目覚めてからもエオメルはしばらくの間蒼白になっており、まともに話もできない状態だった。
 例の夢の人物はセオドレドだった。
 なんとか落ち着かせて事の次第を話させると、エオメルはそう告げた。
 は厳しい顔になって唇を噛む。
 彼は夢で会った男が、セオドレド本人に間違いがないと断言したのだ。
 すでに亡くなっているにも関わらず、これから会いに行くと言われたとしても、だ。
 しかしは夫とは逆だと確信していた。
(セオドレドのはずがない。だって、あの夢はナセが見せていたものなんだから)
 その夢が事実だとしても、セオドレドは本物ではない。
 が言うと、エオメルは逆上した。
「私が彼を見間違えるはずがない! いくらお前でもそのような物言いは許さんぞ。私とセオドレドに対する侮辱だ!」
 胸倉を掴みかねない勢いでエオメルは吠えた。地声が大きいため、彼の叫び声にもいい加減慣れていただったが、さすがにこれには身を竦めた。
「落ち着いてってば。セオドレドのはずがないのよ。だってあなたに夢を見せていたのはナセなんだから。その夢に出てきたセオドレドが本人だとしたら……夢なんだし、この事自体はあり得ないとは思わないわよ……彼がナセと組んでわたしか子供を死なせようとしているということになるのよ」
 の指摘にエオメルは言葉に詰まった。
「確かに、あなたはわたしよりもずっとセオドレドとの付き合いは長かったのだから、わたし以上に彼のことをよく知っているのだと思うわ。だけど、わたしもわたしなりに彼のことは知っているんだから。そして、わたしの知っているセオドレドは、わたしか子供かなんていう、理不尽な選択を従弟に強要したりする人ではないわ」
 エオメルは髪を両手で掻き毟った。癖が強くて普段からよく絡まっている髪だったが、いまは寝起きのせいもあって一層ぐしゃぐしゃになってしまった。
「私だってそう思っている。しかし、だったら他にどう説明できるというんだ!?」
 混乱と動揺で、エオメルは泣きそうになっていた。セオドレドの登場は、彼に強すぎる衝撃を与えたらしい。これがナセの夢を気力で跳ね返した者と同一人物だとは思えない取り乱し様だ。
 だが、それはがその夢を見ていないからかもしれない。エオメルはけっして勘は鈍くない。その彼が言い切るのだから、セオドレドは本物かもしれないのだ。
(でも本心から選択を迫ってきたとは限らないわ)
 ナセをよく知っているだけに、はどんどん冷静になった。
「説明だけならどうとでもできるわ。可能性としては大きく分けて二つ」
「二つ?」
 指を二本立て、あくまでも淡々と説明を試みようとするにつられたのか、エオメルは頭を抱えるのをやめて妃の顔をみつめた。
「一つは、セオドレドが偽者の場合。この場合は、十中八九、ナセが化けてるんだわ」
「しかし……!」
 否定しようとするエオメルをは制す。
「最後まで話を聞いて。ナセは人ではないの。こちらの世界で言えば、ヴァラールに相当するような存在よ。寿命というものはなく、姿かたちは定まってはいない……」
 最後まで聞けと言われたからか、エオメルは口を挟むことはなく、ただ頷いた。
「お気に入りの格好はあって、それは二十代後半くらいのすごく綺麗な男性の姿なのだけど、それは主にわたしの一族に見せているものみたい。たまにふらっといなくなって、その時には気の向くままに地上を歩いているようなんだけど、そういう時にはその辺にいそうな人間の姿をとってるって話よ」
「その辺にいそうな……?」
「目立った特徴もない、記憶に残り辛い姿かたちってところ。ついでに言うと、どうやらその歩き回りたいところが小さな集落で、よそ者が来たらすぐわかるようなところでも、不審に思われないような感情操作をしてるみたい。なんにでも化けられるから動物に姿を変えることもあるけれど、移動が不便なのか、あまり小さな動物になることはないわね」
「感情、操作……」
 エオメルが呟く。は気がついたのねと頷いた。
「そう。自分のことを、相手に怪しまれないようにすることができるのよ。だから、あなたが夢の中の人物をセオドレドだと思ったとしても、少しも不思議ではないわ」
「……もう一つの可能性は?」
 言いたいことがありそうだったが、エオメルはぐっと堪えているらしい。肩がぶるぶると震えている。
「セオドレドが本物だった場合。だけど、あの選択を告げることを、彼が喜んで引き受けたのかどうかまではわからないということよ」
「……脅された?」
 エオメルは目を細める。
「強請られたか、泣き落とされたのかも」
 後を受け取りは続けた。
「可能性としては、どちらが高いと思っている?」
 顎に手を当て、考えを巡らせながらエオメルは訊ねた。
「偽者の方」
 は即答する。
「なぜ?」
 間髪をいれずに答えられたので、エオメルは面食らった。
「セオドレドが既に亡くなっているからよ。ナセの力なら、死者を生き返らせることはできるでしょうね。でも、ここはわたしの……つまりナセにとっても所属していた世界ではないの。こちらの世界にはこちらの世界の規則があるわ。ナセの力がどれだけ強くても、勝手なことはできないのよ。縄張りを荒らすことになるんだもの」
「なるほど」
「それに、もう一つ、偽者だと考える理由はあるわ。セオドレドの姿なら、わたしにもあなたにも強いインパクトを与えられるということ」
 は人差し指を立てて強調した。
「イン……? それは何だ?」
 聞き慣れない言葉に、エオメルは眉を寄せる。
「ああ、インパクトって、衝撃、とか印象というような意味よ。ナセがこの世界に来てわたしを見つけたというのなら、来訪する時には人の姿を取るはずよ。そして、彼は実在する人の姿をする時には、話し方や身のこなし方、癖なんかも本人と見紛うばかりにそっくりにできるわ」
 ふっと表情をかげらせ、は夫を見つめた。
「いまのあなたがそうよ。すっかり取り乱してしまったでしょう。でも、わたしだって実際にセオドレドの姿で来られたら、中身がナセだとわかっていても平静でいられるかどうか……」
「……確かに、彼とそっくりならばな」
 ふう、とエオメルとはそろってため息をついた。
「なあ、
「なあに」
 エオメルは寝台の上にあぐらをかいて、膝の上に肘を乗せた。その上に額を預けている。
「ナセの君は性格が悪いのか?」
「人の価値観だけで判断していいことではないわ。だけど否定できないのが辛いところね」
 ふう、とは力なくため息をついた。





 王の執務室では東西の軍団長がそろい、エオメルと来年の軍編成について話をしていた。
 まだ暫定的なものなので、それほど堅苦しい雰囲気ではない。彼らから離れたところには書記が控えており、エオメルが書き留めるよう指示された内容を記すペンの音がときおり会話に混じった。
「――ですから、私としてはできるだけ早期に合同訓練をした方が良いと……」
 エルフヘルムが鼻息も荒く国王に要望を突きつける。
 もう一方の軍団長は、相方の話が長くなりそうだと察して、そっとその場を離れた。部屋の出入り口近いところにいつもはない椅子が置かれ、そこに彼の義理の娘が浮かない様子で座っていたからだ。
「気分が悪いようなら、横になった方がいい」
 エルケンブランドは膝を曲げて囁いた。は小さく微笑む。
「大丈夫です。気分が悪いわけではありませんから」
「ならいいが……。しかし、こんなところにいても面白くはないだろう。自分の部屋に戻って温かいものでも飲みながら、楽などを聞く方がよほど……」
「エルケンブランド。に構わないでくれ」
 エオメルは執務机の向こうから西の軍団長の言葉を遮った。エルケンブランドは顔をしかめる。
「しかし陛下、王妃といえど、執務室に執務と無関係の者がいるのは好ましくありません。公私の区別はつけなくては……」
「何を言う。現場を離れたとはいえ、も官僚の一人だったではないか。聞かれて困るようなことを話しているわけではなし、そう目くじらを立てないでくれ」
 エルケンブランドはむっつりと黙り込んだが、その顔には「王は王妃に甘すぎます」と書いてあるようだった。彼は妃が自分の娘であっても王に対してわがままを言うのを許してはいけないと思っているようだった。それに、王にそれを許させるのも。
 エオメルは苦笑しながらも義理の父に頼み込んだ。
「今日だけだ、頼む。今朝は色々あって妃は不安になっているのだ」
「……ほう?」
 エルケンブランドは怪訝そうに呟いた。
 エルフヘルムも話しに加わってくる。
「そういえば、侍従が心配しておりましたよ。早朝、陛下の寝室から怒鳴り声が聞こえたと。喧嘩でもなさいましたか?」
「喧嘩か……」
 両手を組み合わせながら、エオメルはため息をついた。
「まあ、そなたたちには前もって話しておいたほうがいいか。もしかしたら、の話なのだが、今日、これから思いがけない客人が到着するかもしれない」
「思いがけない客人?」
「どなたですかな?」
 東西軍団長はそれぞれ疑問を口にする。
「本当に来るかどうかわからないが、来たらひどく驚くことになる御仁だ。ところで、見張りからそういった、誰かがこちらに向かっているとかいう報告は来ていないよな?」
「ええ、特に聞いてはおりませんが」
「わたくしもです」
 二人が否定したので、エオメルもなにやら肩の力が抜けた。
 一体いつセオドレドがー―偽者でも本物でも――来るのか、戦々恐々となっていたのだ。朝の支度、朝食前の一仕事、それに朝食までは無事終わった。そして現在は午前の執務の最中だ。あと二刻ほどで昼になる。今日一日が何事もなく終われば、あれは所詮ただの夢だったのだと割り切ることもできるだろう。
(あの夢、今朝ので終わりになっていれば良いのだが……)
 そうなったらなったで随分と後味の悪い締めくくりだが、と腹の中で文句を言う。
「おや?」
 エルケンブランドが扉に顔を向けた。エオメルもつられてそちらに視線を移す。
 会話が途絶えたため、廊下の音が室内まで届いてきたのだ。誰かが廊下を全力疾走しているようだ。重い鎧を身につけているため、どすどすとやかましく響いている。
「失礼いたします、陛下!」
 足音の主は瞬く間に執務室前に来たかと思うと、ノックをする間もなく飛び込んできた。
 男は近衛の一人で、荒々しく肩で息をしている。よほど恐ろしいことでもあったのか、走ってきたにも関わらず、顔色は青白かった。
「何があった!」
 男の様子に只事ならざることがあったと察したエオメルは、立ち上がって叫ぶ。
「メアラスです!」
 男も叫ぶ。
「……はあ?」
 もしやセオドレドが来たのかと危ぶんでいたエオメルは、思いがけない単語の登場に思わず気の抜けた声をあげた。
「メアラスがどうしたんだ?」
 男は自分でもどう説明したら良いのかわからないようで、へどもどしながら答える。
「その、実は……メアラスがこちらへ向かっているのです。まだ草原の先におりますが、ものすごい速さで駆けているのでほどなく到着するのではないかと」
「飛蔭が戻ってきたのか。ガンダルフもご一緒か?」
 メアラスはエオル王家の宝だ。草原で放牧をするにしても、勝手に走り回らせるわけではない。ちゃんと牧人が管理しているのだ。
 しかしそんな大事なメアラスだが、この国を離れているのが一頭だけいた。ガンダルフに譲り渡した飛蔭である。だからこそエオメルは飛蔭が戻ってきたのだと思ったのだ。
「いえ、乗っているのはガンダルフ殿ではありません。メアラスも飛蔭ではないようです。こちらに向かっているのは白馬ですから。馬上の男はまだ遠い上に冑を被っていて顔が見えないのですが、マークの鎧を身につけているようです」
「……どういうことだ?」
「わ、わたくしなどにはさっぱり……」
 不穏な響きの王の声に、近衛は身を震わせる。
 メアラスは王でなければその背には乗せない。たとえ王の息子、甥であっても許されないのだ。
 ガンダルフはその例から外れた現在のところ唯一の人物だが、そのようなことがそう何度も起こるものではない。
「嫌な予感がするな、妃よ」
 口の端に楽しくて浮かべたものではない笑みを刻んで、エオメルは歩き出した。
「そうね、あなた」
 大きな腹を抱えて、も立ち上がる。二人はそろって外へと向かった。
 エオメルたちが出てゆくと、館の前は騒然となっていた。飛蔭にも匹敵する、いや、それ以上だと思われる白馬が真っ直ぐエドラスを目指しているのだ。
 騎馬はもう目を凝らさずとも見えるほどの距離に来ていた。しかし、マントが邪魔でどのような鎧をまとっているのかがわからない。もしも特別な装飾でもあればそこから人物を見極められるかもしれないと思ったが、まだ無理そうだ。
「それにしても、すごい速さだな」
 男も気になるが、エオメルにとっては馬のほうこそ驚嘆に値するものだった。
「もしかしなくても、飛蔭より早いではないか」
「あれもマークのメアラスなのですか?」
 がエオメルを見上げ、素朴な疑問を口にする。エオメルは頭を振った。
「メアラスというのは、毛色の薄いのがほとんどだ。飛蔭は銀、雪の鬣は白だった。あの馬の毛も白、それにあの速さ、メアラス以外の何物でもないが、飛蔭以上に早く駆けることのできる馬がこの国にいたという話は聞いたことがない。それこそ、古のメアラスの祖フェラロフでもなければ……」
 あれほど早く走ることができないだろう、と言おうとしてエオメルは瞠目した。
「フェラロフって、マークの初代王エオルの愛馬だったって馬でしょう? 国旗にも描かれている……」
 が話しかけたが、エオメルは聞いていなかった。頭が内側からガンガンと鳴っているような錯覚に襲われる。
「まさか……フェラロフ? 彼と共に戻ってきたというのか……」
 呆然と呟くエオメルの周りでは、騎士たちが動揺していた。二人は声を潜めて話すということをしていなかったので、すっかり聞かれてしまったのだ。
 騎士たちはさざなみのようにフェラロフの名を広げてゆく。騒ぎを聞きつけて、館の奥から男も女もどんどん出てきた。
 騎馬が門の前まで来るのにさして時間はかからなかった。
 家々の前には館の騒ぎから何かがあったようだと気がついた民たちが、仕事の手を休めて集まってきている。門のそばまで近付いて行く野次馬もいたが、エオメルは絶対に彼らを前に出すなと厳命した。馬上の男の正体がなんであれ、武具を身につけている不審人物なのだ、民を危険にさらすことはできない。
 とはいえエオメルは最初の驚きが過ぎ去ると、どんどん不愉快になっていった。
 馬上の男は、セオドレドの姿をしたの故郷の者だろう。彼女が主張したように、従兄がナセとかいう者と手を組むなど、エオメルには信じられなかったからだ。となれば、あの馬の男は自分と妻が敬愛するセオドレドに化けた不届きものであり、おまけにエオル王家の象徴たるフェラロフをも愚弄していることになる。
(事と次第によっては叩き切ってやる……!)
 エオメルはそう決意を定めると、ゆっくりと開いた門をくぐる馬を見下ろした。





 門が開いてゆく。
 王の指示で道筋から遠ざけられた人びとが、それでも騎士の顔を確かめようと躍起になっていた。
 こちらからはまだ距離もあり、兜が邪魔なこともあって、見ることはできない。
 だが彼らにはわかったようだ。
 門から徐々に、驚愕の声があがってくる。
 やはり彼なのだ。中身はともかくとしても、見た目だけは。
「セオドレド!」
「セオドレド様だ!」
「若君がお戻りになった!」
 口々に民は叫ぶ。そのあまりの激しさに、今度は館周辺に控えていた者たちが動揺した。
 さざなみは、丘の麓から頂上へ。門から館へと駆け上ってくる。
 騎士は前進を阻まれてはいないが、白馬の足を緩めさせた。多分、興奮した民が我を忘れて飛び出してくるのを危惧したからだろう。それがなんとなくセオドレドらしい行動のように思えた。ナセならわざわざそのようなことはしない。彼なら、民が飛び出してこないようにできるはずだから。
 馬に乗ったまま、騎士は館の前までやってきた。馬は全身が白く、体格も飛蔭より一回りほど大きい。そして鞍も手綱もついていなかった。
 馬は見事なものだったが、フェラロフという馬かどうかはわからない。何百年も前に死んでいるのだから、写真でもない限り区別などつかないのではないかとは思った。ただメアラスであることには間違いはなさそうだが。
 馬上の男は軽々と馬から下り、兜を脱いだ。屈託のない笑みを浮かべ、彼は近付いてくる。
「エオメル、、久しぶりだ!」
「…………セオドレド」
 反対にエオメルは複雑な表情で従兄を迎えた。それからをちらりと見やる。本当に偽者なのか自信がないようだ。
 は夫に答えず目を凝らしてじっと『セオドレド』を見つめる。ナセの力の痕跡がどこかからか漏れていないかと探ってみたのだ。
『セオドレド』にも二人の不審は伝わったのだろう。彼は歩みを止めると寂しげな顔になる。
「私はお前たちにもう一度会えて嬉しかったのだが、お前たちはそうでもないようだな。……無理もあるまい、死者が戻ってくるなど、一体どんな奇しの技が使われたのかと思うだけだろうしな」
 は意識を研ぎ澄ませる。顔に気を取られて集中できなかったなどという理由で、検査が十分にできなかったということになってはならないのだ。
 エオメルは一歩『セオドレド』に向かって歩み寄った。
「……が教えてくれました。私の夢は彼女の相方たるナセの君が見せたものだと。そこに現れた以上、例えセオドレドといえど、本人だとはとても思えない。私も同意見でした、さっきまでは」
 エオメルは徐々に俯きだし、しまいには泣きそうになっている。
「では、今は?」
『セオドレド』は優しい笑みを浮かべた。
「あなただとしか思えません。セオドレド、従兄上……!」
『セオドレド』はエオメルの肩に手を置き、軽く揺さぶる。
「それでいいのだ、私なのだからな」
「ですが……」
 再び夫が振り返ったので、は暗鬱な気分になりながら答えた。
「この人はセオドレドよ、エオメル。偽者じゃなかった。少なくとも、ナセが化けているわけじゃない」
 エオメルは息を飲んだ。
 は嘆息する。一体、どういうことなのかさっぱりわからない。
 事は自分が思っているのとは別の方向に進んでいるようだった。
「それならば、あなたがここにいる理由は……」
 はっとしたようにエオメルは言葉を切った。そしてとセオドレドを交互に見やる。
「いつまでいられるのです、セオドレド。寿命が尽きるまで、ずっと?」
 エオメルはセオドレドが戻ってきたということに、別の懸念を覚えたようだった。
 セオドレドが再びこの地で暮せるとしたら、マークには大きな変化が起きるだろう。
 先王の直系の血筋が絶えたことで王位についたエオメルは、その位を返還しなければならなくなる。エオメルが王位に固執すれば、国を二つに分ける争いに発展することもありえるだろう。もっとも自分は本物のセオドレドにだったら、すぐにでも返還するつもりでいるが。
 セオドレドは意味深な眼差しで周りを一瞥すると、エオメルの肩を数回叩いて中へ入るよう促した。
「まあ、お前たちも混乱しているようだから、初めから話すよ。とりあえず中へ入ろう。こんなこと、誰に聞かれても良いというわけではないからな」
「あ、はい……」
も来るだろう?」
「はい」
 セオドレドに手を差し伸べられ、反射的にも手を差し出した。しかし指先が触れる直前になって、恐怖が身の内から広がった。はセオドレドから飛びのく。彼は顔を強張らせたがすぐにいつもの様子を取り戻した。
 セオドレドは伯楽の長を呼び、馬の世話をするようにいいつけた。
「飛蔭以上に気位が高いから、気をつけてくれ。飼い葉と水を用意して、彼が望むようならブラシもかけてくれ。厩の柵は無理に閉めなくてもいい」
「セオドレド、この馬は……?」
 エオメルの問いに、セオドレドは楽しげに笑った。
「メアラスの祖たるフェラロフだ。お借りしたものだからすぐに返さなければならないが、皆、せっかくだからよくその勇士を目に焼き付けておけよ。もっとも、あまり近付きすぎてはいけない。蹴られてしまうからな」
 そう言うと彼はエルフヘルムとエルケンブランドにも立ち会うように言い、話は王の執務室でやろうと決めた。
 男たちの最後尾を、は重苦しい気持ちで歩いた。
 手を取るのを拒んだ時のセオドレドの表情……。しかし自分がセオドレドに触れてよい訳がなかった。
 他の男と結婚し、子供も設けてしまった。自分の腹部は隠しようがないほど大きくなっている。そうなったのは彼が亡くなったからで、生きてさえいてくれたらこのようなことにならなかったのだとしても、罪悪感は抑えようがない。
 セオドレドは、自分が死んで一年程度でエオメルと結婚した自分を蔑み恨んでいるかもしれない。常人にはない力を持っていて、自分が戻ってくることもわからなかったのかと失望しているかもしれない……。
 だから、ナセに協力することにしたのかもしれない。
 薄情な元婚約者などどうなっても良いと……。
(そんなの、やだぁ…)
 あっという間に涙が溢れてくる。嗚咽を漏らさないようにぐっと唇を噛んだが、止まらなかった。
 鼻をすする音が聞こえたのだろう、セオドレドが振り返った。エオメルと他の男たちも。
「ど、どうした、!」
 涙ぐんでいるなんてものではない、盛大に涙を流しているに、セオドレドは目を丸くした。
 彼は男たちを押しのけての前に駆け寄ると、手の平で涙を拭う。セオドレドの手は生身の弾力があり、温かかった。
「急にどうしたんだ? 私になどもう会いたくはなかったか?」
「そんなわけないじゃない!」
 は激しく頭を振った。その拍子に髪をまとめていたピンが弾け、髪の房が垂れ下がる。
 セオドレドは無言のまま残っているピンを外していった。癖のないの髪は、肩に背中に落ち広がった。
「私はそなたに会いたかった。会って、どうしても伝えたいことがあった」
「伝えたいことって……?」
「それは後で。話が終わったあとにな」
 セオドレドは名残惜しげにの頬に指を滑らせ、再び歩き出す。セオドレドの大きな体という視界を遮るものがなくなると、はエオメルがこちらをもの問いたげな眼差しで見つめていることに気がついた。
 なので、も頭を悩ませることになる。
 元婚約者を愛おしく思うことも、浮気になるのだろうか、と。





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