カラズラス越えが不可能になったので、一行はモリアという名の地下坑道を通ることになった。そこは遥か昔、ドワーフのもっとも栄えた王国だった場所である。
 古のドワーフの王国が見られると、ギムリは一行の誰よりも意気揚々としていたが、残りの者は厳しい表情をしていた。音に聞こえし古王国は、今では闇の世界と結びついていると思われている。ガンダルフは否定したものの、安全な道だと楽観することはできなかった。だがこの中でただ一人、だけはモリアの来歴を知らないため、わくわくしているギムリが可愛いと、本人が聞いたら憤慨しそうなことをのん気に考えていた――。
 一日中歩きつめ、太陽が沈む前にようやく、モリアの門がある壁の前にたどり着くことができた。壁の反対側には巨大な湖が陰気な色をたたえており、これらの間にあまり広くない道が続いていた。道の終わりには立派な柊の木が二本、枝を広げて門のようにそびえている。
「扉は閉じていると目には見えんのだ。その仕掛けを忘れてしまったら、たとえここの主人であっても入り口を見つけることはできなくなる」
 ギムリは斧で壁を軽く叩きながら説明した。
「そんなことだろうと思ったよ」
 レゴラスはいかにも役に立たない情報だという口調で言った。ギムリは、むうっと顔をしかめる。
「どうしたんだ?」
 アラゴルンは後ろからつつかれて振り返った。内緒話をするように右手を口元に当てているのほうへ少し屈む。
「あの、今更聞くのもなんですけど、レゴラスとギムリさんて、どうしてあんなに仲が悪いんですか?」
 心配そうに眉根を寄せているに、アラゴルンはああと小さく嘆息した。そしてここで教えてもいいものかとしばし迷う。ただでさえ静かな場所だ。声を潜めていてもきっとエルフには聞こえるだろう。
 けれどあからさまにいがみ合っている面子がいるのは誰だって気になるものだ。アラゴルンは囁き声で説明する。
「あの二人の仲の悪さは種族的なものだ。何か個人的ないさかいがあったわけではない。エルフとドワーフはずっと以前の時代には親密だったこともあるのだが……まあ、いろいろあってな」
 詳しく話すとなるとかなり長い話になると続けた彼に、は柳眉をなごませる。
「そう。それならあんまり心配することはないんですね」
「え?」
 安心したと微笑を浮かべる少女を、アラゴルンは不可解なものを見るように見返した。
「だって、エルフだから、ドワーフだからって言う理由で仲が悪いんでしょう? レゴラスだから、ギムリさんだから、という理由とでは天地の差があるわ。そういう理由なら、お互いに良く知り合えば仲良くなることもできるようになるんじゃないかしら」
 はふわりと笑った。
「それは……そうだが……」
 そう上手くいくのだろうか、とちらりと後ろにいるエルフに目をやると、案の定、今度はレゴラスのほうが顔をしかめていた。ドワーフと仲良くなった自分でも想像してしまったのだろう。あれでは当分、あの二人が仲良くなるなんて無理だろうとアラゴルンは思った。
 そんな話をしている間、ガンダルフは柊の間の壁を探っていた。星と月の光に浮かび上がると呟きながら空を見上げると、折よく雲が途切れ、煌々と輝く満月が姿を現す。その光を受け、門の表面に文字と二本の木の模様が浮かび上がってきた。
「あれは?」
 何も見えなかった門の変貌に、メリーが興奮した様子でガンダルフに問う。しかし答えたのはギムリだった。
「これはドゥリンの紋章だ。我がドワーフ族の始祖ドゥリンがここ、カザド=ドゥムを造られたのだ。……まさかこの目で見られようとは」
 感極まったようにギムリは門を見上げる。一緒になってあごが上を向くほど仰け反らせながら、ピピンはぽかんと口を開けた。フロドも興味深げにまじまじと白く光る線を眺める。
「それでこれにはなんと書いてあるんですか?」
 ガンダルフは杖の頭で線をなぞりながら答えた。
「『モリアの領主、ドゥリンの扉、唱えよ、友、そして入れ』と。わしらにとっては特別大事なことは言っておらぬのう」
「つまり、どういうこと?」
 間髪を入れずにピピンがたずねた。これに答えたのもギムリだった。
「明解なことじゃないか。あなたが友人であるのなら、合言葉を言えば扉が開き、中に入れるということだろう」
「で、その合言葉って?」
 ドワーフの国に足を踏み入れたくないレゴラスは、不機嫌さを隠さずに冷たい声で言う。ギムリは黙った。それは彼の一族には伝えられていないのだ。
 エルフとドワーフが睨み合い、険悪な雰囲気が漂いはじめた時、ガンダルフがわしの邪魔をするなと一喝した。たくさんある扉を開くための呪文から、これに使われているものを探さなければならないのだと。
「馬鹿な言い合いしかできぬのならば、しばらくはその口を縫いつけておくがいい!」
 そう言い捨てるとガンダルフは門に向き直った。
  アンノン エゼルレン エドロ ヒ アムメン!
 命令するようにガンダルフが呪文を唱えたが、何も起こらなかった。
  フェンナス ノゴスリム ラスト べス ラムメン!
「びくともしねえですだ」
 失望したようにサムが呟く。
 エドロ! エドロ! と叫びながら門を杖でガンガン殴りつけ、それでも何も起きないとわかると、ガンダルフは難しい顔になった。
「以前のわしなら、エルフ語オーク語、どんな呪文でも全て言えたんじゃが」
 しかしその後試したどの言葉も反応しないということがわかると、ガンダルフは癇癪を起して杖を地面に投げつけ、どっかりと座り込んだ。
 前に進めず、後ろに引くこともできない。重苦しい沈黙が彼らを包み込んだ。
 それを破ったのはピピンだった。彼は岩を腰かけ代わりにして、足をぶらぶらさせながら陽気な声で話しかける。
「ねえねえ、の世界の呪文で、何かない?」
「呪文? 扉を開くための?」
「そうそう」
「いくらなんでも開くわけないだろ、ピピン」
 メリーが混ぜ返すと、
「試すだけでも試してみたら?」
 面白そうだとレゴラスが勧めた。
「ううん。扉を開ける……ねえ。有名なのだと『ひらけゴマ』かしら?」
 首をひねりながらが言うと、全員がつられたように一斉に扉に注目した。もちろん何も起こらなかったが。
「ゴマって、あの食べるやつ?」
 ピピンが聞く。そうだとが答えると、
「なんでゴマなの?」
 至極もっともな疑問をメリーが呈した。
「……さあ。語呂がいいから?」
 よくわからないとが言うと、のどかなやりとりが笑いの壷に入ってしまったレゴラスが肩を震わせて噴きだすのを堪える。
 彼らは何をやっているのだと、ボロミアは気を利かせて話題を変えようとした。放っておいたらまたガンダルフが雷を落しかねない。
「ギムリ殿、扉を内側から開けていただくわけにはいかないのでしょうか。モリアにはいとこ殿がおられるのでしょう?」
 ギムリは難しい顔で考え込んでいたが、ややあって首を左右に振った。
「わたしはモリアについて多く聞き及んではいるが、内部がどのようになっているかについてはわかりかねます。モリアの扉は厚さもかなりあり、たとえ叫んでも中には聞こえないでしょう。巨大な槌でもあれば別でしょうが、それでも近くにドワーフが居なければ意味のないことです」
 ギムリの言葉にボロミアは肩を落した。八方塞がりだ。扉は当分開きそうにもない。
「わたしの故郷では、中に誰かがいるけど扉を開けてもらえないときには宴会を開くのよね」
 ボロミアとギムリの会話から、ふと故郷の神話を思い出したはなんとなしに口にした。それにメリーとピピンが目を輝かせて食らいつく。
「宴会!?」
「ええ。歌ったり踊ったりして目一杯楽しそうにして、中にいる人をおびき出すの」
 は苦笑しながらものすごくはしょった説明を二人にした。けれど叫んでも中に聞こえないようなら、やっても意味ないだろう、と思っていたら。
「へえ〜」
「なるほど、それっていいかも」
 感心したように頷き合い、にんまりと目と目で合図をすると、ホビット二人はやおら踊り始めたのだった。結局のところ、彼らは退屈だったのだ。
 腕を組んでぐるぐる回ったりぴょんぴょん飛び跳ねたり、陽気な掛け声をかけながら踊りまくる。
「……えーと」
 よくこんなところで踊れるものだとは言葉に詰まる。ここもけっして安全ではなく、カラズラスの二の舞になるかもしれないというのに。
(でも楽しそうね。わたしも腕がこんなじゃなければ参加するんだけど。……あ、そうだ!)
 は鞄を下ろして中から金色の輪を見つけると、一対のそれを取り出した。輪は顔より二回りほど大きいくらいで、その内側には三日月ほどの幅の位置に弧を描いた棒が差し渡されている。全体に細かな装飾が施され、握りの部分には鮮やかな赤い布が巻きつき、その両側には同色のタッセルが揺れていた。
 これは舞踊の小道具で、「圏」という。形状から日月乾坤圏(じつげつけんこんけん)とも呼ばれるそれは、のお気に入りだった。それを軽く握り、メリーとピピンのそばまで駆けて行くと、掛け声とともに一方を空高く放り投げた。
 圏が落ちてくると今まで握っていた方を放り投げ、また落ちてくると放り投げ、時にはつま先で受け止める。あいにくジャグリングをするのは無理だったが、これなら何もなしよりははるかに見栄えがする。メリーとピピンが盛大な声援を送ると、はそれに笑って答えた。
 そんな三人を弾けた笑い声が包んだ。レゴラスだ。今までただたちのやりとりを眺めているだけだった彼は、楽しげな笑みを浮かべたまま三人の方へ歩み寄る。そしてふっと息を吸うと歌い始めた。
 伸びやかで澄んだ歌声は一帯に朗々と響きわたる。メリーとピピンは踊るのも忘れてその声に聞きほれた。だがは飲まれるものかと意地になって踊り続けた。エルフの歌は彼女にとって聞きなれないリズムを含んでおり、踊りやすいといえるものではなかったが。
 月の明かりと自身が発する淡い光によって、レゴラスの白い美貌が幻想のように浮かび上がる。がくるりくるりと回る度に、ちらりちらりとそれが目に入った。
 ふいに強い感情がわきあがってくるのをは感じた。
(わたし……どうしてレゴラスを見てあのひとのことを思い出してしまうんだろう。顔も性格も似ているわけじゃないのに。でも、そう、彼もよくこうやって月の下で歌っていた。とても上機嫌で、手のひらほどの大きさの杯に満たされた大吟醸を呷りながら。今頃どうしてるだろう。目一杯心配しているのは間違いないだろうけど)
 泣き喚いても帰れるわけではないから、逆に元の世界のことは思い出さないようにしていた。が帰れないのは誰のせいでもないのだから。我が身の不運を嘆くだけしかしない、無様な行動だけはとりたくない。けれど思い出してしまう。なんて精神衛生に悪いんだろうと、は目を閉じた。このままではやるせなさに負けてしまいそうになる。
(わたしが怪我をしているせいだろうけど、レゴラスってかなりわたしのことを甘やかしてくるものね。だから彼と接していると、いつもあのひとにやっていたみたいに抱きつきそうになったり、愚痴をこぼしたりしそうになっちゃう。でもそんなことされたらレゴラスも困るだろうし、第一失礼よね。ここにいないひとの身代わりなんて)
 はもう落ち着いたはずだと自分に言い聞かせ、ゆっくりと目を開ける。
 月光を浴びて歌うエルフの青年は幻を描いた絵のように綺麗だった。彫像より整った容貌も、陶然と月を映すまなざしも、微風になびく金糸の髪も。高い音を発するのに少しおとがいを上げると、白い喉が立て襟からわずかに見える。その何もかもが。

 には驚かされてばかりいる。レゴラスは苦笑交じりで少女を見つめた。
(小さい人たちが踊りだしたのをあぜんとして見ていたと思ったら、一緒に加わったりして。けれどその舞の見事なことといったら!)
 太陽と三日月を組み合わせたような形の金色の輪を二つ、片手で器用に操って、手も足もしなやかに動く。月光を反射した栗色の髪は普段にも増して艶やかで、愛らしいとばかり思っていたその顔は、妖艶にすら見える。
 他の男たちの様子をうかがうと、彼らはほうけたように見入っていた。その気持ちはわかるが、どうせなら観客は自分一人であれば良かったのにとレゴラスは残念に思った。
(……おかしいな。どうして私はこんなにのことばかり考えているのだろう。今までこんなことはなかったのに。ただ一人のことばかり考えているなんて……。たしかに彼女は興味深い存在ではあるけれど)
 自分の気持ちが分からないのがなんだかおかしくて、レゴラスはつい声を立てて笑ってしまった。
(やめやめ。せっかくの舞なのに、こんな楽しくない気持ちでいるなんて馬鹿らしい)
 宴会と聞いて参加しないとは森エルフの名がすたるとばかりに即席の宴に混ざると、レゴラスはエルフ語で歌を歌った。は驚いたように少し目を見張ったが、やがて彼の歌に合わせて踊るようになる。それは初めて合わせたものだとは思えない舞だった。
(可愛いひと。今日の歌はあなたのために歌うよ)
 気分が高まり、レゴラスはに向かって両手を広げた。それは何かを期待しての行動ではなかった。けれどはうれしそうに笑って駆け寄ってきたので、レゴラスの笑みは深いものになった。
 息ぴったりだと自分たちの相性の良さを確信して、そのまま抱きしめようとしたのだが、なぜか彼女はレゴラスの左手に自分の右手を重ね、そして、
!?」
 少女は地を強く蹴り、次の瞬間、彼女の小柄な身体は宙を舞っていた。その体勢から空中で一回転をし、砂利を踏む音を軽くさせて綺麗に着地する。ぽかんとして動きを止めたレゴラスをよそに、膝を曲げて優雅に一礼すると、は旋回しながら元いた場所に戻っていった。
 発案者ながらすっかり見物人と化していたメリーとピピンは盛大に歓声を上げ、様子を見ていただけのフロドとサムも楽しそうに拍手を送った。が――。
「いい加減にせんかこの馬鹿者ども! 静かにしろというのがわからんのか!!」
 とうとう堪忍袋の緒が切れたガンダルフの怒鳴り声で、突発的舞踏会は終了したのだった。

 ひとしきり魔法使いから説教を食らった後、再び門を開ける言葉は何かと、全員が頭をひねる。しばらくしてフロドが扉の呪文がなぞなぞであることに気づいた。
「メルロン」
 ガンダルフが告げると、扉は重々しく軋みながら外に向かって開かれた。全員の目がそちらに向かったので、彼らが背を向ける格好になった湖の水面に怪しい波紋が広がったことには誰も気がつかなかった。
 ギムリは喜びに顔を輝かせ、前に立つ仲間たちをかきわけ、前に出る。
「おお、モリアよ! 我らがドワーフの都よ! エレボールのギムリが参りましたぞ。我が親族のバーリンはいずこにおられるか?」
 太い声がモリアの暗がりに吸い込まれていった。ガンダルフは杖の先に明かりを灯す。
「きっとすぐにもてなし好きのドワーフたちが現れましょうぞ。燃え上がるかがり火、炙り肉とたくさんのビール! 中に入ればここを坑道などと言ったことをきっと後悔することになるだろう」
 仲間たちを振り向き、ギムリはそっくり返りそうな勢いで語った。そして彼は堂々と中に踏み入って行く。ガンダルフはそのすぐ後に続いた。人間やホビット、エルフは真っ暗な中を物珍しげに、あるいは恐る恐る進んで行く。
 魔法使いの杖の光はぼんやりと拡散してしまい、奥まで見通せない。だが中に入ってすぐボロミアは歩みを止め、硬い声で警戒感をあらわにした。
「たしかに、ここは坑道ではない」
 全員の歩みも止まった。
「墓場だ」
 はっとあたりを見回すと、足元から少し先の階段に至るまで、ミイラ化して朽ちた骸が転がっていた。どれも事切れてから随分時間が経ったのだろう。すでに腐臭もしていない。
「そんな……。嘘だ!」
 ギムリの悲痛な叫びが木霊する。レゴラスは近くにあった死体の前に膝をつき、刺さっていた矢を一本抜き取る。秀麗な面に厳しいものが浮かんだ。
「オークの矢だ」
 その声に戦いに慣れた男たちは一斉に武器を構える。ここは予想より遥かに危険な場所だったのだ。
 レゴラスは弓に矢をつがえながらあたりを警戒し、いつ敵が襲ってきても庇えるよう、丸腰の少女の傍へ駆け寄った。ホビットたちは一箇所に固まり、不安げにきょろきょろする。
 ボロミアが叫んだ。
「ローハン谷へ行こう。ここへ来るべきではなかった!」
 焦りを含んだ声でアラゴルンが急き立てる。
「みんな、外に出ろ!」
 その声に被さるように、フロドが悲鳴をあげる。
「フロド!」
 降ってわいたような異常な出来事に、誰の顔にも驚きの表情が浮かんでいた。フロドの足首に巻きついているものがある。それは湖から伸ばされていた。かすかな明かりにそれの表面はぬとぬとと気味の悪い光沢を放っている。触手はずるずると小さなホビットを湖に引きずり込もうとしていた。抗う術のないフロドは恐怖に顔を凍らせた。
「馳夫さん! 馳夫さん!」
 サムは必死にアラゴルンを呼び、メリーとピピンはフロドを追った。二人は水際まで引きずられたフロドを押さえこみ、サムはナイフを触手に突き立てる。
「フロド!」
 自分も手伝わなければとは駆け出そうとするも、レゴラスに腕をつかまれ止められる。
「駄目だ、はここから出るんじゃない!」
「でも……!」
「ここにいるんだ、いいね」
 断固として言い含めると、レゴラスは坑道の外へ飛び出す。うねうねとうごめく触手が数本躍り出て、一度は離したフロドを再び捕らえようとその腕を伸ばし、他のホビットを打ち据えた。
(もう、なんなのよ、これは!? どうして次から次に厄介事が起きるのよ!)
 が彼らと一緒に行動するようになって五日が経った。はじめは旅の目的を秘されていたが、それを教えても良いと思われる程度には信用してもらえた。だが打ち明けられた内容は、には重いものだった。この世界の命運がかかっている旅の一行に余計な負担を強いてしまっていることに、彼女は心苦しさを覚えた。
 それに、レゴラス。彼はを保護した責任感からか、そして彼女が怪我をしているからか、とっさの際にはまずを守ろうと行動する。彼が本当に守らなければいけないのは、フロドだというのに。
 は唇を噛みしめ、俯いた。激しい感情を押し殺すように、服の裾を爪が白くなるまで握りしめる。それからゆっくりと顔を上げると、そこここに倒れている死体を見下ろした。
 戦いの現場では弓弦の鋭い音をさせ、レゴラスが矢を放つ。狙いを違わずそれはフロドを捕らえている触手に突き刺さった。
 アラゴルンとボロミアも水の中に入って応戦している。触手はフロドを彼らから遠ざけようとするかのようにさらに高く伸ばした。激しい水音をさせ、水中から本体が現れる。
 それは腐った木の根っこのようだった。おうとつにしか見えない口が開き、鋭く尖った歯がのぞく。
 そこに向かって空を切り、投げ込まれたものがあった。そこが顔なのだとしたら下唇にあたるであろう所に、柄の折れた槍が突き刺さっている。
「何をしているんだ。中に戻るんだ!」
 振り返り、怒鳴るレゴラスを少女はキッと見返した。
「冗談じゃないわ。守られるだけしか出来ないなんて」
 痛いほど真剣な表情で、自分に言い聞かせるように呟く。
「わたしにだって出来ることはあるのよ!」
 は叫んで手斧を握った。
 彼女の足元にはその辺から集めてきた槍などが五、六本転がっている。いずれも灰色に変色した血の跡や刃こぼれがあったが、要はあれに当たればよいのだから、とさして気に留めなかった。水際ぎりぎりに立ち、回転を加えて手斧を投げつける。
 手斧は頬にあたる所をかすめると、水しぶきをあげて水中に没した。は次に槍をつかむ。
 レゴラスは驚きに目を瞬かせていたが、少女の邪魔にならないよう少し離れて矢を打ち放った。その距離は、いざとなれば一足飛びでのところへ行けるだけのものだった。
 そうこうしている間に触手の攻撃をかいくぐり、アラゴルンはフロドを捕らえているものを切り離す。触手はフロドをつかみ切れなくなり、水中に没した。一緒になって落下したフロドはボロミアが受け止める。フロドを抱え、彼は坑道に向かって走り出した。
「こっちじゃ、ボロミア!」
 ガンダルフが叫ぶ。
「レゴラース、坑道に入れ!」
 レゴラスは撤退の指示に素早く矢をつがえると、置き土産とばかりに化け物の口腔を狙って放つ。当たるが当然とばかりに、矢の行き先の確認もせず、彼はの手を取って走った。
 モリアに入ろうとする十人を追って、化け物は水中からはい出してきた。触手が門に取りつき、およそ地上に在るには向かない不恰好な胴体があらわになる。
 門は化け物の重さと張力に耐え切れずに崩壊し始めた。両脇の岩が崩れて天井が落ち、重い落下音ともうもうたる土煙と共に門が埋まってゆく。
 彼らはそれを見ているしか出来なかった。一切の光が失われ、坑道を進むしか道はなくなる。
 出口は、山の反対側のみ。




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