(このまま放っておくわけには、いかないわ)
エオメルの身に起こっている不可思議な出来事に、は大いに動揺したが、冷静さを取り戻すとすぐに対応策を考え出した。
夢の内容はもちろん気になるのだが、それが実生活にまで影響を与えていることこそが頭痛の種だった。
マークは現状のところ、大きな問題は起こっていない。
しかし時折オークの残党が現れることもあるし、いつゴンドールから支援要求があるかわからなかった。サウロンは滅びても、冥王の残光は未だ各地に残っているのだ。
(エオメルの様子が少し前からおかしいことには気付いていたけれど、まさかそんなことになっていたなんて)
妙に疲れたようなため息をつくことが多くなったし、寝酒の量も増えていた。
王としての重圧や、妻との気晴らしができない鬱屈が溜まっていたのかと思っていたのだが……。ましてや、後者が原因ならば、いまのにはどうすることもできないのだが。なにしろ自分は妊娠中なのだから。
「、どうかしたのか?」
エオメルが心配そうに問うてきたので、は顔をあげた。彼女はまだ夫に抱きしめられたままでいるのだ。
「その夢をどうにかしたいと考えていたの」
「できるものなら、私もそうしたいのだがな」
皮肉げにエオメルは唇をあげる。は顔をしかめた。
「笑い事じゃないわ。本当にどうにかしないと。今回は演習中の事故、それも捻挫と打ち身で済んだけれど、もっとひどいことにだってなりかねないじゃない」
執務に関していえば、まだ問題はない。なにかヘマをしてしまっても、紙の上のことならばやり直せばよいのだ。遅れについても事情が事情だ、どうにでもできよう。
しかし、もし戦いの最中に気を散じさせてしまったら?
わずかな油断が命取りになる戦場で、これだけは避けなければならなかった。
いや、戦場だけでの問題ではない。このまま夢がエオメルを苦しめ続けるのであれば、彼は衰弱してしまうだろう。どうやら夫は夢を見ることを恐れ、あまり眠らないようにしているようなのだから。
「わかるがな、だからといってどうにかできるものでもあるまい。夢なんて、見たいと思って見るものではないのだからな」
エオメルは致し方ないというように、頭を振る。それからすぐにふと思いついたように尋ねてきた。
「それとも、お前は他人の夢の中に入ることができるのか?」
「いえ、さすがにそんな力は……」
夢というものは、脳が見せているあやふやなものに過ぎない。入ろうと思ったところで、入れるものではないのだ。
そう考えて否定しようとしただったが、別のことに気がついた。
(確かに、普通の夢なら入るなんて無理だわ。でも、もしもそれが誰かが強制的に見せているものだったら? それなら……)
可能性を検討し、は決然とエオメルを見つめる。
「できるかもしれない。もしもその夢をわたしに見られてもいいというのなら、試させてちょうだい」
これにはエオメルも驚いたようで、目を丸くして唖然とした。
「できる……のか? 夢の中に入ることが」
は小刻みに頭を振る。頭の中は思いつきで一杯で、沸騰しそうになっていた。
「ちょっと違うわ。上手く説明できないけれど……」
言葉を捜してしばし黙り込む。
「エオメルの見ている夢は、誰かが見せているものだとわたしは思う。そうでないと、あまりにも不自然だもの」
「ああ、そうだろうな」
長い間その夢と付き合い続けてきたエオメルは、同意を示して頷いた。
「ということは、その夢を見せるために、その誰かは力を使っているわけ。夢というのは不安定なものよ。中に入るとか入らないという議論なんて、そもそもできないくらいにね」
「つまり……?」
「逆に言うと、あなたがその夢を見ている間は、安定した『場』ができているのではないかと思うの。だって、誰かはあなたにその夢を見てほしいのだもの。そのためには、普通の夢をあなたが見ないようにしなければならないわ。それに、途中で目が覚めないようにしているかもしれない」
が言うと、エオメルは深刻そうな表情で呟いた。
「そういえば、あの夢を見ている時には、夢だと気付いているのに起きてみようという気にはならなかったな。起きた後ならもう見たくはないと思うのだが、夢の中では不思議とそんな気持ちにならない。いつも終わった後に歯噛みをさせられるのだ」
夫の苛立ちが伝わってくる。は彼を気の毒に思うと共に、自分のせいで彼をこんな目に合わせているのだと申し訳ない気持ちになった。
しかしエオメルは沈んだ表情になったをなぐさめるように頬をなで、強い眼差しで前を見据えた。
「だが、夢は夢だ。入ることなど本当にできるのか? それに今までは途中で目が覚めはしなかったが、もしも目覚めてしまったらどうなる? お前を夢の中に閉じ込めてしまうことにはならないか?」
危険性を苦慮して、エオメルは眉をしかめる。の案には乗り気になれないようだった。
「それなら大丈夫だと思う。生身の者が夢の中にいつまでも留まることなんてできないもの。多分、あなたが目覚めれば弾き出されると思うわ」
それから夫の両頬をそっと包み込むと懇願するように見つめた。
「もしもその夢を見せているのがナセだったら、わたしにしかどうすることもできないわ。ずっとあなたに夢を見せ続けているのも、わたしが来るのを待っているからかもしれない」
ぞっとしたように、エオメルはを抱きしめた。まるで、彼女が彼の目の前から消え去ってしまうのを阻止しようとするかのように。
「だったら、行かなくてもいい」
「エオメル……」
「誰がみすみすお前を渡すものか……。お前は私の妻、マークの王妃だ。どこへもやらん、どこへもやらんぞ!」
は自分がまずいことを言ってしまったのだと悟った。意固地になったエオメルは、自分が彼の夢の中に行くことを拒むだろう。面倒なことになった。
「今言ったことは可能性の一つでしかないわ。わたしはあなたに黙ってどこかに行ったりはしない。だからそんな顔しないで。このまま夢を見続けるわけにもいかないでしょう」
「夢なぞに私をどうこうできるものか!」
エオメルは吠えた。
「でも、現に……」
怪我をしてしまったではないか。そう言おうとしただが彼が目の前に悪鬼がいるとでもいうような憤激に駆られているのを見て、口を閉じた。
「夢なぞに殺されはせん。もういい、わかった。私はあんなものに心を囚われるのはやめた」
「やめたって」
夫の出した結論に、は呆然となった。
やめようと思ってやめられるものではあるまい。無茶苦茶すぎる。
しかしの思いとは裏腹に、彼は猛々しい笑みを口の端に浮かべながら空を睨みつけた。
「夢はただ夢でしかないんだ。誰が見せようが、未来の先触れを知らせているのであろうが、夢が禍福を招くわけではない。夢が現実を作り出すわけではない」
ぶるっと馬がたてがみを翻すように、エオメルは大きく首を振った。金色の髪が舞い、肩に降りかかる。
「夢なぞに、負けてたまるか!」
言い放つとエオメルは口をへの字に曲げた。こうと定めたエオメルは、自分が何と言おうと引き下がるまい。ここは引くしかないとは思った。
「わかったわ。だけど辛いことがあったら話してね。あなた一人で苦しませるなんて、わたしには耐えられないのだもの」
「ああ、だが見ておれ。人の意思がどれほど強固になれるか、夢の後ろに隠れ潜んでいる奴に教えてくれるわ」
そしてエオメルは不敵な笑みを浮かべるのだった。
「必要ないというに……」
「お願いよ、エオメル。わたしを安心させるためだと思って、ね?」
就寝時、エオメルとはささいな口論をした。
はエオメルが少しでもゆっくり休めるようにと、香油を用意してきたのだ。
それはハーブ類を蒸留したもので、湯に落として足を洗ったり、上等の菓子を作るときに香料として使うものだった。
燭台の上に即席で組み立てた鉄の枠に陶器の皿を置き、そこに水を張って香油を落としている。
私室と寝室を区切る扉は閉め切られているので、部屋の中にはいささか過剰といえるほど匂いが篭っていた。それが鬱陶しいエオメルは、火を消すようにに言ったのだ。
「これには穏やかな眠りをもたらす効能があるの。夢というのは眠りが浅い時に見るものよ。ぐっすり眠れば夢を見たくても見られないわ。わたしはあなたの手助けがしたいの」
ここで引き下がるわけにはいかないと、は精一杯可愛い声をだしてねだった。媚を売るのは好きではないが、そうとも言っていられない。
「まあ、それでお前の気が済むなら……」
半信半疑といった様子だったが、エオメルはそれ以上反対しなかった。ごそごそと布団にもぐり、ためらわずに目を閉じる。彼は眠るといったら、本当にすぐに寝入ることができるのだ。
は寝台の端に腰掛け、しばらくぼんやりとしていた。部屋は、蝋燭の明かりでいつもより明るい。炎が影を揺らめかせ、まるで踊っているようだった。
蝋燭が半分になるまで待つと、は立ち上がった。
エオメルが眠ってから半刻は経つ。そっと夫の様子を窺うと、彼は深く寝入っているようだった。
(ごめんなさい、エオメル。今回ばかりは、あなたの言いつけには従えません)
はすっと目を細めると、小さな、しかし張り詰めた声で歌いだした。
(いま、彼が例の夢を見ているかどうかは賭けでしかない。だけど、もしももう見ているなら、『場』が現れるはず)
はエオメルの夢に入るつもりだった。
より正確にいえば、エオメルが意図的に夢を見せられているのならば、そのための特殊な力場が彼の周辺に作られているはずなので、それを現出させてみるのだ。上手くゆけば、彼の夢を垣間見ることができる。
ついでに、誰がエオメルに夢を見せているかも絞り込めるのだ。はナセの力ならばすぐにわかるのだから。
の歌は続く。それに伴い、だんだん空気の密度が濃くなってゆくような感覚が彼女を襲った。
香油を継ぎ足すと、濃厚な香りがさらに部屋一杯に広がる。香りに酔ったように、はよろめいた。息は浅くなり、あえぐように肩を上下させる。
反射的に腹部をかばいながら、エオメルの眠っている側の寝台のそばに座り込んだ。
目の端に細い煙のようなものが見えたので、は顔だけあげて天井を見上げる。朦朧としてきた目に、術が上手く発動したことを示す力場が映った。
その煙は、エオメルの上半身の上に渦を巻くように広がり、ゆっくりと回転している。それはとても小さな台風の雲や、極小の銀河を思わせた。
(でてきた……)
術は自身の意識を鈍らせ、その身体を重たく感じさせた。すでに彼女の唇は歌を紡ぐのをやめ、気だるげに半開きになっている。
このまま魂だけ立ち上がり、あの力場へ行けばいい。は力尽きたようにがっくりとうな垂れると、すぐに深い寝息を立てた。
エオメルが起きていたら、部屋の変わりようと死んだように目を閉じているに驚いただろう。
眠りの中で立ち上がったは、妙におかしく思えて小さく微笑んだ。
身体が軽い。見下ろすと、自分の身体だけが寝台に頭を載せるようにして倒れている。魂が抜け出すといつもそうなるのだが、呼吸はゆっくりになっていた。
魂だけになったは、半透明になっている。しかし、これは幽霊のようなものなので、傍目からは見えないということだ。この部屋にはないので確かめようがないが、鏡にだって映らない。
(あまり長く離れるわけにはいかないから、さっさと済ませてこなくちゃ)
は半歩足を出して手を伸ばす。力場に自分の力を共鳴させれば、その内側に入れるはずだった。しかし、
「……っ!?」
強く弾かれた衝撃で、は目を覚ました。強制的に術を解除されたようなものなので、ひどく全身が痛む。
「う、そ……。なんで……?」
魂は力場に触れる間もなく肉体に戻されていた。もうエオメルの上の渦巻きも見えず、ただ強い香油の香りだけが部屋を満たしていた。
(弾かれた……。どうして……?)
夢を見せている者は、自分に来てほしいのではないのか?
「ナセ……。一体、何をしようとしているの?」
呆然とは呟く。
弾かれた時のわずかな瞬間だったが、力場から感じた波動は、彼女のよく知っているものだった。
は座ったまま手をゆっくりと開いた。肉体の手で触れたわけではないが、まだそこに感触が残っている。
懐かしくて、心地よい。もうずっとその力を感じることなどなかった。
だが、なぜ彼は自分を拒むのだ。
迎えに来たというのなら、どうして自分の前に現れない? エオメルに夢を見せる意図はなんだ?
納得のいかないことばかりで、は混乱した。それに、相棒に手ひどく追っ払われたも同じで、そのことで傷ついてもいた。
「ナセの馬鹿……」
まんじりともしないまま、は朝を迎えた。
目覚めたエオメルは妻の身体がすっかり冷えていたことに仰天し、妊婦の自覚が足りないと説教をした。
しかしは夫の怒りにも身が入らず、説教が終わると昨夜の夢はどうだったのかと問いただした。
自分の話を少しも聞いていなかった妻の態度にエオメルは鼻白む。しかし彼女があまりにも必死の様子で尋ねてくるので、そっけなく「夢など見なかった」と答えた。
「まさか!」
夢の内容を垣間見ることはできなかったが、ナセがエオメルに夢を見せようとしたのは間違いない。それでが否定すると、エオメルは怪訝な顔になって問い返してきた。
「なぜ、そう思う?」
「あなたに怒られるのは覚悟の上だったけれど……」
は昨夜自分が行ったこととその時に起きたことをエオメルに話した。彼は黙って聞いていたが、だんだん額に青筋が浮かんできた。
彼は本気で腹を立てているのだ。案の定、エオメルはの話を聞き終わると、まずはみっちりと説教をすることから始めた。彼は自分の身を案じているのだと思ったからこそ、香油を使うことを許したのだ。しかし本当は夢の中に入るためだったのだ。だまし討ちのようなことをされて、エオメルは怒り心頭に発していた。説教は最初のものの二倍の時間をかけて、じっくりとされた。
それが済むとエオメルは、それでも自分は夢を見ていないのだと言った。怒りの頂点は過ぎたようだだが、まだ引きずっているので、はそれを強がりゆえの発言だと解釈した。
しかし、それから何日経っても、エオメルの様子に変化はなかった。いや、最近のエオメルが本調子ではなかったのだから、元に戻ったと言ってよい。
寝酒はぱったりとやめ、その割には目覚めもすっきりしているようだ。
あまり頻繁にならない程度にはあの夢を見ていないかと聞いてみたが、彼の答えはいつも同じだった。即ち、見ていない、と。
しかし、あの夜確かにエオメルは例の夢を見せられているはずだったのだ。ならば今だって見せられ続けているはず。
は腑に落ちなかったが、エオメルは嘘のつけない性質であり、これまでの付き合いから言っても彼が偽りを延べているとは思えなかった。
そうなると、彼女としてはこう結論付けざるをえない。
ナセは相変わらずエオメルに夢を見せようとしているのだが、エオメルは己が意思の力でそれを撥ね付けているのだ、と。
そんなことができるなど信じられなかったが、エオメルにすれば不思議なことでもないという。
自分は戦場で育ったようなものだから、どれほど不安だろうが恐怖を感じようが、それを押し殺して睡眠をとることができるのだと。そうしなければ戦う力が足りなくなる、生きるためには必要なことだったのだと。
そしてそういうときは、大抵夢など見ない。それを応用したようなものだと。
なんでもないことのようにエオメルは言ったが、ナセの力を良く知っているからすれば、あきれ返るほどの大技だった。
自分の夫となった男が、予想以上に大物だったことに、は今更ながら気付いたのだった。
気がつくと、エオメルは濃い霧の中に立っていた。
地面の色も見えないほど真っ白なそこを、エオメルはよく知っていた。
(ずいぶん、久しぶりに見たなぁ)
例の夢だった。
もうあの夢を見るのはやめると宣言した日から数ヶ月、エオメルは本当に見なくなっていたのだ。
(今夜は気合が足りなかったかな)
いたってのん気なことを考えているが、もとよりこの夢の中では不安も恐怖も感じないのだ。ただ、目覚めている自分はこの夢を好んでいないことを理解しているので、どうにかして目を覚まそうとだけ考えていた。
「妃と王子と、どちらを選ぶ?」
聞きなれた問いかけ。夢の中だからだろうか、起きている自分ほどには怒りも不快さも感じなかった。
視線の先には例によって例の如く、ぼんやりと人影が見える。
(いつもと同じ場所、いつもと同じ問いかけ、いつもと同じ人影……。つまらん、どうせなら、もっと変化をさせればよいではないか)
そうすれば目覚めている時の自分も、この夢を見続けても良いと思うかもしれない。
自分が的外れな感想を抱いていることにも気付かず、夢の中のエオメルは憤然と腕を組んだ。
「妃と王子と、どちらを選ぶ?」
くどい、とエオメルは心の中でごちた。
(どこの誰だかわからんものの問いかけに答える義務などあるものか。返答してほしかったら、まずは己の正体を明かすことだ!)
口には出さなかったがそう言い捨てると、エオメルは人影に背を向けて歩き出した。これまでの経験から、どこへ向かっても人影との距離が縮まないことはわかっている。近付こうとしても遠ざかろうとしても、はたまた斜めに歩いていっても、一向に変化がないのだ。
だから、これは一種の意地のようなもので、こうしたところで目が覚めるわけでもないのもわかっている。
「妃と王子と、どちらを選らぶ?」
再度の問いかけに、エオメルはぎくりとした。思わず足が止まる。
声はこれまでとは違い、耳元でしたように感じた。それに、背後に誰かがいる気配を感じる。
(誰だ……?)
足元に視線を落とす。影でも見えないかと思ったのだ。
だが、そのようなものはない。自分の影もないのだ。霧に遮られているとはいえ、この夢の中は昼間のように明るいというのに。
気配の主は静かに立っているようだ。攻撃を仕掛けようとする意思は感じられない。しかし、その判断が正しいかどうかは、エオメルにはわからなかった。
彼は拳を固め、唾を飲む。それから思い切って振り返った。危険を感じたらすぐに拳を突き出せるように脇を引き締めながら。
「…………!!」
だが、そのような配慮は無用だった。
エオメルは目の前に立つ人物を認め、息を飲む。
「なぜ、あなたが――!?」
驚愕の叫びが喉を切り開いた。
はっと気付くと、エオメルは目を見開いて呆然としていた。
周囲はほの明るく、窓の隙間から薄く差し込んだ朝の光に、埃が舞っているのが見える。灰色の天井、四方の壁を飾っている綴れ織り、そして自分を包む毛布の感触に、目覚めたのだと理解した。ここは自分の――自分と妃の――寝室だ。
「エオメル、どうしたの?」
寝台が揺れてが起き上がった。心配そうにエオメルの顔を覗き込んでいる。
「……」
「叫び声がしたわ。それに、ひどい汗……」
妃の手がエオメルの額に触れる。エオメルはぶるぶる震えながら妃の手を握りしめ、その華奢な掌に口付けをした。
「エオメル……」
は完全に上半身を起こし、不安そうに眉を下げた。今の彼女はひどくアンバランスだった。寝巻きに包まれた胸から上はあどけない少女のようなのに、その下の腹部は詰め物でもしたかのように膨れている。彼女ももう臨月。産婆の見立てでは、一週間もしないうちに生まれるだろうということだった。
王子か姫かはわからないが――王子だとエオメルは確信していたが――助けを求めるかのように、エオメルは妃の腹に額づいた。
あれが現実に起こるはずはないと、何度も言い聞かせる。
「ねえ、エオメル、本当にどうしたの? まさか、あの夢……?」
の声に怯えの色が滲む。
我に返ったエオメルは、ここで自分がうろたえてどうすると叱咤した。半身を起こして息を吐く。
空気に触れた背中はひどく冷たかった。ずいぶん汗をかいていたらしい。
「ああ、あの夢だ」
寝起きで粘つく口をゆっくりと動かしてエオメルは答える。
「やっと、わかった」
「わかったって、何が?」
「あの人影が誰か」
「……誰だったの?」
エオメルはを見つめる。もエオメルを見つめていた。は震える声で囁く。
「ナセ? あなたが知らない人だったら、十中八九……」
「違う」
妻の発言を遮って、エオメルは首を振った。
「セオドレドだ」
「……え?」
ぽかん、とは口を開けた。
「セオドレドだったんだ……!」
エオメルは身を伏せて叫ぶ。
信じられなかった。信じたくなかった。
だが自分がセオドレドを見間違えるはずはない。
夢の中に現れた彼は、楽しげに笑うと、エオメルの両肩を抱いた。それから陽気になんども叩くと「久しぶりだなぁ」と顔をくしゃくしゃにしたのだ。
あっけにとられたエオメルが何も言えないでいると、彼は、
「どうした、エオメル。まさか私がわからないなんでいわないでくれよ」
と人が悪い笑みを浮かべた。
「いえ、もちろんわかります。……お久しぶりです、従兄上」
間抜けな答えだとも思ったが、夢の中ならば死者が登場してもおかしくはない。そう思ったのも束の間、この夢は普通の夢ではないことを思い出す。
「セ、オドレド……。この夢は、あなたが見せていたのですか……?」
まさか、本当に彼はを迎えに来たのだろうか。得られるはずだった妻、得られるはずだった子を、己のいる場所、父祖の地へと連れてゆこうとして。
しかしセオドレドはその問いには答えず、遠くを見つめるような目でエオメルを見つめた。
「あの問い、ここで答える気はないか?」
唐突に訊ねられて、エオメルは面食らう。
「あの問い……。どちらかを選べ、と?」
こくり、とセオドレドは頷いた。
答えるべきなのだろうか。エオメルは迷った。しかし、選ばれなかった方が連れ去られるのだとしたら、エオメルに答えられるはずはない。
「できません」
叱られるのを覚悟でそういうと、驚いたことにセオドレドは納得したようだった。
「そうだろうな。私だってそうだ」
「あの、セオドレド……?」
あっさりと引き下がられて、エオメルは戸惑う。これで良かったのだろうか?
しかし、安心したのも束の間、セオドレドは耳を疑うようなことを告げた。
「これからそちらへ行くよ。今日だ。頼むから出かけたりしないでくれ、入れ違いになると面倒だからな」
あとがきは反転で
割とシリアスな流れなのに、このタイトル…。
もしや某アニメが元ネタか?と気付かれた方。ええ、その某アニメが元ネタです。
不憫なプリティ悪魔っ子も愛憎半ばする白い悪魔も、大好きですとも。
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