「もっと背筋を伸ばせますか? あまり前かがみになると、万一落馬をしたときに受身が取れなくなります」
「は、はい」
エオメルの指示に、ロシリエルは反射的に背を伸ばした。途端に上半身が揺れてしまい、とっさに馬のたてがみをつかんでしまう。
「危ない!」
「きゃあっ!」
急激な動作に、馬は驚いて飛び跳ねた。慌ててエオメルは馬をなだめにかかる。
「大丈夫ですか、姫」
「は、はい……」
血の気の下がった顔でロシリエルは頷いた。しかし見ているこちらの方が心臓に悪いとエオメルは思った。
ロシリエルの乗馬訓練は、思った以上に難航した。彼女は自分が乗馬ができないのは、大きな馬が怖いからということと、背に乗ったときに高いからだと言っていた。
それが理由なら、今の状態ならば恐怖心を感じることなく、もっと上達しても良いはずである。なぜならエオメルの選んだ馬は、もともとそれほど大きくならない種類のもので、地面から背中までせいぜい四フィートしかないのである。頭の高さを含めてもせいぜい五フィート半。ロシリエルの身長よりも低いほどだ。
根本的な原因は、基礎体力がなさすぎることだろう。エオメルはそう結論づけた。彼女は婦人がよく行う横乗りをしている。これはエオメルたちのように長時間疾走する乗り方に比べれば、体力は消耗しないのものだ。しかしそれでもロシリエルにとってはずいぶん負担になっているらしく、適正な姿勢をとっていると、馬への指示ができなくなる。馬へ指示を出そうとすると、今度は危なっかしく身体がぐらついた。
大公国の姫君のなんとなよやかなこと、とローハンの女たちとの違いにエオメルはただ瞠目するばかりだ。
可憐できゃしゃで繊細な、宝石のような娘。こういう姫ならば、大事に館の奥に隠しておきたいと思うだろう。
(だが、馬に乗れないようでは、マークで生きてゆくのは正直厳しいな……)
マークはゴンドールほど洗練された国ではない。無骨で頑丈な、草原の民が住まう国だ。美しいだけではマークでは暮していけない。王として、またロヒアリムの一人として、エオメルは厳しくロシリエルを吟味する。
「少し休憩しましょうか?」
息を切らしている公女にエオメルは手を差し出す。しかしロシリエルは必死な様子で頭を振った。
「わたくしはまだ頑張れます。もっと厳しくしてくださいませ」
「……わかりました」
強くも言えないのでエオメルは引き下がった。とても大丈夫だという感じではないが、本人が言い張るのだから仕方があるまい。
返答までの空白をなんと思ったのか、ロシリエルは不安そうにエオメルをうかがった。
「あの、でも……エオメル様がお疲れでしたら……休みます。わたくしの強情にエオメル様を付き合わせるわけにはまいりませんもの」
途切れがちに告げる公女にエオメルは微笑んだ。
「いいえ、私は少しも疲れてはいませんよ。行軍を始めれば朝から日が沈むまでほとんど馬に乗り通しということもありますからね。草原に生きるものは体力だけは有り余るほどあるのですよ」
本当は少し疲れている。しかしそれは体力的なことではなく、精神的なことからくる疲労だった。この馬は性質は穏やかなようだが、なにしろマークの馬ではない。万が一公女に怪我でもさせたらと思うと、気が気ではなかった。
だがロシリエルは自分に気を使っているのかと迷っているようなので、エオメルは続けた。
「それに私は目的に向かって前向きに頑張る方は好きですよ。清清しくて見ていて快い。私のことは気になさらなくて結構。これでもあなたの数倍は体力があるのですから」
ロシリエルはほんのり頬を染めて小さく笑った。
彼女は見かけ以上に芯が強く、本当に頑張りやだった。優しいだけ、愛らしいだけの娘ではない。それに彼女が自分を好いているという妹たちからの情報は正しいらしいということもわかった。
だが、どうしてこれほどまでに自分の心は動かないのだろうとエオメルは自分のことながら不思議に思った。
自分さえ納得してしまえば、すぐにでも彼女と婚約できるのに。
我が事ながら理解できず、エオメルは内心で首をかしげるばかりだった。
乗馬の訓練が始まって五日目。今日も朝早くからロシリエルは馬に乗っていた。まだ危なっかしいところもあるが、初日に比べればずいぶん上達している。エオメルがいない時でもずっと乗り続けていたからだ。
今朝はまだエオメルは姿を見せていない。交易のことで幾人かと話をしなければならないということだった。そのため馬場には公女の警護としてアムロスの騎士たちが数人の他にはしか来ていなかった。
はロシリエルと馬を並べてゆっくりと歩く。だがブレードは時折白いたてがみの生えている首をあげて、に振り向いてきた。もっと早く走りたいらしい。はブレードをなだめるために、軽く首を叩く。そして後で思いっきり駆けさせてあげようと思いながら、ロシリエルの様子を窺った。彼女はしっかりと前を見ながら手綱を握っている。その表情にはわずかに余裕も見て取れた。
「もうそろそろ、大きな馬に乗る訓練をしても大丈夫そうですね」
ロシリエルはちらりと視線だけ動かして頷いた。まだ急な動作の変化には慣れていないのだ。
「そうしたいと思いますわ。だけどここにいる馬はどれも立派なので、わたくしを乗せてくれるかと心配で……」
「ブレードを試してみます? この子は軍馬ではないし、女の子だから、他の馬に比べれば御しやすいと思いますけど」
「よろしいんですの? 嬉しいわ。とても綺麗な馬だとずっと思っていたの」
ロシリエルが破顔すると、ブレードは頭を振った。途端にたてがみがさらさらと揺れる。
「やだ、この子ったら、褒められたものだから喜んでるわ」
が言うと、ロシリエルはくすくすと笑った。
「そうはいっても、わたしだけだと万が一興奮したときに抑えきれないと思うから、陛下が来るまで待った方がいいでしょうね」
「わかりました。……あら、どなたかいらっしゃたわ」
振り返ると、道の奥から蹄の軽快な音が聞こえてきた。しかし道は大きく曲がっており、木々に遮られてまだ姿は見えない。
「アムロソス様だわ」
鹿毛の馬にまたがって手を振ってきたのはロシリエルの三番目の兄だった。
「やあ二人とも、朝から頑張っているね」
「お兄様、お話はもう終わりましたの?」
馬場に入るとすぐに馬足を緩めてアムロソスは二人の娘たちに並んだ。
「ああ。でも商談が終わった後も父上がエオメル王を離さなくてね。まだ話し込んでいるから、私だけお先に失礼させていただいたんだよ。ああいう席はちょっと苦手なんだ」
「まあ……」
娘たちは顔を見合わせると、ぷっと吹き出した。
「そうそうロシリエル、ローハンから馬が二十一頭来ることになったんだよ」
「二十一頭? ずいぶん半端なんですね」
怪訝に思っては首をかしげる。アムロソスは意味深に笑った。
「二十頭はとびきりの軍馬を、あとの一頭はロシリエルの乗馬用に、今年生まれたばかりの仔馬をくださるのだそうだ」
「わたくしの馬ですの?」
驚いたロシリエルは大きく目を見開いて口に手を当てる。
「そうだよ。お前がよく世話をすれば、すぐに懐いてくれるだろうってさ」
「まあ、嬉しい……!」
感激で頬を染めるロシリエルを、は懐かしいものを見るように眺めた。自分の相棒であるブレードも、そういえばエオメルからもらったのだった。ブレードはもうすぐ二歳になる。自分がこの世界へ来てから過ぎた時間と同じ年月を一緒に過ごしたのだ。
「良かったですね、ロシリエル様」
なんとはなしに気分が沈みそうになるのを堪えて、はロシリエルに微笑みかけた。
「はい」
にっこりとロシリエルも笑う。これはもう結婚が決まったということでいいのだろうかとは思った。
「本当のことを言うと、軍馬はもう少しほしかったんですけどね。だけどローハンの馬をほしがっているのはアムロスだけではないから」
少女の思いには気付いていないようで、アムロソスは屈託なく話を変えた。
「ちなみに、対価には何を?」
しかしロシリエルのいる前で聞くわけにもいかないので、アムロソスに付き合う。
「真珠ですよ。大きいのと小さいのを合わせて百粒だそうです。それだけあれば真珠だけを連ねた首飾りだって作れますよ」
「アムロスでは真珠が取れるんですね」
「ええ、海からの贈り物ですよ。ただしたまにしか採れない貴重なものですが」
そういえば黄金館の宝物庫には宝飾品も多数あったが、真珠を使ったものは見たことがないように思える。その真珠を使った品は、きっとエドラスの装飾職人に制作の注文がいくことだろう。戦争直後とあって、煌びやかな品を頼む者も減っているようだし、彼にとっては幸いだ。
それに、とは確信にも似たものを感じた。その真珠でできた装飾品を身につけるのは、マークの王妃だ。
そっとはドレスの胸元に手を当てた。セオドレドからもらった指輪の硬い感触を手の平に感じる。
(これを引き継ぐのは、ロシリエル様……?)
帰国までに正式にエオメルとロシリエルが婚約したならば、自分はこれを彼女に渡そう。
そう決意した。
午後になってようやくエオメルはエルフィア、エルヒリオンと連れ立ってやってきた。たちは館に戻らず、持ってきていた昼食をピクニック気分で食べていたところだった。
急に動くのはよくないと、腹ごなしが済むまでエオメルたちも敷物の上に座り込む。
「あの、エオメル様……」
潤んだ瞳でロシリエルはエオメルを見上げた。
「兄から聞きました。わたくしに仔馬をくださるのだと……。ありがとうございます」
エオメルは虚をつかれたようで、一拍置いてから照れたように頭をかいた。
「いや、もうご存知でしたか。私の方から告げようと思っていたのですが」
「それは申し訳ないことをしました。先走ってしまったのですね」
アムロソスは恐縮した。
「いえ、構いませんよ。姫に喜んでいただければそれでよいのですから」
「嬉しいですわ、とても」
ふんわりとロシリエルは微笑んだ。
(幸せそうだな)
二人のやりとりに、ふとはそう思った。優しい雰囲気、甘やかに流れる時間。自分にもそんな時があったのだ。遠い昔のことのようにも思えるが、失ってからまだ一年も経っていない。
今を楽しむ人々を、羨ましいと思わなくもなかった。だが、恋は一人で始められるものではない。の中ではセオドレドは少しも損なわれていなかった。そんな彼を押しのけて自分の心の中に侵入できるものがいるとは思えない。自分にできるのは空しい心を抱いたまま、迎えが来るまで待ち続けるだけだ、ずっと、一人で。
胸中の暗い思いを振り払うように、は一度強く目を閉じた。そして再び開けると丁度目が合ったエルヒリオンに、声には出さずに問いかけた。つまり、エオメルからロシリエルへと視線を移して、小さく指で丸を作ったのだ。
婚約が決まったのか、という意味だ。
エルヒリオンは理解したというように、片目をつぶった。だが答えは小さく首を振るというもの。まだ決定していないということだろう。
はやれやれとため息をついた。エオメルも放っておくと、セオドレドのように四十まで独身でいかねない。せっかくの機会を逃すわけにはいかなかった。どこかでもう一押しする必要があるだろう。
再び訓練をしようという頃になって、ファラミアとエオウィンもやってきた。彼らは徒歩で腕を組んでいる。
はエオウィンに向かって手を振りながら、ブレードの手綱を持ってエオメルの方に向かった。ロシリエルを大きな馬に慣れさせることに、エオメルも賛成したからだ。
「では、鐙に足をかけて……。そう、怖がらなくて大丈夫だ」
エオメルがロシリエルを支えながら、彼女をブレードの背に乗せる。は愛馬が勝手に歩き出さないように、手綱を握って首を押さえていた。
「よし、手綱を貸してくれ、」
ロシリエルが鞍に乗ったのを確認して、エオメルは手を差し出した。はその手に手綱を渡す。
「もう離れても大丈夫?」
「ああ」
エオメルは頷いた。
それならと歩き出した瞬間、風を切るような低い音がしたように思えて、は何気なく音のする方に向けて顔を動かした。
途端、強い衝撃を感じてよろめく。何が起きたのかわからないまま、はエオメルに倒れ掛かった。
「……。……!?」
振り返ったエオメルが息を飲む音が聞こえたような気がした。
「様!」
「いやぁっ!」
を呼ぶ複数の声と共に、女性たちの悲鳴があがる。興奮したブレードのいななきがそれに加わった。
「賊だ! 捕らえよ! エオウィン、館に戻れ!」
ファラミアの声が馬場全体に響く。剣呑な雰囲気が一気に膨れ上がった。
(ぞ……く……?)
警備の騎士たちがイシリアン公の命令を果たすために一斉に動き出すのを、他人事のように思いながら、は衝撃を感じた部分―背中をよく見ようと身体をひねった。
左肩の下に黒っぽい細い棒が生えていた。視線をあげると、先にはまだら模様の羽が括りつけてある。
矢だ。
そう理解したものの、自分の身に起きたことが信じられなかった。
「、、おい、しっかりしろ」
エオメルがの胴を抱く。ズキン、と痛みが走った。広がり、激しくなる痛みと目の前の男の焦燥に歪んだ顔にようやく自分が射られたのだと理解する。
どこかに敵が潜んでいたのだ。
「あ……あう……」
現状を認識できた途端、背中が熱くて立っていられなくなった。は呻き声をあげながら、その場にへたり込む。頭をぶつけないようにエオメルが一緒にしゃがんだ。
「エオメル王、すぐに彼女を館へ運んでください! 敵がオークでも東夷でも、毒矢を使っている可能性がある!」
エルフィアが叫ぶ。エオメルは弾かれたように顔をあげた。膝をついたまま鋭い口笛を鳴らす。と、火の足が瞬く間に駆けつけてきた。
「どく……?」
腕で身体を支えようとするが、力が入らない。これも毒のせいだろうか。では、自分は死ぬのだろうか。本来の故郷からも、ようやく馴染んだローハンからも離れた場所で。
エオメルがを抱え挙げると、身が切り裂かれるような痛みが走った。しかし彼女の口から悲鳴があがることはなかった。痛みがひどすぎて、声をあげることもままならないのだ。あえぐように、口からわずかばかりの空気を吐き出す。
「……。お前は絶対に死なせぬからな」
激しい怒りと嘆きに満ちた声でエオメルはをかき抱く。
「やめ……て……。たい……」
痛い。痛い。痛い! もうそれだけしか考えられなかった。
「エオメル王、このたびの不手際、幾重にもお詫びいたします。ですが、今は暗殺犯を捕らえるのが先決!」
駆け寄ってきたファラミアが叫んだ。エオメルは唇を噛んだまま頷く。
「我らに仇なす敵がいるぞ! 女たちは館へ戻らせろ! 男たちは武器を持て! 我が白の部隊よ、出合え、出合え! 敵を逃がすなよ!」
の記憶は、そうファラミアが大音声で命じたところでぷつりと途絶えた。
エオメルは館へ向けて火の足を全力で駆けさせていた。早く、一瞬でも早くという思いだけが頭の中を駆け巡っている。
視線を落とすと、少女の淡い色の胴着に赤黒い染みが広がっていた。心なしか体温も下がったように感じる。出血のせいか毒のせいか、判断はつかなかった。
東夷の毒矢はエオメルも知っていた。本当にそれが使われているとしたら、この小さな身体ではすでに回ってしまったのかもしれない。エオメルは唇を強くかみ締めた。そうでもしていないと、心臓が口から飛び出てしまうような気がしたのだ。
(死ぬな、死ぬな、死ぬな!)
腕の中の娘は、気を失ってぴくりともしない。それがひどく恐ろしかった。
「エオメル王!」
「王よ、こちらへ!」
館に到着すると、すでに異常を伝える合図が届いており、近衛兵や侍従たちが集まっていた。矢の刺さった娘を見て、凶事の原因を悟った彼らはエオメルを奥へと案内する。
「東夷の毒が塗られているかもしれない。薬はあるか?」
手近な寝室へエオメルを先導していた侍従は、悲しげに首を振った。
「毒に効く薬草はいくつかございます。ですが、毒の種類がわからないようでは、手の施しようがございませぬ。薬草とはいえ、幾種類も投与したばあい、身体に害を与える反応がでてくることもあるのです」
「では、このまま黙って見ていろと言うのか!」
獅子の咆哮の如き怒声に、侍従は身を竦める。
エオメルは寝室の扉が開くのももどかしく、突進するように中へ入った。少女の身体を寝台に横たえる。血の染みはすでに胴着全体を濡らすほどになっていた。
「まず毒が使われているかどうか、確認するんだ。それくらいならばそなたたちにもできよう。傷の方は私がなんとかする、よいな」
できないと言われる前に、激しい眼光で侍従を黙らす。侍従は草原の王の迫力に何度も頷き、薬瓶をあるだけ持ってきますと言って立ち去っていった。
エオメルは腰のナイフを取り出して肌着ごと胴着を切り取った。矢は左の肩甲骨よりやや下に刺さっている。やじりの根元は見えない。ということは、肋骨も折れている可能性もあった。毒がなかったとしても臓器に傷がつけば、そこから化膿して死ぬこともありえる。手足とは違って、胴体は切断という方法が仕えないのだ。それがこの傷のやっかいなところだった。
エオメルは部屋を見渡した。冷静なのか焦っているのか、自分でもわからない。ただ、何もかもがゆっくりに感じる。
めぼしいものが見つからないと、エオメルはナイフの鞘――革製だ――を少女の歯に当たるように押し込んだ。それでも彼女は目覚めない。
蝋燭に火を付け、ナイフを炎であぶる。
エオメルは小さく息を吐く。これから彼女を襲う痛みはこれまでの比ではない。東夷のものに限らず、やじりは抜けにくい形状になっているものだ。このまま力をこめて引っ張っても、肉が抉れてしまう。そうしないためには、切り開くしかない。
「そこのお前たち、が暴れないように押さえていてくれ」
心配そうな顔の召使いが近付いて、少女の足や腕、胴体に手をかけた。
「……。すまん」
エオメルはナイフを少女の肌に突き刺した。途端、くぐもった声をあげて少女はのけぞった。
「そのまま押さえろ!」
暴れる少女を、召使いたちは懸命に押さえ込もうとする。それでも無我夢中で苦痛から逃れようとするので、少女の身体は時折ひどくねじれた。ために苦痛が増し、ますます激しく暴れる。エオメルはが舌をかまないように口に手を当てて、ナイフを動かす。柔らかな肉を切り裂く感触とともに鮮血が流れ、肌もナイフも赤く染まった。
「……ん……ぐ……んんっ!」
苦しげに呻く少女にすまなく思いながらも、エオメルはさらに切り進む。小指の長さほど切開すると、ゆっくりと矢を引き抜いた。やはり、とエオメルは思った。やじりの形はエオメルにも見覚えのあるものだった。先の戦争で幾本も使われていた。
(毒が使われていたとしても、血と一緒に少しは抜けただろうか……)
だが射られてからもう十分以上過ぎている。楽観するのは厳しいだろう。
(第二の攻撃の心配さえなかったら、あの場ですぐ取り出していたものを)
しかし悔やんでも遅い。あの場で抜かないと判断したのは、エオメル自身だった。
だが、それが最善の行動だと言い切る自信はない。彼はの背に不吉な形の矢を認めた瞬間、頭が真っ白になってしまったからだ。もしかしたら敵はもう全て逃げ出しており、まったく安全だったのかもしれない。
後の手当ては侍女に任せ、エオメルは寝台から離れた。
消毒の効果がある薬草を煎じた液体で傷を清め、止血をし、包帯が巻かれる。
「エオメル王、これを……」
侍女がナイフの鞘を恭しく返しに来たので、無言のまま受け取った。
よほど強く噛んだのだろう。鞘には歯型が残っていた。ひどく痛かったことだろう。代わってやることができたら、どんなにいいか。泣きたい思いでエオメルは鞘に口付けた。
半泣きになったエオウィンとロシリエルがアムロスの兄弟たちに付き添われて寝室へやってきたのは、それからすぐのことだった。賊は白の部隊が捜索中だとエルフィアが硬い表情で告げる。エオメルはただ頷いた。
「……具合はどう?」
「様……」
二人の姫君は寝台の傍らに膝をつき、痛々しい様子の娘の手を取った。手当てが終わったので、侍女たちは少し離れたところで待機している。エオメルの位置からもが横たわっている姿がよく見えた。
包帯を巻くために上半身は裸にされている。とはいえ、うつぶせになっている上に男の目を気にしたらしい侍女が傷に障らないようにショールをかけているので、まろやかな肩の線がわかるほどしか肌は露出していない。
汗ばんだ額に、青ざめた頬。目は開いているが焦点が合っていない。肩は浅く上下している。痛みが激しくて気絶することもできないのだろう。
エオウィンは涙を浮かべながら兄を見上げる。
「毒が使われているというのは本当? もう解毒したんですの?」
その言葉に呼応するかのように、は血を吐いた。細い指がシーツをきつく握りしめる。懸念していた心配事が現実のものとなってしまった。エオメルは自分の頭から血の気が引く音が聞こえたように思えた。
冷たい絶望が寝室に満ちる。
「種類が特定できない以上、どうすることもできないのだそうだ。東夷の毒は種類が多い」
薬瓶を幾つも盆に載せた侍従を、エオメルはちらりと見やる。
「まだ特定ができないのか?」
「申しわけございません。今のところはまだ……」
「一番強い毒が使われている場合、次にはどんな症状が出る?」
表情こそ怒っていないものの、押さえようにも押さえきれない激情が草原の王を支配していることは誰の目にも明らかだった。侍従は真っ青になりながら、震えた声で答える。
「い、一番強い毒が使われていた場合は……半刻ほどで呼吸が止まります」
「そうなってからでは遅いだろう!」
部屋が振動するほどの大声に、以外の人間は身をすくめた。
半刻などもう目の前だった。
「だったら、その強い毒に対する薬だけでも飲ませてみては?」
再びエオウィンが口を開く。
「もしも違った場合、次の薬を飲ませるまで時間をおかねばなりません。そうしている間に手遅れになってしまうやも……。それでもよろしいというのであれば飲ませてみますが」
侍従は力なく答えた。
難しい選択を前に、寝室は静まり返る。小刻みに繰り返されるの呼吸音だけが耳についた。
決断が下せないまま、時間が過ぎ去った。問題の半刻は過ぎたが、予断は許せない状況だ。
暗い気持ちのまま頭を抱えていると、全力疾走をしているような足音が聞こえてきた。ノックもせずに飛び込んで来たのは、白の部隊隊長だと紹介された男だった。
「ベレゴンド!」
救いの手が届いたような思いでエオメルは叫んだ。
「暗殺犯を捕らえました! やはり毒が使われていたのです。早く薬草を用意しませんと……!」
「すでにここに用意してあります」
実直そうな男の前に、侍従は盆を差し出した。ベレゴンドは毒の種類を告げると、すぐに侍従は必要な瓶を渡す。
「水で三倍に薄めてください」
侍従が言うと、侍女はすぐさま水差しと杯を差し出した。
エオメルはそれらを奪うように取り、瓶を渡せと手を出した。迫力に押され、ベレゴンドは目を白黒させながらそれを渡す。
エオメルが用意している間に、侍女たちがをひっくり返した。
「あ……」
ロシリエルの声に顔をあげると、仰向けにしたせいでショールがはだけ、若い女の肢体が露わになった。傷に体重がかかったせいか、優しいふくらみと淡く色づいている頂が痙攣するように震える。
ベレゴンドや侍従たちは慌てて後ろを向いた。
焦るロシリエルたちをよそに、エオメルは用意のできた杯を持って、の枕元に行く。
「飲んでくれ」
肩の下に腕をいれ、上半身を起こす。唇に杯を当てて傾けた。少し口に入ったかと思うと、はむせて吐き出してしまった。
「、頼む飲んでくれ」
再び口に当てるも、やはりこぼすだけだった。埒が明かないと悟ったエオメルは薬を自分で含み、口移しで飲ませた。少女の喉は観念したように液体を飲み込む。からっぽになったエオメルの口内は、苦味の強い液体によって舌がごわついていた。
それからまた半刻ほど経ってようやく、ファラミアが戻ってきた。血と薬草の匂いに満たされた寝室に一歩踏み入れた途端、イシリアン公の柔和な顔立ちが厳しく引き締まる。
「実行犯を捕らえました。首謀者は一名、その者を補助するために他にも数名がこの近辺に潜んでいるとのこと。彼らについては、現在白の部隊が追跡しています」
「狙われていたのは、私だろう?」
無念の篭った声でエオメルは訊ねた。エオウィンとロシリエルがびくりとして青ざめる。
「あの時は私のすぐ隣にいた。そしてブレードが動き出すのを邪魔しないようにと歩き出したところだった。そうでなければ、矢が刺さっていたのは私だったはず。私の代わりに彼女が……」
「その答えは『はい』であり『いいえ』です、エオメル王」
ファラミアの答えに、エオメルは眉をひそめた。
「賊はあの場にいたものなら誰でも良かったと答えました。誰が傷つき倒れようと、その場にいたものならばゴンドールかローハンの要人だからだと。とはいえ、一番の狙いが貴公であったことも確か。若く背の高い金髪の騎士がマーク王その人であるということは、東夷にも広く知れ渡っていることですから」
言いながらファラミアは目を伏せた。
「……」
再びイシリアン公はエオメルを見据え、報告を続ける。
「すでに予想はついていらっしゃるかもしれませんが、この事件はただの暗殺未遂事件ではありません。東夷の残党が集まってきています。敗戦の汚辱を漱げずとも、せめて一矢なりとも報わんとして。暗殺犯は偵察として派遣されてきたのです。だが、手柄を焦った……」
「手柄だと?」
エオメルの眉がぴくりと動いた。
「エオメル王、怒りは後にとっておいてください。東夷はここから南へ一日の距離に結集しているとのこと。そして人数は千五百ほど。町を守るために白の部隊は半分しか連れていけませんが、滞在している方々の随員を加えれば、充分勝てる数でしょう。マーク王エオメル殿、お力を貸していただけませんか?」
「つまり、残党狩りか」
厳しい顔つきでエオメルは答えた。
「そうです」
ファラミアは力強く頷く。
「もちろんだ。東夷どもめ、存分に蹴散らしてくれよう」
エオメルは高らかに宣言した。
またヒロインを痛い目に合わせてしまった…。
ところで、前回あとがきで書いたブラックファラミアは、ちょっと本編に加えるにはアレな感じになってしまったので、入れられませんでした。
かといって、番外編として番外編部屋にいれておくのもちょっと…。でも公開しないのは惜しい…。
ということで、この別ページを設けて載せることにしました。
ですが、物理的にも精神的にも結構キッツイ出来となってしまいましたので、グロ耐性、狂気耐性などがない方は読まない方が良いかと。いや、マジで。
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