りの顔を見ないように、セオドレドに訊ねる。
「は死んだあと、我らの父祖の元へ行けるのでしょうか」
意外な質問だったのだろう。セオドレドもも目を丸くする。ややあってセオドレドは苦虫を噛み潰すような顔になった。
「どうしてそんな問いをしたのかわからないでもないが、一応聞かせてくれ。返答如何によっては殴るからそのつもりでな」
急に剣呑になった従兄に、エオメルは驚いた。彼が不快に思うとは思ってもみなかったのだ。
「は第三の選択を選ばないでほしいといいました。どれを選んでも辛い思いをさせることになるのですから、できるだけ本人の意向を尊重したい。それはご理解いただけると思います」
「ああ」
「となると、他に私にできることは彼女の名誉を守ることくらいです。今のところ、マークでのの評価はとても高い。王妃としての彼女はこのままその評価を維持することもできるでしょう。しかし、世継の母になれないのであれば、どれほどそれ以外の働きが高くてもそれまでです。の価値は地に落ちる。民にとっては、という意味ですが」
「そう、なるでしょうね」
悲しげだがはっきりした口調でが言った。エオメルは悔しくて拳を握る。未来が予想できることがこれほど苦しいこととは思わなかった。知らなければ希望を持つこともできるが、決定されていることなら望みを持つことなどできない。悲劇的な結末が来るのをただ待つしかできないのだから。
「だが逆に、世継さえ生めれば彼女の名誉は守られます。若く美しいまま亡くなれば、人は彼女を惜しんで涙するでしょう。そして私も、父祖の地でセオドレドがいてくださると思えば辛さに耐えることもできます」
その時のことを思うだけで泣いてしまいそうだ。だが、若くして王妃を亡くした王はこれまでにもいたのだ。自分に耐えられないはずがない。
「呪いの連鎖は起こりません。その時には私は新たに妃を迎えるつもりはありませんから。セオドレド、は本当ならあなたの妃になるはずの娘でした。こんな形でお返しすることになるとは思いませんでしたが、きっとこうすることが一番――」
「やっぱり殴る」
言い放つとセオドレドは少しもためらわずに実行に移した。ふいをつかれたせいで全く身構えていなかったエオメルは、簡単に当たり負けをする。
思いがけず急だったため、壁にぶつかった背中の痛みも、腹にくらった打撃も感じられないほどだった。が慌てて駆け寄ってきたので、本当にセオドレドに殴られたのだとただぼんやりと思った。
セオドレドは憤懣やるかたないというように腕組みをすると、仁王立ちになった。
「いい加減に私を引き合いにだすのはやめろ。二年前までならばともかく、今のお前はマークの王なのだぞ。死者に頼るんじゃない。私はお前に、もう何もしてやれないんだ!」
「セ、オドレド……」
エオメルの呼びかけに、彼は顔を背ける。
「……すまん。ついかっとしてしまった。とにかくな、終わった後のことなど考えるんじゃない。どちらを選んでも、お前も
もいつかは来るんだ。例え彼女が思いがけなく早く来たとしても、私はただ弟の妻としてだけ扱うぞ。父祖の地は地上とは全然違うし、心持ちも同じでいるわけじゃない。……今は肉体があるから、何がどう違うのか、上手く説明することはできないのだが」
最後の方は確信のなさそうな弱い調子になった。セオドレドの灰色の目が揺れている。泣いてはいないが、ひどく悲しげだった。
「返すとか返さないとか、そんなことは問題にならないんだ。私は死んでいるのだよ。全ては終わったのだ。そりゃあな、のことだけではなく、色々なことにも未練がないわけじゃない。私だって未来を望んでいたのだから。早くに終わるかもしれないと思いながらも、本当に早く終わるなどとは思っていなかったのだからな」
セオドレドはしゃがんでエオメルと目線を合わせた。
「思い出せ。お前はお前でちゃんと王をやれていただろう? 皆の力を借りて一番良いと思うことを。それでいいんだ。死人のための王にはなるな。私がどう思うかなど、考えなくていい。ただ生きているもののために尽くせ」
彼はエオメルの隣に視線を移した。静かに涙を流しているに微笑みかける。
「手のかかる弟で、本当に大変だよ」
「仕方がありません。エオメルはあなたが大好きなんですから」
流れる涙をそのままに、も微笑む。
「わたしもそうです。今でも愛しています」
「知っているよ」
セオドレドが腕を伸ばしての頬に触れた。涙を拭う手に、彼女は目を閉じる。
「でも、今のわたしはあの頃の、あなたのためにだけ生きたいと思っていたわたしではないんです」
「ああ、わかっている」
穏やかに頷いたセオドレドはエオメルに手を差し出し立ち上がらせた。そして気合を入れるように背中を強く叩く。今度はしっかりと痛みを覚えた。反射的に顔が歪んだが、悪い気はしなかった。
「あなたにどつかれたのは久しぶりだ」
にやりと笑うと、セオドレドもふてぶてしい顔になる。が心配そうな表情になったが、たいしたことではないのだと彼は笑いかけた。
「兄弟なんてそんなものだ。血の気も多いし遠慮もないからな」
「まあ、そういう意味ではエオウィンも同じでしたが」
言うとセオドレドは噴出した。
「そういえば、まさかあの子がフーリン家に嫁ぐことになるとは思わなかったな。それも、性質の優しいファラミア公の方とは。勇猛さではボロミアが上、そういう意味では彼との方が気は合うんじゃないかとは思っていたがね」
「セオドレド、あの……」
亡き英雄の名を耳にしたエオメルは、切なさに胸がつまった。セオドレドとほとんど同時期に亡くなった彼とは、父祖の地で再会したのだろうか。それともゴンドールの人間とマークの人間は行き先が違うのだろうか。
「うん?」
セオドレドの目が見透かすように光った。エオメルは聞きたい衝動を堪えて、
「何でもありません」
と答えた。聞いても彼は答えないような気がしたし、今知らなくてもいいと思ったのだ。
(そうだ、どうせいつかはわかるのだから……)
エオメルは従兄の言ったことを思い返した。
それから妃を見やる。涙で洗われた目はいつも以上にきらきらとしていた。目の周りは赤く腫れていたが、吹っ切れたような清清しさを漂わせている。手は、支えるように腹部に当てられていた。その中にはこれから芽吹く命が宿っている。
「セオドレド、何と言われようと、やはり私にとってはあなたが最大の目標なのです」
従兄に目を転じると、彼はまだ言うかと唇をゆがめた。だが、目に怒りの色はない。
「私には至らないところがたくさんある。それを補うためにも皆に支えてもらわなければ。そしてその支えをしてくれる人びとの中に、がいてくれなくては困ります。なぜなら彼女こそエオメルという一人の男の良き理解者なのですから。国王のエオメルではなくて」
セオドレドは真顔になる。
エオメルは再びに向き直った。
「すまない。辛い思いをさせることになる。お前を名誉に包まれたままにしてやることはきっとできない」
妃は笑みを浮かべて頭を振った。その綺麗な眼差しはもう揺らいでいない。
「いいんです。未来のことなんて何一つ知らなくても、辛いことが起きる時は起きるんですから。わたしたちは先のことを少し知っただけ。それならば、起きることの覚悟をすればいい。このことについてだけはもう不意に襲われたりしないのだから、きっと耐えられるでしょう」
「すまん」
「謝らないで。よほどわたしの方がそうしたいのよ」
「いや、お前が謝る必要は……」
「だから、あなたも言わないで」
小さな音を立ててはエオメルに口付けた。彼は妃の身体をかき抱き、温かい肩に額を預けた。
妻の心音がエオメルを落ち着けてくれた。彼はを抱えたまま顔をあげる。
「セオドレド、私は王妃が私の傍らにいてくれることを望みます」
机に寄りかかっていた従兄は、わずかに顔を動かして窓の方を見やった。
「宣言し、それを私が確認してしまえば、取り消しが効かなくなる。日暮れまでにはまだ間があるが、本当にもう決めてしまってもいいのか?」
「これ以上悩むのは無意味です。もう充分悩みましたからね。こういうことは思い切りが肝心です。私は、この世に存在してもいない息子よりも、今ここにいる妃のほうが大事なのです」
きっぱりと彼は告げた。
「そうか……」
寄りかかっていた机から身を起こし、セオドレドはすっくと立った。
「では、決まりだ」
前へ 目次 次へ