届けよう、あなたへ。
 雪のような白い花を。


 思っていたより大荷物だったので、エオメルは一瞬顔をしかめた。
 アイゼン浅瀬へ向けて出発する日の朝、はエオメルに門の外に出たいと申し出てきたのだ。理由はセオドレドに捧げるためのシンベルミネを摘みたいというものだった。
 シンベルミネは死者の眠る場所に生える花だ。季節を問わず咲き続けるため、寒さの厳しい今の時期でも見ることができる。
 だが浅瀬へ到着するまでには三日はかかる。危急存亡の時というわけではないので、必死で馬を駆けさせるつもりはないからだ。
 花には詳しくないエオメルでも、それだけ日数が経てば萎れてしまうだろうということは容易に想像がついた。包みに水を含ませても、散らずに済むかは賭けに近い。
 それでもの気持ちは自分にも理解できた。セオデンやその先祖たちと同様に、白い花の下で眠りにつくはずだったセオドレドは、水底へ沈むこともある不毛の地に横たわっているのだ。それではあまりにも彼が哀れではないか。
 それでエオメルは特に止めることもせずに、了承を出した。ユルゼがつきそっていたが、念のために護衛もつけてやる。すぐ近くとはいえ門から出るのだ。わずかな危険も見逃してはいけない。
 そうして小一時間ほど経ってから戻ってきたは、大きな袋を抱えて戻ってきたのだった。
「一体どれだけ花を持ってゆくつもりなのだ?」
 さすがに呆れてしまい、腰に手を当てて仁王立ちになる。
「だって、切花だと浅瀬に着いた頃には萎れてしまいそうなんですもの」
 唇を尖らせては言い返した。
「だからって、袋一杯に持ってゆくこともなかろう。お前、父祖の塚を丸坊主にしてしまったのか?」
「そんなわけないでしょう!」
 寒さで赤くなっていた頬が、今度は憤慨で真っ赤になる。は袋の口を開けてエオメルに見せた。
「なんだ、これは?」
 袋の一番上には束ねてあるシンベルミネが一つ。茎の丈はせいぜい片手を広げたほどしかないので、小ぶりな印象のある花束だった。
 その下には荒く織られた麻布で包まれたものが三つ。天辺からは後れ毛のように細い茎が数本、顔を覗かせていた。
「シンベルミネを移植するの。うまく根付いてくれれば、いつでも新しい花が咲いてくれるわ」
「そんなことができるのか?」
 シンベルミネを植え替えるなどと考えたこともなかったエオメルは思わず聞き返した。あの花はエオメルの記憶にある限り、いつでも咲いていて、いつの間にか増えているものなのだ。
 は自信なさそうに頭を振る。
「わからないわ。なにしろ浅瀬ですもの、根付く前に流されてしまうかもしれない。だけど、やってみなければ結果はわからないでしょう」
 土をいじった時に使ったのだろう、汚れた手袋や麻布の切れ端を持ったままのユルゼが言い添える。
「シンベルミネは基本的に丈夫な花ですから、根付くまでに浅瀬が水の下に沈まなければ案外大丈夫ではないかと思いますの」
 ふむ、と顎をさすりながらエオメルは首を傾げた。
「なら、尚のこと、今ではないほうがいいのではないか?」
 浅瀬の流れが最も激しくなるのは、なんといっても雪解けの時期だ。そう思って聞き返す。するとは拗ねたように頬を膨らませた。
「それなら、暖かい時期になってからもう一度、わたしを浅瀬に行かせてくださるのですか?」
「それは……確約できない」
 春が来ればエオメルも忙しくなる。自分がいない間のエドラスには民の心の支えとなる人物が必要だった。その意味でははうってつけなのだ。自分でも理解しているのか、彼女は困ったものだと肩をすくめただけで、それ以上強く言うことはなかった。




 この道を辿るのも一年ぶりだ。
 はブレードを駆けさせながらぼんやりとそんなことを考えていた。自分の記憶の中では、この地はいつも生気に乏しかった。だがそれは思い返してみれば、春の浅い時期にしか通ったことがないせいだろう。夏ならばここも、エドラスから見渡せる平原のように緑に縁取られた道であったに違いない。
 二晩の野営を経て、とエオメルは浅瀬へ向かっていた。花束はすでにぐったりとしている。三日目の昼前になると、王の一団を見つけた見張りたちが馬を駆けさせて来た。彼らと合流してさらに進んだ。
「ここへ来るのも久しぶりだな」
 エオメルが誰にともなく呟く。は手綱を強く握りしめた。急に緊張が押し寄せてきたのだ。そこにいるのは生きているセオドレドではないとわかっていても、会いたかった相手に会えるのだ、感情が嫌でも高まってしまう。
 徐々に蹄の音に混じって水の音が聞こえるようになった。前を駆ける馬と乗り手の間から、アイゼン川の土手が見えてくる。
 先頭を走っていたエオメルが、小高くなった土手で馬足を止めた。どうしてこんなところでと思いながらも、もブレードに止めるように指示する。
、来てくれ」
 振り返ったエオメルが手招く。はっとして唾を飲み込み、は人馬の間を縫ってブレードを歩かせた。
「見ろ」
 が隣に行くと、エオメルが川に向かって指を指した。
「あ……」
 は目を見開いた。両側を流れる川の水から逃れるように、そこだけ小高くなっている中州の小島は、記憶の通り塚があった。しかし天を向いている槍はいささか輝きが鈍っており、塚自体も雨などで土が流されたのか、少し平たくなったように思えた。
 しかしそれよりも大きな変化は、ここにも白い花が咲いていたことだ。
 シンベルミネ、忘れじ草が。
「いつから咲いていたのだ?」
 エオメルが見張りを呼んで問う。見張りの男はしばし考えると、
「秋ごろから、ぽつりぽつりと見かけるようになりました。風か鳥が種を運んできたのだろうと思っておりましたが……」
「そうか……」
 エオメルが感慨深そうに息を吐く。はまだ言葉を発することができなかった。
 王や少女がなぜこれほど驚いているのかわからないようで、男は不思議そうに眉を寄せる。エオメルはふっと笑みを浮かべた。
「ここは戦いの記憶ばかりが残る地で、美しいものは近付くことができないのだと思っていたが……そうではなかったのだな」
 見張りの男は合点が言った様子で微笑む。
「大地は知っているのでございましょう。ここにもエオルの勇士が眠っていることを」
 水深の浅い場所を探して、一団は小島へと渡った。馬から下りた男たちの顔はどれも神妙になっている。中には唇をかみ締めて震えている者もいた。同胞に対する敬愛や無念を思っているだけではないのかもしれない。エオメルのように血の繋がった身内がここで倒れた者だっているのだろう。
「ほら、行くぞ」
 ブレードから降りたものの、いつまでも動かないにエオメルが手を差し出した。
「うん……」
 我に返ったは、馬の背から荷物を降ろした。袋の口を開けると、花束は半分以上が萎れていた。振動も良くなかったのか、無事な花でもはなびらがずいぶん散ってしまっている。
「やっぱり、持たなかったね。これも必要なかったし」
 袋の底にある苗をがっかりしながら見ていると、一緒に袋を覗き込んでいたエオメルが肩を叩いた。
「せっかく持ってきたんだ、供えてやれ。それに、お前がくれるものなら、なんであろうとセオドレドは喜ぶだろうしな」
 冗談めかした物言いだが、表情は柔らかかった。
 二人はそろってセオドレドの塚の前に立つ。小石交じりの土の間から、清涼な白さの花が顔を出している。細い茎と柔らかな緑色の葉っぱが色彩の少なさを補っていた。
「お久しぶり、セオドレド」
 みずぼらしい花束を両手にもって、はまっすぐに塚を見つめた。墓標として刺さっている剣は風雨にさらされて、一年のうちにすっかり古びてしまっている。ここが記憶の中にしか残らなくなるのも、そう遠いことではないように思えて切なくなった。
「一年ぶりね……ずっと会いに来れなくてごめんなさい」
 答えがあるなど思っていない。しかし心の中で語りかけるだけでは足りなかった。ゆっくりと膝を折り、剣の根元に花束を置く。川面を吹く湿った風が、花びらを揺らしていった。
 隣にいるエオメルが塚に向かって敬礼をした。
「お久しぶりです、従兄上。あれから一年とは……時の流れは早いものですね」
 見上げると、彼は目を伏せて唇を噛んでいた。まつげの間が濡れているように見えるのは、光の加減のせいではあるまい。
 エオメルもも、じっとしていた。話しかけたいことがたくさんあるはずなのに、こうして塚の前にいると、何を言えばよいのかわからなくなる。
「こうしていても仕方がない。苗を植えないか?」
 エオメルもしゃがみこみ、の顔を覗きこむ。は頷いて袋の口を開けた。
 中から小さなスコップと苗を一つ取り出す。これには毎日水を与えていたのだが、さすがに元気がない様子だった。
 ざくざくと砂利混じりの砂を掘ってゆく。掘れた穴に粗布を外した苗を置いた。土を被せて軽く押さえている間に、エオメルがもう一つの苗を取り出す。
「あ、待って。ここは一つでいいの」
「ならどうして三つも持ってきたんだ?」
 解せない様子でエオメルは首を傾げる。
「もう一つはあちらに植えるの」
 は後ろを振り返り、多くの騎士たちが眠っている塚を指す。彼らから離れてたむろしていたエオレドたちは二人の動向を見守っていた。
「あ、ああ……そうか。彼らの分も持ってきてくれたのか」
「もちろんよ。だって、彼らも命をかけてこの国を守ってくれたのだもの。セオドレドだけ讃えるなんて、不公平だわ」
「なら、残りの一つはどこへ……?」
「角笛城よ。帰りに寄るっておっしゃっていたから」
「なるほどな」
 エオメルはの頭をなでようと手をあげたが、それが土で汚れていることに気付いて引っ込めた。
「じゃ、行くか」
 たちが大きい方の塚へ移動すると、そのあたりにいた騎士たちが場所を空けてくれた。
 こちらの塚は土の盛りが多い分だけ、シンベルミネの数も多い。
「ちゃんと根付いてくれるといいんだけど。というより、今生えているのに負けなければいいのだけど、かしら」
「しかしシンベルミネが丈夫だということは納得がいったな。こんなに砂利が多いのに、しっかり増えているのだから」
 土を掘り、苗を置いて、再び土を被せる。
 作業が終わると、はその場で祈りを捧げた。自然と全員が頭を垂れる。黙祷は長く続いた。
「では、戻るか……。その前に遣り残していたことがあるから、皆は先に土手に行っていてくれ」
 立ち上がったエオメルは、馬に戻るよう指示をする。
「遣り残したこと?」
「ああ、お前も付き合ってくれるか?」
「構いませんけど……」
 なんだろうかとは不安になった。エオメルの顔が痛みを堪えているように強張っていたからだ。
 エオメルが先に立って歩き、がすぐ後を追いかける。馬たちが水を掻き分ける音が背後でにぎやかに響いていた。
 セオドレドの塚の前でエオメルは立ち止まった。隣に並ぶよう目で合図してきたので、はその通りにする。
「あの……?」
 エオメルを見上げると、彼は悲しげな笑みを浮かべて見下ろしてきた。数回、神経質そうに瞬きをして、彼は塚に向き直る。
「セオドレド――」
 呼びかけた声は絞り出したようで、聞いていてひどくやるせなかった。
「私は、あなたにたくさんのことを教えてもらいました。馬を早く駆けさせる方法も、剣や槍の使い方も、野外での過ごし方も……王家の者としての心得も」
 ぐっと拳を握る。
「それらはいずれ、王となったあなたを支える力になるのだと思っていたんです。ですが、もう私の望みは適わない。従兄上のいないマークで、従兄上が引き継ぐはずだったものを私が受け継がなければならなくなったのですから」
 エオメルはゆるゆると頭を振った。
「この地位は私には重すぎます。私は従兄上のように、王となる覚悟などしていなかったのですから。戦うことしか知らず、戦うことしか考えていなかった。それで良いのだと思っていたのです。難しいことはすべて、セオデン伯父上が、その次にはセオドレドが決めてくださるのだろうと……」
 胸の内を吐き出すエオメルは、針の上を歩いているように顔をしかめていた。この告白はどこへ行き着くのかとははらはらしながら聞く。
「皆にもよく支えてもらっているとは思っていますが、それでも従兄上が王となっていたマークよりも、今のマークは劣っているのでしょう。ですが、泣き言を言いたいのではありません。戻るはずのないあなたに、戻ってきてくれと頼みたいわけではないのです」
 エオメルはぐっと歯をかみ締めた。なにをそれほど伝えたいのだろう、顔色は蒼白になっている。
「従兄上が残した大切なものを、すべて奪おうとしている私を許してください。私はを妻に欲しいのです」
「なっ…!」
 あまりの爆弾発言に、は目を丸くした。エオメルは素早く腕を伸ばして、痛いほどの腕を掴む。
「呆れたか? さんざん従兄上との仲を煽っておいて、従兄上が亡くなった今になって後釜を狙っているのだからな。ああ、従兄上もきっと私を恨むことだろう! だが、止められないんだ」
「気でも違ったの!? どうしてセオドレドの前で言うのよ、信じられない。離して!」
 エオメルから遠ざかろうとはもがいた。だが彼の手は万力のようにがっちり食い込んで少しも動かない。
「馬鹿は重々承知だ。だが私にはこそ泥のように盗み取るなどできんのだ!」
「いい加減にしてよ。あなたの自己満足の犠牲になる気なんてわたしにはないわ!」
 この男は本当に自分を宝物倉の中にしまいこむつもりなのだ。本気で腹が立ったので、はエオメルを睨みつける。
 どうしても離さないようなら、向こう脛を蹴っ飛ばしてやるつもりだった。しかし、
「それならどれだけ良かったか!」
 吐き捨てるようなエオメルの叫びに、呆気にとられた。
「……は?」
「私だってそう思っていたんだ。お前を愛しく大事に思うのは、セオドレドの形見だからだとな。だがそれはお前を束縛するだけで、お前のためになるわけではない。だから、今後は私の身内の一人として接しようと思っていた。そして結婚はちゃんと別の姫としようとも思った」
 まくし立てる男の姿に、は顔をひきつらせる。嫌な予感がした。
「だがな、お前が賊に襲われた時、私は自分の気持ちをようやく理解したんだ。私はただ、セオドレドに対して申し訳なくて、自分の気持ちから目をそらしていたんだとな! 王位も財産も私が受け継いでしまったのだぞ!? その上お前まで彼から奪うなんて……!」
「奪うとか言わないでよ。わたしは物じゃないんですからね!」
 が叫ぶと、さすがにばつが悪そうな顔になった。だが知ったことかとそっぽを向く。しかしこれで全てのつじつまがはっきりした。
「ロシリエル様って、本当に出来た方だったのね……」
 ふいに出てきた見合い相手の名前に、エオメルはびくりとする。手の力が弱まったので、その隙にさっと離れた。
「つまり、ロシリエル様が一番恨みたい相手はわたしだったのよね。なのに、こっちは死にかけたものだから、文句の一つも言わなかった。ううん、匂わせもしなかった」
「いや、確かに彼女は出来た女性だとは思うが、別にお前を恨んでなど……」
「甘い!」
 ひるむ男をはぴしゃりと遮った。
「男の人はどうだかしらないけど、女はね、振り向いてくれない男性本人よりも、その人の心を捉えている女の方に敵意を燃やすものなの」
「つまり、ロシリエル殿に焼きもちを焼いたのか?」
 微妙に嬉しそうな顔をするエオメルに、は眩暈がした。
「どこをどうすればそういう結論になるの」
 ある意味、幸せな精神構造をしているのだなと、呆れるのを通り越してむしろ感心してしまった。
「わたしが好きなのはセオドレド! あなたの方が付き合いが長いんだから、彼が昔付き合っていた女性は一人や二人じゃないって、知ってるでしょうに」
「ああ。だが、別に彼は二股もかけていないし浮気もしていないぞ。昔の恋人たちも、今は全員結婚したんじゃなかったかな。なにしろセオドレドはなかなか身を固めないものだから、誰もが最後にはついていけないと、こう、な……」
 従兄の過去の行為をかばうエオメルに、は頬を膨らませた。
「それは知っています。だからって、自分の前の女のことなんて、知りたいとは思いませんよ。知ったら腹が立つだけだってわかっているもの。それにセオドレドの場合、綺麗に決着がついているから、文句も言えないし……」
「前の女がいるというのが、嫌だったのか? その、昔の恋人だった女に意地悪をされているとか……」
 なんとか理解しようと務めているのはわかるのだが、どうしてもわからない様子でエオメルは聞いた。
「意地悪なんてされていません。意味のない焼きもちだっていうのもわかっています。わかっているけどどうしようもないの。なんと説明すればいいのか……」
 どうして自分は婚約者の墓の前でその従弟に恋愛に関する講義をしているのだろうかと頭の隅で思ったが、ここで話を途切れさせるとひたすら気まずい雰囲気になりそうだったので話を続けた。
「対抗意識がどうしてもでてきちゃうというか……。昔の恋人だった人は、今の恋人である自分が知らない面を知っているんじゃないか、とか。昔の恋人と今の自分と、どっちがより好きなのかな、とか……」
「ああ、なるほど」
 ようやく合点がいったのか、エオメルは晴れ晴れとした顔になった。
「だが後者については心配することはないぞ。セオドレドが結婚しようとまで思った相手はお前しかいないのだから、お前以上に好ましく感じた恋人などいるはずがない」
「……いえ、そういうことではなくてですね」
 男だからなのか、ロヒアリムだからなのか、エオメルだからなのか判断のしようがないが、この感性の合わなさは埋めようがないと思った。
 ふう、とため息をついて頬に手を当てる。
「自分のこととして考えてみて。胸に手を当てて、よく考えるのよ」
「わかった」
 エオメルは言われた通りに胸に手を当てた。あまりにも生真面目な顔つきなので、滑稽にも見える。
「例えばわたしがあなたと婚約するか結婚したと仮定して、ふいにセオドレドの話をしたとするわ」
「うん」
「その時、わたしの口からあなたの知らないセオドレドの話が出てきたとして、しかもわたしがセオドレドととっても仲が良かったということを示すものだとして……それで、なんとも思わない?」
 しばらく考えてから彼は答えた。
「思うな」
「でしょう?」
 やっとわかってくれたかとほっとして、は微笑んだ。エオメルは神妙な顔で、
「私の知らない彼の逸話ならぜひ聞きたいものだ。思いだすのが辛くないのであれば、本当に聞かせてほしいな」
「……仲良しの従兄を例に出したわたしが馬鹿だったんだわ」
「な、なんだ……?」
 がっかりして肩を落としたに、エオメルはたじろぐ。
 これでわからなければもうお手上げだと、彼女は最後の例えを出した。
「なら、マークに来る前、わたしは故郷に恋人がいたのよ、という話をしたとしたら……」
「いたのか!?」
 彼は目を見開いて両肩をつかんでくる。
「自分のこととして考えてみて、って言ったでしょ。これは例え話」
 また拘束されてしまうのではないかと、は慌てる。
「あ、ああ……そうか」
 男は額に浮かんだ汗をぬぐった。
「反射的にむかっとしない?」
「した。お前の言いたいことはわかった」
「わかればよろしい」
 妙に勝ち誇った気分で、は胸を張った。これで少しは頑固な彼でも考えを改めるのではないかと考える。
 いい加減痛くなってきたので、エオメルの手を外そうと彼の手首を押さえた。しかしが外すより先に、エオメルが空いていた方の手での手首を握ってくる。肩と手首を捕まれて、今度こそ身動きが取れなくなった。
 が焦っている間に、エオメルは身をかがめてきた。長身のエオメルと目がまっすぐに合う。
「だがな、お前が最終的に私を選んでくれるのであれば、過去は問うまい。いやそうじゃないな、上手く言えないが……つまり、お前が今のお前になれたのは、生まれた時から今日までの積み重ねがあってのことだ。人間関係を含めてな。だから、家族や友人だけではない、過去の恋愛もあってこそ今のお前になり、そのお前を私が好きになったわけなのだから、私がお前の過去の恋人に難癖をつけるのは意味がないどころか、天に唾する行為だと……ああ、上手くまとまらん!」
 苛立たしげにエオメルは頭を振った。
 はそんな男を呆然と見つめる。今度は驚いたのではなく、彼が一足飛びに自分を越えて深い考えに至ったことに感嘆していたのだ。
 自分はセオドレドの過去の恋人たちに朧気な嫉妬をしただけ。彼女たちが彼に何をもたらしたのか、考えもしなかった。
 そして見合いをしても尚、己の気持ちに気付けなかったというエオメルを見下してもいなかったか?
(馬鹿なのは、わたしの方だわ)
 自分の思い上がりが恥ずかしくなって、はうつむいた。
「すまん、何を言っているのかわからんだろうな。私は昔からこういうことが苦手で……」
 エオメルの声が焦っている。だがさっきまでの腹立たしさはすっかり消えていた。
「いえ、よくわかります」
 は顔を上げて賛辞の笑みを浮かべた。
「そうか? 無理はしなくていいぞ、ひどい説明の仕方だったと自分でもわかっているからな」
 彼は心底そう思っているようで、苦いものを噛んだような顔になる。
「本当に、よくわかったんですよ。伝わってきたんです」
 はエオメルの手首を掴む手に力を込めた。そうすることで、自分の気持ちも伝わればいいと思いながら。
 ようやく安心したのか、エオメルは満面の笑みを浮かべた。
「そうか。私がどれだけお前を好きか、伝わったのか」
 太陽のように明るく、無邪気なほどの笑顔に、は言葉を失う。
 頭の中で重たい石が転がったような音がした。それに顔が熱い。きっと真っ赤になっているのだろう。心臓が早鐘のように打っている。こんなに寒いのに、汗もかいているようだ。
、どうした……?」
 心配そうに覗き込んでくるエオメルからは反射的に離れる。己の唐突な変化に、はとまどっていた。
「いえ、なんでも……なんでもないわ。それよりもう行きましょう。あまり皆さんを待たせるのも、悪いもの」
「ああ」
 怪訝そうに眉を寄せたが、彼はそれ以上深く追求してこなかった。最後にセオドレドと騎士たちの塚へ別れを告げると、それぞれの馬の下へ向かう。
「なあ……」
「はい?」
 まだ顔が赤いまま、はちらりとエオメルを見上げた。彼は気まずそうに少し視線をそらせている。
「実際のところはどうなんだ。その、故郷に恋人がいたとかいうことは……」
「恋人はいませんでしたけど、大事な相手はいました」
 余計な刺激を与えてしまったかと思ったが、自分の身の上については黄金館で暮らすと決まった頃にざっと王家の兄妹たちには伝えていたのだ。なので、正直に答える。エオメルは納得したように頷いた。
「例の相棒か。ヴァラールの一員とかいう」
「もうじき、二年が経つんですよね」
 改めて考えると長いと思いながら、はブレードの手綱を取る。火の足の鞍に手をかけながら、エオメルは何気ない調子で訊ねてきた。
「本当に迎えに来るのか?」
「探していないとは思いませんけど、わたしが生きているうちに間に合うかどうかについては、自信がなくなってきました」
 あぶみに足をかけて身体を持ち上げる。移動手段が徒歩か馬だということにすっかり慣れてしまった。便利な道具に囲まれて快適に過ごしていた生活も遠のき、術を使うことすら時折忘れてしまう。
 これが二年という歳月が自分に与えたものだ。故郷を懐かしいとは思う。だがもう、何が何でもそこへ戻らなければという気負いは失せてしまっていた。
「その相棒殿に恋していたのではないのか、大事なのだろう?」
 エオメルは横目でうかがってくる。気にしないように務めているせいで、かえって気になっているのが丸分かりになっているのだ。見ているこちらが気恥ずかしくて、は視線をそらした。
「ときめいたりしないんです。身近過ぎてかえって恋愛に発展しなかったんでしょうね。わたしには兄弟はいないけれど、いたらこんな感じではないかと思うわ」
 火の足にまたがったエオメルは、ブレードに横乗りになったに並ぶ。
「なら、私にも望みはあると考えていいのだな? 私は本気だ。だからお前も本気になって考えてほしい。返事は、いつでも良いから」
 真っ直ぐ見つめてくるエオメルに、息を飲んだ。言葉に出されるまでもなく、エオメルの『本気』が肌を突き刺すようにを捉える。力の限り対峙しないと、気迫に負けてしまいそうだ。狩られる獲物の気持ちになりながらもは頷く。
 にわかに、心臓が早く打ち始めた。そうと悟られないようにブレードを駆けさせる。エオメルは何も言わずにゆっくりと火の足を歩かせていった。





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